2018年07月26日

お笑いと短詩  柳本々々

あるとき漫才を見ていて漫才って定型的だなあとおもったのだが(ボケ・ツッコミ、時間、立ち位置、落とし)、漫才と短詩は似ているのではないか。

たとえば、漫才には、ボケとツッコミという構造があって、そのふたつでひとつの意味作用が出るようになっているが、短歌は、上の句と下の句の構造的なワンセットで意味作用がでるようになっている。

これは言うなれば、上の句がボケで、下の句がツッコミのようなものだ。

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ」というボケがあったとする。そこに「だるいせつないこわいさみしい」とでも言うのかとツッコミが入る。このワンセットで意味作用が出る。

この下の句がなくなると現代川柳になる。

現代川柳は芸人でいうとピンのひとに似ている。ボケはボケのまま浮かび上がる。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ」の何を聞いてほしいかは不思議のまま解明されない。

  なにもない部屋に卵を置いてくる  樋口由紀子

なんで置いてくるのかは解明されない。このボケはボケのまま漂いつづける。たとえば無理にこうすると短歌になる。

  なにもない部屋に卵を置いてくるだるいせつないこわいさみしい

なんで置いてきたかはツッコミによって解明される。もし無理にくっつければ。

短歌が構造的漫才なら、現代川柳は未構造的な漂うボケと言ったらいいか。

俳句はどうなるだろう。

小澤實さんが、俳句は謙虚な詩と書かれていたが、俳句は、ボケない。たとえば、ボケようとしても立派なひとがそばにいてなかなかボケられない。立派なひととは季語だが。

そうすると、俳句は、構造外ということになるだろう。構造的でも、未構造的でもない。脱構造的といったらいいか。

『カモメの日の読書』で小津夜景さんは、俳句は質感(テクスチャー)と書いていた。構造じゃないんだ、と。もしこれを無理にバラエティーにあてはめるなら、俳句は、食のレポートに近いかもしれない。食のレポートは、まず食ありき(季語ありき)なので、食を超えてはいけない。謙虚でなくてはならない。質感なのである。構造になってはいけない。

  人参を並べてみればわかるなり  鴇田智哉

  別のかたちだけど生きてゐますから  小津夜景

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ  田島健一

ボケているわけでもないし、ツッコミを待っているわけでもない。わける「なり」、だし、ゐます「から」、だし、「ぽ」だから。終わろうと思えば終わりだし、無理にふくらませようとすればふくらませられる。つまり、質感がある。食のレポーターが大切な語り口とする質感が。

漫才師のひとがそのうちトーク番組に出るように、短詩人は散文も書く。でも漫才師のひとが漫才の感性をいかしてトークするように、短詩も短詩定型をいかした散文を書く。

わたしはテレビが好きなのだが、テレビは短詩とよく似ているとおもう。というか、テレビと文学は奇妙な親和性がある。わたしはそのことを森茉莉からおしえてもらった。

『おもしろ荘』をガーゼケットにくるまりながら静かに横になりながら見ていてそんなことをおもった。

下はテレビが大好きだった森茉莉の直筆原稿。壁に貼って勇気をもらっている。やっぱりテレビのことが書いてある。


DSC_0108_20180726210237353.jpg
posted by 柳本々々 at 20:47| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする