2018年02月15日

七月のセロリの筋を通したい   瀧村小奈生


七月のセロリの筋を通したい  瀧村小奈生

瀧村小奈生さんを意識したのは、「湯豆腐の大和魂らしきもの」「敷島の大和に降らす太田胃散」(「川柳ねじまき」♯2)という抜群なセンスの句に触れてからだ。そしてこの頃からだと思うけど、瀧村さんの川柳には言語遊戯が散見されるようになった。川柳スープレックスにご寄稿いただいた「射干玉の」でも折句的な手法(縦読み)が使われている。

言語遊戯は、近代という生真面目な時代に短詩文芸から取り除かれた。そして現代もまた、生真面目な時代になりつつある。グレーゾーン(矛盾・逆説・二律背反)をなくしていくため社会を合理的に統制しよう、というのが世界的な潮流だからだ。それだけに、掲出句のような小気味好い言語遊戯に接すると、愉しさばかりか解放感すらおぼえる。ちなみに、先日掲載した「川柳ねじまき」♯4での引用句も、半分近くは言語遊戯的な作品だった。

さて掲出句は、読んですぐ分かるように「筋」の一語が、「セロリの筋」と「筋を通したい」の両方にかかっている。まるで真っ直ぐに伸びている線路が駅に到着する手前で分岐し、1番線ホームでなく2番線ホームに入っていくような句だ。

この句の良さは、文字どおり筋が通っているところにある。というのも第一に、言葉として「セロリの筋を通したい」は十分あり得る措辞であるということ。第二に、文脈としても「七月」→「セロリの筋を通したい」という流れは、理屈として筋が通っているということ。セロリのことは全然詳しくないけど、七月はセロリの植え付け時期なのだという。このようにきっちり筋を通していればこそ、わたしはこの句と盃を交わしたくなるのだ。
 
「セロリの筋を通したい」は、「筋」という言葉が持つ異義を利用した言語遊戯・レトリックであるけれど、これと似たものが前近代にはあった。ひとつはお馴染みの「掛詞」であるが、もうひとつは「もじり」である。もじりは、同じ音からなるコトバに二重の意味を持たせる言語遊戯だ。次の句は、「ふりそでめした」という中七に二重の意味が込められている。

お姫様 ふりそでめした 月の笠 

ねづっち風にいえば、「整いました! お姫様とかけまして、月の笠と解きます。その心は、振袖召した(降りそで召した)のであります」といった感じだろうか。もうひとつ例を挙げてみよう。

小娘の とのほしさうな 破れ窓

この中七からは、「殿欲しさうな」と「戸の欲しさうな」が炙り出されてくる。以上の二句は『つばめ口全』より。

言語遊戯をはじめとするレトリックに対しては、しばしば「それはレトリックにすぎない」という言葉を耳にする。不真面目であるとか、詭弁を弄しているだとか、レトリックにはそんなイメージが付いてまわるのだろう。でも、この世界が矛盾・逆説・二律背反の複雑さに満ちており、その全体像を見通すのが困難だとしたら、直截的な表現では間に合わない。したがって、レトリックに活路を見出すほかないと思う。瀧村小奈生さんのレトリックがどこへ向かっていくのか、今後もアンテナを張っていきたい。

posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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