2015年09月01日

【今月のゲスト作品を読む】久真八志「愛妻家にしかわからない」の〈添え書き〉を〈添え読む〉/柳本々々

今回の川柳連作も、久真さんの今回の短歌研究新人賞候補作「鯖を買う/妻が好き」でも思ったんですが、短詩にとって〈添え書き〉ってなんだろうと考えたんですよ。

今回の川柳連作にも、候補作の短歌連作も〈添え書き」があった。

で、たとえばこういうふうなかたちで短歌連作を書かれる方に斉藤斎藤さんがいます。
斉藤さんの場合、添え書きと短歌が溶解していくのが特徴で、そこには添え書きと短歌の階層がとっぱらわれている。もっというとおそらくその階層の解消に、社会の枠組みのなかにおける短歌形式の葛藤みたいなものが浮いてくるとおもうんです。逆説的なんだけれども、わたしはそうおもったんですね。短歌と添え書きが接続し溶解し境界線が見えなくなっていくときに、逆にわたしたちが自明視していた部分が問い直されるのかなって。

で、久真さんのも実は添え書きという枠組みはそこの問い直しでもあるんじゃないかとおもうんですよ。

短歌/川柳という形式だけで連作をつくることもできたはずです。

でもそうはしない。詞書として頭におくわけでもない。短歌や川柳のあいまあいまに接着するように、あるいは階層化されるように添え書きが侵入してくる。

このときわたしたちが行わざるをえない〈読み〉のプロセスっていうのは、自動化された読みの思考を修正せざるをえないってことなんじゃないかとおもうんですよ。

たとえばですね、これ添え書きがなかったら、わたしたちは添え書きをじぶんでつくって接着しながら連作を読んでいくわけですよ。連作なんだから。短歌/川柳は説明はしないものなんだから。

でも添え書きがある。ということは誤差修正しながら読んでいくわけです。連作を。

つまりこの連作って構造としてわたしたちの自動化された〈読み〉のプロセスを問い直しているとおもうんですよ。そしてそれが構造としての添え書きなんじゃないかっておもったんです。

目覚めると、まだ夜。妻のおしっこの音が聞こえる。聞きながらねる  久真八志

posted by 柳本々々 at 18:31| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする