2017年04月11日

まれびとと桜浅草十二階  なかはられいこ

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まれびとと桜浅草十二階  なかはられいこ

「川柳ねじまき」第3号より。

わたしはかねてより「川柳ねじまき」誌と、そのもとになっている「ねじまき句会」の川柳が大好きだ。現代川柳はコア層向けの作風からライト層向けの作風までいろいろあると思うけど、ねじまきの川柳はあらゆる層の方々にお勧めしたい。とてもポップな柳誌なのだ。

掲出句。
まず言葉の意味から調べてみると、「まれびと」は《まれに来る人の意》で、@「民俗学で、異郷から来訪する神をいう。人々の歓待を受けて帰ると考えられた。折口信夫の用語」、A「まろうど」すなわち「訪ねてきた人、客、客人」、という意味がある。

また「浅草十二階」は「凌雲閣」の通称で、「東京都台東区浅草公園にあった煉瓦 造り12階建ての建物。明治23年(1890)建設。東京名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で半壊、撤去された。通称、十二階」。

ちなみに、浅草十二階=凌雲閣といえば、石川啄木も『一握の砂』にこんな歌を残している。

 浅草の凌雲閣りよううんかくのいただきに
 腕組みし日の
 長き日記にきかな


「凌雲閣」「いただき」「腕組み」「長き日記」という言葉が共鳴しあい、時間的にも空間的にもゆったりとした長さが感得される。

さて、掲出句を読んでまっさきに面白いと感じた点は、(五・七・五の真ん中の七音にあたる)中七に表れた音の混ざり合いにある。ちょっと掲出句をローマ字で示してみよう。

marebito to sakura asakusa-junikai

つまり、中七の「桜」と「浅草」が主に、s音、a音、k音、u音で構成されているため、「桜」ということばと「浅草」ということばがじわじわと混ざり合い、滲み合い、あたかも音によって融合されていく感覚が生じるのだ。言い換えるなら、作中に登場するヒトやモノの〈空間〉的なへだたりが徐々に無効になっていく感覚だ。ちなみに作中に登場するヒトとは、花見にやって来た「語り手」と「まれびと」。作中に登場するモノとは、「桜」と「浅草十二階」である。

〈空間〉的なへだたりが徐々に無効になっていくとはどういうことなのか。
かりに掲出句を、@「〈語り手〉と〈まれびと〉は眼前に〈桜〉を見ており、そのすこし向こうのほうには〈浅草十二階〉が見える」という位置関係で読んでみる。すると、中七部分の音の融合があたかも近距離ワープの役割を果たし、「語り手・まれびと・桜」の側と「浅草十二階」との間にある遠近感が無効化されていくと思うのだ。

別の位置関係で読んでみても同じである。A「〈語り手〉と〈まれびと〉が眼下に〈桜〉を見渡している、この〈浅草十二階〉という場所から」という位置関係で考えてみよう。中七部分の音の融合によって、「語り手・まれびと・浅草十二階」の側と「桜」との間にある空間的なへだたりが徐々に無効化されていく感覚が生じてくる。いわば、あちらとこちらの位置関係が徐々に意味をなくしていくのである。

また、このワープ感に気づくと、この中七の音の融合は、過去→現在→未来という〈時間〉の不可逆な進行方向すら無効にしているのではないかと思えてくる。「まれびと」と共に浅草へ花見に来た「語り手」が、「まれびと」の不可思議な能力によって過去にタイムリープし、90年以上前に潰えた「浅草十二階」を見てしまった、というふうに。

掲出句は、登場するヒトとモノの位置関係が判然としない。どこに言葉の切れ目があるのかも少々あいまいだ。それゆえ句意をつかもうと思ってもどうもつかみがたい。にもかかわらず、わたしを惹きつける要素がある。「まれびと」「桜」「浅草十二階」という、まるで夢と現のあやうい境界線上に存在するような句語が慎重に選択されているが、それらには儚さゆえの蠱惑的な魔力がある。たとえるならばこの句は、蜃気楼にも似たおもむきを醸している。
わたしがその妖しい文体の魔力に嵌って何回も何回も読み返している短編小説がある。江戸川乱歩の『押絵と旅する男』だ。その冒頭は、夢と現が倒錯する出来事が起こる予兆のように、主人公が魚津に蜃気楼を見に行ったシーンではじまる。

 蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空にうつし出したようなものであった。
 はるかな能登半島の森林が、喰いちがった大気の変形レンズを通して、すぐ眼の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡の下の黒い虫みたいに、曖昧に、しかもばかばかしく拡大されて、見る者の頭上におしかぶさってくるのであった。それは、妙な形の黒雲と似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリわかっているのに反し、蜃気楼は不思議にも、それを見る者との距離が非常に曖昧なのだ。

江戸川乱歩著『押絵と旅する男』


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2015年12月16日

魔物とも知らずバケツに手を入れる    石部明

2010年7月・川瀬晶子主宰「かもめ舎」の月例句会「乃木坂de5・7・5」
席題「バケツ」近藤良樹選より

石部明さんが亡くなって3年が過ぎた。わたしが石部さんと初めてお会いしたのは、この句会のときである。当時、石部さんはお仕事でよく東京にお出でになっていたのだが、このときは仕事の合間に「乃木坂de5・7・5」に参加されるということを事前に知り、ぜひ石部明に会ってみたいと思ってわたしも同句会へ参加することにしたのだ。「川柳大学」の吉祥寺句会には一回参加させていただいたことがあるが(かばんの会が歌会で使用している会場とおなじだった)、かもめ舎の句会は初めてだったので当初は構えてしまうところもあった。でも、石部さんに加えバックストローク同人の江口ちかるさんも一緒だったので、だいぶ緊張がほぐれていった憶えがある。

以下、石部明さん、江口ちかるさん、わたしの結果を、石部さんのブログ「顎のはずれた鯨」より引用する。石部さんは二回特選になっている。わたしは川柳を始めて1年経つか経たないかのころ。作風はいまと違うだろうか、それともあまり変わっていないだろうか。石部さんがデータとして残してくださったことで、当時の自分をこうして検証できる。本当に有難い。

 席題 「バケツ」  近藤良樹 選
 バケツから月を逃がしてよく眠る   ちかる
 特選  魔物とも知らずバケツに手を入れる   明

 席題 「盗む」  石部 明 選
 水鏡に盗まれているワタシかな   ちかる
 濁音を盗みとったのは三日月   章友
 なづきから名前を盗むひとつずつ   ちかる
 軸吟  青い蜥蜴の背中の青を盗まれる   明

 ◆宿題 「傷」  杉山昌善 選
 正論を今も信じる古い傷   章友
 闇夜にはだらりの帯のように傷   ちかる
 鉄塔の傷のひとつに眠る月   ちかる
 自傷した胸にも湧いてくる樹液   章友
 特選  一本の線いっぽんの傷である   明

 ◆宿題 「海」    川瀬晶子 選
 精巧な裏切りがある海の青   章友
 海すこし巻きとられゆく月の夜   ちかる
 産道の湾の形を振りかえる   明
 脇腹のあたりとくんと海の音   ちかる

標題にした「魔物とも知らずバケツに手を入れる」は、違うグループの句会であるにもかかわらず石部明をしかと感じさせてくれる。「ぎっしりと鞄に詰めてある悪事」(『賑やかな箱』)、「びっしりと毛が生えている壷の中」(『遊魔系』)、「少年の魔物を飼っているバケツ」(『冬の犬』)といった石部さんの先行作品のパターンだ。パターンというと、近代的なオリジナル信仰の観点からは消極的に聞こえるかも知れないが、作家の個性はパターンの組み合わせだと思う。このことは先日もKabamy(かばんの会の勉強会)でレポートした。石部さんの詩想は、石部明という個性を踏まえたうえでパターン化され、そのつど一句として新鮮な姿を見せてくれる。

句会の全結果をご覧になりたい方は以下のリンクからどうぞ。
乃木坂de5・7・5

 * 

句会が終わってから、ちかるさんやかもめ舎の方々もまじえて六本木へくり出した。そこでは石部さんに、現代川柳についての疑問をいろいろぶつけた。現代短歌で培った読み方では「バックストローク」の川柳をどうも読み解けない、とお話してみた。石部さんは、意味どおりに読み解けてしまう書き方じゃオモシロくないんだよ、と仰った。わたしは、それって俳句に近いつくり方だと想っていいんですか、と質問した。いまから思うとそうとう無神経だ。石部さんはすこし間を置いてから、そうだねぇ、最初はそう思って書いてもいいかも知れないねぇ、とお答えになった。やさしい。

今年は小池正博さんと八上桐子さんによるフリーペーパー「THANATOS 1/4」が発行された。石部明の軌跡をたどるたいへん貴重な作業だと思う。そういうまとまった資料も参考にしながら、わたしは今後も石部明について考えていきたいと思う。

posted by 飯島章友 at 22:30| Comment(2) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月08日

速贄の僕らのあらわなる肢よ   清水かおり

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2011年1月1日発行の「Leaf」vol.3より。
ちなみに上部の画像は表紙ではなく扉絵。

「Leaf」誌は清水かおり、畑美樹、兵頭全郎、吉澤久良の4人が立ちあげた柳誌。掲出句は、メンバーの作品欄とは別枠の「共詠4 plus 1」より引いた。plus 1というのは、メンバー4人に加えて湊圭史がゲスト参加しているという意味だ。この共詠欄では、「消失」というテーマで5人が5句ずつ提出しあい、鑑賞文を掲載している。

掲出句は、初見から非常に興味をおぼえた作品。それにもかかわらずこの約5年間、イメージが定まらないままに、素性の分からないままに付き合ってきた不思議な句だ。以下、わたしの中で掲出句がどのように変転してきたのか、その道のりを思い起こしながら書き綴ってみようと思う。

まず、「速贄」の意味をどう捉えればいいのか迷った。

「速贄」には、〈百舌の速贄〉と〈初物の供え物〉という二通りの意味がある。わたしは最初、それを〈百舌の速贄〉の意味で捉えてみた。さらに「僕たち」という一人称複数から、青年もしくは少年たちが〈百舌の速贄〉として串刺しにされ、肢がだらんと垂れている光景をイメージした。それは、次の短歌がわたしの脳裏に焼き付いていたため、自然に類推されたのだと思う。

 棒高跳の年天【そら】につき刺さる一瞬のみづみづしき罰を  恂{邦雄『日本人靈歌』
 火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて飛ぶ  春日井建『未青年』

恂{と春日井の短歌に通底するのは、青年の跳躍する一瞬に〈死〉を重ねる感覚であり、また躍動する青年の生や肉体が罰せられる感覚だと思うが、わたしはこの二首を見るたびに「聖セバスチャンの殉教図」を連想する。それは、木や柱に縛られた青年に数本の矢が刺さっている場景で、多くの画家によって描かれている。

「聖セバスチャンの殉教」へ連想がいたったとき、「速贄」を〈供え物〉の意味で捉えるのも捨てがたくなってきた。〈殉教〉も〈供え物〉も、神に命を捧げる点で宗教的だ。清水の句を恂{や春日井、聖セバスチャンの系譜で鑑賞するとしたら、〈初物の供え物〉の方向性だってありうる。

〈初物の供え物〉が神に差し出される、というイメージは、わたしに次の俳句を思い出させた。

 百合鷗少年をさし出しにゆく  飯島晴子『朱田』

上掲句について飯島晴子はこんなふうに書いている。

 この句が出来上がったとき、私は今から約四百年の昔、イエズス会の宣教師に連れられてヨーロッパへ渡った天正少年使節を思い出した。しかし決してあの九州の少年達を描いたのではない。
 具体的な場面の選択は読者にまかせて、ただ、華やかな傷ましさへの嗜好が出ていればよいのだが──。
『飯島晴子読本』(富士見書房)


「速贄」を〈百舌の速贄〉とするにせよ、〈初物の供え物〉とするにせよ、わたしのばあいどこか〈天〉のイメージにつながっていくようだ。そういえば、平成22(2010)年、第二回木馬川柳大会・吉澤久良選「ひらく」の特選になった清水の句は、「モーゼの海を渡りゆく思惟 一羽」という〈天〉に関わる句だった。

このような経緯で、「速贄」の意味がどっちつかずなまま掲出句を愛誦しつづけていた。伝達が目的の散文と違い、短詩では〈意味は分からないけど惹きつけられる〉という次元があるかと思う。わたしにとって掲出句は、まさにそんな感じだった。

ところが、そんな不透明な状態にも転機が訪れた。それは、「肢」という漢字に注目したのがきっかけだ。そのときから俄然、「速贄」を〈初物の供え物〉と解する方向に固まっていった。というのも、「足」「脚」「肢」には一応の使い分けがあるようで、そのばあい「肢」は哺乳動物に多く用いるというのだ(大辞林 第三版の解説)。恥ずかしながら、「肢」の使い分けを意識したことは全くなかった。

「肢」を哺乳動物の〈あし〉と捉えてみたとき、「速贄」は神に捧げられる純潔の羊や牛、すなわち〈初物の供え物〉とするのが理屈だと思えるようになった次第だ。

哺乳動物の供え物、という風習に触れたことがなく少々イメージをしにくかったので、『旧約聖書』に出てくる燔祭を想いうかべてみた。アブラハムが神への生贄として、わが子イサクを捧げようとした「イサクの燔祭」は有名だ。

しかし──と、次からつぎに別の疑問が生じてくる句なのだが──〈供え物の僕ら〉の意識が自分たちの「あらわなる肢」に向けられているのは、どんな意味があるのだろうか。そこで躓いてしまった。かりに生贄の動物が肢を縛られている様だとしたら、少々情緒に欠けてしまう。

そこで、何か手掛かりがつかめないものかと句の構造を見てみた。「速贄僕らあらわなる」というふうに、助詞や形容動詞で言葉がつながれながら「肢」に向かっていく。そして最後は助詞の「よ」によって、意識が「肢」に固定される。読み手の印象が「あらわなる肢」に誘導される構造である。

傷ましく、逃れようのない「速贄」の状態にありながら「あらわなる肢」に意識を向け、同時にそれを誇示するかのような「僕ら」。

こうした非動物的な自意識に気づいたとき、哺乳動物であるはずの「僕ら」は、人間の少年の「僕ら」として再構築された。これが特殊撮影であるなら、毛むくじゃらの哺乳動物たちが徐々に人間の少年と二重写しになり、やがて完全に人間となる感じだろうか。そして画面に映し出されるのは、まるで石膏像のようにすべすべした〈あらわなる脚〉である。

このとき、速贄の僕らの〈あらわなる脚〉は、生贄の精神性や肉体性や文化性を抜き取られて〈オブジェ〉となった。このように見なせば、共詠テーマの「消失」とも符合する。そして、そのような〈オブジェ〉化は、まるで西洋絵画の中に少年がはめ込まれたような次の歌と通じるかも知れない。

 少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて  葛原妙子『原牛』

〈オブジェ〉として鑑賞すればよい、と思い至ったとき、〈意味は分からないけど惹きつけられる〉という地点に還った気がする。

 *

ここにいたるまで、連想に連想を重ねて相当な回り道をしてきた。しかも、串刺しになった少年・青年のイメージが消えたわけではない。この句に触れるたび、おのずとそのイメージが浮かんでくる。自分の固定観念の強さにはなんとも驚くばかりである。

言葉は伝達性の機能ばかりでなく、蓄積性・アーカイブズ性の機能もあわせもつ。だから、句語やテクストの全体が、神話や伝説、古典文学といった歴史性を呼び起こすことがある。清水の速贄の句から先行する事物に連想が飛んだのも、そのような言葉の機能が十全に発揮される要素をそなえた句だからかも知れない。少なくともわたしという鑑賞者にとってはそう思える。

今こうしてこの文章を書いているあいまにも、掲出句は醗酵しつづけている。

 少年の裸は白いエジプト忌  石部明「バックストローク」33号



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2015年10月18日

トイレあけるとがぜん犀でした   柳本々々

『おかじょうき』2015年9月号所収、柳本々々「がぜん犀」より。

むかし『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』(ポール ストラザーン著、浅見昇吾訳・青山出版社)という本を読んだことがある。
当時、現代保守思想の内容を感得するには、フリードリヒ・フォン・ハイエクの自生的秩序論と、彼の親戚にあたるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は知っておかなくちゃ、と見当をつけていた頃なので、わぁ90分でわかるんだ、すげえ、てなことで飛びついたわけだ。

その本の中で、ヴィトゲンシュタインと彼の先生だったバートランド・ラッセルに関するこんなエピソードが紹介されていた。
ちなみにラッセルは当時「人間は経験から知識を得るのだ」と考えていた。

ラッセルが「私は部屋に犀がいないことを知っている」と主張しても、ヴィトゲンシュタインは納得しない。論理的には、犀が部屋の中にいることも可能である、というのである。ラッセルはこれを受け、「その犀はこの部屋のどこにいることができるんだい」と尋ね、椅子の背後や机の下を覗き込んだ。それでも、ヴィトゲンシュタインは譲らなかった。「ラッセルは部屋に犀がいないことを確実に知っている」ことを絶対に認めなかった。

これは、ラッセルが経験にしたがって〈私はいつもと部屋に差異がないことを知っている〉としているのに対し、ヴィトゲンシュタインは〈ラッセルはいつもと部屋に差異がないことを確実に知っているわけではない〉として一歩も引かなかった、と言いかえられそうだ。
あるいはこうも言いかえられるかも知れない。
ラッセルは、部屋がいつもと類似しているから犀(差異)は存在しないとしているのに対し、ヴィトゲンシュタインの方は、部屋がいつもと類似しているとは確実に言えない、したがって犀(差異)は存在可能である、という立場なのではないだろうか。

 トイレあけるとがぜん犀でした 
 

「がぜん」というのは〈突然に〉〈俄かに〉という意味だから、作中主人公が想定していた通常のトイレの状態に反して「犀でした」=「差異でした」ということになる。
ラッセルならば、〈私はトイレを開けると犀でないことを知っている〉というだろうが、ヴィトゲンシュタインはそう考えなかったことだろう。
その意味で掲出句は、ヴィトゲンシュタインに近いレベルで書かれているといえそうだ。

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2015年07月18日

わかろうとするから線がふるえだす   ひとり静

ひとり静の第2句集『海の鳥・空の魚U』(新葉館出版)より。

ひとり静さんとお会いしたことはないが、お名前は以前からよく知っていた。
筆名(ですよね?)がオモシロいので覚えたという面もあるが、それよりも、わたしが川柳の情報を得ようとネットや柳誌に触れていく中でおのずと覚えた川柳人だ。
そして、おのずと覚えてしまったというそのことが、何ともいえず感慨深い。
それは川柳界ならではの事情による。

川柳には柳壇がない。
新聞の川柳投句欄としての新聞柳壇こそあるものの、短歌での歌壇に相当するような規模の公や共同意識やネットワークは、少なくともわたしの経験したかぎり川柳には存在しない。
また、若い歌人たちは、既成歌壇とはべつの場をインターネットによって形成しているが、それに相当するようなものも川柳ではまだまだ発展途上だ。
川柳人はネットを使って交流し合ったり、情報発信することがそれほどないのだ。
これは良いとか悪いとかのお話ではない。
要は川柳人の共有領域というのは狭いんですよ、という現状のお話だ。
穂村弘や斉藤斎藤の名前を当然知っていて、作品にもかならず一度は触れているという前提で交流できる短歌界とは環境が違うというお話だ。
その意味で、わたしの狭く偏った川柳領域に既知の存在としてひとり静さんがいることは、ちょっぴり大げさかも知れないが〈縁〉のようなものを感じたりしてしまうわけである。

さて、掲出句。
何を「わかろうとする」のか対象は明示されていないが、ふつう「わかろうとする」ことは理性的な態度である。
また、他人の気持ちを「わかろうとする」ならばヒューマニズム的な態度でもある。
だから一見善いことのように思える。
でも、「わかろうとする」ことは、「線」=境界を越えて侵入していくということにもつながり、客体によって主体の領域が脅かされる事態ともいえる。
「ふるえだす」という措辞は、「わかろうとする」こと全般がもたらす領域侵犯の惧れがあらわれているのではないだろうか。

例をあげれば、ストーカーの恐怖というのは、過剰に「わかろうとする」ことにあるといえるだろう。
また、ちょっと次元は違うかも知れないが、国家間でもおなじことがいえそうだ。
ひと昔前のようにインターナショナル、国の際と際、つまり各国〈間〉という国際関係性であれば、相互関係のことなのだから悪い気はしない。
だがグローバル、つまりグローバリズムにのっとった〈世界規模〉を主張されると、わたしのばあい臆病だから「ふるえだ」してしまう。
このばあいは、じぶんの国のあり方が強い国によって無化されてしまう危険性に震えてしまっているのだが、それでもグローバルスタンダードは〈分かり合う基準を設けましょう〉という提言から始まるのだからおなじである。

このように「わかろうとする」ことの裏面を考えた途端、掲出句は〈穿ち〉の句としてたちあがってくる。

 線いっぽん引いただけでも意味がある
 まとまると重たくなってくる善意


おなじ句集にある作品だが、これらをあわせ読むことで作者の感じ方が一層うかがえる気もする。

さて、掲出句のように、ひとり静の川柳には〈省略〉による抽象の妙という特長がある。
 
 背景にキリンの首を敷き詰める
 ピーマンという前例はありません
 触れられたとたん善玉菌になる
 ほとんどが水分なのに偉そうに
 ちょっと目をはなすと増えているゴリラ


何の背景か、何の前例か、誰が触れたのか、何が殆ど水分なのか、何処でゴリラが増えているのか明示化されてはいない。
しかし、それによって散文としての欠落感が生じ、その欠落感によって逆説的に川柳としての屹立感が生れている。
こういう構造は、川柳であれば徳永政二や畑美樹の作品に、短歌であれば東直子の作品によく見られる。

 よくわかりました静かに閉める窓   徳永政二『徳永政二フォト句集1 カーブ』
 こんにちはと水の輪をわたされる   畑美樹『セレクション柳人12 畑美樹集』 
 つぶしたらきゅっとないたあたりから世界は縦に流れはじめる  東直子『青卵』


外山滋比古の俳句評論で『省略の詩学 俳句のかたち』(中公文庫)という本があるが、90年代以降、川柳や短歌にも省略の妙があじわえる作品が増えてきたと感じる。
そして、今回取り上げたひとり静は、その流れの最前線にいる川柳人とも思える。

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