2015年12月18日

たらちねの→↓←↑(びっくり)にんげんのははは  月波与生

「月刊おかじょうき」2015年11月号より月波さんの句です。
まず、目が行ってしまうのが「→↓←↑」なんですが、これ、格闘ゲームの技入力(スティックを右・下・左・上と動かす)を想起させますよね。
それが合っているかどうかは別として、というか、正解なんて無い。
この句に、正解なんてないからです。
「おかじょうき」誌上で、むさしさんがこれは「見る句」ではないかと指摘をされていますが、「見る」ことに正解はない。
「読む」ということも、ひとつの正解があるわけではありません。多種多様な、読んだ人の数だけ正解がある。「解釈」っていうのはそういうことですよね。
だけどそこには、どうしても「正解」ができてしまう。
読者の数だけ、解釈の数だけ正解が導き出されてしまうのが、「読む」ということだと思うのですよ。
納得のしどころができてしまう、と言えばいいのかな。
対して「見る」ことに正解はない。
「見る」こと自体には価値判断(解釈?)は含まれていないはずで、言い方を変えると、ある人が映画を「見て」、感動した時、それはその物語を「読んで」解釈しているということなのだと思います。
だから、「見る」と「読む」は対称した関係ではない。
「見る」ことは「見る」こととしか遂行できないのです。
人が何かを「見た」とき、そこには少なからず惑乱が混じってきます。解釈が出来ていないから。「こ、これは何なんだ」というおそれとおののきですね。
で、この句ですが、「→↓←↑」だけではなく、全体が「見る句」なんだと思います。
「たらちね」も「(びっくり)」も「にんげんのははは」も、解釈を拒んでいる。意味がない、って言えば簡単なんだけれど、文芸作品のいわゆる「ナンセンス」とは違う。すべてが「見る」レベルに僕たちを留まらせて、「読む」という地点に行かせない。
だから、そういう意味でこれは読みようによっては(「読みよう」?)「怖い句」なのだろうし、「見る句」なのでしょう。
見ること。惑乱すること。怖れること。
それを川柳でやってくれる人がいる。
川柳には、こんな可能性がある。
何かこう、わくわくしてきませんか。
僕は、します。
ところで→↓←↑って何の技でしたっけ、と「正解」を求めるのも、人間の哀しい性であります。

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2015年05月18日

妖精は酢豚に似ている絶対似ている  石田柊馬

恥ずかしい話です。
僕は、川柳についてあまりにも無知です。
(それなのに、偉そうなことばかり言っていて、すいませんでした)

「これではいかん」と思って、『セレクション柳人2 石田柊馬集』(邑書林、2005年)をあらためて読んでみました。

そして、巻頭のこの句に、があーん、とやられました。

妖精が……酢豚に……似ている?

んなあほな、と思いつつ、納得してしまう、何かがあるんですよね。
それはたぶん、妖精と酢豚の共通項を見つけることではなくて、「妖精」と「酢豚」って、やはり全然似ていないと思うんですよ。
そうでなければ、「似ている絶対似ている」と強調なんかしないわけで、これは、「似ていない」と言っているのも同じですね。

その二つが、「似ている」でイコールに結ばれていること。
それはたぶん、飯島章友さんの川柳論で言及されていた、「問いと答え」の問題とかかわってくるのでしょう。

「妖精は酢豚である」という「AはBである」というイコール。
でもこのイコール、極限まで突き詰めたたイコールなんですね。
「似ている」ということは、「同じ」ではない、もっとこう、暗い陥に落とし込まれることですから。
この句、「似ている絶対似ている」と呪言のように繰り返すことによって、「問答体」を越えてしまっているんです。
「問答体」を究めることによって、問答体という川柳の形式を問い直す、こう言っちゃ軽いですが、批評になっている。
だからこの句は川柳、というものの構造を考えさせられる句になっているし、メタ川柳、でもあると思うのです。
これからは酢豚をつくるとき(そして食べるとき)、妖精、が見えるといいな。

最後に。
僕は、「石田柊馬」という作家に、惚れてしまいました。
だからこの文章は、公の場を借りた、ファン・レターであります。
乱文お許しください。
posted by 川合大祐 at 07:18| Comment(0) | 川合大祐・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月23日

百万遍死んでも四足歩行なり  飯田良祐

句集『実朝の首』(川柳カード叢書・2015年)より。

目を逸らす、そのことを忘れるくらい迫ってくる句である。
その迫ってくる力感はどこにあるのか、「なり」をきっかけにして、少し考えてみたい。

なぜ、「四足歩行なり」にしたのか。
言うまでもなく「なり」は断定の助動詞だが、「四足歩行」を強調したければ、たとえば、
「四足歩行である」
「四足歩行」
と言い切ることもできたはずだ。
作者が破調を恐れる作家でないことは、この句集の他の句を見ればわかることで、
それがなぜ「四足歩行なり」にしたのか。

当たり前のことを言う。

五七五にするためである。

誤解しないでいただきたい。
単なる字数合わせのために、文語体を使ったのだとか、そんなことを言いたいのではない。
「百万遍死んでも四足歩行」の緊張を漲らせた句が、そんな弛緩した精神を持ち込むわけがない。
ここから先は、僕の妄想になるが、
檻、
に閉じ込めたかったのだ。

川柳は檻である、と昔書いた。
スープレックスのテスト版にもそんな小文を書いたので、いつか機会があれば再掲したい。
それはともかく、僕にとっての川柳は檻だった。
五七五という定型。
それは僕にとって檻であり、その檻の不自由さのなかではじめて自由を夢見ることができる、そんな内容だったと思う。
(だから方哉も山頭火も、ある意味業に似た不自由さから逃れられなかった、という気もするのだが、それはまた別の折に)
そんな僕のアプローチと、この句のアプローチは、どこか違う。

この句は、自ら檻に入ったのだ。
五七五の檻に、自らの獣を閉じ込めるために。

その獣はどうなるか。
檻の中で、鉄格子から溢れるほど躰を充満させ、せつないほどの精気を漲らせ、「外」へ殺気になるほどの叫びさえぶつけて来る。
それが、読み手が感じさせられる迫力の正体だ、と思う。
それは、「生」の力だ。
もう一度この句を読んでいただきたい。
「生」という文字は一字も使われていない。
しかしまぎれもなく、この句は、生きるということの咆吼なのだ。

僕は基本的に、作者の境遇には関心がない。
しかし飯田良祐氏が、望まない死を選んだ人であったとしても、
この句には、僕は、「生」の炸裂を感じる。
たとえ百万遍死んだとしても。
五七五の檻の中であったとしても。

あなたの生は、どうしようもなく、あなたのものなのだ。

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2015年02月16日

朝顔の昨日プロレスラー死せり  きゅういち

『ほぼむほん』(川柳カード叢書・2014年)より。

「スープレックス」にちなんで「プロレスラー」の句を選んでみた。
というのは半ば冗談で、半ば本気である。
半ば本気、というのは、「プロレス」というジャンルのあいまいさ、さびしさを思うからだ。
プロレスは格闘技ではない。
八百長、というのも、ショー、というのも少し違う気がする。
最近の新日本プロレスなどは、開き直って、完全なショーに徹しているようだが、まあそれは興味のない人も多いだろうから置いておく。
ただ、「プロレス」というジャンルにこだわって、格闘技とショーのあわいで、迷いつつ、闘いつづけるプロレスラーたちもいる。
彼らはあいまいで、さびしい。
そしてカッコ悪い。
そのカッコ悪さは、僕たちと共通する「あれ」だ。
もうお気づきであろう、「これは川柳なのか俳句なのか」という「あれ」だ。

掲出句、確かに川柳句集に入っている。
僕は俳句には素人以下の知識しかないのだが、この句は、俳句になってしまうのか、川柳として成立しているか、どうなのか。
俳句には「季語」と「切れ」が条件とされる。
ここで考えなければならないのは、「朝顔の昨日」だろう。
朝顔、は秋の季語である。(異論もあるようだが)。
しかし季語と同じ言葉があるからと言って、それが季語の役割を果たしているかどうかは断定できない。
「朝顔の昨日」は、「朝顔や昨日」のように「切れ」てはおらず、その点で川柳的と言えるだろう。
朝顔の昨日。
何というか、川柳の手ざわりを感じる言葉づかいだ。
またしかし、「朝顔の昨日」と「プロレスラー死せり」の間には意味の切断・飛躍があり、「切れ」であり、俳句的と言えないこともない。
だがしかし、しかし……。

やめよう。

定義などやめよう。

迷おう。

「これは川柳であるのか、俳句であるのか」
そうやって迷うことが、迷うジャンルが、迷いそのものが、川柳だと言ってしまえばどうだろう。
その迷いは、僕らが棺桶まで引き摺っていけばいい。

昨年、俳人の西原天気さんにお目にかかったとき、正確には覚えていないのだが、
「最近、三十音字以上の俳句を作った」
と仰っていた。
僕が驚いて「それは、何をもって俳句としているわけですか?」と尋ねると、西原さんは少し考えて、
「スタンス、だな」
と仰った。
自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。
そう語る姿はとても、カッコよかった。
ただ、僕が目指すものは、そういうカッコよさではないな、とおぼろげに思った。

話は脱線する。
昨日の世界の話をする。
ジャイアント馬場、というプロレスラーがいた。
もう知らない世代も多いかと思うが、カッコいい、とはとても思えないプロレスラーだった。
「ショーマンだ」「動きがのろい」「腕が細い」と、散々馬鹿にされていた。
それでも、彼は多くの人に愛されていた。
ある時、「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」というキャッチコピーを打ったりしていた。
彼がプロレスを独占できたかどうか、僕にはわからない。
ただ、僕は彼を愛した。
彼の「プロレスラー」でしかない、さびしい、カッコ悪いたたずまいが、たまらなく好きだった。
ジャイアント馬場、享年六十一歳。
死ぬまで、現役のプロレスラーだった。

たぶん、そういうことだろうと、思う。
posted by 川合大祐 at 06:33| Comment(0) | 川合大祐・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月15日

おっぱい × n二乗(セカイ系)  柳本々々

『川柳カード7号』2014年11月号より。(「第一回川柳カード誌上大会・題「世界」樋口由紀子 選・入選)

何だこれは、と驚く。
そして何だこれは、と考える。
立ち止まる。
たとえば次のような句であれば、立ち止まりもしなかっただろう。

(改悪例) おっぱいがいっぱいあってセカイ系

これでは「普通」の「川柳」である。
しかし、意味は何となく、通りやすい。
これで見えてくるのは、掲出句が「ノイズ」で出来た句だと言うこと。

「季語は、ノイズだと思うんです」
この前お会いしたとき、柳本さんは言った。
「ノイズって、他者の言葉じゃないですか」
それがとても面白い言葉だと思って、その言葉にヒントを得てこの文章を書いている。

「おっぱい」というのは、他者のモノだと思う。
中城ふみ子『乳房喪失』のように、乳房をわがものとして引き受ける表現もあるが
(しかしそれも「喪失」を経てなのだが、その点については、いつか)、
それはあくまで「乳房」だからだ。
「おっぱい」はあくまで自分の外部、どこまで行っても他者のモノなのだ。
(母のおっぱい、妹のおっぱい、アイドルのおっぱい、アニメのあの子のおっぱい……)
他者のファルス、などと書けばラカンっぽいが、詳しくないので書けない。
話を戻せば、「おっぱい」はノイズなのだ。

それが、さらに「 × n二乗」だという。
「おっぱいがいっぱい」ではない。
(しかし、こんなにおっぱいおっぱい書いたのは久しぶりだ)
計算式というのも、いわゆる「文芸」からすればノイズだ。

柳本さんの言葉を借りれば、「ノイズは、他者の言葉」ということになる。
「セカイ系」について、私は表面的な知識しか持たないが、「世界」と「私」が直に接続されてしまう、そういう現象だと理解している。
そこに「他者」はあるのだろうか。
そこにノイズはあるのだろうか。
逆に言えば、そこには他者しかないのかもしれず、ノイズしかないのかもしれない。
そんな「世界」を表現するのに、掲出句は(セカイ系)と、()でそっとくくった。
  おっぱい × n二乗(セカイ系)
このフォルムには、これでしか有り得ない、必然性がある。
掲出句は、まぎれもない世界を表現した。

いや、世界をつくった、のかもしれない。

川柳は世界だ。
世界は川柳だ。
そのノイズを引き受けること。
この句は、ひりひりするほど、リアルだ。
posted by 川合大祐 at 12:59| Comment(3) | 川合大祐・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする