2018年02月13日

「川柳ねじまき」♯4

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「川柳ねじまき」♯4
発行人 なかはられいこ
編集人 川柳ねじまき制作委員会


鉄塔は鉄の頃からさびしがり  なかはられいこ
いちじくづくしボーダーにくし  二村典子
頭からバリバリいった理想論  猫田千恵子
束の間のひとりに浸かる頭まで  早川柚香
立ち合いで負けた三度目のお見合い  丸山進
気遣いの境界線の液状化  三好光明
眼帯の上の眼鏡の見る桜  八上桐子
誘われる運河に添い寝する役で  米山明日歌
カンナカンナ素っ頓狂にぐれている  青砥和子
羽根のない鳥は白磁の皿に乗る  安藤なみ
ホバリングしてる時代の中空で  魚澄秋来
サンクトペテルブルク的梅雨晴れ間  犬山高木
すかんぽたんぽぽからっぽの大皿  妹尾凛
家庭的紫芋の座り方  中川喜代子
七月のセロリの筋を通したい  瀧村小奈生


毎年1回発行されている「川柳ねじまき」は、名古屋の「ねじまき句会」メンバーによる作品集だ。今号は、各人の川柳20句およびエッセイ、ねじまき連句、ねじまき実況(二〇一七高得点句を語り合う会)、二村典子の評論「ぽのあたり」、なかはられいこのあとがき、そして八上桐子の句集『hibi』の案内が掲載されている。

引用した川柳はいずれも大好きな句で、本当はすべての句に触れていきたいところなのだが、ここではなかはられいこさんの引用句のみ鑑賞してみたい。

鉄塔は鉄の頃からさびしがり  なかはられいこ

この句のポイントは「鉄の頃からさびしがり(屋)」にある。かりに「鉄塔はさびしがり屋さん」という句意だったらありきたりだったろう。〈共感〉はできても〈驚異〉がないからである。
上掲句はセンチメンタルな世界ではない。そればかりか、「鉄の頃」まで遡ることで「鉄塔」の性質を見通しているとても〈冷徹〉な句なのだ。もちろん、この句を感傷的に捉えることもできるだろう。ただしそのばあい、「鉄塔」=「さびしがり」によってそう感じるのではない。「(鉄塔は)鉄の頃から」→「さびしがり」によって感傷が生じるのである。その意味で月並なパターンを越えている。
樋口由紀子さんに「空腹でなければ秋とわからない」(「晴」第1号)という句があるけど、こちらも一見すると「空腹」と「秋」がありきたりだ。しかし「空腹なので秋とわかった」のではない。あくまでも「秋」だとわかるための条件が「空腹」だと書かれている。〈変〉なわかり方ではないか。予定調和なようで〈変〉。現在のなかはらさんと樋口さんに共通する文体かも知れない。

上掲句についてもうひとつ思ったこと、それは、ここでの「鉄塔」は容易に動かない言葉だということだ。試みに「鉄砲は鉄の頃からさびしがり」としたらどうか。このばあい、〈鉄砲〉が強い言葉なのでアイロニーは出るかも知れないが、狙いすぎの感は否めないだろうし、なによりも原句の方向性や情緒から離れてしまう。ほかに〈鉄甲〉〈鉄条〉〈鉄柱〉〈鉄門〉でも同じことがいえる。唯一、「鉄塔」に対抗できる可能性があるのは〈鉄橋〉か。「鉄橋は鉄の頃からさびしがり」。
次に「鉄鋼は鉄の頃からさびしがり」だとどうか。このばあい、〈鉄鋼〉は「鉄」の状態から半歩しか抜け出ていないため、「鉄の頃」に遡るには時期尚早であろう。ほかに〈鉄筋〉〈鉄材〉でも同じことがいえる。
次に「鉄則は鉄の頃からさびしがり」ではどうか。このばあい、そもそも〈鉄則〉が物質としての「鉄」ではないので原句と比較することができない。よって「鉄塔」の代替にはなりえない。ただし、次元の異なる「鉄」と「鉄則」とが結び付けられることで詩性川柳の表現にはなっている。「川柳スパイラル」誌あたりに掲載されていても違和感ない気はする。

ところで初見でわたしは、下五の「さびしがり」を連用止めと捉えていた。連用止めにすることで余韻をもたせているのではないかと。しかし何回か読み返すうちに、じつは冷徹な目をもった句ではないかと思うに至り、〈さびしがり屋〉の意味で捉え直してみた次第だ。

ここまでくどくどしく鑑賞してきたが、そもそも上掲句は、評など加えなくても少なくない人が共感する川柳だと思う。それは犬山高木さんの「サンクトペテルブルク的梅雨晴れ間」にもいえることだろう。小林秀雄著『当麻』に次のような有名な一節がある。「美しい『花』がある、『花』の美しさというようなものはない」。そして小林は、それ以上説明しようとしていない。説明など野暮だということだろうか。西洋哲学ならここから論理を展開していくところだが……。
では、川柳に評は不必要なのだろうか。秀句に対して「説明しなくても分かるでしょ?」という美的感受に留まる姿勢(間主観性といってもいい)でいいのだろうか。このことについては、『川柳ねじまき』♯4の「二〇一七高得点句を語り合う会」での座談を参照しつつ、いずれ何か書けたらと思っているが、少しだけわたしの考えをここで述べておこう。鑑賞者が句の意味やレトリックを分析することで作品の価値を下げている、といった類の意見はよく耳にする。気持ちはいたいほどよく分かる。しかし、句の意味やレトリックを分析されたくらいで価値が下がる作品なら、そもそも秀句としての力や奥行きがなかったというだけの話ではなかろうか。野暮天なのをいとわず説明を加えるのはその作品を信頼しているからだ、と思っている。

以上、一人でも多くの方に「川柳ねじまき」を読んでいただきたい。

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posted by 飯島章友 at 08:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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