2016年06月02日

【ゲスト作品を読む】清水かおり「グレースケール」を読む柳本々々−非在のてまえ−

六月のゲスト作品は清水かおりさんの「グレースケール」でした。

今回の清水さんの作品から私が考えてみたいのは〈非在の一歩てまえ〉をひとはどう言語化するか、ということについてです。

たとえば「グレースケール」というのは濃淡のある白黒表現のことで、写真や画像をグラデーションのある白黒にすることなんですが(白黒でも濃い黒や薄い黒など濃淡がつく)、それってすべてが「白」になるかすべてが「黒」になるかの〈非在の一歩てまえ〉の世界だと思うんですね。世界をグレースケール=白黒で表現しなおしたときに、それはだんだん〈非在〉の世界にちかづいていく。でもそのちかづいていく世界のなかでしか〈みえてこない世界〉がある。

それはどういうい世界か。

  見覚えのグレースケールこそ世界  清水かおり

それは句が教えてくれています。「見覚えのグレースケールこそ世界」と語り手は語っている。つまり、〈グレースケールの世界〉ってどんな世界なのかっていうと、〈記憶=見覚えの世界〉なんですよ。それは今ある現実の世界でもない。かつての過去の世界でもない。写真に痕跡された世界でもない。未来のCGの世界でもない。今と過去に宙づりにされた、記憶のグラデーションのなかの〈世界〉なんです。それが〈見覚えの世界〉です。そしてそれが〈非在の一歩てまえ〉の世界です。だってひとはその世界を次のしゅんかん、わすれてしまうかもしれないから。

だから語り手はあるときは視線に〈どん欲〉です。それは、なくなってしまうかもしれない。次のしゅんかん、〈非在〉になってしまうかもしれない。

  草いきれ見たいもの視て奪うなり  清水かおり

世界のすみっこにある「卵焼き」も逃さない。というよりも、むしろこれから〈非在〉になるかもしれない世界では〈端〉にある「卵焼き」のほうが大切なんです。それは〈記憶の痕跡〉=思い出になるかもしれないから。

  天動の端にのっかる卵焼き  清水かおり

もちろん、この〈非在一歩てまえ〉の世界そのものが〈そもそも非在〉であるという可能性もあります。

  容から海市へ そもそも非在  清水かおり

卵焼きは、「容(かたち)」をもたず「海市」=蜃気楼かもしれない。けれど、この世界、じつは語り手ひとりの世界ではないんです。たとえそれが〈非在一歩てまえ〉の世界であり、語り手がいつかこの記憶を忘れそうになったとしても、この世界には誰かが記憶を交換しにやってくるかもしれない。

するとまた〈非在〉はいきいきしはじめる。記憶は、わたしだけのものではない。〈だれか〉のものでもあるんです。その〈だれか〉から受け取るわたしの記憶の世界だって、ある。

  夏の水 誰が替えるかわからない  清水かおり


posted by 柳本々々 at 12:44| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月12日

平岡直子「ABC」を読む柳本々々

今月のゲスト作品は平岡直子さんの「ABC」でした。
で、タイトルは同作品内にある「ABCマート」から取られていると思うんですが、同時に、平岡さんの連作には川柳のABC(いろは)も描かれているようにおもうんですね。
だから、川柳はいつもここから始まって、ここに向かって消えていくようにおもうんですよ。それが川柳のABCです。

川柳がこれまで引いてきたさまざまな境界の引き方。

たとえば、こんな句をみてみましょう。

この世には座薬があるという顔だ  平岡直子

これは普遍性(この世/顔)が固有性(座薬)によって確定されてしまうという川柳特有の認識なのではないかとおもうんですね。「座薬」といった一見世界を規定しそうにはみえないものが〈普遍化〉されて、そこから「この世」が確定されていく。

これは、

ABC-MARTのかがやきは夜霧  平岡直子

石鹸も回るよ地図を回したら  〃

の、「夜霧」を規定する「ABC-MARTのかがやき」、「地図」を規定する「石鹸」にもあらわれているとおもいます。

また別に、まったく違うものを並列化させてしまうということも川柳に特異な認識です。

花びらと画数のどちらかが薔薇  平岡直子

「花びら」と「画数」という具象性と抽象性が臆することなく並列化されています。

こんなふうにここには川柳がこれまで培ってきた川柳の認識、川柳のABCが展開されているようにおもうんです。

で、さいきん、思っているのは、川柳は認識のチャンネルが特異であるために、川柳と精神分析学は親しいのではないかということなんですが、たとえばこんな句を精神分析学の観点から読んでみるのもおもしろいかもしれません。

水面から濡れたまま現れるパフェ  平岡直子


posted by 柳本々々 at 10:07| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月01日

「PEACH JOHN/兵頭全郎」を読む柳本々々

chapter01 鬼は修行を終えて海  兵頭全郎

今月のゲスト作品は全郎さんの「PEACH JOHN」でした。
この連作でわたしがかんがえてみたいのが、「chapter01」から始まっていて、「chapter02」で終わっているところなんです。
これが、まず面白いなっておもいました。

さいきん、グリーナウェイの『ザ・フォールズ』っていう映画を観なおしていたんですが、これも映画をチャプター志向でかんがえる映画っていうか、ともかく99人の鳥と飛行と墜落にとりつかれたひとびとがでてきて、その99人を辞書的に記述していく映画なんですね。だから、この映画は物語が記述をうむのではなく、記述が物語をうむ映画なんです。
もっといえばどこからはじまってもいいし、どこでおわってもいい。すべては記述なので。全体性としての、パッケージングとしての映画ではなくて、部分的な、チャプター志向の映画なんですよ。

で、この前郎さんの連作。句っていうのはひとつのチャプターになっているわけです。全体のなかのひとつのチャプターです。けれど、全体を知らなくてももちろん句ひとつだけでも意味は成り立つ。だから全体のなかの一部でありながら、その一部そのものが全体にもなっている。そうした句と全体の関連性がこのチャプターにはある。

で、もうひとつ。この連作の最後の句は、チャプター2で終わっているけれど、2もあるってことはチャプター3もあるかもしれないということですよね。4も5も。この連作の外部に。
ということは、この連作自体もひとつの〈チャプター〉なんだとかんがえることができます。つまり、連作がたくさん並んでいってまたひとつの全体ができあがるというような。そのなかのひとつとしての〈チャプター〉としての連作になっている。

で、連作ってなんなのかをあらためて考えてみた場合、そうした個と全体性のたえまない往還関係を創造することなんじゃないかっておもうんですね。それは決して閉じた閉鎖系としてのパッケージングではなくて、無数にあちこちが反射しあって細部からひらかれていくそういう複雑系とでもいえばいいんでしょうか。それが、連作なのではないか。いや、連作化する連作なのではないか(構造化する構造のような)。
そういう創造のしかたが連作の可能性としてあるのではないかとおもうんですね。

たとえばこの連作は〈桃太郎〉の気配にみちているけれど、でもタイトルは女性向け下着通販会社になっている。でもピーチジョンってなんだか和訳としては桃太郎のようなかんじもする。じゃあこの往還関係はどうなっているんだろう、とか。こういう往還関係がこの連作のなかになあちこちに仕込まれているようにおもう。

そういう往還関係をいかに個と全体性の関連性のなかで仕込んでいくか。それが連作には問われているようなきがするんですよ。
連作って、なんなのか。

桃剥いて桃の血を吸うカリキュラム  兵頭全郎

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posted by 柳本々々 at 19:11| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月01日

【ゲスト作品を読む】瀬戸夏子を読む柳本々々

ときどきちょっと思うのは、絵にあらわしえないこと、イメージしがたい領域をことばによってつくることも短詩型の魅力なのではないかということです。そういう絵に描けないことの大切さというものがあるんじゃないかと。文学には。

で、ですね。なんでそんなことを考えたかというと、以前、瀬戸さんの歌集から短歌の絵を描いてみようかなと思ったときに、非常に難しかったんですね。

でもそのとき思ったのは実はむしろそれは逆の発想としてみるべきで、瀬戸さんの短歌がそういうふうな意味構築を志向しているんじゃないかっておもったんです。つまり、イメージを疎外するようなつくりになっている。

たとえば瀬戸さんの歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』から任意に一首とりだしてみます。

たくさんの春を指にはめて 両手に ひろい 信号が病院のなかにある  瀬戸夏子

たぶんこの歌のイメージを描くときに病院のなかにある信号の絵を描いただけではこの歌の絵にならないとおもうんですよ。「春を指にはめて」という強いイメージが上の句にあるので。ただじゃあ「春を指にはめて」と「信号が病院のなかにある」をどうイメージとして接着させるか、そもそも接着することが正解なのかどうか、絵を描こうとするとそういうところに悩むとおもいます。

つまり、イメージしえないばらばらなイメージの断片として受け取るのがこの歌なのかなともおもうんです。

たとえば今回の連作「のちのガルシア=マルケスである」でも

くだものと青と呼吸の二重否定  瀬戸夏子

という句がありましたが、これもイメージの否定を生成している句だとおもうんですね。絵に描けないつくりになっていますよね。

で、実はこうした反イメージを短歌で生成してきたのが瀬戸夏子さんなら、イメージを疎外する反イメージを川柳で生成されてきたのが兵頭全郎さんなんじゃないかっておもってるんです。たとえば、

なまあくび猫は回転不足のショー  兵頭全郎

こういうイメージを疎外する句のつくりになっている。これも絵に描けない構造になっている。

で、こうした短詩には反イメージの領域を描くことができるっていうことはとても大切なことのように思います。というよりもしかしたら定型詩にしかこういうことってできないんじゃないかともおもうんです。

つまり、反イメージを生成しても最終的には定型が主体の審級=担保となってくれる。だからそれは短歌や川柳として成立することができる。だからこそ、ひるがえって、反イメージというものを成立させることができる。定型詩だからこそうみだすことのできるアンチ・イメージの領域。

短歌や川柳は〈イメージの豊かさ〉みたいなことがよくいわれたりすることももしかしたらあるかもしれないけれど、いやそれだけじゃないんだ、積極的な・戦略的な・あえての〈イメージの零度〉によってだけ成立させることのできる〈反イメージ〉としての短詩文芸という領域があるんだということもけっこう大事なことなんじゃないかとさいきんおもっています。

そういえばマルケスの『百年の孤独』は最終的に物語がすべての〈零度〉にむかうお話でした。





posted by 柳本々々 at 18:19| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月05日

【線を読む】傷痕を元カノ他と数えてる  月波与生(を読む柳本々々)

傷痕を元カノ他と数えてる  月波与生

「線」というお題で提出された月波さんの句。
月波さんの川柳にはいつもどこかそのお題から派生される人間の関係性がわきだしてくる。題詠とは、〈関係性〉に変異するものなのだ。

ここにはリストカットのような傷の線だけでなく、「元カノ他」という〈関係〉の線もある。
「元カノ」と「他」のあいだにも〈線〉がある。しかし、「元カノ」ということばにも「カノジョ/元カノジョ」という線がある。
ここにはむすうの線があるのだ。
そして線とは、関係性のことなのだ。

わたしたちはよく題のもとに川柳や短歌をつくったりするけれど、詠むという行為を線を引く行為なのかもしれない。

ちなみにわたしは昔、ベッドから騎士のようにダイヴしておりたら失敗してしまい、そのときについた傷がまだ消えません。
どうゆうことなのか。




posted by 柳本々々 at 05:09| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする