2018年09月27日

今月の作品 守田啓子「秋」を読む

 たとえば、こんな問いを立ててみることも可能だろう。
「川柳の連作とは何か?」
 川柳を連ねることに、果たして何の意義があるのか。それを頭のどこかに置きつつ、今月の作品を読んでゆくことにしたい。
 まず注目したいのが、最後に置かれた、
  私が先に秋になったらごめんごめん
 である。この「ごめんごめん」が、いったいいかなる必要性に迫られてのリフレインなのか。凡句であれば「ごめんなさい」としてしまう所だし、奇を衒えば「ごめん」と言い捨ててしまう可能性もある。だが、この句には、「ごめんごめん」と「ごめん」を二度繰り返す必然性が、確かにあるという感触を与える何かが〈ある〉。
 そこで目を少し前に戻してみよう。そうすると、
  複製なわたしに狼煙揚げられる
 の句に目を奪われる。「複製なわたし」。このフレーズ、と言うより「複製」をキーワードにして連作を読み通すことは可能だろうか。
  左折左折右折左折 蝉しぐれ
 における、「左折」の連なり。一個だけ紛れ込んだ「右折」はコピーの劣化であり、その些細な傷が、一字空けを伴うことにより、さらに痛みさえ強化されて「蟬しぐれ」という〈モノ〉を呼び出している。また、
  道に迷うし美術館は休みだし
 においては、「〜し」という接続詞の繰り返しが、読み手に眩暈を与える作用を担っている。
  ひとりずつ秋になるんだひとりずつ
 での「ひとりずつ」のリフレイン。「ひとりずつ」は、ひとりでありながら、そのひとりが延々と繰り返される、いわば「ひとり」がいつまでも続く複製であることを、この句は内容と形式の両方で示している。
 この読み方を敷衍すれば、
  ねぶたゆくごろらっと志功の眼鏡
 も、〈棟方志功〉が版画家であること、つまり複製芸術家であることと無関係ではない、とするのもあながち牽強付会ではないであろう。であれば、
  蝉殻を付けるなんだか清少納言
 はみずからが複製的存在である宣言であるし、
  ダスティンホフマンがどこにもいないナナメに秋
 における「ダスティンホフマン」が映画俳優という、複製の権化のような〈存在〉であることも視野に入れておくべきだろう。
 この句については、さらに「どこにもいない」と書かれている。これはまさにコピーのみが大量生産され、オリジナルが非在であるという、〈現在〉を生きる者ならば誰しもが薄ぼんやりと感じている空気を摘出した〈穿ち〉であろう。
 ここで〈オリジナル〉と私は書いた。だが私はあまりに安易にオリジナル、という言葉を使ってはいなかったか。オリジナルの非在、と言うのは容易い。だが、短詩文芸、特に川柳において〈オリジナル〉という〈モノ〉が果たして可能なのだろうか。
 短詩文芸は、常に何かの共通地盤を必要としている。ひとつの言葉のバックグラウンドを、共有していなければ、おそらく流通しない文芸である。〈定型〉という型に納めるために、その地盤は必然的なものであるし、そもそも前提として〈定型〉自体があるひとつの共通地盤でもあるだろう。
 むろん、すべての言語活動が共通地盤を必要としている。〈純文学〉から〈おしゃべり〉に至るまで、言語を使うということ自体が、すでに〈共通〉を見いだす作業と言えるかも知れない。
 ただ、現代川柳というジャンルにおいて……いや、この場合は掲出連作に絞ることにしよう……この作品群において、その〈共通〉性は刃物のように剝き出しにされている。〈オリジナル〉が可能か、という問いは、その点から考えるべきだろう。今更とりたてて言うべき事でもないが、テクストにおいて純粋なオリジナルは存在しない。だからこそ、自らが「複製」である、と認識する句は、実存のように〈存在する〉。それを読むという行為はまさしく、抜き身の刀の上を渡るような、戦慄さえ覚える体験である。
 そう考えたとき、「秋」というタイトルが重要な意味を持ってくる。「秋」という言葉を季語として捉えることは可能だろうか。そのとき、〈季語〉、は言語の共有を最も体現した現象のひとつであると考えざるをえまい。川柳/俳句の分類を季語の有無で判別する時代は、とうに終わっている。だが、〈季語〉に対して〈メタ季語〉を打ち込むことが可能なジャンルは、現代川柳であるはずだ。もちろん、それは川柳/俳句に優劣をつけることではないし、〈メタ季語〉が現代川柳の絶対条件であるわけでもない。俳句においても、〈メタ〉構造を持った句は、例としては挙げないが、数限りなくある。もしかしたら〈メタ〉という構造自体が、川柳・俳句の共通点かもしれないのだ。
 ならば、この「秋」という連作を川柳たらしめているものは何か?
 それを答えることが、最初に掲げた「川柳の連作とは何か?」という問いに答えることになるだろう。
 暴力的に言ってしまうなら、それは「みずからがみずからである」という認識に支えられているという事態である、と答えられる。
 みずからが〈何者であるか〉というみずからへの問い。それが「複製のわたし」という〈穿ち〉であるか否かと言うことは、この際あまり関係がない。ただ、みずからが連作であるという自覚、それが底流にあるかぎり、連作は連作として成り立つのだ。当然ながら、川柳が川柳であるという自覚においてのみ、川柳は川柳として成立する。それを私は、真の意味で〈穿ち〉と呼びたい。
 結論としてはあまりに当たり前の言説になってしまった。だが、前提そのものを意識すること、前提自体を前提として超えてゆくこと。それが今世紀の〈オリジナル〉ではないだろうか。そして、この連作の存在意義は、その一点を迷い無く射貫いている。冗語は要るまい。ただ、読者の方々には、再びの〈読み〉を願うのみである。


posted by 川合大祐 at 05:05| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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