2017年06月27日

「MANO」第20号

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「MANO」第二十号
編集発行人 樋口由紀子

きかんこんなんくいきのなかの「ん」  佐藤みさ子
人参と人間どっちが赤いのか 

空想のかたまりである赤チョーク  樋口由紀子
水飴をくれたおじさん公開捜査

礼拝が済んで帰っていった島  小池正博
里親は絵文字を焼いているばかり

大根おろしの背中を見て下さい  加藤久子
サ行変格活用じゃが芋の本音
空洞が煮詰まるコンビニのおでん
春先の揚げ出し豆腐になっている



加藤久子さん、佐藤みさ子さん、樋口由紀子さん、小池正博さんによる「MANO」第20号が、4月30日に発行されました。これをもって同人活動に幕を引くという。過去には倉本朝世さんと石部明さんも参加されていて、倉本さんは最初の編集人だったそうです。

「MANO」創刊は1998年5月25日。
創作意欲の旺盛な川柳人が集った「バックストローク」(2003年創刊/発行人 石部明/編集人 畑美樹)が創刊される5年前になる。その当時の川柳界のことはよく知らないけど、「MANO」→「バックストローク」という流れをつくったのかも知れない。

わたしなんかは98年当時、詩文芸にいっさい関わっていなかった。というよりむしろ、言葉を弄して訳の分からないことを書いている分野、として意識的に遠ざけていた(まあ今でも心の奥底には、そんな過去の残滓があるのですが)。

さて今号では、加藤久子さんの連作「顔」がお気に入りです。ご覧のように食べものがよく出てくる。自分、おなかがすいているのだろうか。短詩を読むときのコンディションが好みに影響をあたえることってあると思う。それにしても「春先の揚げ出し豆腐になっている」はいいなあ。

   ◇ ◇ ◇

「MANO」は散文もひじょうに充実している。今最終号の評論&エッセイは、小池正博「佐藤みさ子 ──虚無感とのたたかい」、佐藤みさ子「終わります」、加藤久子「Hisako's Window 落ちながら」、樋口由紀子「言葉そのものへの関心 鴇田智哉句集『凧と円柱』を読む」である。(どうでもいいことだけど、なぜか最初、樋口さんの評論を「お言葉そのものへの関心」と打ち間違えてしまった)

樋口由紀子さんの「言葉そのものへの関心」に惹きつけられた。
全体を読んでみると、樋口さんの文章はけっして体系的ではない。でも、それだからこそ、思考する人間の生々しさが感じられ、惹きつけられる。歌人には高学歴なひとも多いのだけど、ほぼ野比のび太を地でいく成績だったわたしなんかは、理詰めの文章にただただ怯んでしまうことがある。でも、樋口さんの文章を読むと、実際にお会いして「この部分はどういう意味なのでしょうか」とぐいぐい訊いてみたくなるのだ。

 今回、選をしていて、気になったのは散文調の川柳が全体的に増えていることである。実はこれは困った現象だと自戒を込めて思っている。だって、川柳は韻文の文芸である。散文と一線を引く覚悟がいるはずである。でも、散文調の川柳はわかりやすく、たしかに手っ取り早く、ひきつけられる。近年の大賞受賞作品〈ササキサンを軽くあやしてから眠る〉〈こんにゃくの素質も少しおありです〉のせいでもある。

月刊「おかじょうき」2015年1月号

上記は第19回杉野十佐一賞における樋口さんの選評だ。ここで樋口さんがいう「散文」「韻文」の意味がいまいちよく分からず、詳しく訊いてみたいとずっと思っている。「ササキサンを軽くあやしてから眠る」が散文調というのは何となく分かるけれども、ではそれは韻文とどのように違うのか。
また「こんにゃくの素質も少しおありです」は散文調なのだろうか。散文調には違いないけれど、散文のなかの語りかけ・会話体に近くないだろうか。「これ小判たつた一晩ゐてくれろ」(誹風柳多留)に近い語りかけ・会話体と感じられる。・・・なんかこう、頭がこんがらがってくる。だから樋口さんがいう「散文」「韻文」の意味をぐいぐい訊いてみたくなってしまう。

この最終号の評論でも「人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉」という俳句について樋口さんはこう書いている。

「人参」に季語感は全くなく、極端にいうと、季語であろうがなかろうがどちらでもよいと思わせるものが確信犯的に内在している。季語をはみ出す、季語では収まり切らないものに捉えられる。

「人参」に季語感がないことは分かる。ただ、近現代の俳句で「人参」が用いられるばあい、一般の言葉と区分けできるほどの差があるのだろうか。わたしの季語にかんする知識が白紙に近いからかも知れないけど、樋口さんの季語にたいする認識をぐいぐい訊いてみたくなる。

佐藤みさ子さんが今号のエッセイで言及しているのだけど、創刊号で樋口さんは「生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどを書けるのも川柳の特徴である。『川柳とは何なのか』という問いを考え、それに答えるために、『MANO』で作品と文章によって実証していこうと思っている」と書いたそうだ。不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさ──これが川柳の特徴だとすれば、樋口さんの文章はじつに川柳的だ。分からなさがあるからこそ、わたしは惹きつけられてしまうのでしょうね。


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2017年06月12日

川柳「カモミール」第1号 B

川柳「カモミール」第1号 @
川柳「カモミール」第1号 A


 縁日のお面の裏に誰かいる  滋野さち

とつぜんですが、人間には孤独を味わいたいという潜在願望がありますまいか。

犯罪者という犯罪者は、電車の中でも縁日の人通りでも、群集の中のロビンソン・クルーソーである。
(江戸川乱歩『群集の中のロビンソン』)
私自身も都会の群衆にまぎれ込んだ一人のロビンソン・クルーソーであったのだ。ロビンソンになりたくてこそ、何か人種の違う大群衆の中へ漂流して行ったのではなかったか。
(同上)

これ、よく分かるのです。わたしも、特に理由もなく繁華街へふらっと行くことがあるのですが、おそらく大勢のなかの「誰か」として漂流したい、という無意識の働きなのではないかと思います。

何者でもない「誰か」になりたい。思うにこの潜在願望は、〈楽屋〉を確保したいということにつながっていると思うのです。お面をかぶって舞台を演じるには、お面を脱ぐ場所、つまり何者でもない「誰か」にもどる場所が必要だ。それこそが〈楽屋〉なのです。

呪術なり神事なり舞台なりで演戯を行うときにかぎらず、人間とは「お面」をかぶり、他者との関係性のなかで役割を演じる演戯的存在だ。「お面」をかぶることによって、あるときは子の親を、あるときは真面目な会社員を、あるときは自治会役員を、またあるときはアイドルの熱烈な追っかけを、そしてまたあるときは新聞柳壇の常連投稿者を演じる。しかしてその実体は・・・誰なのだろう。

述語部分にいくら「親である」「会社員である」「アイドルの追っかけである」といろいろな要素を当てはめてみても、主語の〈自分〉が何者であるかは捉えきれない。なぜなら、繰り返しになるけど、自分とは「お面」を脱いだ〈楽屋〉という場であって、〈楽屋〉があるからこそ人間は素顔が確保され、役割から解放される。逆にいえば、素顔が確保されていればこそ「お面」をかぶったり脱いだりすることができる。舞台をおりたその素顔は、演劇から解放された「誰か」であり、目も耳も鼻もないのっぺらぼうなのだ。

ところで、近現代の私小説がつらいのは、素顔が確保される〈楽屋〉を舞台化してしまったところでしょう。「誰か」に戻れる〈楽屋〉を舞台にしてしまったら、素顔とお面が一体化してしまい、自分を失ってしまうではありませんか。〈私〉を追求した挙句に素顔を失う。これほど皮肉なことはありません。

滋野さちさんの句からこんなことを考えたのだが、ここまでくどくどしく「お面」について書いたわたしは〈無粋者〉という「お面」をかぶっている。

「二十面相」というのは、毎日毎日、新聞記事をにぎわしている、ふしぎな盗賊のあだ名です。その賊は二十のまったくちがった顔を持っているといわれていました。つまり、変装がとびきりじょうずなのです。
 どんなに明るい場所で、どんなに近よってながめても、少しも変装とはわからない、まるでちがった人に見えるのだそうです。老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、いや、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことができるといいます。
 では、その賊のほんとうの年はいくつで、どんな顔をしているのかというと、それは、だれひとり見たことがありません。二十種もの顔を持っているけれど、そのうちの、どれがほんとうの顔なのだか、だれも知らない。いや、賊自身でも、ほんとうの顔をわすれてしまっているのかもしれません。
(江戸川乱歩『怪人二十面相』)
われわれが日常生活でうそをつくばあひでも、それが相手をだますうへに最大の效果を發揮するためには、ある瞬間、自分でもそのうその魔術にひつかかつてゐたはうがいい。舞臺の名演技といふものもおなじやうな性質をもつてゐます。しかし、演戲において──うそをつくばあひと同様に──重要なことは、陶醉よりも、そのあとで醒めるといふことではありますまいか。いや、陶醉しながら醒めてゐることではないでせうか。醒めてゐるものだけが、醉ふことの快樂を感覺しえます。醒めてゐる自分がないならば、うそをついたのでも、演戲したのでもなく、自分もまただまされてゐるのであり、演戲させられてゐるのにすぎなくなつてしまひませう。
(sc恆存『藝術とはなにか』・sc恆存全集第二巻所収・文藝春秋)

 ◇ ◇ ◇

三回にわたって「川柳カモミール」第1号を紹介してきました。カモミール句会も名古屋のねじまき句会もそうですが、いわゆる〈膝ポン川柳〉とか〈あるある川柳〉とはだいぶ違う。カモミールやねじまきのようなスタイルを便宜的に〈詩性川柳〉といっておくならば、そのスタイルの句会を続けていくうちには多少なりとも困難がおありだったと思います。世間が川柳にいだいているイメージと相当かけ離れたスタイルだし、詩性川柳をコンスタントに書いている作家じたいが少ないからです。それでも「川柳カモミール」「川柳ねじまき」として会報誌を出されている。これはすごく意義がある活動だと思います。

では、いったい東京で詩性川柳を中心とした句会なり読みの会を開くことはできるのか。詩性川柳不毛の地に一粒のたねを蒔く時機は近づいているかも知れません。


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2017年05月31日

川柳「カモミール」第1号 A


 暖冬の二月の足がはみ出てる  守田啓子

守田啓子さんは「おかじょうき川柳社」所属。

ひとつの読みとして、二月の暖冬が三月にまで食い込むという句意。また、ふたつめの読みとして、語り手が過ごしているこの二月が、暖かさの上で平均をはみ出しているという句意。
季節や気温と違った領域で成立している「足」を、季節・気温の領域に招くことで「暖冬の二月」の様子を表現している。川柳が得意とする書き方だ。以下の句もそう。
 少年法からはみ出した長い脚  荻原鹿声
守田さんの句も荻原さんの句も、「足」と「脚」の使い分けがそれぞれの句にとてもフィットしている。見逃せないポイントだ。


 旅人は百科事典から帰らない  横澤あや子

横澤あや子さんは元「バックストローク」の同人。

ギリシア神話に出てくるヘルメスという神様を想い出した。ヘルメスは盗み、商売、発明、交通、賭博、競技、牧畜……と、書くのが面倒になるくらいさまざまな分野の神様にされている。上掲句と関係があるとすれば、〈学問〉や「旅人」の神様とされていることか。ドイツ語のヘルメノイティーク(解釈学)も、元をたどればヘルメスに行き着くと聞いたことがある。
さまざまな事柄を解説する「百科事典」ではあるが、実際は、それぞれの事柄の解釈に複数の異説があるものだ。であるならば、百科事典の解説を最終的な答えとするわけにはいかない。いろいろな異説を「旅人」として渉猟するのが学問だ。
人間の理性は万能ではない。だとすると、異説の渉猟から「帰らない」ことこそ旅人の本分なのかも知れない。
 

 ハバネロの瓶を出たがるうめき声  笹田かなえ

笹田かなえさんは「川柳展望」「川柳文学コロキュウム」「あさひな吟社」「おかじょうき川柳社」「連衆」「八戸ペンクラブ」会員。 

わたしは辛いものが好きだ。冬の季節になると、行きつけのラーメン屋で超激辛ラーメンを食べるのが私的行事となっている。それは、ハバネロがこれでもかというほど使われたラーメン。
いまでは、きちんと味わって食べるだけの(自慢にもならない)耐性がついているが、はじめてチャレンジしたときは完食することだけに意識を集中した。なにせハバネロは、日本で使われている唐辛子の数倍の辛さである。スープや麺を味わうゆとりはない。
無事完食しおえて「ふ、」と席を立ち、少々自慢げな声のトーンで「ごちそうさま」と店のおばさんに声をかけた。「はーい」と出てきたおばさんはわたしを見るや、一瞬、うごきがとまった。そのあとお釣りを渡すときも、おばさんは、試合後のボクサーでも見つめるように怖々とわたしの顔を見ていた。
いやな予感がした。うちに帰ってすぐに自分の顔を鏡に映してみた。まるで松本清張のように膨張して厚くなった唇が、それはそれは鮮やかなトウガラシ色に染まっていた。

ハバネロ、あれは爆発物である。爆発物であるならば、何かのはずみで「瓶」という密閉容器をたちまち破裂させ、あの強烈な刺激臭を外界にもたらすだろう。「瓶」のなかで「うめき声」を発しながら、ハバネロはそのときを待っている。

 爆発に注意しましょう玉葱には春の信管が仕組まれている  杉ア恒夫(『パン屋のパンセ』)

(つづく)

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2017年05月29日

川柳「カモミール」第1号 @

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川柳「カモミール」第1号
発行人 笹田かなえ

川柳「カモミール」の第1号がこの五月発行された。同誌は、「カモミール句会」の会報とお聞きしたのだが、結社誌や同人誌といっても遜色ない内容になっている。句会や吟行の様子などは、笹田かなえさんのブログ「川柳日記 一の糸」で知ることができます。またカモミール句会は、おもに「八戸ポータルミュージアム はっち」で毎月開かれているそうで、合計二句をメールで笹田さんへ事前投句して無記名で合評しあい、その後に席題の互選もおこなうとのこと。ただいま会員募集中と書いてありました。

さて、今回の「カモミール」第1号は三浦潤子さん、守田啓子さん、滋野さちさん、横澤あや子さん、笹田かなえさんの作品がそれぞれ20句ずつ掲載されるとどうじに、一句評を俳句結社「連衆」の谷口慎也さん、「おかじょうき川柳社」のSinさんが担当されている。何はともあれ会員作品を見てみよう。


今回「カモミール」誌を読ませていただき、三浦潤子さんという川柳人をはじめて知った。プロフィールによるとサラリーマン川柳を5〜6年楽しみ、2000年に北野岸柳教室入会、現在は「はちのへ川柳社」同人・「白銀南公民館川柳クラブ」代表とのことだ。
短歌の世界では、ケータイ短歌へ投稿していたひとが結社や同人に入ってくる例があったのだけど、サラ川から吟社川柳に入ってきたひとはあまり聞いたことがない。

 膨らんだ餅からSMAPがぷしゅーっ  三浦潤子
 
SMAPネタいいですね。今年、彼らについて書かれた記事を読むとご飯がすすみます。
さて、読んですぐにサラ川っぽい軽みがあるなと思った。けれど、サラ川の審査基準でこの句が評価されるかどうか。やはり何かが違う。
句の内容は、「SMAP」の事務所独立騒動やテレビ局への多大な影響などを想起させる。サラ川でもありえる句材だ。また「スマップがぷしゅーっ」という音感の楽しみ方。これもサラ川のダジャレと一脈相通じそうだ。しかし、SMAP騒動を直接書いたりはせず、餅の描写と音感だけで寓してみせるところは、吟社川柳の手法を感じさせる。

 首縦に振る度落ちてゆく鮮度  同

ありがたい講話を聴いているひとびとを見るたび、日本人ってものすごく首肯きが多いなと思う。居眠りしているひとも含めて。「鮮度」というのは、人間が事に当たるときの意識の持ち方、たとえば惰性なんかが暗示されているような気がする。ただ、この句の魅力は、首→振る→鮮度という言葉の流れから感受してしまう〈恐さ〉にあるのだと思う。

 ネクタイをゆるめ雲の名ひとつ知る  同

「男には首のサイズがあることの何か悲しきワイシャツ売場 」(俵万智『かぜのてのひら』)という歌を思い出した。男の首は、束縛と解放が繰り返されるのです。
わたしは、他人の話を注意ぶかく聴くときにおのずと目を閉じてしまうのだけど、視覚を遮断することで相手の言葉をより深く理解しようとしているのだと思う(たまに居眠りするなと注意されるんで、志村けんのコントやレディー・ガガのメイクのように、あらかじめまぶたに目を書いておこうかと思っている)。おなじように「ネクタイをゆるめ」て解放されたとき、風船のようにふわふわ浮かぶ「雲の名をひとつ知る」ことだってあるのだ。

 織姫の364の詩  同

七月七日の夜、一年に一度しか彦星に会えない織姫の364日。実際に会える日は、それはそれは嬉しいだろうが、彼と会えない日々のほうが想いの丈は案外高いかも知れない。
ええ、恋愛生活が充実しているひとへのやっかみで言うのだけど、いつでもどこでも会っている連中の詩はツマラン!

(つづく)

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2017年02月28日

「川柳木馬」第150・151号 合併号

川柳木馬 第150号・151号 合併号
発行人 清水かおり
編集室 山下和代

今年最初の「川柳木馬」誌は、恒例の特集「作家群像」が掲載されている。この「作家群像」は、現在活躍する川柳人ひとりにスポットを当て、そのプロフィール、作者のことば、自選60句、および二名の評者による作家論・作品論で構成された記事。

今回取り上げられている川柳人は徳長怜さん。わたしも大好きな作家さんであり、以前川柳スープレックスにも作品をご寄稿いただいた(Fw:舌)。また評者は新家完司さんと八上桐子さん。なんとも豪華である。
何はともあれ、掲載されている徳長さんの60句から数句引用してみよう。

 リエゾンであなたと波の音になる
 ちょんまげのあったところで感じてる
 デアゴスティーニそろそろ届く僕の首
 午前中なら消印は海ですが
 出し汁を煮詰めてみればジャコメッティ
 年表にネットカフェ紀がすべりこむ
 バス停は武士になる気で立っている


「リエゾン」「デアゴスティーニ」「ジャコメッティ」、このあたりは歌人ならいかにも使いそうだが、川柳人に使われると意表をつかれる。所属はふあうすと川柳社とプロフィールにあるが、もし毎回このような作品を提出しているのだとすれば、社内ではさぞかし異彩を放っておられるのではないか。それにしても徳長さんの作品、わたし好みだ。

評者の新家さんと八上さんは、徳長作品についてほぼ共通した印象をいだいているようだ。

独自性を目指しつつ伝達性をも考慮するのは難儀なことではあるが、それが生みの苦しみであり遣り甲斐のあることでもある。徳長怜作品には、その「独自性と伝達性」を併せ持たせた苦心の作品が多く見られる。(新家完司「徳長怜川柳を読む 〜多様な作品を生む自在な想い〜」)

詩的飛躍が過ぎると、良い悪いは別にして難解になる。その点で、共感性、大衆性のラインぎりぎりへ決まるスマッシュのような鮮やかさだ。(八上桐子「徳長怜を読む 〜海辺の時間〜」)

現代川柳には、コトバの可能性を模索する代償として、ともすれば読者を置いてけぼりにしかねない表現も見られる。またそれとは逆に、〈一読明快〉をテーゼとするあまり、既にひろく流通している観念をわざわざ川柳に仕立てあげ、既成観念を補強してしまう傾向も見られる。その意味で、「独自性と伝達性」「共感性、大衆性のラインぎりぎり」という葛藤は、表現にたずさわるあらゆる人間にとって大きな課題となる。と同時に、そこを突破するのが遣り甲斐につながっていく。

【会員作品・木馬座】
麦秋のぞわりとそよぐポピュリズム  畑山弘

納豆の疑心暗鬼をもてあます  大野美恵

栗の実のラストシーンは皆快楽けらく
  西川富恵

光源を探し求める展開図  岡林裕子

差し障りなければ図形に戻ります  内田万貴

うれしいを辿ってゆけば喉ちんこ  萩原良子

ハレルヤと女ともだち去ってゆく  清水かおり

片っぽの靴に余った夜がいる  小野善江

今号の木馬句評は小池正博さんが担当している。読んでいただくと分かるのだけど、こころなしかいつもより厳しい評になっている。しかし、いずれも肯ける正当な理由を示したうえでのこと。現代短歌や伝統川柳とは違い、詩性川柳には入門書が見当たらない。だから、こうした句評を参考にしながら徒手空拳で模索していくしかない。それは不安ではあるが、同時に開拓精神を刺激されもする。それこそがこのジャンルの魅力といえるのではないだろうか。


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