2016年12月31日

今月の作品・西田雅子「遠浅の夜」を読む

今月のゲスト作品、西田雅子さんの「遠浅の夜」は聖夜、すなわち12月24日の夜からはじまる。

 月光をリボン結びにする聖夜

また、連作最後の句は「はじまりか終わりか夜明けの号砲」である。最後の句でありながら「はじまりか終わりか」が未確定なのだ。そこに違和感をおぼえたとき、この句はもしかしたら大晦日を詠んだものかも知れないと思った。大晦日は一年の「終わり」でありながら来る年の「はじまり」が目前である。であるならば、当連作八句は、12月24日から12月31日の八日間と重なりうる。以降、この仮定のもとに本連作を読んでいこうと思う。

 ピリオドかコンマか月のひとしずく

25日の句。「ピリオドかコンマか」という未確定性は、先にあげた31日の句の「はじまりか終わりか」とほぼ同じのようだ。それはいいとして疑問に思うのは、大晦日ならいざ知らず、なぜ25日に「ピリオド」と「コンマ」のあいだで揺れ動かなければならないのだろうか。
俗っぽいレベルではあるが12月25日というのは、テレビのCMや番宣の流れがクリスマスから正月へと変わっていく。テレビだけではない。お店の広告やら内装やら商品も一気に正月向きになっていく。視点を変えれば、正月の方が25日に向かってきているともいえようか。
「月のひとしずく」の形象としての〈.〉と〈,〉。12月25日は、〈クリスマス=ピリオド〉と〈正月=コンマ〉が同居する12月のひとしずくでもあるのだろう。

 潮風にほどかれてゆく夜の横顔

26日の句。クリスマスも過ぎていよいよ来る年が解かれはじめ、その「横顔」が見えてきたのだろうか。

 断崖を月日も花もこぼれ落ち

27日の句。西田さんには「一本の冬へとつづく滑り台(『ペルソナの塔』・あざみエージェント)という句があるが、上掲句も断崖直下に今年一年が「こぼれ落ち」ていく感覚、いわば〈月日に関守なし〉の気持ちが詠まれているのではないだろうか。

 遠浅の夜を二つに折りたたむ

28日の句。「遠浅」だから海の景色であることを前提に考えると、〈水平線〉が折り目となって海と空とが「折りたた」まれるイメージだろうか。ちなみに西田さんには「バッグには折り畳み式水平線(同上)という句もある。
問題なのは、なぜ「遠浅の夜」なのかということだ。タイトルにもなっているからとても気になる。一つの解釈。「遠」という文字からは過去の日の遠さ、たとえば行く年の元日の遠さにつながるかも知れない。また「浅」という文字からは未来の日の浅さ、たとえば来る年の元日が浅いながらも確実に迫っていることとつながるかも知れない。行く年と来る年、それを二つに折りたたむのが28日の夜、という認識。そういえば大掃除は28日までに行うものだった気がする(適当な記憶です)。

 降りてくるもの待つタラップ冬すみれ

29日の句。「タラップ」と「冬すみれ」は並列としても読めるし、「タラップ」と「冬すみれ」のあいだに切れを入れて読むこともできる。ただし、わたしは「降りてくる」ものを〈新春〉と仮定している。すると「タラップ」も「冬すみれ」も新春を待つものとして並列になる。したがって、前者のように読むのがわたしにはしっくりくる。「タラップ」と「冬すみれ」、異種・異類を無理なく同格としたところは作者の腕か。

 水たまり昨日の月が座礁する

30日の句。「水たまり」に名残の月が映り、座礁しているように見えたのだろうか。「昨日の月」「座礁」という言葉からは、大晦日を明日に控えながらも日にちの前後感覚が揺らいでいる状況が感じられる。

 はじまりか終わりか夜明けの号砲

31日の句。「号砲」とは何だろうか。「夜明け」とあることからして、行く年最後の〈日の出〉と捉えてみた。大晦日は元日の一日前だけど、これまで見てきたように、作中主体は行く年と来る年のあいだでゆらゆら揺れ動いているのだ。

「ピリオドかコンマか」「遠浅の夜」「はじまりか終わりか」などの揺らぎに見られたように、本連作は二つの時間軸、すなわち行く年と来る年とが並走してしまうことで、終わりと続き、過去と未来、始まりと終わり、という葛藤が生じている。この葛藤に注目したとき、わたしは外山滋比古の切字論を思い出した。

   古 池 や 蛙 飛 び 込 む 水 の 音
において、「古池や」のあとに、断切によって生じた空間がある。古池という語によって喚起されたイメージ・連想の残曳は、その空間において尾をひく。それは、いわば古池という語の延長線上を走ると想像される。ところが句末の切字と違って、句中の断切空間ではイメージの残像は、ただちに余韻とはならない。イメージが残曳しているのと並行して、新しい句「蛙飛び込む」がつづくからである。そうすると、「古池や」のあとの空間において、古池の残像と、それと方向の違った「蛙飛び込む」という二つの表現が重なり合うことになる。残曳の虚像と、次句の実像とが葛藤を生じているということもできる。(『省略の詩学』・中央公論新社)

年末にこの文章を書いているわたしにも、行く年の残像と来る年の実像とが葛藤を生じはじめている。

posted by 飯島章友 at 20:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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