2017年08月19日

「川柳文学コロキュウム」No.77と赤松ますみA

ずっと短歌だけを読み・書きしていたわたしが川柳も作句してみようと思い立ったのは、今から8年ほど前。その当時、現代川柳を包括的に知るために4、5冊のアンソロジーを手に入れた。そのなかには田口麦彦編著『現代川柳鑑賞事典』『現代女流川柳鑑賞事典』(ともに三省堂)があって、川柳コロキュウム代表の赤松ますみさんはその両方で取り上げられていた。いま、その赤松さんのページを開いてみると、当時のわたしが付けた目印が残されている。それは次のような句だ。

うす暗い廊下で過去と擦れ違う  赤松ますみ
憎しみの形に割れた壜の口
寂しい と言って途切れるオルゴール
眼鏡ケースの中で腐っていくメガネ
薔薇園の薔薇 世の中の敵の数
惡人を合わせ鏡で確かめる
満月のどこかで水が漏れている
わたくしを守る角度に開く傘
ややこしい地図に出ている現在地
頬杖をついては砂を湿らせる


当時のわたしは「数年後の俺がこの目印を見たら、ぜったい感慨にひたっちまうんだろうな、へへ」と思っていたのだが、今まんまと過去のじぶんの思う壺にはまっている。いまごろ当時のわたしは、してやったりという顔をしていることだろう。
これだけ目印をつけたということは、短歌脳がほぼ10割だった当時のわたしにとって、赤松さんの川柳が親しみやすかったということだ。では、なぜわたしは赤松さんの川柳にすっと入っていけたのだろうか。

川柳という文芸を概観したわたしが最初に感じたこと。それは、川柳とは➀〈五七五の定型散文〉であり、➁〈社会の価値観を再確認する文芸〉だということだった。

どういうことかというと、➀は文としてなるべく飛躍や屈折がない書き方をしているということ、➁は〈貧しさ=清い〉〈平凡=しあわせ〉〈こども=純真〉〈電話の声=1オクターブ高い〉といった社会の定式を改めて五七五におさめ、確認しているということ。
➀については、誹諧でいう平句がルーツであることとも関係しているのだろう。ただ、くびれのない寸胴な文でも着眼点しだいでは読み手を十分ハッと思わせることができるので、これはさして気にならなかった。わたしが短歌との違いを痛烈に感じたのは➁のほうだった。こころみに➁であげた例を、わたしが川柳に仮構してみるとこんな感じ。

 正直に生きて財布がふくらまぬ
 しあわせは平凡だから見えません
 敬老に孫から貰う青い空
 もしもしと1オクターブ高い声

もちろんこういう内容だって書き方しだいでハッと思わせることができる。内容に優劣はない。ただ、これだけ日常世界と地続きな内容が手を替え品を替え量産されているとすれば、自分がコミットしてきた短歌とはまったく異質な文芸といわなくてはならず、そうとうなカルチャーショックを受けたのだ。わたしの認識していた現代短歌は、日常の正価値から一歩、いや半歩でもズレた内容が好まれる文芸だったから。

しかし、そんな短歌脳のわたしがすんなり入っていける書き手が『現代川柳鑑賞事典』『現代女流川柳鑑賞事典』には収録されていた。とくに女の方たちの川柳には、フレームからちょっと外れた内容のものもあって楽しく読めた。その一人が赤松ますみさんである。

たとえば「眼鏡ケースの中で腐っていくメガネ」という句。本来「眼鏡ケース」はメガネを休めるいれもの。でも、ここでは日常的な価値観が転倒され、〈眼鏡ケースでメガネが腐る〉という。それでいて、けっして読み手を突き放した内容・表現というわけではなく、たとえば一つの読み方として「メガネ」を人間に置きかえたとき、家庭が安息の場にならない現代人の様相が立ちあがってくる。
「満月のどこかで水が漏れている」という句も、日常的な常識からズレているようではあるけど、さきほどと同様に人間に置きかえてみれば、円満な家庭にほころびが生じている様相として読むこともできる。

また「頬杖をついては砂を湿らせる」という句の体感性も、短歌とおなじ要領で読めた。時代がくだるほど体感性にもとづく歌は減っている気もするけど、従来の短歌は体感性を詠み込むことがとても多い文芸だった。

抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う  岡井隆『斉唱』

コインの表裏としてある日常と非日常。そして体感性。こうした赤松作品の特徴に仲介されて、わたしは川柳にアプローチできた面がある。
posted by 飯島章友 at 23:59| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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