2021年03月02日

『てとてと』千春 を読む   竹井紫乙


 二月、千春さんから「『てとてと』の批評文を書いていただけないでしょうか?」というメールが届いた。
『てとてと』には作者の川柳、短歌、詩が掲載されており、この一冊で千春ワールドが堪能できるように構 成されている。この構成は当然作者の希望によってなされたものだろう。基本的にどの表現形式でも作品 のトーンは一貫していてムラが無い。だから読みやすいし読者は安定した心持ちで最後まで読み進めること ができる。ということは裏返せば川柳だけの、あるいは短歌だけの構成にしても良かったのではないだろう か、ということも考えられる。表現形式が様々に構成されていることを否定するものではない。単純にいず れの表現形式においても書かれていることの内容が具体的に同じであるから、読み終えた時に全体の構成 に対する疑問がわいた。これについては「あとがき」にも作者本人が<川柳、短歌、詩が私にとってなんであ るのか、答えは、これからゆっくり感じていきたいと思います。>と書いている通りで、形式の使い分けにつ いては作者が自然な流れで行っていることであって、意識的な行為ではないらしいことが窺える。興味深い 点は答えを出してみたいとか、考えてみたい、ではなく<感じていきたい>と書いていること。このスタンスが 千春さんの、ものを書く姿勢そのものなのではないかと思われる。
 川柳の長い歴史の中に作家性の欠如という事実があり、それは川柳の器の大きさでもあるから、悪い面ば かりではない。その器に誰でも入れるという利点がある。長く川柳を書いている先輩方の中には句集を出す 必要はない、という考えの方が多い。自費出版にはお金がかかり、ほとんどの場合、売り物ではなく配りもの としての扱いになる、という以外にそもそも残す必要がない、という考えが根強くある。私は句集を三冊作 っているけれど、この「残さなくていい」という考えは理解できる。人として生きて、生活していくうちに身の 内から溢れてこぼれ落ちてしまうものを表現したい気持ちはあっても、わざわざ形作って残すことはない。そ れは句を書く行為とはまた別のことだから。ということなのだろう。この考え方はさほどおかしなものだとは 思えない。川柳の器は大きいから。
 千春さんは自分の作品集を作りたいと思った。私と違い、千春さんの場合はジャンルの問題は、問題では なかった。そのことは『てとてと』を読めばわかる。とにかく本を作りたかったのだ、という情熱が伝わってく るけれど、どの表現形式をどのように選択し、なにを表現しているかという問題は、千春さんが「書くことが 好きで、本にまとめてみたかった人」から「作家」になる段階で厳しく問われてくる問題であると思う。時折、 「川柳とはなにか」、或いは「現代川柳とはなにか」という話題を目にするけれど、それは同時に「どうして川 柳という形式を選んだのか」ということを書き手が外部から問われることを意味する、ということでもある。 千春さんはどのように答えるだろうか。
 最後に『てとてと』から川柳を二句。
  
  「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ

 とても平和な世界観だ。社会を構成する最も小さな単位は二名で、血縁関係の無い者同士で生活を営ん でゆくこと。これまでの家の中のルールも習慣も違う人間が二人。お互いの価値観を尊重することができな ければ心穏やかに暮らせない。お互いの体の扱いには注意が必要で、肉体関係はひとつ間違えると暴力に 変化する。その繊細さを見事に川柳に仕上げている。

  夏休み永遠が待つ鳥のふん

 鳥の糞には植物の種が混じっている。あちらこちらに種を運ぶから、鳥の糞は植物にとっては子孫を残す 為の大切なツールだ。そこには永遠があり、未来がある。長い長い夏休みのようなゆるい明るさがある。句の 書き方はまるで子供の作文のようなあどけない趣を持っていて、そこがまた「永遠」に響いている。
posted by 川合大祐 at 07:31| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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