2019年12月28日

筒井祥文川柳句集『座る祥文・立つ祥文』

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筒井祥文川柳句集『座る祥文・立つ祥文』
2019年12月発行
編者:樋口由紀子
発行人:富山やよい・くんじろう
発行所:筒井祥文句集発行委員会
装丁:くんじろう
絵:酒井かがり
校正:きゅういち
会計:山口ろっぱ
集句協力:藤本秋声
(句集を入手したい方はくんじろうさんのTwitterに連絡するのがいいと思われます)


筒井祥文さんは平成29年の秋まで「川柳結社ふらすこてん」の主宰でした。川柳結社という呼び方も川柳界では珍しいですね。歌壇で「結社」といえば、縦の人間関係にもとづきながら専門人を養成していく組織のことですが、川柳界では結社と名乗るグループを見かけません。グループ名にあえて結社を付けた意味を祥文さんにお訊きしたかったです。

祥文さんが亡くなったのは平成30年3月6日。樋口由紀子さんのあとがきによると、この句集の制作は、病室での祥文さんのつぶやきがきっかけになったそうです。「好きなことをして、人にも恵まれて、いい一生だった。しかし一つだけ悔いがある。それは句集を出せなかったことだ」。

わたしは以前、祥文さんと自動車の中で一緒になり、川柳についていろいろなご意見をうかがったことがあります。とにかく既成川柳界について仰りたいことが山ほどあったようで、話しはじめたらとまらない感じだったのを憶えています。憂国の士という言葉がありますが、そのときの祥文さんはまさに憂柳の士。川柳にたいする情熱と誠実さが伝わってきました。

以下、同句集より。

湯どうふのさっぱり君が解らない
「さっぱり」という言葉を媒介にして「湯どうふ」から「君が解らない」へと無理なくつなげていく技術。言葉選びが的確です。それでいて、どこかトボけた可笑しみもある。「君」というのが湯豆腐を指すのか、あるいは一緒に湯豆腐を食べている人を指すのかは解釈のわれるところでしょうが、もしかしたら両方とも指しているのかも知れません。摑みどころのない豆腐の質感に接したとき、そういえば僕は貴方のことも全然解っちゃいないなあ、なんてね。

仏壇の奥は楽屋になっている
「仏壇」から「楽屋」への飛躍が意表を突きますが、その意表性が可笑しみにもつながっています。2時間サスペンス「赤い霊柩車」シリーズの大村崑みたいに、「コラ、いつから仏壇は舞台になったんや」と突っ込みたくなる句。しかし、よくよく考えてみると仏壇も壇なのですから、楽屋(控室)への飛躍はけっして強引ではない。そういえば選や句評での祥文さんは、独善的な飛躍にシビアでしたね。僕ってコトバ派のアーティストだから〜と自称しても、独善や陳腐は見抜かれてしまうものです。

台風一過 稚魚の命が透けている
鳥の声 水は力を抜いている

祥文さんはこういう句も書くわけです。二句目などは八上桐子さんの川柳といわれれば信じてしまいそうです。「稚魚の命が透けている」「水は力を抜いている」は理知的な表現ですが、風景を観察したうえでの実感がつよく伝わってきます。理知と実感はけっして対立し合うものでないことが分かる二句です。

無い袖を入れた金庫がここにある
広辞苑よりも分厚い野次が飛ぶ
大きなことを小さな文字で書く人だ
結局は最高裁に叱られる
再会をしてもあなたはパーを出す

いわゆる「伝統川柳」の柳人たちが、もし情熱と誠実さをもって自分たちの表現法を追及していったなら、きっとこのような句を書くに違いない。思わずそんな想像をしてしまった五句です。祥文さんはふらすこてん誌で「番傘この一句」という記事を連載していました。「番傘」誌の中から佳句を引用し、どこがいいのか寸評を加える内容です。また、ふらすこてんの中期以降は「祥ファイル」という記事も掲載し、伝統川柳界に厳しい批評・批判を展開していました(ただしこの記事の初出は「天守閣」)。これらの連載記事を見ても、またその中でたびたび言及される岸本水府への傾倒ぶりを見ても、伝統川柳への熱い思いが伝わってきたものです。

最後に、句集の内容から離れてしまいますが、「祥ファイル」について少し述べておきましょう。祥ファイルで展開される川柳評論は、ほぼ毎号、既成の川柳界や川柳人に厳しい批評・批判がなされていました。誤解のないように言っておきますが、批評・批判(クリティシズム)とは、物事の前提や枠組みや臨界を明らかにした上で、現状の是非を論ずることです。批評・批判は危機(クライシス)を感じたときになされるのですから、祥文さんは既成川柳に危機を感じる数少ない川柳家だったといえるのです。本当はすべての柳人に「祥ファイル」を読んでいただきたかった。

ほとんどの柳誌に前号鑑賞欄があるものだが、そこに書かれていることは日常会話の延長程度のものが多くて韻文としての読みが展開されているものをまず見かけない。「私も似た境遇ですからあなたの気持ちが分かります」だの「親の心子知らずなどと申しますから」などというのは全くの世間話でしかない。しかし私も無い物ねだりをしている。出句されている句自体が散文を五七五に整えたものに過ぎないのだから、句ではないものを句として扱っている今の川柳界は極めて深刻な状況にあると、そんな風に私は見ている。

「ふらすこてん」第25号所収「祥ファイル『難解句ではダメか』」より(初出は「天守閣」777号)

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posted by 飯島章友 at 12:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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