2019年04月13日

まばたきすることば──粒子と流体とのあわいで/杉倉葉氏ロング・インタビュー(聴き手:小津夜景)@

1.川柳との出会い

小津夜景(以下、O) 杉倉さん、はじめまして。川柳スープレックス「1月の作品」の連作「流体のために」を大変おもしろく拝読しました。川柳というのは若い方がとても少ないジャンルですが、そもそも杉倉さんはなぜこの詩形を選んで活動しようと思ったのでしょう。

杉倉葉(以下、S) 昨年の春ごろ、歌人の瀬戸夏子さんのエッセイなどを読んでいたら度々川柳に言及されていました。たしか『現代短歌』の連載だと思うんですけれど、石田柊馬の〈妖精は酢豚に似ている絶対似ている〉が引かれていて、川柳でこんな変なことをする人がいるんだ、と気になったのが川柳に関心を持ったはじめです。

O 〈妖精は酢豚に似ている絶対似ている〉は快作ですね。これぞ川柳!といったジャンルの王道を体現しつつ、同時に短詩形文学の枠に収まらないエネルギー、外部に飛び出そうとする太いベクトルをはらんでいる、という。

S すごい句ですよね。それにびっくりして川柳が気になりはじめて、ちょうど同じころに、偶然、川柳スパイラルや川柳スープレックスなどで活動なさってる川柳作家の暮田真名さんと知り合ったんですが、暮田さんが「当たり」というネットプリントに載せていらした作品がすごくおもしろかった。それで暮田さんにいろいろ教えていただくうちにいつのまにか自分でも作っていた、という感じですね。ほんとうに歴史もなにも知らないところから川柳をはじめました(いまでもそのままなんですけれど)。
はじめて読んだ川柳の句集は小池正博『水牛の余波』で、まったくわけがわからなかったんですが、わけのわからないものが好きなので、すっかり惹きこまれてしまいましたね。それから、たぶんそのころまだ出たばかりだった八上桐子『hibi』がすごく良くて、水のモチーフの使い方になんとなく現代詩っぽいものを感じて自然に読み進めていけました。
そのころ読んだ句で印象に残っているものを挙げると、

  共食いなのに夜が明けない/暮田真名
  獣偏のデザインは疾走する/小池正博
  えんぴつを離す 舟がきましたね/八上桐子

などです。

O まさに現代詩の一行、といった雰囲気の……。

S そうですね。現代詩だけでなく、もっと他の詩形のひとに読まれてもいいと思うんですが、残念ながら川柳ってすごくマイナーなジャンルですよね。いま川柳を読んだり作ったりしているひとがどのように川柳と出会っているか、ということはとても気になるんですが、小津さんがはじめて川柳に触れられたのはいつなんですか?

O 6歳の時に依田勉三〈開墾のはじめは豚とひとつ鍋〉をおぼえたのが最初ですが、自覚的な出会いは3、4年前です。そのときは川柳そのものに興味はなくて、柳本々々さんの目に映る川柳を理解したかった。そんなにおもしろいの?とふしぎだったの。杉倉さんの目には、川柳という詩形はどんな風に映っているのでしょう。

S 俳人の方にとっても川柳はやや距離のあるジャンルなんですね。
私は川柳のなかでもごく一部しか読んでいないのでかなり偏った印象だとは思うんですが、川柳は人称性というか、発話者の主体性が希薄な気がします。たとえばさっき引いた小池さんの〈獣偏のデザインは疾走する〉や、〈はじめにピザのサイズがあった〉もそうですが、こうした極端に偏った断言の背後に主体が見えるかというと、まったく見えない。
俳句だと(私は俳句にぜんぜん詳しくないのであてずっぽうで言いますが)、一句としてのイメージの完結性がもとめられ、そうなると景を見る主体なり、語を統御する主体というものがあらわれてくるのを感じるんですが。

O あ。それは一般のイメージとはたぶん逆ですね。ふつうは川柳の話者は我を出し、俳句の話者は我を消す、といったイメージなんじゃないかな。 
   
S そうなんですか。でも川柳ってだれかよくわからない変な言葉がただそこに置いてある、って感じがするんですよ。他のジャンルで近いと思うのはアメリカのポストモダン小説家、バーセルミの小説ですね。バーセルミの小説って、ほんとに意味がない掌編ばかりで、読んでいると意味も分からず変な形のプラスチック片を見せられている気分になるんですが、川柳もそれに近い感じがします。
それから、俳句は季語があることによって一句を読むこと自体がほかの句を参照することになるはずなので、とても豊かで、重みがありますよね。それに比べると川柳は(悪い意味ではなく)貧しく、軽やかな気がします。俳句を解釈すると、十七音からさまざまなものを読み取ることになると思うんですが、川柳ではむしろ、得体のしれない余白を前に途方に暮れてしまう。俳句が文の凝縮だとしたら、川柳は文の断片だと捉えられると思います。
ただ同時に(小津さんがスープレックスのインタビューでおっしゃっていた、俳句と川柳の作者性とかかわるところだと思うのですが)、句単位だと川柳は主体性が薄い印象があるのに、連作や句集の単位で読むと必ずしもそうとは言えない気もするんですよね。俳句は最終的なところで季語=歴史に主体性を明け渡しているのに対し、川柳は拠るところがないから、まとまって読んだときにむしろ作者性が目立つのでしょうか。

O うーん、むずかしい。さしあたり詩性川柳と俳句との違いについては、昔、次のような比較を試みたことがあります。
たとえば川柳のパターンのひとつに〈身体性の過剰な改造〉というのがありますが、実は俳句では身体の改造がまったく好まれません。もちろん身体の〈違和〉や〈異化〉を詠む人は少なくないですよ。でもその〈違和〉や〈異化〉は、中心たる身体への幻想があるからこそ成立する予定調和にすぎないんです。また身体性の問題をかなり学究的に考えている俳人にしても、彼らの作業は身体をめぐるありきたりの言説を疑い、その現象を捉え直すことに費やされる。つまりそこでは〈本来の身体〉なるものが空虚なシニフィアンとして、依然として隠れた中心的機能を担っています。
いっぽう柳人の身体に対する姿勢は、まるで新種のアニマロイド(獣人)を生み出すようなクールさです。彼らは身体の破壊、継ぎ接ぎ、再生といったロボティズム的作業を、もったいぶった観念的意匠をまとうことなしに平然とおこなう。言ってみれば、川柳による身体性へのアプローチは人文学的というよりむしろ工学的で、杉倉さんが川柳に対してお感じになる「主体性の薄さ」は、おそらくここに起因する。またこの工学的指向こそ、川柳が芸術の言説によって捉えにくいことの一因でしょう。


S たしかに川柳の身体性は特徴的ですね。詩の一節だったら隠喩として解釈されそうな言葉も、川柳の短い断片的な記述においては身体の再創造として読まれうる。〈喉元に脱走兵を匿って〉(樋口由紀子)、〈背骨から私が匂いだしている〉(畑美樹)、〈この世から剥がれた膝がうつくしい〉(倉本朝世)……。
さっき小津さんがおっしゃっていた石田柊馬の句の外部に跳びだそうとするベクトル、というのも、たぶんそういうところにあるのかもしれませんね。通常の秩序とは異なった世界を作り出すための、キャンバスの外にまで伸びてゆく線のような力を持つ得体のしれない断言。俳句がとらえているのが「過去」だとしたら、川柳がとらえようとしているのは「未来」なのかもしれません。
そうした改造の技術のありかた、使用する道具(モチーフ)の選択に、川柳人の作者性がある、といえるでしょうか。

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2.川柳より前のこと

O 杉倉さんが川柳を始める前に触れてきたものもお聞きしたいです。

S もともと小説が好きで、10代の半ばくらいまで太宰治とか安部公房を愛読していたんですが(いかにも文学青年と言う感じでちょっと恥ずかしいですね……)、高校の頃高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』に衝撃を受けて、それから高橋源一郎の評論などを手掛かりにいろいろ読みました。そのときに鈴木志郎康や藤井貞和や伊藤比呂美を読んで、現代詩というものを知って、だから詩歌を読んだのは教科書に載っているようなものを除けば、現代詩がはじめです。
定型詩に関しては短歌を少し読んだくらいですが、図書館で借りた『新星十人──現代短歌ニューウェイブ』というアンソロジーで知った紀野恵はすごく好きでしたね。
ただそのときは詩歌よりも小説がとにかく好きでした。ベケットに保坂和志、それから金井美恵子。デビュー作の『愛の生活』を読んだ17歳の頃から今に至るまで、金井美恵子がいちばん好きな小説家です。

O 17歳で金井美恵子かあ。それは一歩も寄り道なしに来ましたね。

S まあ金井美恵子はもともとエッセイの口の悪さが好きで読んでいたんです、口の悪い人が好きで……。
大学では、文芸科みたいなところに入ったので、そういうところにいる学生がよく読むようなものを読みはじめます。文芸批評や思想書、あとヌーヴォーロマンなど。
詩歌も読んではいましたが、たまに図書館で詩集を借りるくらいでした。でも、2017年に復刊された松本圭二の『詩篇アマータイム』に衝撃を受けて、それから現代詩ばかり読むようになる。一番好きな詩人は安川奈緒です。『MELOPHOBIA』という詩集がほんとうに素晴らしくて、ただ、絶版で手に入らないんですよね。
書店で詩歌の棚に行くといまいちばん勢いのあるのが短歌なので、短歌も読みはじめて、それが昨年のはじめあたりです。ただ短歌は読めるときと読めない時がありますね。韻律が強すぎる感じがして。俳句はぜんぜん読めていなくて、これから読んでいきたいな、と思っているところです。

O お話を伺っていると、読むものの嗜好と書くものの志向が重なっていそうな感じですね。

S そうですね、基本的に発想も想像力も貧しいので、書く時に拠るものが今まで読んだ本くらいしかないんですよね。
そういえば小津さんはフランスにお住まいだそうですが、俳句を作るうえで、そこから影響を受けていると感じるときはありますか?

O うーん、影響ではないですが、いくぶん変わった孤独体験ができます。日本だと一人になりたくても、一歩外に出れば文字や音声が身体に入ってくるでしょう? 外国語は、意識のチューニングさえゆるめておけば、すべてを100パーセント落書・雑音として脳が処理してくれるから、いつまでも自分の声だけを聴いていられるんですよね。

S なるほど。私はいままで一度も海外に行ったことがないのでまったく体験したことがないです。それは定型のない詩や、散文を書く時でも一緒ですか? たしか詩人の伊藤比呂美さんがアメリカに住んでいらしたときに、どんどん日本語を忘れていって言葉がうまく使えなくなってゆく、ということを書いていたと思うのですが、そうしたことはないのでしょうか?

O ありますよ。運動性失語症(言いたいことはわかっているが言語にならない状態)です。何かを考えようとしても、言葉を置いてある脳の部屋の扉があかない。『海程』の崎原風子もそうだったらしい。アルゼンチンで日系新聞を発行していた方です。

  い。そこに薄明し熟れない一個の梨/崎原風子
  Dの視野にあるヒロシマの椅子の椅子
  ヒエラル墓地の昼の一日の大きな容器
  8月もっとはるかな8へ卵生ヒロシマ

こんな俳句を書く人。風子については、辻本昌弘『語り──移動の近代を生きる あるアルゼンチン移民の肖像』という本があります。


S そういう状態でものを書く、というのは考えただけでもおそろしいです、たまにそういう夢を見るんですが。
はじめて聞きました、崎原風子。かなり変な句ですね、何について書いているのかよくわからない。すごく面白いです。

(つづく)

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posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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