2018年10月14日

川柳カモミール2 ➀

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「川柳カモミール」第2号
発行人 笹田かなえ
定価  500円(送料別)

カモミール句会の句会報である「川柳カモミール」第2号が7月に発行されました。購入のための連絡先は以下に掲載されています。
川柳日記 一の糸

それでは以下、作品を見ていきます。

どこからがワガママなのか夜なのか  守田啓子

現代川柳は、形の上では575定型を基準としながらも、その内容においては世間に流通する〈意味の定型〉を問い直す文芸だと思っています。少なくともそういう一面があるのは確かです。ここでいう〈意味の定型〉とは、たとえば、二世=苦労知らず、若さ=希望、子供=純真無垢、忖度=処世術、鳥=自由、仮想現実=現実逃避、共白髪=悲喜交々、貧しさ=清さ……などといったこと。わたしが言いたいのは、光が可視化されるには影の存在がなければいけないのと同じように、世間に流通する〈意味の定型〉だってその裏面を暗示できなければ片手落ちの格言や人生訓と変わらない、ということです。意味の定型=常識をうがってみせるのが現代川柳の一つの方法だ、という話です。

さて掲出句は、まさに〈意味の定型〉を問い直している作品です。

掲出句は先ず、@どこからが「ワガママ」なのか、と問い直しています。長くなるのであっさりと結論づけますが、ワガママなどというものは、相手とどれくらい近しいかによって、親しみのあらわれとも受け取られるし、文字どおり我儘とも受け取られる。〈時と所と場合〉あるいは〈時処位〉によって変わる。だから安易に〈これがワガママである〉と意味を定型化することができないのです。

次に掲出句は、Aどこからが「夜」なのか、と問い直しています。ワガママと同様、夜も安易に定型化することはできません。なぜといって夜には、黄昏時、宵、晩、夜中、真夜中、夜半、半夜、夜更け、残夜、暁、などなど、いろいろなレベルがあるからです。また時季、場所、心理状態、照明の明度によっても夜の訪れ方は違ってきます。ようするに夜の意味も、〈時と所と場合〉あるいは〈時処位〉によって変わってくるのです。

最後に掲出句は、@とAを問うことによって結果的に、B「ワガママ」と「夜」の境界はどこなのか、を問う構造にもなっています。言ってみればこの句は、言葉の領域として本来比較できないはずの「ワガママ」と「夜」との違いを問うている。それは、既成の言葉の〈領域の定型〉を問い直すことにつながってきますよね。

今号の守田啓子さんには、「雪に紛れて白鳥になる気です」「モロヘイヤとんとん 割り切ることですね」「割り切れないものが水平線を揺らす」など、割り切る/割り切れないに関わる作品が散見されます。〈意味の定型〉を問い直し、その延長として〈領域の定型〉も問い直す。これはとても変なことです。変なことだけど、意味や領域を問い直すことは現代川柳の方法として確かに存在しているし、そこに興趣をおぼえるのが現代川柳の詠み手および読み手なのではないでしょうか。

 * * * 

最後にすこし余談を。さきほどわたしは、意味の定型=常識をうがってみせるのが現代川柳の一つの方法だと述べました。うがち。うがちは本来、伝統川柳・時事川柳の十八番であります。だから伝統川柳も時事川柳も(現代川柳ほどラディカルでなくても何ほどか)意味の定型を問い直すことが求められているはずなのです。そう、川柳にはヒール(悪玉)の文芸という側面があります。実際、むかしの川柳家には素敵なヒールがいたと思います。「マルクスもハシカも済んださあ銭だ」(石原青竜刀)、「真夜中の解剖室で鶴を折る」(大島洋)、「一老人 交尾の姿勢ならできる」(定金冬二)なんて句は、ヒールの自覚がないと作れないでしょう。だけど昨今では、世間に流布している正価値をいかに上手く575に嵌め込むかをみんなで競っているようにも見えます。伝統川柳と時事川柳はベビーフェイス(善玉)が9割の文芸になってしまったのでしょうか? それは興行として面白いんでしょうか? いまのそれらの中心世代は、人生の見通しが立ち、社会の透明性が確保されていた時代を生きてこられた方々です。ヒールがいなくなったことはそれと無関係でないのかも知れません。

(つづく)
posted by 飯島章友 at 00:30| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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