2018年03月01日

レモンの可能性/柳本々々

服部真里子さんの「レモンと可能性」。

 驚いて君のレモンが灰になる

「驚き」によって「レモン」が「灰」になる。

こうしたレモンの変化は、レモンがなしうる〈レモンの可能性〉と呼びたいところなのに、服部さんはそれを「レモン《と》可能性」にした。わたしは、そこがポイントじゃないかとおもう。もっというと、これは川柳のポイントにもなっている。

「レモンと可能性」というのは、レモンと可能性を分離してかんがえるということだ。

たとえば、

  線状になった犬だよその線は

犬が線になっている。ここにも犬の可能性はある。しかし問題は、犬の可能性の検討じゃない。問題は、川柳をとおした世界には、線状になった犬と線状になれなかった犬がいるということだ。

わたしはここをすごくよく考えたほうがいいようなきがする。

川柳はけっして世界の可能性を試しているわけじゃない。そうではなくて、これまであった可能性ともうひとつの可能性を「と」で結ぶのが川柳なのだ。

 蝶よりもペーパードライバーだった

「ペーパードライバー」と「蝶」が比較されることで、蝶と可能性が試されている。これは蝶の性質をふかめたいわけじゃない。そうではなくて、もうひとつの蝶をペーパードライバーを介してもってきている。このもってきてしまったときの「と」はとてもふかいのではないか。

服部さんの川柳が教えてくれるのは、もしかしたらわたしたちが川柳を鑑賞するときに、ふだんの感性でかんがえているレモンから世界をつきつめたりふかめるのではふじゅうぶんなときがあるんじゃないかということだ。この世界にはなかったはずなのに〈もってきてしまったレモン〉があって、そのレモンをかんがえなければならない。そのレモンは、その川柳のなかだけにおける個別的なものかもしれないから。

  個人的水鳥を個人的に呼ぶ

川柳には〈個人的に呼びだされた世界〉がある。それはふだんであっているものを深めたものではなく、つけくわえてみるように新たに・個人的に呼びだされたものであるということ。

  迎えに行くよ梨よりあたたかい身体

そこをかんがえてみないとこの「梨」というものもわからないのではないか。川柳とは、個人的に呼び出してしまったなにか、である。それはきわめて個人的なのだ。だが、その個人的召喚によって、過剰性がうまれ、過剰性が詩になってゆく。レモンの可能性ではなく、レモンと可能性。ここにちゅういをしてみたいとおもう。川柳を読むときに、いつもそれを忘れないでいようとおもう。川柳の可能性、ではなく、川柳と可能性、をもっとかんがえてみたいと、おもう。川柳はほりさげられるジャンルなのではなく、あたらしい外がくわわってゆくジャンルなのかもしれない。





posted by 柳本々々 at 04:07| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする