2021年10月24日

所謂現代川柳を考える/飯島章友

◆はじめに
『はじめまして現代川柳』(小池正博 編著、書肆侃侃房、2020年)が発行されて以降、それまでにまして「現代川柳」という言葉が使われるようになった気がします。でも現代川柳って何? ただの川柳とどう違うの? という問いを持つ方もいらっしゃると思います。わたしも長年その言葉が気になっていました。そこで今回、2年前、『川柳杜人』に寄稿した飯島章友の「所謂現代川柳を考える」をアップすることにします。ネット上で読むと「何コイツ? 偉そう」と自分でも感じちゃいます。でも、専門誌に載せる小論ってのはこういうもんなんです。こりゃもう、どうしようもないんですよ! なので、そのへんの事情を斟酌してお読みくださいませ。

──ここより本文──

一、現代川柳の現代とは何か
 私は2009(平成21)年から川柳を作りはじめた。同じ年だと思うが、現在の川柳がどんな表現をしているのかを知りたくて、川柳アンソロジーを数冊購入した。その中でも特に読み込み、現在も活用しつづけているのは、『現代川柳鑑賞事典』(田口麦彦 編著/三省堂/2004年)と『現代川柳の精鋭たち 28人集─21世紀へ』(樋口由紀子・大井恒行 編集協力/北宋社/2000年)だ。
 ところで、当時この二冊を読んでみて、あれ? と思うことがあった。というのも、前者には250名の作家が収録されているものの、表現のレベルにばらつきがあり、短歌であれば、新聞歌壇や商業誌の読者投稿欄に載っているような事実報告調の作品も散見されたからだ。おそらく同書における現代川柳とは、今日書かれている川柳全般、という意味合いだろう。それに対して後者に収録されていた川柳は、これまでの私が見たことのない表現も多数あり、得体の知れない不気味さと妖しい魅力を兼ね備えていた。同書における現代川柳には、何か特別なニュアンスが込められているように思えた。
 私は川柳をはじめる前から短歌を書いていたのだが、歌壇でも「現代短歌」なる言葉を目にする。しかしそれはほぼ、今日書かれている短歌全般、という意味合いでしかない。短歌と川柳とでは、「現代」へ込めるニュアンスに振り幅の違いがあるようだ。私が興味あるのは、『現代川柳の精鋭たち』のような作品を指す所謂「現代川柳」である。それは、今日書かれている川柳全般、という以上にどんな意味合いをもっているのだろうか。
 『現代川柳の精鋭たち』で解説を担当している俳人の堀本吟が次のように書いている。

 さて、いかがであろうか? 日常や私性の切り口が、ただこれだけのメンバーにあっても、それぞれじつに陰影の濃淡。喩の導入、喩の排除。私性への執着、私性の解体の気配。真面目さの徹底、滑稽の強調。社会への批評眼、無作為の作為。こういう模索の過程全体を「現代川柳の現在」、と呼ぶべきだ。

 確かに同書に参加している柳人──杜人の加藤久子、佐藤みさ子、広瀬ちえみも含む28名──の方法論を見ると、「模索の過程」を感じさせる。要するに、一般世間がイメージする川柳に比べ言語操作にウェートが置かれており、まるでかつての前衛短歌やニューウェーブ短歌にも似た前進性と熱量の高さを感じさせる。
 そういえば、「現代的」「近代的」という意味の英語はModernだが、これは単なる時代区分を超えた特別な観念がまとわり付いている。西部邁著『昔、言葉は思想であった──語源からみた現代』(時事通信出版局/2009年)で「モダン」のパートを参照してみよう。

 モダンは「モード」(流行の様式、mode)に、さらには「モデル」(模範の形式、model)ということを意味しております。他方、近代というのは「最近の時代」ということにすぎないのです。もちろん、いつの時代にも「流行の模型」というのがありますので、モードにもモデルにも、それをことさらに取り上げるについては、「最新の」ものであるという意味が伏在してはおります。しかし、それらの言葉の主たる意味はあくまで「形式」といったほうにあるのです。忘れてならないのは、「最新流行の模型様式」を重んじること、それがモダンだということです。
 なぜそれが「重んじられる」のでしょうか。そこには、もちろん、最新様式が「良いものである」という「ドグマ」(独断、dogma)があります。「新しいのは良いことだ」というのは文字通りのドグマです。というのも、ドグマとは、元々は、「良いように思われること」ということだからです。換言すると、モダンという言葉それ自体に進歩主義の意味合が込められていることになります。

 モダン、つまり近代や現代には「進歩主義の意味合が込められ」るのだ。これは「現代アート」や「現代思想」を想起すればじつに分かりやすい。してみると、現代川柳という言葉にも、現代に書かれている進歩的な川柳、といった意味合いが込められてくるのではないか。もっとも、いまどき進歩的というと逆に陳腐だったり、戦後の進歩的文化人のドグマを想起したりする向きもあるだろう。なので、ここでは現代川柳をひとまず、「現代に書かれている前進的な川柳」と定義しておこう。

二、現代川柳に込められたそもそもの意味合い
 1962(昭和37)年に刊行された河野春三著『現代川柳への理解』(天馬発行所)では、「現代川柳」という呼称が使われるようになった経緯が次のように述べられている。

 現代川柳という名で呼ばれる私達の川柳の歴史はさほど古いものではない。意識的に現代川柳≠ニいう名を標榜する雑誌が表われたのは昭和三十年以後のことで、それまでは、たとえそういう名が用いられていたとしても、それは伝統川柳に対して、はっきりと革新性・前衛性を示すためにつけられたものとはいい難い。
 昭和三十一年に創刊された天馬≠フ第2号の座談会でこのことに触れているが、その呼称を意識的に進歩的な川柳の普遍的なものとすることを提唱したのはその時であり、のちに現代川柳作家連盟が生まれるに及んで、この呼び名は一般に普及すると共に、その意義が伝統川柳と一線を引くところに見出されるようになつたといえよう。

 ここで現代川柳に込められた意味合いとしてポイントになるのは、「伝統川柳に対して、はっきりと革新性・前衛性を示す」「その(現代川柳の)呼称を意識的に進歩的な川柳の普遍的なものとする」「その(現代川柳の)意義が伝統川柳と一線を引くところに見出される」といったところだろう(上記のかっこ内は筆者)。これらをまとめて簡潔にいうと、「伝統川柳と一線を引いた進歩的な川柳」となるだろうから、河野春三も西部邁と同様、現代に「進歩主義」のニュアンスを込めているようだ。
 伝統川柳と一線を引く。なるほど。ただ私自身は、所謂伝統川柳が本当に伝統的かどうかに疑念を抱いている。というのも、江戸時代全般の川柳を見てみると、音の響き、省略、文句取り(本歌取り)、縁語・掛詞、句跨り、見立てなどにおいて、近現代の伝統川柳が否定してきた技術がたくさん見出されるからだ(「川柳スープレックス」内の「喫茶江戸川柳」を参照)。これには、イヤ伝統というのは三要素からなる初代川柳点の伝統だ、という弁明があるかもしれない。それなら分からないでもない。しかし、もしそうであれば、川柳二百ウン十年といわれる歴史は成り立たない。初代川柳時代を偏重するとき、川柳とその後の狂句を別分野と見るのが一般的だからである。してみると伝統川柳とは、せいぜい阪井久良伎からの伝統となる。したがって、明治にはじまった時事川柳や私性川柳、そして遅くとも大正末期にはじまった詩性川柳と比べてみても、歴史の長さはさほど変わらないのではないだろうか。
 ついでにいえば、伝統とは、過去から運ばれ来った成果を現在において(慎重に漸進的に)更新し、その成果を未来へつなげていく歴史的継続性である。だから初代川柳点や六大家のスタイルを変えないように受け継ぎたいばあい、伝統というよりも伝習といったほうがいいのではないか。
 話を戻そう。現代川柳に込められていたそもそもの意味合いが分かったところで、次に現代川柳の立場を春三がどう定義したかも、『現代川柳への理解』から引いておこう。

一、現代人としての意識に目覚め、現代人の手で、現代人の感覚によつて川柳を作つて行くこと。
一、川柳を非詩の立場でなく、短詩ジャンルの一分野として確立して行くこと。
一、根底に批判精神をもつこと。
一、内容の自由性を要求すること。
一、日記川柳・報告川柳・綴り方川柳の名で呼ばれるトリヴイアリズムを排撃すること。
一、必ずしも5・7・5の一定のリズムでなしに、自分の内部要求に即応した短詩のリズムを見出してゆくこと。
一、作句の上にイメージを尊重すること。
要するに、一番重要なことは現代人としての意識、感覚による現代川柳でなければ意義がないということである。

 抽象的な条件が並んでいるが、『現代川柳への理解』には、これらをより掘り下げた春三の主張が書かれている。が、いまここでは、現代川柳の立場を春三がどう考えていたか、その雰囲気だけでも伝われば十分だと思う。
 引用の最後の部分からも分かるように、どうやら最初の「一、現代人としての意識に目覚め、現代人の手で、現代人の感覚によつて川柳を作つて行くこと」が、現代川柳にとっていちばん大事なことのようだ。
 河野春三の考える現代川柳観を要約すればこうなるだろうか。現代川柳とは、「伝統川柳と一線を引き、現代人としての意識や感覚をもって作る進歩的な川柳」。
 いま「現代川柳」の冠をつけた柳誌は、時実新子系の『現代川柳』(渡辺美輪)、『現代川柳かもめ舎』(川瀬晶子)、片柳哲郎の創刊した「現代川柳 新思潮」が改題された『現代川柳 琳琅』(杉山夕祈)があり、また最近まであった柳誌としては『現代川柳 隗』(山崎蒼平)、『現代川柳点鐘』(墨作二郎)がある。時実新子、片柳哲郎、山崎蒼平、墨作二郎はいずれも、河野春三や中村冨二の時代に現代川柳の真っただ中で活動した。そんな柳人たちや教え子たちが、ただの川柳ではなく「現代川柳」と名乗るからには、春三の現代川柳観と通底するものを何ほどか込めているのかもしれない。

三、現代川柳という言葉を使う理由
 私自身は、川柳を語るとき通常、「川柳は〜」と言っている。川柳は川柳であって、短歌でも俳句でも連句でも都々逸でも五行歌でもないから当然だ。しかし、まれに「現代川柳は〜」ということもある。現代川柳と呼ぶ代わりに「言葉派の川柳」だの「詩性川柳」だのということもある。
 私に限らず、ある程度キャリアを積んだ柳人であれば、便宜的に現代川柳・伝統川柳などと区分けすることがあるのではなかろうか。2019(令和元)年5月5日に行われた「川柳スパイラル」東京句会で、選者をした津田暹が披講の際、すこし伝統寄りですが、といったことを前置きしていた。ご本人に訊ねたわけではないのだが、スパイラル誌の作風を現代川柳的と見なしたからかもしれない。
 では、なぜ私は、意識的にせよ無意識的にせよ、「現代川柳」などと呼ぶことがあるのか。
 ひとつめ、これは河野春三と被るかもしれない。一般に現在の伝統川柳は、世間に流布している平均的な価値観で作句されることが多く、ネタバレした推理小説を読むのに似た印象をもつ。そのため、ネタバレ川柳と創作としての川柳──新味があり、前進的で、表現の模索を感じる川柳──とを区別する意図で「現代川柳」と呼ぶことがあるのだ。あるいはこうもいえる。内容が現実的だろうが非現実的だろうが、文体が平明だろうが非平明だろうが、平板な内容から半歩でも抜け出た川柳が標準になってほしい、という願いを込め、敢えて「現代川柳」と呼ぶことがある。このばあい、川柳を短歌・俳句と同等に考えているからこそ、歌人・俳人レベルで標準を設定しているわけだ。
 なお先ほど、ことさら「現在の伝統川柳」と限定したのは、昔の伝統系柳人の作品は面白いからである。川上三太郎、岸本水府、麻生路郎、大山竹二、岩井三窓、橘高薫風などの川柳には好きな句が多い。
 ふたつめ、これは河野春三ら昭和の現代川柳家からの慣習だと思うが、現在でも前進的な川柳を「現代川柳」と呼ぶことが多く、そのため使い勝手がいいのである。たとえばだ。Twitterに投稿されているツイート(つぶやき)を検索できるサービスが幾つかあって、試みにそこで「現代川柳」を検索してみる。すると、川柳スパイラルとか時実新子系の作風を指して「現代川柳」といっている人たちがいる。しかも、川柳界の外部の人までがそうだ。これは現代川柳という言葉を使うことで、春三がいうところの日記川柳・報告川柳を対象外にし、前進的な川柳や私性の川柳を指示しようとしているのではないだろうか。どうも雰囲気からするとそうである。
 現代川柳という言葉は、今日書かれている川柳全般、という意味で使われるのが第一義に違いない。が、けっしてそれだけでもない。河野春三の現代川柳観は、時代の変化で濃度こそ変わっているものの、現在でも有効だと思う。

四、現代川柳はいつまでつづく
 昭和30年以降、現代川柳という言葉が使われつづける理由は、ここまで見てきたように、川柳界独特の事情があるようだ。つまり既成川柳の多くが、世間に流布している平均的な価値観や平板な表現で書かれてしまっているため、それに飽き足らぬ柳人が「現代川柳」というのだ。
 いっぽう、現在の歌壇で、前進的な意味での「現代短歌」という使われ方がほとんどないのは、あまりその必要性がないからだと思われる。たとえば、私はこれまで短歌の入門書を五、六冊読んできた。それらに共通するのは、(表現こそ違うが)通俗から抜け出しなさい、というアドバイスだった。穂村弘著『短歌という爆弾─今すぐ歌人になりたいあなたのために─』(小学館/2000年)も同様だ。要約してみよう。
 穂村によると、専門歌人の短歌には「共感」と「驚異」という、読み手を感動させる二つの要素がある。共感は、初心者がまず目指すべきところなのだが、いかんせん彼らの表現には驚異がない。その結果、目指していた共感性からも遠のいてしまうというのだ。また穂村は、驚異がない歌を「コップのように上から下までズンドウの円筒形」だと喩え、驚異のある歌は「砂時計のようにクビレをもったかたち」だと喩える。具体的には次のとおり。

 ふるさとの訛なつかし
 停車場の人ごみの中に
 そを聴きにゆく  石川啄木

 この場合は、「そを聴きにゆく」という読者の意表をつく能動性が、クビレとして機能して、この一首を支えている。ここからクビレを奪った次のかたちと比較してみよう。

 停車場の人ごみの中に
 ふと聴きし
 わがふるさとの訛なつかし 改作例

 光景としてはこちらの方が普通なのだが、原作の切迫感が消えて、なつかしさの度合いがずっと弱くなっていることに気づくだろう。
(筆者註:引用歌のルビは省いた)

 現在の川柳に、クビレを奪った後者の歌と同レベルの作品がないと言い切れるだろうか。当然、私の川柳も含めて。
 できるなら「現代川柳」なる言葉は、今日書かれている川柳全般、という意味だけで使われるようになってほしい。だからこそ、これからも真剣に川柳で遊んでいくつもりだ。

※初出『川柳杜人』2019年夏・262号。なお数字の表記や当時と異なる結社名など、多少の加筆修正をしました。
posted by 飯島章友 at 16:31| Comment(0) | 柳論アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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