2015年10月18日

トイレあけるとがぜん犀でした   柳本々々

『おかじょうき』2015年9月号所収、柳本々々「がぜん犀」より。

むかし『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』(ポール ストラザーン著、浅見昇吾訳・青山出版社)という本を読んだことがある。
当時、現代保守思想の内容を感得するには、フリードリヒ・フォン・ハイエクの自生的秩序論と、彼の親戚にあたるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は知っておかなくちゃ、と見当をつけていた頃なので、わぁ90分でわかるんだ、すげえ、てなことで飛びついたわけだ。

その本の中で、ヴィトゲンシュタインと彼の先生だったバートランド・ラッセルに関するこんなエピソードが紹介されていた。
ちなみにラッセルは当時「人間は経験から知識を得るのだ」と考えていた。

ラッセルが「私は部屋に犀がいないことを知っている」と主張しても、ヴィトゲンシュタインは納得しない。論理的には、犀が部屋の中にいることも可能である、というのである。ラッセルはこれを受け、「その犀はこの部屋のどこにいることができるんだい」と尋ね、椅子の背後や机の下を覗き込んだ。それでも、ヴィトゲンシュタインは譲らなかった。「ラッセルは部屋に犀がいないことを確実に知っている」ことを絶対に認めなかった。

これは、ラッセルが経験にしたがって〈私はいつもと部屋に差異がないことを知っている〉としているのに対し、ヴィトゲンシュタインは〈ラッセルはいつもと部屋に差異がないことを確実に知っているわけではない〉として一歩も引かなかった、と言いかえられそうだ。
あるいはこうも言いかえられるかも知れない。
ラッセルは、部屋がいつもと類似しているから犀(差異)は存在しないとしているのに対し、ヴィトゲンシュタインの方は、部屋がいつもと類似しているとは確実に言えない、したがって犀(差異)は存在可能である、という立場なのではないだろうか。

 トイレあけるとがぜん犀でした 
 

「がぜん」というのは〈突然に〉〈俄かに〉という意味だから、作中主人公が想定していた通常のトイレの状態に反して「犀でした」=「差異でした」ということになる。
ラッセルならば、〈私はトイレを開けると犀でないことを知っている〉というだろうが、ヴィトゲンシュタインはそう考えなかったことだろう。
その意味で掲出句は、ヴィトゲンシュタインに近いレベルで書かれているといえそうだ。

posted by 飯島章友 at 20:30| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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