2017年02月26日

今月の作品・岩田多佳子「くぐもる」を読む

みなさ〜ん。お元気ですかあ〜。
などと妙なテンションになっているのも、今月のゲスト作品「くぐもる」を読んでしまったからで、特に一句、というより一文字にこだわって鑑賞を書いてみたい。

 「たすけて〜」と干ぴょうは叫べない  岩田多佳子

これを読んだ時、「うっ」となる。
原因はわかっていて、「たすけて〜」と言っているからである。特にこの「〜」に鋭い突きを食らった感じになる。
というのも、「〜」って、所謂「正しく美しい日本語」とは認められていない、はずで、僕も正しい日本語なんて「けっ」と思っているが、句で「たすけて〜」と言い切る自信はない。
ちょっと遠回りになるが、なんで「〜」は「正しい日本語」と認められていない(はず)なのか、愚考してみることにしよう。
たとえば、長音を延ばしたいのだったら、「ー」だ。「ー」のほうが、一応日本語として認められている(しつこいが、はず、の話である)。それは何故かと言えば、「ー」は、「書き手のコントロールが効くから」じゃないかと思っている。
掲出句を少し変えて「たすけてー」にしてみるとしよう。この場合、読み手は「たすけてえ」と、まっすぐに「音」を受け取るだろう。これは書き手が「こう読んでくださいよ」という支配下に読み手を置いていることになる。
それが「たすけて〜」になったとき、どうなるか。
「〜」は、どう発音するか。イントネーションは、起伏は、長さは、読み手が百人いれば百通りの読み方になるだろう。つまり、書き手のコントロールが効かないのだ。
「正しい日本語」というものが、まさに「正しい」ルールで規定されるものならば、そこに「〜」が「正しくない」とされる理由があるような気がする。
掲出句に戻ろう。
「「たすけて〜」と干ぴょうは叫べない」。ではこの句は書き手のコントロールを放棄した、読み手にすべてを委ねる句なのか。
どうもそうではないように思う。
「干ぴょうは叫べない」を目にしたとき、多くの人は「わからない」と言うだろう。「わからない」ということは、同時に「どのようにもわかることができる」ということでもある。「干ぴょうは叫べない」を相手に、読み手は、無限の可能性を持たされている、ような感覚をおぼえる。
だが、ここでもう一度「〜」を目に留めてみよう。
ここに「〜」が配置されているのは、まぎれもない、書き手の意志である。
「〜」は作者のコントロールが効かない、とさっき書いた。だがそれは、「たすけてー」と読まれない、という次元においてである。
「〜」が自由に見えるのは、「〜」という記号が置かれた上で成り立つ、放牧に近い。自由に読める、ということは、自由に読ませられているということに他ならない。
「たすけて〜」を自由に読ませているのは、書き手なのだ。
「私の命令を聞くな」というパラドックスに近いものが、この「〜」にはある。
もちろん、「干ぴょう」も「叫べない」も、作者の意志によって統御された、読み手の自由である。
このへん、「自由」というもののパラドックスに踏み込むことになりそうだが、今回はあくまで川柳の一句の範疇にとどめておく。
川柳の一句として見た時、この句は書き手に支配された句である、と言いたいわけではない。
この句が句として成立するためには、読み手の「自由」が必要とされている。しかしその自由は書き手によって与えられたもので、だがその自由を賦活するためには読み手の力が必要で……キリがない。
これはあれだ、「書き手と読み手の共犯関係」というやつだ。
どちらが欠けても、川柳は成立しない。そんなのは当たり前のことだが、その構造を暴いてみせるという点で、この句は「川柳」を超越している。
そしてそのキーになるのは、「〜」の一文字だと思うのだ。
余談になるが、「〜」を入力するとき、「から」と打って変換している。もしかしてこの句は、「ここ『から』はじまる」という句なのかもしれない。何がはじまるのかは、共犯者同士の黙契ということにしておこう。

posted by 川合大祐 at 17:16| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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