2018年12月30日

一晩だけ預かっている大きな足  樋口由紀子


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樋口由紀子さんの第三句集『めるくまーる』(ふらんす堂)が2018年11月に出た。ちょいとサイケっぽくて、くらくら目がまわーる感じのタイトルと表紙だ。上半期には八上桐子さんの句集『hibi』(港の人)が出て、現在も川柳および川柳外の人たちから好評である。お二人とも「うみの会」という神戸の川柳勉強会に参加されている。うみの会に勢いがあるのだろうか。あるいは、現代川柳じたいに勢いがあるということかも知れない。この十年、目に見えて若い書き手が増えてきているし。

『めるくまーる』を何回か読んでみて改めて感じたのは、樋口さんの書き方の多様さだ。たとえば、決めつけの強さが妙な説得力とおかしみにつながっている「恣意的に弁当箱は右に寄り」、意図的な舌足らずが前句としての七七やお題を想像させる「あの松を金曜日と呼ぶために」、ただごととしての「綿菓子は顔隠すのにちょうどいい」、見立て・趣向で魅せる「はらわたのビー玉行ったり来たりする」、時事に直結する「前転で近づいてくる中近東」、時事よりももっと根本的な時代批評を感じさせる「ビニールの鞄の底はニヒリズム」などなど。

そんな川柳の可動域が広い樋口さんだが、彼女の川柳作品の大半には或る姿勢が感じられる。それは「日常が非日常に見えるよう工夫する」ということだ。たとえば以下の句はどうだろうか。

一晩だけ預かっている大きな足

最初に感想からいうと、「大きな足」だからこそ目に留まった句だ。仮に「大きな腹」や「大きな尻」だったらチープなトホホ川柳になってしまうだろうし、「大きな首」や「大きな頭」だったら芸のない猟奇川柳だし、「大きな手」や「太い腕」だったらさほどイメージが刺激されない。ところが「大きな足」だったら、そこはかとないおかしさが滲み出てくると同時に、大きな足を預かる異様さに驚異をおぼえる。また、それと裏腹に「足」という部位からは、どこかドスンと地に足がついた現実感や生活感が醸し出されてもくる。だから、身体の部位を選ぶならやはり足、それも大きな足が川柳に適っていると思うのだ。

さて、この「大きな足」という表現、じつに短詩型らしい。というのは、大きな足が何なのかという〈全体像〉が切り捨てられ、視点が〈部位〉にのみ集中しているからだ。これが散文であれば「大きな足の孫を一晩だけ預かっています」とか、「足の石膏像を一晩だけ預かっています」とでも書いて、大きな足の正体を明記できるだろう。それに対して上掲句では、大きな足のみクローズアップして、それが包摂されている全体像は書かれていない。十七音では書くだけのスペースがないこともあるだろうが、むしろレトリックとして意図的に全体=正体が切り捨てられ、大きな足にだけスポットライトが当てられているのだろう。それによって、ありうべき散文的光景が異様な光景へと一転している。先に「日常を非日常的に見えるよう工夫する」のが樋口さんの姿勢だといったが、上掲句では〈視点〉の置き方を工夫することで、ありうべき光景を非日常的光景に仮装させているように思う。

こういうふうに考えてくると、たまに見かける「現代川柳はSF的だ」という議論に、そう簡単には肯けなくなる。なお同句集には、「ダブルベッドのどこに置こうか低い鼻」「前足はさもしいゆえに考える」など、同じような書き方の句が他にも散見される。


大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも  北原白秋『雲母集』

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2018年02月15日

七月のセロリの筋を通したい   瀧村小奈生


七月のセロリの筋を通したい  瀧村小奈生

瀧村小奈生さんを意識したのは、「湯豆腐の大和魂らしきもの」「敷島の大和に降らす太田胃散」(「川柳ねじまき」♯2)という抜群なセンスの句に触れてからだ。そしてこの頃からだと思うけど、瀧村さんの川柳には言語遊戯が散見されるようになった。川柳スープレックスにご寄稿いただいた「射干玉の」でも折句的な手法(縦読み)が使われている。

言語遊戯は、近代という生真面目な時代に短詩文芸から取り除かれた。そして現代もまた、生真面目な時代になりつつある。グレーゾーン(矛盾・逆説・二律背反)をなくしていくため社会を合理的に統制しよう、というのが世界的な潮流だからだ。それだけに、掲出句のような小気味好い言語遊戯に接すると、愉しさばかりか解放感すらおぼえる。ちなみに、先日掲載した「川柳ねじまき」♯4での引用句も、半分近くは言語遊戯的な作品だった。

さて掲出句は、読んですぐ分かるように「筋」の一語が、「セロリの筋」と「筋を通したい」の両方にかかっている。まるで真っ直ぐに伸びている線路が駅に到着する手前で分岐し、1番線ホームでなく2番線ホームに入っていくような句だ。

この句の良さは、文字どおり筋が通っているところにある。というのも第一に、言葉として「セロリの筋を通したい」は十分あり得る措辞であるということ。第二に、文脈としても「七月」→「セロリの筋を通したい」という流れは、理屈として筋が通っているということ。セロリのことは全然詳しくないけど、七月はセロリの植え付け時期なのだという。このようにきっちり筋を通していればこそ、わたしはこの句と盃を交わしたくなるのだ。
 
「セロリの筋を通したい」は、「筋」という言葉が持つ異義を利用した言語遊戯・レトリックであるけれど、これと似たものが前近代にはあった。ひとつはお馴染みの「掛詞」であるが、もうひとつは「もじり」である。もじりは、同じ音からなるコトバに二重の意味を持たせる言語遊戯だ。次の句は、「ふりそでめした」という中七に二重の意味が込められている。

お姫様 ふりそでめした 月の笠 

ねづっち風にいえば、「整いました! お姫様とかけまして、月の笠と解きます。その心は、振袖召した(降りそで召した)のであります」といった感じだろうか。もうひとつ例を挙げてみよう。

小娘の とのほしさうな 破れ窓

この中七からは、「殿欲しさうな」と「戸の欲しさうな」が炙り出されてくる。以上の二句は『つばめ口全』より。

言語遊戯をはじめとするレトリックに対しては、しばしば「それはレトリックにすぎない」という言葉を耳にする。不真面目であるとか、詭弁を弄しているだとか、レトリックにはそんなイメージが付いてまわるのだろう。でも、この世界が矛盾・逆説・二律背反の複雑さに満ちており、その全体像を見通すのが困難だとしたら、直截的な表現では間に合わない。したがって、レトリックに活路を見出すほかないと思う。瀧村小奈生さんのレトリックがどこへ向かっていくのか、今後もアンテナを張っていきたい。

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2017年12月23日

足長の三里手長が据へてやり  葛飾北斎

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足長の三里手長が据へてやり  葛飾北斎


『誹風柳多留』85篇より。
ご存じの方も多いと思いますが、葛飾北斎には川柳家としての顔がありました。号は卍。江戸時代の川柳秀句集『誹風柳多留』では、84篇から125篇のあいだに北斎の川柳が182句採られています。

掲出句、「足長手長」というのは妖怪のなまえ。こういう二匹の妖怪がいるのです。「足長」の脚の長さは3丈(約9メートル)、「手長」の腕の長さは2丈(約6メートル)もあり、体格に比して脚や腕がとても長い。ちょうど、脚や腕を伸ばしたときの「怪物くん」(藤子不二雄A 著)のような感じですね。この妖怪、活動するときはいつも「足長」が「手長」を背負っています。二匹で一匹というわけですな。この「足長手長」の灸治の場面は、北斎によって漫画でも描かれています(画像参照)。

「三里」というのは北斗神拳でいう経絡秘孔……あ、いえいえ、お灸を据える経穴(ツボ)のひとつです。膝頭の下約6センチ、脛骨の外側のあたりです。「三里の灸」という言葉もあるくらい、お灸の中でも代表的な経穴だそうです。

足長くんは脚が極端に長いものですから、自分でお灸を据えたくても三里まで手が届かない。そこでパートナーの手長くんが据えてあげるわけです。麗しい句ではありませんか。

 ◇ ◇ ◇

谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』の中で、むかしの日本にあった陰翳の情緒が失われてしまったことを嘆いています。たしかに近代は明るくなりすぎ、妖怪も居場所をなくしてしまった感があります。短詩型文学も近代以降は、〈私〉や〈自然〉や〈社会〉ばかりが題材になって、妖怪の出番はなくなってしまいました。しかし、何が本当で何か虚偽なのか、人びとが確固たる信念をもてなくなった昨今、むかしの日本とはまた違うありかたで妖怪の棲息する闇が生じている気がします。今後どのような妖怪川柳が詠まれていくのでしょうね。

最後はこの季節にふさわしい江戸時代の妖怪狂歌を一首。

硝子ビードロをさかさに登る雪女 軒のつらゝに冷やす生肝いきぎも  和風亭国吉

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2017年09月27日

巨大蟻から逃げる地下道  島 一木


巨大蟻から逃げる地下道  島 一木

『十四字詩作品集U』(川柳雑誌「風」発行所 編・新葉館出版)の島一木(しま・いちぼく)「そよかぜ」より。

川柳には定型が二つある。ひとつは、おなじみの五七五。そしてもうひとつは七七。
七七のほうは「十四字詩」とか「短句」などと呼ばれ、既成の五七五川柳とは別分野のように扱われることもあるのだけど、べつに十四字詩の協会があるとかそういうわけでもない。実際、十四字詩はおもに川柳人によってつくられている。まあ、むかしの前句附では、五七五のほかに七七を付けるばあいもあったのだが、いまでは七七がつけられることは殆どないといっていいだろう。だから、七七は川柳のもうひとつの定型として機能し、川柳分野に所属している。

ちなみに十四字詩は、あきらかに人手不足、若手不足だ。開拓精神がある若手は是非とも挑戦されたし。十四字詩については小池正博著『蕩尽の文芸──川柳と連句』(まろうど社)の第五章がわかりやすい。また、わたしも以前、十四字詩について記事を書いたので、興味をお持ちの方は以下も参考にしてください。

川柳雑誌「風」95号と瀧正治

掲出句。近年はマンガやアニメの「進撃の巨人」が話題になったり、あるいは映画「ジャックと天空の巨人」が2013年に公開されたり、あと、わたし個人の中では今ごろになってジャイアント馬場がブームだったりと、何かと巨人が取り上げられることがある。でも、ここでは巨大蟻ですよ。何だろう、動物の巨大なのって、わたしの中では1933年公開の映画「キングコング」とか、1965年公開の「フランケンシュタイン対地底怪獣」などに出てきた大ダコとか、1975年公開の「ジョーズ」とか・・・いやジョーズは違うな、とにかく、そういうむかしの特撮のイメージがある。

掲出句も特撮映画を観るような迫力があるのではないだろうか。「地下へ逃げ込む」ではなく「逃げる地下道」としたことで立場の逆転感が出ているし、「地下道」に逃げ込んだことで「巨大蟻」の大きさまで想定できる(「地下へ逃げ込む」ではいまいち蟻の大きさが想像できない)。まあしかし、蟻ってあんなにちいさいのに噛まれたりするとすごく痛いのだから、「巨大蟻」に噛まれたらヒトなんていう柔な生き物はたやすく切断されてしまうだろうな。

◇ ◇ ◇

ところで、このまえ発行された「川柳サイド」の第2号でわたしは、五七五や七七という川柳の既成定型以外にも挑戦してみた。三四、三三三、五七、七五五などのフォルムだ。それをしてみて自覚したことがある。それは、短くするのなら七七までで、それ以上短縮させたばあい非常なる苦労をしいられるということだ。三四だと、上三は二音の語+助詞ということになる。これだと二音の言葉を探すことで労力の殆どをつかってしまい、しかもその労力のわりに納得のいく作品ができないのだった。
けれども、その経験を経たことで、五七五・七七という定型がなぜ伝統になったのかが自覚できた気はする。

伝統や慣習などというと、戦後はブーワードとして用いられてきた面がある。わたしはソ連邦が崩壊し、戦後思想の夢が壊れたあとに学生になったこともあり、伝統というものに必ずしも悪いイメージはなかった。それどころか、いったい自分は何者だろうという、学生らしい実存的問題も芽生えてきたものだから、伝統なるものを探ってみたいと思うようになった。
そこで、戦後思潮に大きな変化が生じて解禁された感のあるエドマンド・バークの思想とか、それ以外にもトマス・エリオット、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、フリードリヒ・ハイエクなんかを読んでは、伝統について考える日々をおくった。で、それらの思想にふれての結論をいうと、伝統とは最初から保持されているものではなく、〈再帰的〉にたち現われるものだということだった。〈再帰的〉にたち現れ、自分の生を成り立たせている過去の人びとの営みの総体を示唆してくれる感覚である。一例をあげると、いまこうして〈自由〉に思考することができるのは、自分に先行する言語があるから──わけても連綿と更新されてきた日本語があるからだと気づくようなことである。

今回も川柳の定型──五七五と七七以外のフォルムに挑戦することで、わたしの中でそれらが〈再帰的〉にたち現れたしだいである。


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2017年09月25日

私をちぎって置いていく返事  畑美樹


私をちぎって置いていく返事  畑美樹

セレクション柳人『畑美樹集』(邑書林)より。
この句の主体にではなく、おのずと相手の側の立場になって戦慄し、肌が粟立ってしまう句だ。こちらへの恨みごとや責任をとう書置きならまだいい。腹いせにこちらの所持品が壊されていたのであっても耐えられる。ここでは、相手が自分じしんを千切って無言の返事を残しているのだ。

畑美樹にはこんな句もある。

 雨だれの向こうに黙礼のカラス  (「Leaf」vol.2)

おもえば畑美樹には、口頭で言葉を交わしあう双方向性の句がない気がするのである。


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