2016年05月24日

【イベントレポート】恋愛はアイドルの夢を見るか?−第二回現代川柳フリマ 山田消児×小池正博「短歌の虚構・川柳の虚構」レポート−/柳本々々

2016年5月22日に大阪のたかつガーデンに開催された「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」で、山田消児さんと小池正博さんの対談がありました。

そのなかで、短歌の虚構・川柳の虚構についてお二人が話されたんですが、短歌の虚構/川柳の虚構という同一化できない〈ふたつの虚構〉を通してみえてきたのは、〈虚構〉というのはそもそも「これだ」とくくることができないものであり、その虚構をめぐる〈場所〉によって関数的に変わっていくものだということだったように思うんです。

だから、「虚構とは、なにか」という問題の立て方をするとあしもとをすくわれるというか果てのない論議になってしまう。「虚構とは、なにか」という問いの立て方自体が〈虚構・的〉になってしまう場合がある。もし〈虚構〉をさぐるなら、その〈虚構〉という言葉がおのおのの場所でどのように使用され、どのように意味構築しているかをていねいにみる必要がある。

ただそれはものすごく大変な作業です。短歌や川柳は、短歌や川柳とう大きなジャンルはあっても、それぞれの人間の歌や句が志向するベクトルはおのおのが所属している場所によって違うのでそれだけ〈虚構の用法〉の数がでてきます。ある場所では〈こう〉でも、べつの場所にいけば、まったく反対の場合もある。〈虚構の用法〉がみんなちがってくる。

そうすると〈虚構問題〉というのは、〈虚構とは、なにか〉という問題ではなくて、〈ひとはなんのために虚構について話し合いたいのか〉という問題になってくるようにも思うんです。そうすると〈虚構問題〉が少しだけ見えてくる場合もあるんじゃないか。つまり、ジャンルをもう一度あらためて考え直したいために〈虚構問題〉について考えようとするんじゃないかと。

なぜそんなことを考えたかというと、〈虚構問題〉というのはちょっとアイドル論に似ているんじゃないかと思ったんです。アイドルはよく恋愛禁止と言われたりしているけれど、でも実際のところはよくわからないわけです。どこまで虚構なのかわからない。それでも、恋愛した/しないというのはアイドルにとって死活問題になってくることがある。そのとき、恋愛をしたのかどうかはわからないけれど、でも切実にその恋愛が問題になってくるのは、アイドルというジャンルをきちんと考え直すためのバネになっているからだとも思うんです。恋愛=虚構を通じて、ファンのひとたちは、アイドルというカテゴリーをもういちど考え直そうとしているんじゃないかと。

だからそういう仕組みというか装置として虚構問題をとらえる視点がひとつありなのかなとお二方の対談をききながら思ったんです。

で、私がたまたま連想した虚構問題とアイドル論が少し似通っているところがあるのだとするのならば、〈虚構問題〉というのはアイドル論が社会学的問題であるように、短歌論や川柳論、文学論の問題ではなく、もしかしたら社会学的な問題なのかなとも思いました。〈虚構の用法〉というのはたぶんそういうことなんだと思うんです。社会学的にみるというのは、ひとりひとりの人間が〈虚構〉という言葉をそのジャンルの場所のなかでどんなふうに使いながら・どこに行こうとしているかという視点です。

そうすると〈虚構問題〉を取り扱うことは、ときに、カテゴリーを踏み越えていく場合がある。そういう超カテゴリー的な問題でもある。

〈虚構問題〉って〈虚構〉というラベルを貼りながらも、おまえがどこの場所にいて、どういう発言をしているかという根っこの部分に〈実体〉として食い込んでくるのです。

すごく、おそろしいものだと、思いました。(談)

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posted by 柳本々々 at 13:05| 川柳イベントレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする