2019年07月09日

今月の作品 内山佑樹「宇宙とか、現代川柳とか謎。」を読む

「宇宙とか、現代川柳とか謎。」と題された連作である。 
 宇宙、と謎は対立しあうもの(こと)ではない。宇宙=コスモスとは秩序であり、謎、とはその秩序が一次的に不順に陥っている状態である。謎を謎として成立させるのは、我々がコスモスの上にいることを前提としているからだ。
 だから、この内山作品が「謎」を残すとして、それは秩序の撹乱ではなく、秩序の回復への希求を読み取る、という向き合いかたもあるはずだ。無論それは「謎解き」ではない。私にできるのは、謎の成立を観測することだけだ。星空の下で万華鏡を覗くように、眩惑されてみようと思う。

  地球(初版、強いヤケ・シミ) 月あり

 たとえばここにあるのは非常に計算された論理である。地球、と古本が共存しているところに、「月あり」と締められることによって、二つの世界がここで合流する。逆を言えば、「月あり」となるまで、地球/古本は共存しているが、比喩で関係付けられているわけではない。あくまで二つの世界認識が、一句の中に並行しているのだ。世界を撹乱しながら、コスモスを成り立たせていること。それ自体が撹乱であり、「謎」が発生する動きなのだ。

  月光の譜面から溢れ出す夜

 この句においても、「譜面」が二重の意味を持たされている(あるいは、何の意味も持たされていない)。しかし先ほどの句が「月あり」で締めくくられていたのに対して、この句は「月光」から始まっている。すなわち、先ほどとは逆に、この「月光」から二つの世界が分岐を始めていると読むことは可能だろうと思う。世界の始まりと終わりに立つ、「月」とは地球の衛星、すなわち自己と他者の間にあるものとして、これ以上ふさわしいものは無いように思う。

  綺羅星のバスターミナルのイルミ

 ここでも、「綺羅星」は「バスターミナルのイルミ」の比喩なのではない。比喩が二つの世界の融合なら、この句において綺羅星/イルミは接近しすぎている。だからこそ、この句にあっても、二つの世界は融合ではなく、分離と読むことがふさわしいのではなかろうか。
 
  革命の覚悟や彗星の軌道や

 二物衝撃、と読むべきなのかもしれないが、ここにあるのは「〜や」で並列された等価である。ここにひとつのコスモスが形成されていること。しかし一見隔絶された世界と見えること。そこに「謎」の発生を見ることは、ひとつの愉楽である。

  盗聴器よりも静かな戦争を

  また行こうねって聞こえる虹の空


 この二句で宇宙を構成しているのは、聴覚である。と言っても、何かが聞こえる、という動作を示すのではない。「聴覚」という概念自体が、ある素材として、そしてそれを乗り越えてゆくものとして設定されている。ここにあるのは、すべてを客体として(コスモスの一部分として)把握してしまう、建設的なニヒリズムとでも仮に言おうか。この世界の切り取り方を、何と故障したらいいのか、正直、評者は捉える言葉を持たない。間違いなく、新しい時代の前触れを予感しながらも。

  風船は枢機卿の義眼だろう

 仮にニヒリズムと呼んだが、この句はそんな仮称をやすやすと超える。恐らくは「意味」をつけ出したら、どこまでも「意味」を持たせることができる句である。だがこの句の佇まいに、「意味」に回収されるのを拒む、何かがあるのだ。恐らくはひとつひとつの単語に「意味」が過剰だからではないかと思う。意味というのがコスモスを目指したいという欲望であることは言うまでもない。この句においては、その欲望は屈折した形で表現されている。だからこそ、「謎」という「意味」が生じるのではないか。

  追ってまた追われ手のなるほうへ、批評

 今まで読んできた連作のすべての要素が、この句には収容されている。その中で、二つの世界の共存という要素に注目してみれば、世界と世界の関わりによる世界の更新、それを人は「批評」と呼ぶのではないか。自らを「批評」と呼ぶ、その言葉自体に批評性を読むべきではない。むしろ、八句を貫き通すこの宇宙に「いない感じ」こそが逆にこの宇宙を意識させるのであり、それが作品でありながら批評性を持つダイナミズムになり得ているのではないか。
 これ以上の「批評」はもはや評者の手に余る。むしろ、評者の手に余ることを想定されて書かれた、「現代川柳」ではないか、ということだけを想像しつつ、とりあえずのひと区切りとする。
posted by 川合大祐 at 18:54| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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