2015年06月13日

詩・歌・句・美の共同誌「鹿首」第7号

詩・歌・句・美の共同誌「鹿首」。
編集人は研生英午(みがき・えいご)。
編集委員のひとりは「かばんの会」の高柳蕗子がつとめている。
また、去年発行された「鹿首」第5号には川柳人の樋口由紀子が登場している。
同誌の視野には川柳も入っている。
というか、今後も川柳人への依頼はしていくと、せんじつ高柳蕗子から直接聞いた。
その意味でひじょうに楽しみな共同誌である。

さて「鹿首」には、「鹿首招待席」というコーナーがある。
今回取り上げる「鹿首」第7号には、川柳人なかはられいこの「ははとははのはは」20句が掲載されている。
以下、なかはらの作品を5句だけ見てみよう。

 ひっぱればほどけるははとははのはは
 いもうとのため息パプアニューギニア
 ワイパーの稼働領域内家族
 母笑う汽笛や鳩をこぼしつつ
 あいさつか冬の花火かわからない


一句目、こういう言葉遊びの作品は大好きだ。
「ひっぱれ〜 ひっぱれ〜 は〜は〜をひっぱれ〜♪」という歌が聞こえてきそうだ。
二句目、「ため息」→「ぱぷあ」という一種の音喩的な契機から「パプアニューギニア」がみちびかれたのかも知れない。
でも、この句の「パプアニューギニア」は、単なるナンセンスな音喩というだけでなく、言葉としての屹立感も併せもっている気がする。
「いもうとのため息」との取合せで読む方法もあるだろう。
あるいは、パプアニューギニアに関する実際のデータから「ため息」に意味を与える読み方もあるだろう。
ちなみにわたしは、音喩と取合せで楽しんだ。
三句目、もしかしたらわりと深刻な事態を書いている可能性もあるけど、「ワイパーの稼働領域内」というのだからユーモラスで可笑しい。
四句目、「汽笛」と「鳩」との落差がいい。
単に言葉のギャップをつくるだけならコンピューターでも出来るけれど、そこにセンス≠ェにじみ出るのは人間の感性だけだと思う。
五句目、戦後の小津安二郎の映画にも似た感慨をおぼえた。
「花火」というのは色彩豊かで明るいものだけど、なぜかわたしにとってこの句は白黒。
笠智衆の「やあ」という挨拶が脳内に再現される。
「あいさつ」「冬の花火」「わからない」が一種の化学変化をすると、わたしのばあい小津映画的イメージになるのかも知れない。
ちなみにわたしは、小津映画をリアルタイムで観た世代ではない。


さて「鹿首招待席」にはなかはらの他に、高塚謙太郎の詩「おはようはじまり」と、嶋田恵一の短歌「かしゃ」20首が掲載されている。
嶋田恵一は、高柳やわたしと同じく「かばんの会」のメンバーだ。
今年3月に発行された「かばん新人特集号vol.6」にも参加している。
かばん風≠フイメージを裏切る写実・写生、文語、歴史的仮名遣いの完全武装には驚きの声も上がっている。

 天空にのこる光はあはあはと山の端にきて不意に鋭し
 ゆくりなく餅がふくれる寒き夜も時計の砂はこぼれつづける
 あたたかき雨降る街を駈けゆきぬ形態安定シャツのかがやき
 透明な定規をたててマストとすわが乱脈の机の船の
 法要に自転車のりてきし僧侶法衣の下は白きTシャツ


一首目、日没直前の空の明暗をみる眼が「不意に鋭し」の実感性につながった。
「不意に」は使い方が難しい言葉だが、ここでは非常に効果的だと思う。
二首目、合理的に整備された時間という制度と、勝手気ままにふくれる餅。
その対比だけでも作品になるが、掲出歌に流れる時間はおそらく〈砂時計〉の時間。
「こぼれつづける」という表現に作者が出ている。
三首目、日照り雨といわずに「あたたかき雨」と描くことで詩情が生れた。
下の句、「形態安定シャツ」に「かがやき」をみる眼。
四首目、乱脈な机の船だがマストだけは「透明」。
「乱脈」が経理や運営とともに使われる言葉なのを思ったとき、「透明」が活きてくる。
五首目、景気が良かった時代の邦画を見ると、外車に乗った成金趣味の僧侶が出てくることもあるが、最近はお寺の経営も慎ましいものになってきたのだろうか。
そういえば織田無道って今どうしているのだろう。

最後に、第7号の「特集 壊れる」に寄稿されていた高柳蕗子の短歌論考「トマトぐっちょんベイベー! ──潰れトマトの百年」から、わたしが特に共感した章を引用してしめようと思う。

2  みんなの手柄≠ニいう視点

 ところで、意外に知られていなくて、歌人でさえ必ずしも自覚していないことだが、今まで言葉で表されていない事象を初めて言葉で表す、ということは、けっこう難しいことである。
 言葉で表すというのは、直接体験した事象に、あらためて言葉で触れなおすことである。宴会ではじめて見る食べものが出たとしよう。食べ物とわかっているだけで、皮を剥くのか、タレをつけるのか、そもそもどこからどうつまんでいいのか、場の全員がわからない。誰か一人が箸をつけ、その様子を参考にして他の人たちも箸をつけるという、笑い話みたいなことをしながら、しばらくすると、食感は何に似ているとか、醤油をつけないほうがいいとか、それぞれの食べ方をして、口々に感想を述べ、話がはずんでくる。
 短歌の評は、作者という個人の手柄を論じる話になりやすい。だが、世界は、見事な個人技、独自な能力だけでは歯がたたない。みんなで共有して、はずむ話のなかで攻略が進む面もある。その個々人の成果は小さくとも(見よう見まねで箸をつけてみたようなのも含めて)、総力としてのみんなの手柄≠ニいうものがある。
 本稿は、「トマト」を歌に詠んだ先人たち個人の手柄を見ると同時に、みんなの手柄≠も見る視点に立って、「潰れトマト」の歌を読んでみようと思う。

 

「鹿首」ブログ

posted by 飯島章友 at 10:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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