2020年07月09日

広瀬ちえみ『雨曜日』を読む@

句誌「垂人」の編集発行と柳誌「川柳杜人」の編集をされている広瀬ちえみさんの句集が出ました。『雨曜日』(文學の森・2020年)です。セレクション柳人14『広瀬ちえみ集』(邑書林)の発行から15年ぶりだそうです。

その『広瀬ちえみ集』には「『思い』の問題」という散文が収録されています。わたしが川柳を始めたころというのは、広瀬さんを含む「バックストローク」誌の同人が頻繁に「思い」の問題を論じていたものです。

川柳で「思い」を書くばあい、小説と違って作者の感情だけが全面的に出てしまったり、思いを一方的に押し付けたりするから、露骨でもあり重荷にもなる。でもやはり「思い」は大切で捨てがたい。とするならば、どのように「思い」を表現するかが問題となってくる。そこから広瀬さんは、次のように書いています。

 「思い」で書けと言われ納得したかのように川柳を書いてきた。そしていまその「思い」に揺れている。短さを逆手に取った「思い」の表現はできないものだろうか。
 ことばとことばのひびきあい、あるいは反発をとおして、ただならぬ空気が流れ出す、あらぬ「思い」を言ってしまう、ことはできないだろうか。そしてその向こうにある自分の「思い」を越えた何かに(変身したものに、その世界に)あやかりたいと願っており、「思い」との新しい関係を考えている。

『広瀬ちえみ集』から15年を経て「思いとの新しい関係」はどうなっているのでしょう。以下、『雨曜日』から数句引用させていただきます。

 かんぶにもこんぶにもよくいいきかす
 たまたまもまたまたもあり鳥墜ちる

 
どちらの句にも言葉の「ひびきあい」があります。と同時に言葉の「反発」もある。重厚な「かんぶ」とたゆたう「こんぶ」、単発的な「たまたま」と連発的な「またまた」。わたしは2句ともに寓話性、あるいは戯画性を感じますが、それは言葉の響き合いと反発によって「ただならぬ空気」「あらぬ思い」「自分の思いを越えた何か」が生じたからだと思います。少なくとも既成の「思い」の川柳――即興で仮構すれば〈人ひとり去って私を刺す夜風〉のように或るひとつの感情に読み手を誘導するもの――と質が違うのは明らかです。

 カーテンがあいて魔が差すいい日和
 口裏の裏の寸法まちがえる


どちらも〈日が差す〉〈口裏を合わせる〉という慣用語が脱臼させられ、正月にやる福笑いのような面白さにつながっています。あるいはこうも言えるでしょうか。初対面の相手がお辞儀をするかと思いきや、いきなり後ろへブリッジをしたら意表をつかれるでしょう。その意表性と似た可笑しみがあるように思います(もっともそのブリッジが佐山聡のように綺麗な人間橋を描いたら、意表をつかれるどころか感服してしまいますが)。ここでも「ただならぬ空気」「あらぬ思い」「自分の思いを越えた何か」が生じてはいないでしょうか。

 象が来る身元引受人として
 たたきの刑酢じめの刑に遭っており


先に挙げた4句もそうなのですが、『雨曜日』では言葉が正規の用い方から外れることで、「ただならぬ空気」「あらぬ思い」「自分の思いを越えた何か」が生起しています。掲句は、従来の言い方ならば擬人法ということになるでしょうか。擬人法も、人間でないものを人になぞらえるわけですから、言葉の正規の用い方から外れた表現法です。でも、おそらくですが、広瀬さんをはじめとする現代の柳人たちは、擬人法だの何だのと意識するまでもなく、自然にそういう表現をしているのだと思います。これは漫画の描き方と似ているかも知れません。たとえば『ドラえもん』です。ジャイアンのパンチがのび太の顔にめり込んだのにもかかわらず、次のページではもうのび太の怪我が治っていることってありますよね。冷静に考えればそれはおかしいのだけど、漫画家からすればごく自然な描写方法だと思いますし、読み手のわたしたちもそれを自然に受け入れています。現代の柳人もそれと同じなんだと思います。正規の言葉遣いを脱臼させるだの、擬人法だの、あるいはポストモダンだのと意識せず、ごくごく自然に正規の言葉遣いから自由になっているのではないでしょうか。
(つづく)

posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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