2018年04月16日

小野善江「丼から牛が」を読む

今年4月の「今月の作品」は小野善江さんの「丼から牛が」だった。


4回転ルッツ 丼から牛が


むかしのプロレスラーは今の選手よりも関節技を多用した。だが、むかしのファンの大半は吞気なもので、どうすれば関節が極まるのか、どこがどう痛いのか、そしてもし一線を越えたらそれがどれほど危険な技のかを知らずに観ていた。おなじように、わたしはフィギュアスケートのジャンプが各々どのように違い、どのように凄いのかを知らず観戦してきた。よく耳にする「ルッツ」という技もよく分からない。そこで日本スケート連盟のサイトで調べてみた。


アクセルの次に難しいとされるのが、ルッツジャンプです。

ルッツは、少し長めに左足の外側エッジに乗って後ろ向きに滑走し、左肩をぐっと入れて右のトウをついて跳びます。滑走で描いてきた軌跡と反対の回転をかけながら踏み切るので難しいとされるジャンプです。


文だといまいちイメージしづらいが、滑走のカーブとは逆方向に回転ジャンプするということだろうか。足に負担がかかりそうだ。ついでに時空も歪みそうだ。ちなみにドラえもんには「逆時計というひみつ道具があった。



永遠はやって来なくて浄め塩


日本語の「もの」という言葉は、多様なニュアンスをもっている。現代人は通常、質量のある物体を「もの」というばあいが多いと思う。でも「老いては子に従うものだよ」「ものが分かっちゃいねえな」なんて使い方もしている。このばあいの「もの」は、〈道理〉といったニュアンスだ。そしてその〈道理〉は日本人のばあい、ときに〈空しさ〉の認識とつながることがある。大伴旅人の「世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり万葉集・5793)での「もの」はその好例だろう。


空しさ、つまり永遠などやって来ないのがこの世の〈道理〉だ。それなのに日本人は塩という「もの」で邪気を払い、浄化する日々をくり返す。〈空〉は必ず訪れると分かっていながらも。



しあわせは少し退屈ヒヤシンス


なぜ「ヒヤシンス」なのだろう。わたしが思いつく限りでいうと、ここでの「ヒヤシンス」には二つの効果がある。


第一に、やはり音の響き。上掲句では「ヒヤ(冷)シンス」の響きが「しあわせは少し退屈」の意味を方向づけているドラマ「警部補 古畑任三郎」に、古畑の部下の今泉慎太郎が「今夜はとってもヒヤシンス 明日は雪がフリージア♪」と、歌い踊りながら花を活けるシーンがあったのが思い出される。


第二に、「ヒヤシンス」に現代人の姿が重なってくる効果があるように思う。わたしたちが目にする「ヒヤシンス」は、主に園芸・鑑賞用に育てられたものだ。人為によって快適な環境で育てられた「ヒヤシンス」は、文明の産物を空気のように享受している現代人と似ている。


幸せの「幸」も、Happinessの「ハップ」も、〈思いがけない恵み〉という原義がある。現代人は、この時代に生まれ得た〈思いがけない恵み〉のために、過去のどの時代よりも便利で安全で快適な環境にありつけている。その意味ではじぶんたちを「しあわせ」と感じておくのがひとまずのマナーだろう。しかし現代人が、過去のどの時代の人間たちよりも「しあわせ」を感じているかどうかは疑わしい。なぜなら現代文明の産物は、じぶんたちが生まれる前から当たり前のものとして存在しているため、文明の産物にありつけている状態を〈思いがけない恵み〉と感じる必要がないのだ。したがって、じぶんたちを「しあわせ」と感じる必然性も乏しいのだ。そうであるなら、現代人やヒヤシンスが「しあわせは少し退屈」と感じてしまうのも当然の成り行きといえるだろう。


……今日の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。

『大衆の反逆』(オルテガ・イ・ガセット 神吉敬三訳/ちくま学芸文庫)





posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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