2017年02月28日

「川柳木馬」第150・151号 合併号

川柳木馬 第150号・151号 合併号
発行人 清水かおり
編集室 山下和代

今年最初の「川柳木馬」誌は、恒例の特集「作家群像」が掲載されている。この「作家群像」は、現在活躍する川柳人ひとりにスポットを当て、そのプロフィール、作者のことば、自選60句、および二名の評者による作家論・作品論で構成された記事。

今回取り上げられている川柳人は徳長怜さん。わたしも大好きな作家さんであり、以前川柳スープレックスにも作品をご寄稿いただいた(Fw:舌)。また評者は新家完司さんと八上桐子さん。なんとも豪華である。
何はともあれ、掲載されている徳長さんの60句から数句引用してみよう。

 リエゾンであなたと波の音になる
 ちょんまげのあったところで感じてる
 デアゴスティーニそろそろ届く僕の首
 午前中なら消印は海ですが
 出し汁を煮詰めてみればジャコメッティ
 年表にネットカフェ紀がすべりこむ
 バス停は武士になる気で立っている


「リエゾン」「デアゴスティーニ」「ジャコメッティ」、このあたりは歌人ならいかにも使いそうだが、川柳人に使われると意表をつかれる。所属はふあうすと川柳社とプロフィールにあるが、もし毎回このような作品を提出しているのだとすれば、社内ではさぞかし異彩を放っておられるのではないか。それにしても徳長さんの作品、わたし好みだ。

評者の新家さんと八上さんは、徳長作品についてほぼ共通した印象をいだいているようだ。

独自性を目指しつつ伝達性をも考慮するのは難儀なことではあるが、それが生みの苦しみであり遣り甲斐のあることでもある。徳長怜作品には、その「独自性と伝達性」を併せ持たせた苦心の作品が多く見られる。(新家完司「徳長怜川柳を読む 〜多様な作品を生む自在な想い〜」)

詩的飛躍が過ぎると、良い悪いは別にして難解になる。その点で、共感性、大衆性のラインぎりぎりへ決まるスマッシュのような鮮やかさだ。(八上桐子「徳長怜を読む 〜海辺の時間〜」)

現代川柳には、コトバの可能性を模索する代償として、ともすれば読者を置いてけぼりにしかねない表現も見られる。またそれとは逆に、〈一読明快〉をテーゼとするあまり、既にひろく流通している観念をわざわざ川柳に仕立てあげ、既成観念を補強してしまう傾向も見られる。その意味で、「独自性と伝達性」「共感性、大衆性のラインぎりぎり」という葛藤は、表現にたずさわるあらゆる人間にとって大きな課題となる。と同時に、そこを突破するのが遣り甲斐につながっていく。

【会員作品・木馬座】
麦秋のぞわりとそよぐポピュリズム  畑山弘

納豆の疑心暗鬼をもてあます  大野美恵

栗の実のラストシーンは皆快楽けらく
  西川富恵

光源を探し求める展開図  岡林裕子

差し障りなければ図形に戻ります  内田万貴

うれしいを辿ってゆけば喉ちんこ  萩原良子

ハレルヤと女ともだち去ってゆく  清水かおり

片っぽの靴に余った夜がいる  小野善江

今号の木馬句評は小池正博さんが担当している。読んでいただくと分かるのだけど、こころなしかいつもより厳しい評になっている。しかし、いずれも肯ける正当な理由を示したうえでのこと。現代短歌や伝統川柳とは違い、詩性川柳には入門書が見当たらない。だから、こうした句評を参考にしながら徒手空拳で模索していくしかない。それは不安ではあるが、同時に開拓精神を刺激されもする。それこそがこのジャンルの魅力といえるのではないだろうか。


posted by 飯島章友 at 00:15| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月07日

5ぽ ぽ色の研究 安福望×柳本々々

安福 もう一回、荻原さんのぽに戻りたいんですけど、

  恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず  荻原裕幸

のぽぽぽぽぽぽって一緒に棲む恋人と私にしかわからないことになってるのかなあって柳本さんと御前田さんのぽの文章読んでやっとわかった、って感じなんです。
だからこのぽぽぽぽぽぽってなんなのかって考えてもわかんないんですよね。二人にしかわかんないことだなって。恋人と私だけのぽなのかなあって。だからぽぽぽぽぽぽのなかには、よろこびもかなしみもあと他にもいろいろ入っていて、でもそれは恋人と私以外にはぽぽぽぽぽぽとしか伝わらないことなのかなあって。他人にはぽぽぽぽぽぽというぽの音にしか聴こえないんだけど、恋人にはそれがなにか伝わってるんですよね。
御前田さんがいっていた、「ぽぽぽぽぽぽ・ぽぽ・ぽ(訳:愛している)」も恋人には訳がなくても伝わるんですよね。ぽはたった一人にだけ伝わればいいんだなあって思いました。みんなそれぞれ、自分のぽを持っていて、伝わるひとには伝わるんだなって。

  世界っていろんなものがあるからさ、きっと森の奥深くに忘れられたようなぽとか、深い海の底で深海魚がつついてるようなぽとかあるんだろうね

って柳本さんの「ぽ譚」でいってたけど、ほんとひとそれぞれみんな、ぽを持ってるんじゃないかと思った。ぽって定型みたいですね。なんでも入るかんじする。

柳本 昔、国会図書館で、荻原さんが書かれたものをとにかくずっとピックアップして読んでたときがあったんですよ(それは実は、加藤治郎さんや穂村弘さんのもずっとピックアップして読んでたんだけれど)。そのときに、2000年前後の『短歌』か『短歌研究』で荻原さんが「ぽ」の連作は万葉仮名から発想しているってたしか書かれてたんですよ。

安福 えっ。

柳本 ただ、作者の発言の答え合わせみたいのってあんまり好きじゃなくて、考えてなかったんです。でも今回、いい機会だったので考えてみたんです。
たしかに万葉仮名って特殊ですからね。

安福 わたしぜんぜんしらないですね、万葉仮名について。

柳本 万葉仮名って漢字の当て字みたいなものなんですよ。夜露死苦(よろしく)みたいにね。当時まだ今ある文字が開発されてなかったから、そうやって漢字を借りて文を書いてた。『万葉集』とかそれで書いたんです。だから『万葉集』ってほんとはどういう音なのかってわかんない部分もあるんですよね。
それでね、『万葉集』って奈良時代ですよね。で、この時代のひとってね、「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」って発音してたらしいんです。たとえばね、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)って発音できなくて、おおしおぺいぱちろう、になる。ほーほっほっほっ、ってわらうときも、ぽーぽっぽっぽっ、ってなるんです。鼠先輩みたいだけど。

安福 えっそうなんですか!

柳本 かんたんにいうとですよ。でね、となるとね、奈良時代のひとはぽぽぽ言語だったことになりますよね。万葉仮名をつかってたころのひとびとは。
そうなるとね、荻原さんの同棲生活の歌ですけどね、このぽぽぽぽっていうのは、〈そういわざるをえない生活〉にふたりがいたってことなのかなあと思うんですよ。万葉人みたいにね。もうある音しか発せない状況。しかもそれは奈良時代の音のありかたのように、システムがそうさせてる。
個人の問題じゃなくて、システムの、ふたりの生活のもんだい。

安福 なるほどなあ。

柳本 万葉人がぽぽぽと発音してたように、ぽぽぽっていうのは、システムにしばられたことばなのかも、個人をこえた。

安福 ああ、そうかあ、システムにはいってしまって、よろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽになってしまったのかな。

柳本 でもそれは万葉仮名のようにあとでシステムがかわるものかもしれない。またシステムがつくりかえられてそのシステムはまるでなかったかのようにわすれさられるものかもしれない。だって今のわたしたちはもう万葉仮名なんて使えないですからね。

安福 あ、そうかあ。つねに変化してるんですね。ぽの短歌のこと考えてるとき、千早茜さんの「男ともだち」って小説思い出してて、その小説の主人公は同棲してるんですけど、話がすすむにつれて、どんどん同棲生活が膿んでいくんですよ。なんか生活が膿むというか腐っていくかんじをぽにちょっとだけかんじてたんですよ。生活が破たんしていくかんじ。でもそれは外からはわかんないんですよね。二人にしかわかんないことで。日本語の変化と一緒で、生活も変化してくんだなあっておもいました。

柳本 あ、そういえばそういうこと考えるときよく思い出す歌があるんですよ。

  わたくしの口癖があなたへとうつりそろそろ次へゆかねばならぬ  斉藤斎藤

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写真・雪男:安福望(句集は田島健一さん、モールサンタは購入品)


posted by 柳本々々 at 21:37| 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

川柳裸木(らぎ)4

川裸木(らぎ)4 を読みました。
ほんとうはとうに読んでいたのに、書くのがおそくなりました。編集・発行は、いわさき楊子さん。若草色というよりはもうすこしやわらかい、アヴォカド色の表紙に、よりそう二本の線が地から天にのびるように、すーっと引かれています。「らぎ」という音がいいです。年一回の発行とのこと。
目次より。

■ 同人句
お茶会         樹萄らき
母と私と母       久保山藍夏
みていますとんでます  阪本ちえこ
腕の中         北村あじさい
ひょいと        いわさき楊子
三ツ目の信号      上村千寿
雨天決行        川合大祐

■「川柳裸木」4 鑑賞   田川ひろ子

■「川柳裸木」4 交換柳読 
  藍夏→大祐  <雨天決行>を読む
  大祐→藍夏  <母と私と母>を読む 

  千寿→楊子  <ひょいと>を読む 
  楊子→千寿  <三ツ目の信号>を読む

■@くまもとメール川柳倶楽部@ 掲示板
■後記


読みのページが充実しています。
鑑賞は毎回他ジャンルのひとに依頼されているとか。
交換柳読は今号の試みとのことで、同人が互いに作品を鑑賞しています。
「交換柳読」ということば、いいですね。
作品とあわせて、作者の読みのコトバにふれることが興味深かったです。
また、@くまもとメール川柳倶楽部@は、メー川(略称 めーせん)という活動への参加者で、「川柳裸木」に参加していない方の自選10句を掲載。
メー川では、月2回自由句2句とコメントのやりとりをしていて、100回を超えられたとのこと。たのしそうですね。

以下、同人作品から、感想を書いてみました。

いっせいにあそびつくせよ曼珠沙華   樹萄らき
「いっせいにあそびつくせよ」という命令形がすてきです。地上の曼珠沙華がいっせいに遊ぶさまを想像せよ、なのです。視覚的にもおもしろくて、ひらがなと、画数の多い漢字のならびが絵のよう。縦長の紙の底に赤い曼珠沙華が咲いていて、細い花弁がほどけ天へのぼるさなかで「い」「っ」「せ」「い」「に」「あ」「そ」「び」「つ」「く」「せ」「よ」とやわらかなかたちになったもよう。
何を聞いたのか耳だけ囓りかけ
なにやらミステリアス。何かを聞いたひとと、耳を囓りかけたひとは同一人物か否か。また「耳を囓りかけ」でなく「耳だけ囓りかけ」とは?他の部位はしっかり齧ったのでしょうか?(と、考えると黒い笑いが・・・・・・・)耳だけを、しかも囓るでもなく、囓りかけただけで、誰かがいなくなった。囓られようとしたときに聞いたことばが、今は思い出せない、と、一種の恋情として読んでいます。

歩く度虹を残してゆく獣        久保山藍夏
歩いてゆく、残してゆく、という時間の経過と継続があり、同時に圧倒的な刹那を感じます。虹も獣も永遠でないもの。虹の一瞬の鮮やかさ、獣のいのちの匂い。その場に居合わせたいと思わせる美しい景色です。
ぐるぐると住めばぐるぐるが伝染る
これは楽しい!ひとつめの「ぐるぐる」は固有名詞。ふたつめの「ぐるぐる」は抽象名詞で読みました。

言い訳をしている月が欠けている   坂本ちえこ
とても好きな句です。「言い訳をしている」と感じる時間はながく感じられるもの。「月が欠けている」というのも時間の経過を表わしているのでしょうか。むしろわたしは「言い訳をしている」あるいは「言い訳をされている」と感じている憂い時間に、ふっと月がかけていることに意識がうつろう。その瞬間を切り取った句と思いました。
取り外し可能きちっともとのまま
冷静に考えれば、冷蔵庫の製氷器の脱着のような、リアルの句かもしれません。でも一読したときに、ひえ!おもしろい!となったのは、シュールな景が浮かんだからです。ココロを取り出して、記憶を塗り替えて、きちっともとに戻す。あるいは町を取り外して、またはめこむ。おもしろいです。

あちこちで卑弥呼の歩く影を見る   北村あじさい
卑弥呼が歩くのを見るのではなくて、歩く影を見る。卑弥呼本体は見えないのですね。道路や壁に落ちる影法師という意味なのか、鏡像の影なのか。歩いて移動する像をうつすサイズの水鏡やミラーがあちこちにあるとは考えづらいから、前者でしょうか。卑弥呼の影法師があちこちを歩いている。それを見ている。

あの日から西瓜を横に切っている   いわさき楊子
あの日に何があったのでしょう。西瓜を横に切る、というのは、水平に切るということでいいのでしょうか。五右衛門の斬鉄剣並の手さばき、カミワザです。西瓜を切るという日常をひょいと超えて、おもしろいです。そしてまた、あの日のことがすっぽり句の外側にあって、何のことだか不明なのがいいです。
夕顔のどれも視線をあわせない
たおやかなやさしげな夕顔。よりそうように数多く咲いていることでしょうに、どれも目をあわせない。淡い寂寥感と、それでも目はあわせなくとも夕顔とひびきあうやさしさを感じます。
きぬかつぎつるり妹来るという
「きぬかつぎつるり」というときの、指に残る独特の、あかるい快感。そのあかるさと、妹の来訪は、作者にとってつながるものがあるのでしょうか。作者固有の感覚がさらっと書かれていて好きです。

スマホ駆使して酸っぱくなってしまう   上村千寿
酸っぱくなったのは、ひとですね?「スマホ駆使して」という言葉にユーモアを感じます。そして「酸っぱくなってしまう」とは、なんておもしろい言葉なんでしょう。スマホ駆使することと酸っぱくなることの因果関係は不明でいるのですが、この句を読んでから、「ああ、今酸っぱくなりかけている」と、自己分析時の分類がひとつ増えました。

道という道に千年後に生える    川合大祐
生えてくるのは何なんでしょう。主語を省略して、おもしろいです。生えてくるのはニンゲンのような気がします。
強大な堀北真希が降りて来る
すごくおもしろい!やさしげな堀北真希や、可憐なる堀北真希ではいけません。また強大な前田敦子やタベミカコや深田恭子(フカキョンはちょっとアリかな?)でもいけません。「強大な堀北真希」が無表情に(おそらくは巨大な頭部のみで)天から降りて来るに違いありません。

posted by 江口ちかる at 16:54| Comment(4) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

川柳雑誌「風」102号

川柳雑誌「風」102号
編集・発行 佐藤美文

 十四字詩【風鐸抄】
画像処理して明日を楽しむ  伊藤三十六
団子虫から届く挑戦  武智三成
本拠を叩きテロの蔓延  大城戸紀子
シャワーで流す鱗いろいろ  井手ゆう子
監視カメラよ正義ぶるなよ  藤田誠
踊り場にある考える椅子  茂木かをる
差別と区別雲の形に  佐藤美文

今号は「第17回風鐸賞」が発表されている。
正賞は井手ゆう子と林マサ子の二名。
選考委員は木本朱夏・雫石隆子・新家完司・津田暹・成田孤舟。
同賞は十七字と十四字の両方を募っているのだが、今回はどちらも十四字詩が受賞した。

以下、各十句からなる受賞作品より一句だけ引用。

ほっこりと煮る好きな言の葉  井手ゆう子
マグリットからもらう雨傘  林マサ子

雫石隆子さんの選評には次のようなくだりがあった。

今回はつらつらと重ねて読んでも、これといって推したい作品との出合いはなかった。個性の際立つものを、多少粗削りだったり、たどたどしくても採りたいと臨んだが出合えず、これは「風」の作品のパターン化してしまったと言うことだろうか、と思ったりもした。みんな及第点のお利口さんでは困ってしまう。もう瞠目するような十七音字、十四音字の作品には出合えないのでは、と危惧したり心細くなったりもした。

パターン化、及第点のお利口さん──まあ、わたしなどはそもそもパターンが身についていないし、及第点に届くコツすら分かっていないのだからどうするよ、てな感じです。

ただ、雫石さんの言葉は、選考委員にそのまま返ってくる厳しい言葉でもあるんだなあ、と。なぜといって、パターンを打ち破る新鮮な句と出合ったばあい、評者の側にそれを受け止めるだけの見識と感受性がなければ評価すらできないからだ。パターンを打ち破っている作品であれば、当然、既存の川柳におさまらない表現方法や言葉選び、韻律が含まれている。そして、おそらくそれは、他分野とクロスオーバーしている可能性が高い。寺山修司がそのいい例。

かりにそうであるならば、川柳の選考委員は、短歌や俳句、現代詩など、他分野の表現法にも広く浅くアンテナを張っておく必要がある。じぶんと同年代の新聞投稿者の作品ばかりでなく、結社や同人で活躍している若手歌人・若手俳人にもだ。また、新聞の政治社会面やテレビの報道番組ばかりでなく、いやかも知れないけどネットのSNSやテレビのバラエティー番組など、何にでも目を向けておかなくてはいけないだろう。

短歌の新人賞が発表され選考座談会が掲載された後、それについて若い歌人と雑談することがあるのだけど、彼らはきちんと選考委員を分析している。どれくらい時代を捉えられているのかということを。

そう考えると川柳の選考委員の方々はとってもたいへんだ。いや、どんなジャンルであっても選考委員はたいへんだ。雫石隆子さんの批評からそんなことを考えた。

posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

「ふらすこてん」第47号

「ふらすこてん」第47号
発行人 筒井祥文
編集人 兵頭全郎

テロ予報シャッター街で雨宿り  湊圭史
上空にポットが浮かぶ国富論  同
隠語にも交替制を取り入れる  蟹口和枝
ロボットカーにも紅葉マークを付けますか  黒田忠昭
遠心分離器を逆進するタガメ  兵頭全郎
つくつくぼうし殺人計画できました  阪本きりり
レバ刺しが妙に美味しい白日夢  徳田ひろ子
マジシャンの指に返ってくる夕陽  同
モッコウバラにまとわりつかれる運命だ  いなだ豆乃助
舌足らずですがと開くパラシュート  月波与生
触角は海を感じるカタツムリ  増田えんじぇる

一句目。『誹風柳多留』の「本降りに成て出て行雨やどり(本降りに成つて出て行く雨宿り)」を踏まえて二句目をつくるなら、〈本テロに成って出て行く雨宿り〉なんてね。

三句目。この10年くらい、日常語として既存の「隠語」をつかうひとが増えていて複雑な気分になる。インターネットの発達で各業界の楽屋がなくなってしまったからだろうか、それとも言葉から歴史性・文化性が剥ぎ取られてきているからだろうか。いずれにせよ、所定範囲を越えて日常社会にまで隠語が広まってしまったのなら「交代制」をとるしかないか。

四句目。酒飲みにもマークを付けますか。

五句目。「遠心分離器」でタガメはメダカに、メダカはタガメになるのかな。

六句目。「つくつくぼうし」の鳴き声って起承転結になっている気がする。田村正和主演のドラマ「古畑任三郎」の展開でいうならば、犯行動機の発生→殺人実行→古畑と犯人の知恵比べ→逮捕、という感じかな。「つくつくぼうし」の鳴き声はミステリーなのである。

七句目。白日夢とは思えないほど、それはそれは鮮やかなレバ刺しなのでございましょう。

八句目。「指に返ってくる」がいい。関係ないけれど、このマジシャンの指は細くて長くてキレイなんだろうな。

九句目。〈木香薔薇〉を片仮名表記にしただけで、こうも薔薇の艶やかさが解体されるものかと興味深かった。

十句目。「舌足らず」と「開くパラシュート」とのズレが巧みな一句。

十一句目。「ふらすこてん」誌全体から受ける作風と毛色が違う感じがして目を留めた。こういう句、好きです。


◇ ◇ ◇


さて、今号でいちばん考えをめぐらせたのは湊圭史の次の句。

 上空にポットが浮かぶ国富論  湊圭史

『国富論』は、アダム・スミスが著した経済学の古典。さすが古典となっているだけあって経済に特化した内容、というよりも、世をおさめ民をすくう〈経世済民〉の書という印象だ。スミスのもう一冊の大著『道徳感情論』とあわせて読むことをお勧めしたい。と言いつつ、わたしがまるまる読んだのは『道徳感情論』の方だけなのだ。また、おなじ道徳原理の哲学書ならスミスと深い親交があったデイヴィッド・ヒュームの『人間本性論』第三篇の方が好きだったりする。

さて、大雑把にいって『国富論』では、自由競争を阻害する独占や寡占はよくないものとして、開放された貿易を行うことが説かれている。そして人間各人が自分の利益を追求することは無秩序になるどころか、〈見えない手〉に導かれて意図せず市場や社会の利益を高めることに貢献する、というのだ。〈見えない手〉とは自動調整メカニズム、というくらいの意味だ(ただし行為者を自由放任にすれば〈見えない手〉が発動するという意味では決してなく、みなが守るべきルールを遵守する道徳的な行為者が想定されているので要注意。『国富論』の内容は、スミスのもう一冊の大著『道徳感情論』を前提にしなければ意味がない)。
スミスの影響を強く受け、20世紀の自由主義の代表的な思想家であるフリードリヒ・ハイエクも「自生的秩序」(※1)という概念を提示し、スミスの「見えない手」をより発展させた。上記のようなスミスの考え方は現在、規制を緩和して市場にまかせておけば自動調整機能が働いて市場や社会を安定へと導く、という市場原理主義のルーツとされる向きもある。

※1 スミスの「見えない手」は、とにかくそうなるのだ!という概念なので、正直たんなる性善説に思えなくもない。対してハイエクの「自生的秩序」はより具体的だ。人びとの意図しない行為の繰り返しの中でおのずと精製されて成った「自生的秩序」には、暗黙の〈知識〉と暗黙の〈ルール〉の側面があり、それがわたし達の制度の根拠になっているという。これは社会主義国家に見られたような、一部のエリートが意図的に設計した人為的秩序とはまったく違う。そして彼は、「自生的秩序」の典型は、言語や貨幣や(慣習)法なのだという。言語──たしかに日本語も日々更新されて成った≠烽フだし、これからも成っていく性質のものだろう。卑近な例でいえば「かわいい」という言葉。今では若い女の人が中高年やシニアに対して「かわいい」というのもごく一般的な現象となったが、これは文部科学省のエリートが意図的に設計して推進した現象だろうか。もちろん違う。

ところで、こういう市場や社会の自動調整メカニズム──スミスの考えでいえば〈見えない手〉にもとづいた効果として〈トリクルダウン〉(※2)と呼ばれるものがある。これは、富の再配分政策を強化したりせず富裕層が心おきなく儲けられるようにすれば、蜜が滴るように中・下層の労働者にも富が落ちてくる、という効果だ。新自由主義政策を押し進めた小泉構造改革のころから頻繁に見かけるようになった言葉だ。

トリクルダウンという響きはいかにもカッコいいが、小さな共同体でならともかく、国レベルで、ましてグローバル市場のレベルで考えるなら空想にすぎない気もする。それに懸念も生じる。〈トリクルダウンを起こす〉ことが手段や過程ではなく〈目的〉になってしまったとき、それは社会主義や進歩主義と類似してしまう。社会主義や進歩主義は意図的に設計して社会を創りかえることが大好きだからだ。未来は不確実であるにもかかわず、〈トリクルダウンを起こす〉ことや、各国の国柄としての慣習や文化を含めた〈規制を取り払う〉のが目的化してしまったとき、人間の知性や理性に対する〈過信〉を感じずにいられない。まあ、話がどんどん川柳から離れていってしまうのでこの話はもうやめないといけないだろう。

 ※2 スミス自身は〈トリクルダウン〉などという概念は示していないけど、それに相当するような考え方は示している。以下の引用は、訳文なのでとても読みにくいけれど、要は地主が得た収穫が意図せず労働者に還元される、というお話だ。
「高慢で無感覚な地主が、かれの広い畑を眺め、かれの兄弟たちの欠乏についてはすこしも考えないで、そこに生育した全収穫を想像のなかでかれ自身が消費してみても、なんの役にもたたない。……かれの胃の能力は、かれの諸欲求の巨大さにたいして、まったくつりあいをもたず……残りをかれは……分配せざるをえない。こうして、かれら(労働者)すべては、かれ(地主)の奢侈と気まぐれから、生活必需品のその分け前をひきだすのであって、かれらがそれを、かれの人間愛またはかれの正義に期待しても、むだだったろう。」(『道徳感情論(下)』アダム・スミス著/水田洋訳・岩波文庫・上記引用カッコ内飯島)


ここでようやう上掲句の話をしたい。湊の句の「国富論」は、アダム・スミスの本を直接指しているのではないと思う。貝原益軒の『養生訓』にならって「〇〇流養生訓」という本がよくある(?)と思うけど、それと同じ用い方だろう。「グローバル時代の国富論」なんて書名、いかにもありそうではないか。
それでもわたしは、「国富論」と聞くとアダム・スミスを想像しないではいられないため、この句も最初、高いところに浮かぶポットから高級な紅茶が下層に注がれんとする〈トリクルダウン〉の喩と捉えた。

だけど、この句では空中に「ポットが浮か」んでいるだけでしかない。これでは高級な紅茶が中・下層に注がれることはない。注がれたところで火傷してしまうし。そう考えると、〈富が滴り落ちる〉というトリクルダウンの幻想と、実体経済から金融経済にシフトした〈ふわふわとした豊かさ〉を一般庶民の視点から描いた句なのかも知れない。

アベノミクスのもと円安・株高になり、名目GDPも上がって雇用も増えた反面、実質賃金上昇率はほぼマイナス、消費税が8%に上がってからは個人消費も低迷している。高度成長期のような経済成長などもはや見込めないうえ、金融経済が中心となった現在、資産運用を巧みに行っているひとでもないかぎり、格差はいっそう拡大しているのではないかと肩を落とさざるをえない状況もあるだろう。そういった一般庶民の気分を「上空にポットが浮かぶ国富論」と表したのではないか、と捉えてみた。

ふらすこてん・ねっと

posted by 飯島章友 at 08:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする