2015年06月20日

鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず   石部明

『川柳カード』創刊号(2012年11月25日発行)所収、「孔雀の喉」からの一句。

掲出句から考えてみたい点が二つある。

まず第一として、「鈴」とはどのようなモノで、この句の中ではどのような働きをしているのか、ということである。

「鈴」と聞いてわたしがぱっと思いつくのは、以下のようなモノ。
神社の鈴や仏壇の鈴(りん)、サンタさんの橇の鈴、夏に吊るす風鈴、熊除けの鈴、あるいは呼び鈴も「鈴」に入れていいかも知れない。
他にもクリスマスツリーに飾る鈴、神楽で使われる鈴、行者の鳴らす鈴といろいろある。

こうしてみると「鈴」とは、宗教的な用途が多いことからも察せられるように、日常的世界と非日常的世界に介在するモノ、という側面があると思う。
神社の鈴や仏壇の鈴は、ヒトが異世界的存在に接近するときの合図。
逆にサンタさんの橇の鈴は、異世界的存在が接近してくる合図。
また風鈴ならば、むかしは異世界的存在の侵入を防いだり遠ざけたりする魔除けであった。
熊除けの鈴も、高周波音をだして獣を遠ざける合理的理由があるとはいえ、一種の魔除けと捉えることもできる。
そして、呼び鈴もそう。
現在では、映像機能の付いたインターフォンに進化しているが、ほんらいはウチとソトとのあいだに介在して両者を繋ぐ、わりと緊張感のあるモノだったのではないだろうか(わたしは電話の音にいまだ慣れない)。

つまり「鈴」とは、カミ、先祖、サンタ、魔物といった非日常的世界の存在と日常的世界とを繋いだり、断ち切ったりするモノといえるのである。
以上を踏まえて石部の掲出句を見てみよう。

 鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず

「鈴屋」とは聞き慣れない言葉だ。
「鈴屋は来ておらず」というのだから、主人公は鈴の音にいざなわれて来たと考えられる。
とすれば、辞書には載っていなかったが「鈴屋」というのは、天秤棒を担いだり、屋台をひいたりして風鈴を売り歩く所謂〈風鈴売り〉のことだろう。
この句は、鈴屋の記憶をほんのつかのま主人公の日常にたちあげた白昼夢なのだろうか。
あるいは、少々飛躍した見方だが、あの世とこの世が繋がる夏という季節に、風鈴の音を通してこの世の向こうの鈴屋を感知してしまった状況だろうか。
いずれにせよ、「鈴」というアイテムの働きを踏まえてこの句を読むなら、「鈴」が日常的世界に歪みを生み、主人公に非日常的世界を透き見させたような趣がある。

次に、掲出句から考えてみたい第二点目は、「鈴屋は来ておらず」という〈非在〉はこの句にどのような側面をたちあげているか、ということである。

わたしは、「鈴屋は来ておらず」という非在が、かえって「鈴屋」を求める主人公の心情を強くたちあげているように思う。
カミやサンタや魔物のことでいうなら、目で確かめることができないからこそその〈存在〉がかえっ意識され、そのためヒトはカミに祈り、サンタが来るのを楽しみにし、魔物を怖れてしまうという側面がある。
闇があるからこそ光が感知できるように、〈無い〉ということが〈有る〉をたちあげるのである。

これはどう説明すればいいか。
わたしは芭蕉についてそれほど詳しくはないのだけれど、たとえば「古池や蛙飛びこむ水の音」の「水の音」から説明できるかも知れない。
この句で「水の音」をたちあげているものとは、第一に環境的な音の〈静〉けさであり、第二に音と同化する主体の精神的な〈寂〉だという説を耳にすることがある
そういう〈静〉〈寂〉が背景にあって、世界に充ちみちる「水の音」として感知されるのだ。
つまり、〈静〉〈寂〉という非在=無があるからこそ、存在=有が成り立つわけである。

あるいは、ちょっと俗な話になるが、歌謡曲からも説明できるかも知れない。
歌謡曲では、非在がかえって存在をたちあげる、という内実の歌詞がわりと多い。
たとえば、いまでもカラオケでよく唄われるプリンセス プリンセスの「M」である。
あれは失恋の歌だけれど、別れてしまったことで元カレの存在がいっそう思われてならないのだ。
おなじように石部の掲出句でも、「鈴屋」と出合えないからこそ、「鈴屋」に寄せる主人公の強い思いが浮かび上がってくる、と考える次第である。

掲出句に触れて思い出した映画がある。
黒澤明のオムニバス映画「夢」(1990年公開)に、第2話として入っている「桃畑」という短編だ。
このお話の主人公は少年。
雛祭りの日、姉とその友人たちが雛人形の前で興じるなか、少年は、姉の友人ではない見知らぬ少女を家の中で見かける。
少年は少女を追う。
少女は逃げ出す。
少女が走るたび鈴の音が鳴る。
少年がその鈴の音をたよりに木々のなかを追っていくと、いぜんは桃畑だった裏山へと出る。
その桃畑の跡地は、少年の家が桃の木を伐採してしまった場所だ。
やがて、少年の前に、伐採された桃の木の精霊たちが雛人形の姿で現れる。
彼らは口々に、少年の家が桃の木を伐ってしまったことを責め立てる。
その罪悪感から少年は泣いてしまう。
だが、家の中で少年が唯ひとり、桃の木が伐られたことに涙を流した事実を知るにいたって、精霊たちは少年を許す。
そして彼らは、少年のために舞を踊って見せてくれるのだった。
まあ、ひじょうに大雑把に言えば、こんな展開のお話だったと記憶する。

この映画作品でも、
@「鈴」が、日常的世界と非日常的世界とを繋ぐ役割を演じ、
A伐採されてしまった桃の木という〈非在〉が、精霊という姿を借りて桃の木の〈存在〉をたちあげ、同時に少年の良心にも桃の木の〈存在〉を再びたちあげた、
という構造なのが印象深い。

掲出句は石部明最晩年の作品。
石部明の川柳には、人を驚かせてやろうという怪人二十面相にも似た意志を感じることが多かった。
たとえば、

 雑踏のひとり振り向き滝を吐く
 びっしりと毛が生えている壷の中
 オルガンとすすきになって殴りあう


なんて句がそうだ。
だが、「鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず」という力の抜けぐあいはどうだろう。
最後の最後、まったく構えたところのない作品を石部明は残してくれた。

posted by 飯島章友 at 00:20| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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