2017年03月13日

狂気から考える古畑任三郎 安福望×柳本々々−ファーストシーズン第10話「矛盾だらけの死体」(犯罪者:佐古水茂雄【議員秘書】=小堺一機)

柳本 この回、小堺一機さんを起用してるのがおもしろいですよけ。三谷作品ってだいたんな起用がありますよね。流動的な役者の起用というか。
え、こんなひとが、だれだろうこのひとは、とかってありますよね、三谷作品って。
それって三谷幸喜のなかで、演劇系の俳優とドラマ俳優とお笑いタレントのあいだに垣根がないってことだとおもうんですよ。
で、その垣根というか位階というかそういうのがない場所ってひとつだけあって、それって、〈テレビ〉ですよね。
三谷作品ってテレビっこがテレビのためにつくったテレビ作品ってかんじがするんです。
テレビってなんでも放送するわけでしょ。それが最大の強みなわけですよね。
ふまじめなものから伝統的なもの、シリアスなものまでぜんぶすべてがつまってる。
そういうせんぶをひっくるめたテレビ価値観を三谷幸喜はもってて、だから小堺一機と坂東八十助と菅原文太が
並べるんだとおもうんですよね。

安福 ああそうですね。今回の小堺さんの回って、すっごく三谷劇ってかんじしましたよ。勘違いの積み重なりってかんじ。

柳本 こんかい、勘違いされるひとのはなしだけど、セカンドでも、風間杜夫がおなじ勘違いされる犯人をやってましたよね。サードの玉置浩二もそうですね。
この勘違いが物語の駆動力になるのはヒッチコックがそうなんですよね。
ヒッチコックはほとんどが勘違いがもとになってはなしがすすんでいくから。あの『サイコ』なんかもけっきょく〈勘違い〉している〈こころ〉=サイコですよね。
ただその勘違いってもっといえば、シェイクスピアなんですよね。
だから劇の基本って勘違いにあるんじゃないとおもうんですよね。
で、なんで勘違いが劇の基本になるかというと、嫉妬をうむからだとおもうんですよ。『オセロー』とかそうだけど。勘違いで嫉妬してドラマチックになる。ドラマってなんのことかというと葛藤だから。こうかもしれないああかもしれないってひきさかれていくことだから。
今回の小堺一機もずっとひきさかれた状況にありますよね。ああまた俺じゃないのかって。だから基本的に勘違いがドラマをうむんじゃないかと思うんですよね。

安福 そうですね。小堺一機、ずっとゆれてましたね。勘違いがドラマを産むかあ。たしかに恋愛とかもそうですよね、たぶん

柳本 恋愛ってたぶん究極の勘違いじゃないですか。へんな言い方だけれど。だからドラマチックなんだとおもう。答え合わせができないから。なんで好きなのかって答え出ませんよね。
だから勘違いっていつも新しい価値観の生成だとおもうな。
劇作家ってそもそもかんちがいを軸にかんがえてるとおもうんですよね。前回のあてがきの話もそうだけれど、役者にあてて書くけど、あれっこのひとこういうひとかもっていうのがでてくるわけですよね、やってると。そうするとそこからまた新しい価値観がうまれてくるし。
だから劇とかドラマってそういうずれてく人格みたいなのをずっとかんがえていくことだとおもうんですよ。
昔、岩松了さんに松本幸四郎さんが舞台袖で、舞台やってたときに、毎日おなじ時刻におなじせりふをしゃべってるってちょっとにんげんとしてへんじゃないってはなしかけてきたことがあるらしいんですよ。
でもたしかにそうかんがえると舞台とかってすごくへんですよね。まっとうなことしてても。毎日おなじ場所でおなじ時間におなじせりふをしゃべってるんだから。人格としてずれてる。ちょっと狂ってる空間なんですよね。

安福 同じことしますもんね。

柳本 むしろかんちがいしないと人格が成立しないところがありますよ。
三谷作品ではすこしまえにもふれたけれど狂気ってテーマがありますよね。『振り返れば奴がいる』でも西村雅彦がくるっていくし、古畑でも自律神経失調症になってますよね。

安福 だれか狂うひとがでてくるんですね。 

柳本 ドラマってそもそもが狂気なんじゃないですかね。

安福 ああ。ドラマの撮影って、話の順番にとらないじゃないですか。最初と最後を一緒にとったりするんでしょう。それって狂ってますよね。

柳本 あそうそう。だから三谷幸喜さんが『マジックアワー』撮ったときに、あれはそういう、フィクションってなんだろうって作品ですよね。あれももうさいしょから勘違いを展開していくはなしだけど。

安福 舞台だとしても、順番に演じるけど、それをくり返すから、狂ってるんですよね。それもたえずフィクションってなんだろうってなるね。

柳本 そもそもでも三谷幸喜はフィクションってなんだろうってずっと問いかけてるきがしますよ。『十二人の優しい日本人』に「ほんとうのことなんてだれにもわからないんです」って陪審員のひとりがいってるけど、それってフィクションってなんだろうってことだとおもう。フィクションって妥協なんじゃないかって。
でも妥協を妥協としてうけとめられるって狂気じゃないかって。
だから三谷幸喜作品でよくある長回しのシーンって、その狂気に対抗するために、正気をもちこんでるきがするんですよね。あえて編集しないような。正気の基準点というか。

安福 ああくるってないとできないことたくさんありますからね。

柳本 たくさんありますああくるってないとできないことたくさんありますからねできないとくるってることああ。


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安福望:古畑任三郎「矛盾だらけの死体」の絵

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柳本々々:古畑任ザブ子の絵

posted by 柳本々々 at 22:25| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする