2019年02月27日

森山文切さん「さけや」を読む/柳本々々

文切さんの川柳には、〈なんでこんなとこに/なんでこんなことに〉のエネルギーがある。それは、間違えることのエネルギーといってもいいかもしれないし、誤配のエネルギーともいってもいいかもしれない。世界のボタンをあえて掛け違えてみることで川柳はことばや意味のエネルギーを発見する。

ガールズバーにある墨書き、救護訓練中の通知音、扉に貼ってある終了の付箋、仏壇のグルテンを除去したナポリタン、なんでこんな〈とこ〉にのエネルギー。

卑猥に見えるダクト平面図、なさけやさんからかけられるおさけ、ギロチンにキレる生首、なんちゃら増える奈良の鹿、なんでこんな〈こと〉にのエネルギー。

さいきん久保田紺さんの句集『大阪のかたち』を持ち歩いて読んでいるのだが、樋口由紀子さんと小池正博さんがこんなことを書いていた。

「生きていくうちにはどうしようもないものが必ずある。なんだかわけのわからない事象にも出会う。最後まで割り切れないものが残ったり、どういえばいいのかわからない感情だってある」と樋口由紀子さん。「人は天使でも悪魔でもなく善悪のグレーゾーンで生きている。どうでもいいことはどうでもいいのであり、しかし本質的なことだけで生きていけるのかというと、そうでもない」と小池正博さん。

ふたりが書いているのは、なんでこんなとこに/なんでこんなことに、の認識を放棄するな、ということではないかともおもう。

文切さんの川柳は、放棄しない。それをことばに置き換え、ひとつ・ひとつとして確認する。川柳はそうした世界のボタンのかけ違えのエネルギーをひとつひとつ配置していくことだとおもう、かけ違えたままで。

かけ違えたままで、どこかにたどりつこうとしている。そういうわたしたちのひとつのありかた。


posted by 柳本々々 at 10:17| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする