2022年01月05日

川柳雑誌「風」 123号

川柳雑誌「風」 123号
編集・発行:佐藤美文
年四回発行(1・4・7・10月)

1月2日、「笑点をつくった男 立川談志」というドラマを観ました。談志役は、笑福亭鶴瓶の息子の駿河太郎。ドラマタイトルのとおり、寄席の余興だった「大喜利」をテレビでやってみてはどうか、と企画したのは立川談志だったんですね。

最初は「金曜夜席」という番組名で昭和40年に始まりました。それが好評だったので昭和41年に日曜日の夕方へ移行。番組名も「笑点」となりました。司会はもちろん立川談志。老若男女がまんべんなく観て、まんべんなく笑うことができる演芸番組。笑点はすぐに人気番組へと成長し、プロデューサーも小躍りして悦ぶほどでした。

けれども、企画者の立川談志はというと……なにやら釈然としない面持ちです。「何百万人もの人間がよ、おんなじ方向を見て、おんなじ顔して、おんなじ時間におんなじように笑ってんだ。気持ちわりいや」とこんなぐあいです。そこで談志はなんと! 新機軸としてブラックジョークでやっていこうと提案してきたのです。

本番で談志は、こんなお題を出してきます。
「死刑囚にむかって一言!」
舞台に嫌な緊張がはしる。そんななかを恐るおそる桂歌丸が手を挙げます。「え、えーと、死刑囚にむかって一言。ミディアムにしますか? レアにしますか?」
あっはははは! ミディアムなら半殺し、レアなら生殺しか、と爆笑する談志。が、他のメンバーは一様に浮かぬ顔なのでありました。

まあ、そんなことが続いていったので、笑点メンバーたちは談志のもとを去ってしまうんですね。番組の人気もだだ下がり。やがて、笑点をつくった談志本人が番組を降板する事態となります。ドラマではそんなふうに描かれていました。

誰もが安心して笑うことができる笑点の大喜利。でも、わたしは、談志の主張もわかるのです。もしもですよ、世の川柳がみな、共感要素だけで作られたらどうでしょうか? 高速道路では、まっすぐな道の区間ほど、単調さゆえに眠気を引き起こして危険だと聞きます。適度にカーブがあったほうがいいんですね。川柳や短歌にも同じことが言えないでしょうか?

レンコンの穴へ紛れた盗聴器  小高啓司
真実と嘘の隙間に渡し舟  竹尾佳代子
拉致領土課題山積岸田丸  桜井勝彦
胎内で嘘をたんまり聞かされる  伊藤三十六
半濁音で終える人生  〃
アッパーカットしたい満月  林マサ子
かもしれないと歌う予報士  岩田多佳子
追い越されても慌てない影  佐藤美文
図書館はつねに薄暮であるところ  飯島章友
霜柱奏でつつ来る寒気団  〃
責任者出て来い俺の人生の  〃
UFO撮るに邪魔な星々  〃
残ったパセリだけど古里  〃
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2021年12月05日

作家群像 柳本々々篇

「川柳木馬」第170号
発行人:清水かおり
編集室:山下和代

「川柳木馬」の第170号が発行されました。まずは会員作品から。

紫陽花をひねれば水が出る遊び  小野善江
コロナ振り向く「こんな顔ではなかったかい?」  同
家出するには古本が多すぎる  古谷恭一
袋とじみたいに開ける顔半分  萩原良子
筋金入りのアンドロイドの欠伸  田久保亜蘭
諸肌は質屋に置いたままですが  桑名知華子


小野善江さんと言えば〈たばこ屋の煙になったおばあさん〉〈世界から閉じ込められるカードキー〉〈エコマーク我らやさしく滅びゆく〉など好きな句がいろいろとあるのですが、今号の〈コロナ振り向く「こんな顔ではなかったかい?」〉は、わたしの中で小野善江さんの代表作となりました。

  ◆ ◆ ◆

さて、今回の「川柳木馬」第170号は、木馬誌がずっと続けている「作家群像」の掲載号です。これは作家のプロフィール、作者のことば、自選60句からなる特集。今回取り上げられている柳人は柳本々々さん。その柳本さんの川柳について、「卑弥呼の里川柳会」の真島久美子さんと「川柳スパイラル」の川合大祐さんが評を書いています。真島さんは森山文切著『せつえい』(毎週web句会、2020年)で序文を書かれていた方ですね。憶えています。柳本さんを評する方としては意外性があり、素敵なマッチメイクだと思います。

真島さんと川合さんの評は木馬誌で読んでいただくとして、ここでは以下、わたしが柳本さんの自選句を読んで思ったこと、考えたことをちょっと述べてみたいと思います。

ちがった星の、ちがうひこうき、ちがうさばく

地球と違う星であるのならば、それが一見「ひこうき」や「さばく」であったとしても、地球のそれとは異なった意味が与えられている可能性があります。なぜなら違う星では、地球とは違う歴史と文脈で世界が成り立っているからです。これはたとえば、現代アートが男性用便器を従来の小用の文脈から引き離し、美術の文脈に持ち込むようなことと通底するかも知れません。掲句のように柳本川柳には、わたしたちにとって「歴史的文脈」とは何かを考えるきっかけとなる句が散見されます。歴史的文脈は、現代思想ならば制度とかシステムなんて表現される場合もあるでしょうが、それらはわたしの感覚にはあまり馴染まないので、ここでは歴史的文脈と呼ぶことにします。グローバルスタンダードでさまざまな区別や領域が取り払われている時代。でもグローバリズムが既成事実化されればされるほど、ひとびとは自分の存在の成り立ち(歴史的文脈)が何であったかを考えるようにもなりました。文芸作品の背景には時代性があります。一見無関係に思える内容であってもです。

どこにいたって寿司なんだから

寿司は日本人にとって馴染みの食べ物です。それを見ればすぐに寿司だと判別もできます。なぜならば、日本人は日本文化の文脈の中で過ごしているからです。でも、寿司を知らない外国人からすると、ライスの上に何かの切り身がのった食べ物らしきもの、といった感じかも知れない。それはその外国人が日本文化の文脈の中で過ごしていないからです。掲句にも歴史的文脈を考える内容が見出せます。

100パーセントユニコーンで出来たユニコーン

ユニコーンは一角獣のことで想像上の生き物。掲句は、100%の非現実で出来たリアル非現実、と言い換えることができると思うんです。だからこの句の背景には、生の手触りとか実感をバーチャルで代替する時代性がある、とも考えられます。先ほどグローバリズムの時代にあって、ひとびとは歴史的文脈(自分の成り立ち)を考えるようになった、と言いましたが、そのことと一脈相通じているはずです。

桜桃忌おんなじ服のひとと会う
「ねむけっていいね」「いいよね」雨と雨
なんでもないひだな なんでもないひだね 星


柳本さんの川柳に感じるのは、登場人物たちがコミュニケーションをしているようでしていない、ということです。桜桃忌の句は、「おんなじ服のひとと会」ったにもかかわらず、そこから何か太宰治の話で盛り上がるような気配はありません。ねむけの句も、なんでもないひの句も、一応会話はしているものの、発語への同意があるのみで双方向性を感じません。会話に葛藤が見受けられず、ディスコミュニケーションも同然と言えるのではないでしょうか。しかも、下五の「雨と雨」という相似形および「星」という隔たりとで、ディスコミュニケーションが補強されている感すらあります。

生の手触りとか実感がバーチャルで代替される世界。会話に葛藤のないディスコミュニケーションの世界。とても無機的な世界です。でも、これらは既にわたしたちの世界で起こっていることです。柳本さんは表現上、それにたいする批評は明示していません。まるで、ただただ写実・写生に徹しているかのように。それでもひとつ感じることはあります。ねむけの句にしても、なんでもないひの句にしても、言葉遣いに子供っぽさがありますよね。そこにこそ、無機的な世界に生きるしかない現代人の「哀しみ」が感じられないでしょうか。そう、意外にも柳本川柳は抒情詩としての側面があるとわたしは思うのです。

作家的には、上に挙げたような時代性や世界のあり方を認識したところで、さあそこからどう生きていくのか、という実存的テーマが残されています。

「終わり?」「うん」そしてマヨネーズ

無機的な世界、言わば世界の終わりの後にかける「マヨネーズ」。このマヨネーズのぐちゃぐちゃ感――映画『家族ゲーム』(森田芳光監督、1983年)でも崩壊した家族の食卓をぐちゃぐちゃにするのにマヨネーズが効果的に用いられていました――を経て、全く新しい世界を設計していくのか、それとも歴史的・有機的な文脈を再帰的に意識していくのか。今後、柳本さんがどんな川柳を書いていくか、引きつづき見守っていきたいです。本当は1万字以上でも書けそうなんですが、ネットの記事ですからこのあたりで終わりにします。
posted by 飯島章友 at 23:05| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月11日

「What’s」Vol.1

「What’s」Vol.1
編集発行人:広瀬ちえみ
年二回発行

10月28日に「What’s」Vol.1が発行されました。創刊号参加者は広瀬ちえみ・水本石華・竹井紫乙・月波与生・佐藤みさ子・川村研治・妹尾凜・鈴木節子・中内火星・鈴木せつ子・浮千草・野間幸恵・鈴木逸志・加藤久子・兵頭全郎・高橋かづきの各氏。

こうしてみると杜人の同人・会員だった方が多いように思います。でも、だからと言って杜人の後継誌と見る必要もないのでしょう。なにせ俳人の方々も参加していますし、杜人色のない柳人も参加しているのですから。

また招待作家として樋口由紀子さんの作品が掲載されています。今後も毎回、短詩型のゲストが登場してくるのでしょうか。

押入れは言いたいことを言うべきだ  樋口由紀子

全体を読んで、今回わたしが最も楽しんだのは加藤久子さんの作品群でした。

体のなかの音組み立ててから起きる  加藤久子
空には穴現場からは以上です
向日葵の首を並べてヘヴィメタル
俎をたてかけておく無人島


杜人のころから、人びとが見過ごしかねない物事を軽やかな文体で描いてきた加藤さん。誌を新たにしてますます感覚が冴えわたっているようです。以下も気に入った作品。

雨音を聴くノアの鼻唄  水本石華
パントマイム映す今朝の水たまり  月波与生
サル目ヒト科マスク属  佐藤みさ子
プリンターに白紙百枚涼新た  川村研治
黒へ黒へと追いつめられてゆく緑  鈴木節子
蝿止まるくれぐれも文芸である  野間幸恵
バックしますご注意くださいって泣くな  兵頭全郎
記のとおり武器はひとりにひとつです  広瀬ちえみ


「What’s」創刊号では柳論も三本収録されています。俳人の叶裕さんによる「瑞々しい終幕 『杜U 杜人同人合同句集』を読む」、月波与生さんの「『そら耳のつづきを』を読んで」、広瀬ちえみさんの「『々々くん』って後ろから肩をたたいたら―柳本々々は何を語り、何を書いてきたのか―」です。また引用句のイメージから掌編を書いた兵頭全郎さんの「はれときどき妄読」もあります。ここ数年、全郎さんがいろいろな場で試みている創作的な評ですね。

編集後記で広瀬ちえみさんがこんなことを書いています。

 「ミステリー列車」に乗って、行き先不明の旅に出るという企画がブームになったことがあります。いうならば「What’s」も「ミステリー列車」。編集人はできるだけアバウトでいることにしてみんな好きにやってよ≠ニ思っています。

俳人と柳人が同じミステリー列車に乗る。行き先は分からない。と言うよりも決まっていない。だからたとえば、五七五という共有の形式をたよりに俳句と川柳を「総合化」した文芸が同誌を契機に起こることだってあり得る。それがどんな発想や内容の詩文芸なのかは分からないけど。

話は飛びますが、総合化と言えば格闘技です。いまでこそ「総合格闘技」という競技ははっきりと認知されています。でも昭和のころは、組技系と打撃系の技術を総合化するなんて夢の境地だったんです。ところが1993年11月12日、デンバーで「アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ」(UFC)が開かれたことで状況は一変しました。なぜならこの大会は、打っても投げても締めても極めてもかまわない衝撃的なルールで行われたからです。

それまでは、柔道・空手・合気道・相撲・中国拳法・レスリング・ボクシング・キックボクシング・プロレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)など、各格闘技は自立していました。格闘技を総合化する動きはブラジルのバーリ・トゥードという試合形式や、佐山聡(初代タイガーマスク)が創始したシューティングという新興格闘技がありましたが、それらは局地的だったり発展途上だったりしました。それが、第1回UFCが開かれた直後から総合格闘技はまたたく間に世界中に広まっていき、日本でも大ブームとなったのです。

それならば同じように、俳句と川柳の総合化が短詩型作家たちによってなされても不思議ではないし、その可能性を秘めた試みはこれまでも行われてきたのだと思います。大阪の「北の句会」は柳俳混合の会だと聞いたことがあります。同人誌だと小池正博さんと野口裕さんの『五七五定型』(終刊)、中西ひろ美さんと広瀬ちえみさんの『垂人』、それと野間幸恵さんの『Picnic』もそうですね。自分自身が体験したことだと、週刊俳句の「柳俳合同誌上句会」や、2014年に飯島章友がかばんの会で開いた「歌人・俳人・柳人合同句歌会」などがあります。

わたし自身は「領域」を大切に思う人間です。領域があるからこそ自由があると考える人間です。でも、各領域が交流をしていく中でおのずから新興領域が生まれたなら、それにはとても興味をいだくと思います。総合格闘技も、初期のころは「異種格闘技戦」の側面が強く、組技系が有利になったり打撃系が有利になったりと、必勝法がいまいち定まらない競技でした。しかし、試行錯誤のすえ近年は技術体系がほぼ確立。数ある格闘競技の「一分野」として自立しています。

五七五も柳俳の異種間交流や句会での異種間競合、あるいは同人誌での雑居が増えてきた昨今です。総合的な五七五文芸が一分野として確立することがないとは言い切れません。もちろん、それはあくまでも可能性の一つ。ミステリー列車の「What’s」は行き先が不明であって、さまざまな方向に路線が開かれているのだと思います。

なお「What’s」の入手方法についてですが、わたしには分かりません。非売品かも知れません。これまでにお名前を挙げた方々のメールやTwitter、あるいはブログをご存じでしたらそちらでお尋ねください。
posted by 飯島章友 at 07:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月05日

「Picnic」No.3 A

広瀬さんの「貼り紙は『しばらくドアを休みます』」は、どうしても今の時期が思い起こされます。去年から緊急事態宣言が繰り返し出され、飲食店の入口に「しばらく休業」のお知らせが貼られているのをよく見かけます。でも掲句では、店ではなくドアを休むのだという。え、ドアって職業だっけ? 一瞬本気で確認する自分がいるのです。まず上五に「貼り紙は」を置き、あたかも店の休業っぽさを醸し出しているところが作者の腕と言えるでしょうか。

野間さんの「裏漉しの続きをキルケゴールする」のばあい、キルケゴールがどのような人物かを調べたところで句意は取れないと思います。いやむしろ下手に知識があると、読みが無限のこじつけゲームになってしまうのではないでしょうか。だからと言って、キルケゴールが無意味なことをもって価値があると見なすこともできません。それでいいのだったら、川柳の自動生成装置が無作為に作句したものでもいいことになってしまうでしょう。この句は、裏漉しの続き→キルケゴールする、という表現によって読み手の感情に波紋を起こせるかどうかの冒険を行っているんだと思います。あくまで野間幸恵という一人称を保持したまんまでね。

 ◆ ◆ ◆

「Picnic」3号における野間幸恵さんの巻頭言は、「5・7・5を企む『Picnic』」と題されています。前半を引用してみます。

俳句を書きだして、かなり早い時期から言葉で景色を書くのではなく、言葉の景色を書くという意識になっていきました。それは言葉の関係だけに集中すると、575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという、嘘のような偶然の積み重ねによります。

別のところで広瀬ちえみさんや樋口由紀子さんもこれと同じようなことを書いていました。言葉の関係しだいで「575から異質な世界が現れる」「言葉が全く違う表情になる」というのは、わたしも作句や読みの過程でたびたび経験してきました。そのたびに思い出す思想家がいます。イギリスのマイケル・オークショットです。ここで少しオークショットの思想について簡単に触れてみましょう。

オークショットという人は、「知識」の種類をふたつに分類しました。ひとつは「技術知」、もうひとつは「実践知」です。技術知というのは、定式化して教えることができる知識のことを言います。たとえば川柳で言えば、入門書や通信コースで教えられる知識がこれにあたるでしょうか。

それに対して実践知というのは、文字どおり実践的な行為・行動・伝統・慣習などをつうじ、無自覚に体得していく知識のことです。なので、こちらは定式化ができず教えられません。暗黙的な知識です。実践知は川柳活動においてとても大切です。何回も何回も入門書を読んだ人が句会で特選をとったり、一句鑑賞に取り上げられる川柳を作れたりするかと言ったら、必ずしもそうではないでしょう。ようするに創作においては、技術知だけでなく実践知も必要になってくるのです。

この実践知(実践的知識)という領域は、スポーツ選手、プロの料理人、寄席芸人、また誤解をおそれずに言えば医者など、技芸をつきつめる世界に生きる人ならば、痛いほどよく分かるのではないかと思います。オークショットは、そんな実践的知識(および自由主義社会)のモデルとして「会話」を想定していました。わたしは、前掲の野間さんの巻頭言を見て、オークショットが述べる会話論を想い浮かべたのです。会話と短詩は、じつは似ているのではないか。以下、オークショットの会話論を引用しつつ、それを「現代川柳の読み」と重ね合わせてみたいと思います。( )内は飯島が付けました。

適切に言うなら、話言葉(句意)の多様性がなければ会話(現代川柳の読み)は不可能である。即ち、その中で、多くの異なった言葉(句意)の世界が出会い、互いに互いを認めあい、相互に同化されることを要求もされず、予測もされないような、ねじれの関係を享受することになる。

マイケル・オークショット著『政治における合理主義』(勁草書房)所収、「人類の会話における詩の言葉」(田島正樹訳)

会話が弾むためには、ある一つの観点(たとえばイデオロギーなど)から一つの結論にいたるようなことはなるべく避け、いろいろな文脈が交わっていたほうがいい。同じことが現代川柳の読みにも言えるのではないでしょうか。そもそも現代川柳は、言葉が欠落しているため文として不完全だったり、一見無関係な言葉と言葉が五七五の中で出合っていたりするわけですから、ある一つの句意に収めることは不可能です。ですから現代川柳の読みでは、人それぞれの読み方が交わり、相互に同化されないことが大切だとわたしは思うのです。

でも、一つの句意に収まらない川柳など無意義ではないか。そう思う人は少なくないと思います。確かに時事川柳などは、社会の役に立つために明確な意味を書くジャンルかも知れません。でもわたしは、時事川柳とて必ずしも句意が一つに収まるとは思いません。たとえば宮内可静の「老人は死んでください国のため」はどうでしょう? ここで再びオークショットを引用してみます。同じく( )内は飯島です。

会話(現代川柳の読み)においては、参加者達は、研究や論争にかかわるのではない。そこには、発見されるべき「真理」も、証明されるべき命題や、めざされるいかなる結論もない。
(中略)
また、会話(現代川柳の読み)の中で語る言語(読みの観点)は序列を型づくりはしない。会話(現代川柳の読み)は決して、外的な利益を産み出すべくくふうされた企てでもないし、賞をめぐって勝ち負けを争う競技でもなく、また、経典の講釈でもない。それは、臨機応変の知的冒険なのだ。
同上

臨機応変の知的冒険! 現代川柳の読みを表す言葉としてこれ以上のものはないかも知れません。たとえば俳句や短歌、既成川柳、時事川柳には入門書がありますが、現代川柳(ここでは木村半文銭―中村冨二―石部明といった系譜)の入門書はほとんどありません。それは、現代川柳がとことん「実践知」の文芸だからではないでしょうか。

現代川柳は定式がない文芸なので、正直言ってわたしのようなごく普通の人は、どう書いたらいいかが分からず、どう読んだらいいかも分からず、苦しむことが多いんです。でも、それと同時に、自作を推敲したり他者の作品を味わったりするとき、定式がないその分だけ臨機応変の知的冒険を楽しんでもいるのですよ。

この臨機応変の知的冒険が、野間さんの言う「575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという」こととつながっている気がしてなりません。
(おわり)
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2021年08月03日

「Picnic」No.3 @

Picnic No.3
編集:野間幸恵・石田展子
定価¥1000

かたち良きくちびる残すギリシャかな  大下真理子
スプーンは遠い国から来たようだ  樋口由紀子
ガムテープ顔の上には顔があり  〃
週三で通う段差ダンサーズ  榊陽子
朝死が眩しい行ってみようか  〃
蓮根を食べると穴の味がする  月波与生
錠剤になった幸せそうな人  〃
覚めながら裂けながら書く手紙かな  岡村知昭
牛乳や行方不明の語られず  〃
数学の苦手な人も噛むパセリ  中村美津江
貼り紙は「しばらくドアを休みます」  広瀬ちえみ
さみしさになる永遠のハンモック  野間幸恵
山羊座など後ろが開くワンピース  〃
底冷えのビルなり絶対音感  〃
裏漉しの続きをキルケゴールする  〃


7月に「Picnic」の3号が出ました。今回の参加者は15名。どのような集まりなのか私もよく分かっていないのですが、五七五という共通項をもとに、俳人や柳人の区別なく集まった同人誌のようです。

また、これもよく分からずに言うのですが、参加者の皆さんは俳句や川柳の主流派(と何となく見なされているもの)と書き方が違っているように思えます。だからこそ、こうしてジャンルの区別なく集まれるのかも知れませんね。

ここでいくつか句を見てみましょう。樋口さんの「ガムテープ顔の上には顔があり」、何だか奇妙な情景ですね。でも、阿部寛や松重豊といったノッポの俳優さんが出ているドラマでは、縦のツーショットを見かけることがあります。つまり「顔の上には顔があ」るわけです。特定の条件がなくては生じない「顔の上には顔」ではありますが、ガムテープという庶民的な小道具があることによって、ごく日常的な風景に思えてくるから言葉って不思議ですよね。

榊さんの「週三で通う段差ダンサーズ」ですが、じつは以前テレビ朝日の「タモリ倶楽部」の中で、タモリさんが先んじてこのシャレを使っていました。けっこう昔の放送です。その回ではたしか、東京は世田谷の明神池跡をタモリ一行が訪ねていました。検索してその場所を見れば分かるのですが、そこは池の跡地だけに少々低くなっていて、階段で降りるようになっています。その高低差に萌えを感じたタモさんが、俺は段差好きのダンサーっすから、みたいに言っていたのですよ。だから正直言うと、掲句のその部分に関してはネタバレして読んだのです。でも、段差ダンサーズに「週三」で通うのがおかしくて思わず笑ってしまいました。段差ダンサーズって音感も映画のタイトルになりそうでおもしろい。ちなみにわたしも国分寺崖線・湧水好きのダンサーである。

月波さんの「蓮根を食べると穴の味がする」ですが、ザ・川柳という感じがして、とても嬉しくなります。読みの可動域において格差がある川柳界ではありますが、この句はどんな層の柳人でも味わえるのではないでしょうか。尤も、どんな層でも味わえると言ったばあい、川柳界では一読明快な句を指します。それは実際のところ「言われなくても知ってます」という平板句であることが多いのだけど、月波さんのこの句は一読明快でありつつも平板ではないですよね。このセンスが今の大吟社の川柳に少なくなっていると思うのです。
(つづく)
posted by 飯島章友 at 07:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする