2015年07月18日

わかろうとするから線がふるえだす   ひとり静

ひとり静の第2句集『海の鳥・空の魚U』(新葉館出版)より。

ひとり静さんとお会いしたことはないが、お名前は以前からよく知っていた。
筆名(ですよね?)がオモシロいので覚えたという面もあるが、それよりも、わたしが川柳の情報を得ようとネットや柳誌に触れていく中でおのずと覚えた川柳人だ。
そして、おのずと覚えてしまったというそのことが、何ともいえず感慨深い。
それは川柳界ならではの事情による。

川柳には柳壇がない。
新聞の川柳投句欄としての新聞柳壇こそあるものの、短歌での歌壇に相当するような規模の公や共同意識やネットワークは、少なくともわたしの経験したかぎり川柳には存在しない。
また、若い歌人たちは、既成歌壇とはべつの場をインターネットによって形成しているが、それに相当するようなものも川柳ではまだまだ発展途上だ。
川柳人はネットを使って交流し合ったり、情報発信することがそれほどないのだ。
これは良いとか悪いとかのお話ではない。
要は川柳人の共有領域というのは狭いんですよ、という現状のお話だ。
穂村弘や斉藤斎藤の名前を当然知っていて、作品にもかならず一度は触れているという前提で交流できる短歌界とは環境が違うというお話だ。
その意味で、わたしの狭く偏った川柳領域に既知の存在としてひとり静さんがいることは、ちょっぴり大げさかも知れないが〈縁〉のようなものを感じたりしてしまうわけである。

さて、掲出句。
何を「わかろうとする」のか対象は明示されていないが、ふつう「わかろうとする」ことは理性的な態度である。
また、他人の気持ちを「わかろうとする」ならばヒューマニズム的な態度でもある。
だから一見善いことのように思える。
でも、「わかろうとする」ことは、「線」=境界を越えて侵入していくということにもつながり、客体によって主体の領域が脅かされる事態ともいえる。
「ふるえだす」という措辞は、「わかろうとする」こと全般がもたらす領域侵犯の惧れがあらわれているのではないだろうか。

例をあげれば、ストーカーの恐怖というのは、過剰に「わかろうとする」ことにあるといえるだろう。
また、ちょっと次元は違うかも知れないが、国家間でもおなじことがいえそうだ。
ひと昔前のようにインターナショナル、国の際と際、つまり各国〈間〉という国際関係性であれば、相互関係のことなのだから悪い気はしない。
だがグローバル、つまりグローバリズムにのっとった〈世界規模〉を主張されると、わたしのばあい臆病だから「ふるえだ」してしまう。
このばあいは、じぶんの国のあり方が強い国によって無化されてしまう危険性に震えてしまっているのだが、それでもグローバルスタンダードは〈分かり合う基準を設けましょう〉という提言から始まるのだからおなじである。

このように「わかろうとする」ことの裏面を考えた途端、掲出句は〈穿ち〉の句としてたちあがってくる。

 線いっぽん引いただけでも意味がある
 まとまると重たくなってくる善意


おなじ句集にある作品だが、これらをあわせ読むことで作者の感じ方が一層うかがえる気もする。

さて、掲出句のように、ひとり静の川柳には〈省略〉による抽象の妙という特長がある。
 
 背景にキリンの首を敷き詰める
 ピーマンという前例はありません
 触れられたとたん善玉菌になる
 ほとんどが水分なのに偉そうに
 ちょっと目をはなすと増えているゴリラ


何の背景か、何の前例か、誰が触れたのか、何が殆ど水分なのか、何処でゴリラが増えているのか明示化されてはいない。
しかし、それによって散文としての欠落感が生じ、その欠落感によって逆説的に川柳としての屹立感が生れている。
こういう構造は、川柳であれば徳永政二や畑美樹の作品に、短歌であれば東直子の作品によく見られる。

 よくわかりました静かに閉める窓   徳永政二『徳永政二フォト句集1 カーブ』
 こんにちはと水の輪をわたされる   畑美樹『セレクション柳人12 畑美樹集』 
 つぶしたらきゅっとないたあたりから世界は縦に流れはじめる  東直子『青卵』


外山滋比古の俳句評論で『省略の詩学 俳句のかたち』(中公文庫)という本があるが、90年代以降、川柳や短歌にも省略の妙があじわえる作品が増えてきたと感じる。
そして、今回取り上げたひとり静は、その流れの最前線にいる川柳人とも思える。

posted by 飯島章友 at 01:00| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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