2021年08月05日

「Picnic」No.3 A

広瀬さんの「貼り紙は『しばらくドアを休みます』」は、どうしても今の時期が思い起こされます。去年から緊急事態宣言が繰り返し出され、飲食店の入口に「しばらく休業」のお知らせが貼られているのをよく見かけます。でも掲句では、店ではなくドアを休むのだという。え、ドアって職業だっけ? 一瞬本気で確認する自分がいるのです。まず上五に「貼り紙は」を置き、あたかも店の休業っぽさを醸し出しているところが作者の腕と言えるでしょうか。

野間さんの「裏漉しの続きをキルケゴールする」のばあい、キルケゴールがどのような人物かを調べたところで句意は取れないと思います。いやむしろ下手に知識があると、読みが無限のこじつけゲームになってしまうのではないでしょうか。だからと言って、キルケゴールが無意味なことをもって価値があると見なすこともできません。それでいいのだったら、川柳の自動生成装置が無作為に作句したものでもいいことになってしまうでしょう。この句は、裏漉しの続き→キルケゴールする、という表現によって読み手の感情に波紋を起こせるかどうかの冒険を行っているんだと思います。あくまで野間幸恵という一人称を保持したまんまでね。

 ◆ ◆ ◆

「Picnic」3号における野間幸恵さんの巻頭言は、「5・7・5を企む『Picnic』」と題されています。前半を引用してみます。

俳句を書きだして、かなり早い時期から言葉で景色を書くのではなく、言葉の景色を書くという意識になっていきました。それは言葉の関係だけに集中すると、575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという、嘘のような偶然の積み重ねによります。

別のところで広瀬ちえみさんや樋口由紀子さんもこれと同じようなことを書いていました。言葉の関係しだいで「575から異質な世界が現れる」「言葉が全く違う表情になる」というのは、わたしも作句や読みの過程でたびたび経験してきました。そのたびに思い出す思想家がいます。イギリスのマイケル・オークショットです。ここで少しオークショットの思想について簡単に触れてみましょう。

オークショットという人は、「知識」の種類をふたつに分類しました。ひとつは「技術知」、もうひとつは「実践知」です。技術知というのは、定式化して教えることができる知識のことを言います。たとえば川柳で言えば、入門書や通信コースで教えられる知識がこれにあたるでしょうか。

それに対して実践知というのは、文字どおり実践的な行為・行動・伝統・慣習などをつうじ、無自覚に体得していく知識のことです。なので、こちらは定式化ができず教えられません。暗黙的な知識です。実践知は川柳活動においてとても大切です。何回も何回も入門書を読んだ人が句会で特選をとったり、一句鑑賞に取り上げられる川柳を作れたりするかと言ったら、必ずしもそうではないでしょう。ようするに創作においては、技術知だけでなく実践知も必要になってくるのです。

この実践知(実践的知識)という領域は、スポーツ選手、プロの料理人、寄席芸人、また誤解をおそれずに言えば医者など、技芸をつきつめる世界に生きる人ならば、痛いほどよく分かるのではないかと思います。オークショットは、そんな実践的知識(および自由主義社会)のモデルとして「会話」を想定していました。わたしは、前掲の野間さんの巻頭言を見て、オークショットが述べる会話論を想い浮かべたのです。会話と短詩は、じつは似ているのではないか。以下、オークショットの会話論を引用しつつ、それを「現代川柳の読み」と重ね合わせてみたいと思います。( )内は飯島が付けました。

適切に言うなら、話言葉(句意)の多様性がなければ会話(現代川柳の読み)は不可能である。即ち、その中で、多くの異なった言葉(句意)の世界が出会い、互いに互いを認めあい、相互に同化されることを要求もされず、予測もされないような、ねじれの関係を享受することになる。

マイケル・オークショット著『政治における合理主義』(勁草書房)所収、「人類の会話における詩の言葉」(田島正樹訳)

会話が弾むためには、ある一つの観点(たとえばイデオロギーなど)から一つの結論にいたるようなことはなるべく避け、いろいろな文脈が交わっていたほうがいい。同じことが現代川柳の読みにも言えるのではないでしょうか。そもそも現代川柳は、言葉が欠落しているため文として不完全だったり、一見無関係な言葉と言葉が五七五の中で出合っていたりするわけですから、ある一つの句意に収めることは不可能です。ですから現代川柳の読みでは、人それぞれの読み方が交わり、相互に同化されないことが大切だとわたしは思うのです。

でも、一つの句意に収まらない川柳など無意義ではないか。そう思う人は少なくないと思います。確かに時事川柳などは、社会の役に立つために明確な意味を書くジャンルかも知れません。でもわたしは、時事川柳とて必ずしも句意が一つに収まるとは思いません。たとえば宮内可静の「老人は死んでください国のため」はどうでしょう? ここで再びオークショットを引用してみます。同じく( )内は飯島です。

会話(現代川柳の読み)においては、参加者達は、研究や論争にかかわるのではない。そこには、発見されるべき「真理」も、証明されるべき命題や、めざされるいかなる結論もない。
(中略)
また、会話(現代川柳の読み)の中で語る言語(読みの観点)は序列を型づくりはしない。会話(現代川柳の読み)は決して、外的な利益を産み出すべくくふうされた企てでもないし、賞をめぐって勝ち負けを争う競技でもなく、また、経典の講釈でもない。それは、臨機応変の知的冒険なのだ。
同上

臨機応変の知的冒険! 現代川柳の読みを表す言葉としてこれ以上のものはないかも知れません。たとえば俳句や短歌、既成川柳、時事川柳には入門書がありますが、現代川柳(ここでは木村半文銭―中村冨二―石部明といった系譜)の入門書はほとんどありません。それは、現代川柳がとことん「実践知」の文芸だからではないでしょうか。

現代川柳は定式がない文芸なので、正直言ってわたしのようなごく普通の人は、どう書いたらいいかが分からず、どう読んだらいいかも分からず、苦しむことが多いんです。でも、それと同時に、自作を推敲したり他者の作品を味わったりするとき、定式がないその分だけ臨機応変の知的冒険を楽しんでもいるのですよ。

この臨機応変の知的冒険が、野間さんの言う「575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという」こととつながっている気がしてなりません。
(おわり)
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2021年08月03日

「Picnic」No.3 @

Picnic No.3
編集:野間幸恵・石田展子
定価¥1000

かたち良きくちびる残すギリシャかな  大下真理子
スプーンは遠い国から来たようだ  樋口由紀子
ガムテープ顔の上には顔があり  〃
週三で通う段差ダンサーズ  榊陽子
朝死が眩しい行ってみようか  〃
蓮根を食べると穴の味がする  月波与生
錠剤になった幸せそうな人  〃
覚めながら裂けながら書く手紙かな  岡村知昭
牛乳や行方不明の語られず  〃
数学の苦手な人も噛むパセリ  中村美津江
貼り紙は「しばらくドアを休みます」  広瀬ちえみ
さみしさになる永遠のハンモック  野間幸恵
山羊座など後ろが開くワンピース  〃
底冷えのビルなり絶対音感  〃
裏漉しの続きをキルケゴールする  〃


7月に「Picnic」の3号が出ました。今回の参加者は15名。どのような集まりなのか私もよく分かっていないのですが、五七五という共通項をもとに、俳人や柳人の区別なく集まった同人誌のようです。

また、これもよく分からずに言うのですが、参加者の皆さんは俳句や川柳の主流派(と何となく見なされているもの)と書き方が違っているように思えます。だからこそ、こうしてジャンルの区別なく集まれるのかも知れませんね。

ここでいくつか句を見てみましょう。樋口さんの「ガムテープ顔の上には顔があり」、何だか奇妙な情景ですね。でも、阿部寛や松重豊といったノッポの俳優さんが出ているドラマでは、縦のツーショットを見かけることがあります。つまり「顔の上には顔があ」るわけです。特定の条件がなくては生じない「顔の上には顔」ではありますが、ガムテープという庶民的な小道具があることによって、ごく日常的な風景に思えてくるから言葉って不思議ですよね。

榊さんの「週三で通う段差ダンサーズ」ですが、じつは以前テレビ朝日の「タモリ倶楽部」の中で、タモリさんが先んじてこのシャレを使っていました。けっこう昔の放送です。その回ではたしか、東京は世田谷の明神池跡をタモリ一行が訪ねていました。検索してその場所を見れば分かるのですが、そこは池の跡地だけに少々低くなっていて、階段で降りるようになっています。その高低差に萌えを感じたタモさんが、俺は段差好きのダンサーっすから、みたいに言っていたのですよ。だから正直言うと、掲句のその部分に関してはネタバレして読んだのです。でも、段差ダンサーズに「週三」で通うのがおかしくて思わず笑ってしまいました。段差ダンサーズって音感も映画のタイトルになりそうでおもしろい。ちなみにわたしも国分寺崖線・湧水好きのダンサーである。

月波さんの「蓮根を食べると穴の味がする」ですが、ザ・川柳という感じがして、とても嬉しくなります。読みの可動域において格差がある川柳界ではありますが、この句はどんな層の柳人でも味わえるのではないでしょうか。尤も、どんな層でも味わえると言ったばあい、川柳界では一読明快な句を指します。それは実際のところ「言われなくても知ってます」という平板句であることが多いのだけど、月波さんのこの句は一読明快でありつつも平板ではないですよね。このセンスが今の大吟社の川柳に少なくなっていると思うのです。
(つづく)
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2021年03月03日

「川柳ねじまき」第7号A

「川柳ねじまき」第7号@

 羽のびるホック外したところから  早川柚香

わたしが子供の頃からよく通る道に鳥類を扱うペットショップがあります。その店の前には、まるで看板娘のように、フクロウがいつも横木にとまっているのです。よく馴れていて、けっして飛んで逃げることはありません。それがとっても可愛くて、子供の時分は店の近くまでくるとワクワクしたものです。でも、たまにですけど、畳んでいた羽をぐわーっとひろげて大きく伸び(?)をすることがあるんです。昔はこちらも小さかったんで、そんなときはちょっとビビってしまいました。掲句を読みしばらく経ってからそんな記憶がよみがえってきたのです。ただ忸怩たる思いなのは、これほど素敵な句なのに初見のときはまったく別のことを連想したのです。イッチョメ イッチョメ ワオ! ……すみません、わからないひとは置いていきます。

 三センチ伸びた淋しさ卵割る  米山明日歌

辞書を引くと、「淋しい」はもっぱら人が孤独を感じているニュアンスに用いられるのだそうです。様子や情景ではなく、心理的な孤独感を表すのですね。ですから語り手は、何かが三センチ伸びたことによって孤独を感じているのでしょう。でも下五で卵を割ったことによって、中七までの淋しさが(たとえほんの一瞬であっても)断ち切られた感覚が伝わってくる。これで見事に句が締まりました。掲句では何が三センチ伸びたのかは明示されていません。でもそれこそ17音の良い面だと見るべきかも知れません。というのも、これ以上文字数が多かったら野暮だと思うんです。仮にあと14音多かったなら、たとえば「長ネギが三センチも伸びるほど貴方に逢えないままで淋しい。しゃぶしゃぶの卵を割ろう」なんて平平たる内容を書く破目になるかも知れないのですから。

 すごくやさしいもっとやさしい蜘蛛の糸  三好光明

と思って油断しているとやっぱり切れちゃう。これは今年一番の怖い句です、まだ三か月しか経っていないけど。平仮名で書かれた「やさしい」のリフレインが罠のように思えちゃう。しかも「すごく」「もっと」まで付いているんですよ。これは怖い。蜘蛛の糸や蜘蛛の巣って情緒がある反面、個人的にはちょっと怖いんです。おそらく子供の頃に、1958年のSF映画『ハエ男の恐怖』をテレビで観たからだと思います。その映画では、顔と腕が人間のハエが蜘蛛の巣にかかってしまい、捕食される寸前のシーンがあるのですが、掲句を読んだ後、ハエ男がミクロサイズの声で「助けて」と叫ぶのがよみがえってきちゃいました。余談ですが、わたしは『夏の夜の夢』みたいに頭が動物でその下は人間というのは平ちゃらなんです。でも頭がヒトでその下が動物となるとゾッとします。なぜなのでしょうね。

 あ、というかたちのままで浮かぶ声  瀧村小奈生

浮かび上がるものとして「声」を捉えているところが素敵です。その声が「あ」であるところもいい。「あ」は〈あわ〉や〈あぶく〉に通じます。また中七「かたちのままで」の4つのa音は、「あ」のかたちが保持されたままの様子がイメージされますし、下五「浮かぶ声」の2つのu音と1つのo音は、口をすぼめる発音であることから泡の形状がイメージされます。

 芒ゆれて常にもがもな風もがな  同

「常にもがもな」というと、源実朝の〈世の中は常にもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも〉を思い出します。百人一首に入っている歌ですね。もがな・もがもなは願望を表す、と古典の授業で習うものだと思います。掲句でもそれでいいと思うのですが、「もがもな・もがな」のリフレインはオノマトペとしても機能しているように思います。風とそれに揺れる芒の音でもあり、風景と同化していく語り手の心情の音でもあり。永井陽子の短歌〈べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊〉を思い出しました(『樟の木のうた』、短歌新聞社、1983年)。
(おわり)

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2021年03月01日

「川柳ねじまき」第7号@

nejimaki7.JPG
「川柳ねじまき」第7号
発行人:なかはられいこ
編集人:川柳ねじまき制作委員会
定価:550円(税込)

「川柳ねじまき」♯7が発行されました。今回は表紙が写真ではなくイラストです。フクロウと目玉焼きの取合せ。いろいろと想像がふくらみます。

『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)を読んで川柳に関心をもたれた方なら、「川柳ねじまき」も気に入るかも知れません。注文は、ねじまき句会のブログの記事『ねじまき#7』で受け付けているそうです。

それでは以下、全体の一部ではありますが作品を見ていきます。

 どうも、どうも、どうも、と春の雪が降る  なかはられいこ

辞書を引くと、単に「どうも」といってもいろいろなニュアンスがあるようです。だから掲句も、「やあどうも!」という挨拶の意味合いだけではないかも知れません。なんの因果か、どうも桜とコラボをすることになっちまいまして、という飄々感。こんな時季に降っちまってごめんよ、という謝意。あれ、もしかしてオヨビでない? というばつの悪さ。そういうのをすべて併せ持った「どうも」だと受け取りました。ちなみに、どうもで思い出すのは〈どうもどうも通りすがりの黄色です〉という川柳(小野善江、「現代川柳ゆうゆう夢工房」2010年4月の句会)。初心の頃とても惹かれたのであります。

 撫でてやるざらざらしてる「けんざかい」  同

テレビ東京系列の番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」を観ているひとはわかると思うのですが、路線バスだけで県境を越えるのはとても難しい。その番組では県境越えがゲームのポイントになっているわけです。わたしたちの身近なところでも、たとえば市の境界線でまったく違う風景になることってありますよね。そういうことを考えながら県境の「ざらざら」と「撫で」るをイメージしました。また「ざら」と「ざか」の音的な近さも「撫でてや」った効用かな、と思ったりします。ところで川柳や短歌の世界ではこのような作品を読むとき、立体地図などに触っている実景を想定する方がいます。もちろんそれでいいのですが、言葉が実景化する手前を味わうたのしみもある、とわたしは考えています。

 朝がきて空が青くて、なんか、ごめん  同

この句を見てすぐに思い出したのは〈いっせいに桜が咲いている ひどい〉でした(松木秀、「おかじょうき」2015年5月号)。「空が青くてなんかごめん」でもなく、「空が青くて、なんかごめん」でもなく、「空が青くて、なんか、ごめん」であること。これは打つべき二つのテンであって、たとえばお題が〈句読点〉だから何となく使ってみたという感じはしません。

 雨と雨のあいだに挟む小倉あん  八上桐子

漉しあんでも粒あんでもなく「小倉あん」なのがいいです。雨→粒あんの流れだと一読明快でつまらない。また雨と雨のあいだ→漉しあんの流れでもそのまますぎる。雨と雨のあいだ→小倉あんという流れだからこそ、関係性にねじれが生じてオッ! となるのだと思います。小倉あんは漉しあんに蜜漬の小豆をまぜたもの。漉しあんとも粒あんとも違うわけです。掲句の雨と雨のあいだには、まるで小倉あんのように、語り手の心情や環境にモードチェンジが起こるのかも知れませんね。

 団塊はアランドロンと波裏富士  丸山進

「団塊」と「アランドロン」と「波裏富士」。浪裏富士というのは富嶽三十六景「神奈川沖波裏」の富士山でしょうか。さて、まずアランドロン。団塊世代の若い頃、美男の象徴といえばアランドロンでした。なので「君は日本のアランドロンだ」なんて言えば最高の誉め言葉だったと聞きます。ちなみにDA PUMPのISSAが〈平成の火野正平〉なんて呼ばれていた時期があるのですが、それは昭和時代に火野正平がモテ男の象徴だったからです(いまは自転車に乗っているオジサンのイメージですが)。まあ、そんなわけでアランドロンと団塊の関係はよくわかるのです。でも浪裏富士のほうは唐突感があります。なぜ葛飾北斎。北斎の富嶽三十六景が版行されたのは北斎が七十代前半のとき。現在の団塊世代と似たような年齢ですね。何となくそのあたりをほのめかしている気はします。ただ、アランドロンから波裏富士への流れに読み手が意表をつかれれば、それで成功の句だと思います。ちなみに固有名詞を使った短歌に次のような作品があります。〈日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫〉(黒瀬珂瀾『空庭』、本阿弥書店、2009年)。
(つづく)
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2021年01月08日

川柳雑誌「風」119号

川柳雑誌「風」119号
編集・発行 佐藤美文
年4回発行(1・4・7・10月)
年会費 3000円

昨年の暮れに「風」119号が届きました。十四字(短句・七七句)が特徴のグループ。何句提出してもよし(ただし選はあり)。興味がある方は年間3000円なんで参加してみてはいかがでしょう。

今号、わたしは20句以上の句稿を提出。作品を出すのも珍しいのですが、20句以上作句するのも珍しい。そもそも、わたしは文芸に選ばれた人間ではなく、縛りがなければ1年間、川柳も短歌も短句も創らず過ごしてしまうことでしょう。詩人特有の感性を備えているかもあやしい。歌も句も技術で創っているつもりです。

【会員作品・風鐸抄】
もういいかいまあだだようと糸電話  伊藤三十六
へべれけのれけ舌が回らぬ  山田純一
ぼくだけ居ない地図をひろげる  本間かもせり
山羊を数えて数えても山羊  〃
天気予報が当てる古傷  坂本嘉三
うふふふふっと王手飛車取り  星野睦悟朗
鍵を失くして霧にさまよう  森吉留里惠
賢治の星へGoToが行く  中島かよ
煮つまる脳へレモンたっぷり  渡辺梢
アレアレアレで詰まる喉元  齊藤由紀子

くるぶしが岩か島かで揉めている  飯島章友
四十路まで順調だった桂剝き  〃
雨樋も神がお通りなさる道  〃
だとしたら稚魚らは川の空白ね  〃
泣き叫ぶ夕日を額に入れてやる  〃
夜を翔けゆく白抜きの文字  〃
木漏れ日に手を振っている祖母  〃
封蝋を解くようなくちづけ  〃
筋肉質の遮光カーテン  〃
りんごのごには悲しみがある  〃

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