2016年03月13日

「川柳木馬」第147号

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川柳木馬第147号 2016・冬
発行人 清水かおり
編集室 山下和代

【会員作品 木馬座】
血族は可動橋からやって来る  清水かおり
秀才の飼う出目金は喋ります  西川富恵
夏草やほうれい線は伸びてゆく  小野善江
糠床のはるかなものに手を染める  内田万貴
ピーマンも即興詩人なりたがる  岡林裕子
何だ何だと大王イカも浮上する  古谷恭一
敬遠のフォアボールってピンクかも  山下和代
回転ドア影を残して来たらしい  濱田久子



「川柳木馬」誌は、昭和54(1979)年に設立された「川柳木馬ぐるーぷ」が発行する川柳季刊誌。高知を拠点に活動している。
「川柳木馬」では、昭和57(1982)年の第13号から「昭和2桁生れの作家群像」というページが開始され、現在も「作家群像」というタイトルで木馬誌の名物になっている。これは一人の川柳人に光を当てる特集で、プロフィール・作者のことば・作者自選60句・作家論が掲載されている。直近では、前号で「作家群像 榊陽子篇」の特集が組まれ、石田柊馬さんとわたしの榊陽子論、榊さんの自選60句などが掲載された。
なお「川柳木馬」の歴史や特徴については、週刊川柳時評の過去記事「川柳木馬の30年」に詳しく書かれている。

さて、意外にも「川柳木馬」を柳誌レポートできちんと取り上げるのは、これが初めて。そこで今回は、発行人である清水かおりさんの句について書いてみたいと思う。

 血族は可動橋からやって来る

この句を見て感じたのは、語り手にとって「血族」は構えるべき存在として認識されている、ということ。それは、この句に採用された言葉からうかがい知れる。

第一に、語り手が「血族」という非日常的な言葉を使ったことじたい、血族への〈構え〉がうかがえる。身内とか親戚というありふれた言葉と比べてみれば分かりやすいのだけど、「血族」というありふれていない言葉は、(その人たちと)血縁関係にあることの認識がぎゅっと濃縮されている。
第二に、ただの橋ではなく「可動橋」に着眼したところに、血族への〈構え〉が見てとれる。ちょっと昔の可動橋のお話になってしまうけれど跳ね橋──お城の入口で上げ下ろしする橋は、城内に入る人間を制限してお城を保護する装置である。言うなれば、入城者にたいして構えることが跳ね橋の前提になっている。現代の可動橋でも、橋が可動する前には、警報機や遮断機という〈構え〉がまず作動し、人間を閉鎖したり開放したりする。「血族」が「可動橋」を渡ってくるという意識は、血族と関係するうえでの心の〈構え〉方が示唆されているように思える(ちなみに『ジャックと天空の巨人』という2013年公開の映画では、跳ね橋で城門を閉鎖できるかどうかが、おそろしい巨人族との攻防の分岐点になっていた)。
第三に、単に〈来る〉のではなく「やって来る」という表現に〈構え〉を感じる。「やって来る」のだから、血縁集団がこちらに向かって来る、という徒ならぬ意識が働いている。たとえば、サーカス団は〈来る〉のではなく「やって来る」のでなければならない。ビートルズだってあの当時の感覚としては、「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」と言ってしまわざるをえなかったのだろう。

このように掲出句は、「血族」「可動橋」「やって来る」という〈構え〉によって、身内や親戚を再認識している句のように思われた。

なお「川柳木馬」では、外部の川柳人が「木馬座」の句評を二号分執筆する。わたしも拙文を掲載していただいたことがある。前号と今号は、川柳カードとLeafの同人である畑美樹さんが句評を担当されている。清水かおりさんと同様に畑美樹さんも、わたしが川柳を始めた当初からすごく影響を受けてきた川柳人だ。毎号、どんな評者が登場するのかも木馬誌の楽しみなのである。

posted by 飯島章友 at 12:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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