2017年09月27日

巨大蟻から逃げる地下道  島 一木


巨大蟻から逃げる地下道  島 一木

『十四字詩作品集U』(川柳雑誌「風」発行所 編・新葉館出版)の島一木(しま・いちぼく)「そよかぜ」より。

川柳には定型が二つある。ひとつは、おなじみの五七五。そしてもうひとつは七七。
七七のほうは「十四字詩」とか「短句」などと呼ばれ、既成の五七五川柳とは別分野のように扱われることもあるのだけど、べつに十四字詩の協会があるとかそういうわけでもない。実際、十四字詩はおもに川柳人によってつくられている。まあ、むかしの前句附では、五七五のほかに七七を付けるばあいもあったのだが、いまでは七七がつけられることは殆どないといっていいだろう。だから、七七は川柳のもうひとつの定型として機能し、川柳分野に所属している。

ちなみに十四字詩は、あきらかに人手不足、若手不足だ。開拓精神がある若手は是非とも挑戦されたし。十四字詩については小池正博著『蕩尽の文芸──川柳と連句』(まろうど社)の第五章がわかりやすい。また、わたしも以前、十四字詩について記事を書いたので、興味をお持ちの方は以下も参考にしてください。

川柳雑誌「風」95号と瀧正治

掲出句。近年はマンガやアニメの「進撃の巨人」が話題になったり、あるいは映画「ジャックと天空の巨人」が2013年に公開されたり、あと、わたし個人の中では今ごろになってジャイアント馬場がブームだったりと、何かと巨人が取り上げられることがある。でも、ここでは巨大蟻ですよ。何だろう、動物の巨大なのって、わたしの中では1933年公開の映画「キングコング」とか、1965年公開の「フランケンシュタイン対地底怪獣」などに出てきた大ダコとか、1975年公開の「ジョーズ」とか・・・いやジョーズは違うな、とにかく、そういうむかしの特撮のイメージがある。

掲出句も特撮映画を観るような迫力があるのではないだろうか。「地下へ逃げ込む」ではなく「逃げる地下道」としたことで立場の逆転感が出ているし、「地下道」に逃げ込んだことで「巨大蟻」の大きさまで想定できる(「地下へ逃げ込む」ではいまいち蟻の大きさが想像できない)。まあしかし、蟻ってあんなにちいさいのに噛まれたりするとすごく痛いのだから、「巨大蟻」に噛まれたらヒトなんていう柔な生き物はたやすく切断されてしまうだろうな。

◇ ◇ ◇

ところで、このまえ発行された「川柳サイド」の第2号でわたしは、五七五や七七という川柳の既成定型以外にも挑戦してみた。三四、三三三、五七、七五五などのフォルムだ。それをしてみて自覚したことがある。それは、短くするのなら七七までで、それ以上短縮させたばあい非常なる苦労をしいられるということだ。三四だと、上三は二音の語+助詞ということになる。これだと二音の言葉を探すことで労力の殆どをつかってしまい、しかもその労力のわりに納得のいく作品ができないのだった。
けれども、その経験を経たことで、五七五・七七という定型がなぜ伝統になったのかが自覚できた気はする。

伝統や慣習などというと、戦後はブーワードとして用いられてきた面がある。わたしはソ連邦が崩壊し、戦後思想の夢が壊れたあとに学生になったこともあり、伝統というものに必ずしも悪いイメージはなかった。それどころか、いったい自分は何者だろうという、学生らしい実存的問題も芽生えてきたものだから、伝統なるものを探ってみたいと思うようになった。
そこで、戦後思潮に大きな変化が生じて解禁された感のあるエドマンド・バークの思想とか、それ以外にもトマス・エリオット、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、フリードリヒ・ハイエクなんかを読んでは、伝統について考える日々をおくった。で、それらの思想にふれての結論をいうと、伝統とは最初から保持されているものではなく、〈再帰的〉にたち現われるものだということだった。〈再帰的〉にたち現れ、自分の生を成り立たせている過去の人びとの営みの総体を示唆してくれる感覚である。一例をあげると、いまこうして〈自由〉に思考することができるのは、自分に先行する言語があるから──わけても連綿と更新されてきた日本語があるからだと気づくようなことである。

今回も川柳の定型──五七五と七七以外のフォルムに挑戦することで、わたしの中でそれらが〈再帰的〉にたち現れたしだいである。


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2017年09月25日

私をちぎって置いていく返事  畑美樹


私をちぎって置いていく返事  畑美樹

セレクション柳人『畑美樹集』(邑書林)より。
この句の主体にではなく、おのずと相手の側の立場になって戦慄し、肌が粟立ってしまう句だ。こちらへの恨みごとや責任をとう書置きならまだいい。腹いせにこちらの所持品が壊されていたのであっても耐えられる。ここでは、相手が自分じしんを千切って無言の返事を残しているのだ。

畑美樹にはこんな句もある。

 雨だれの向こうに黙礼のカラス  (「Leaf」vol.2)

おもえば畑美樹には、口頭で言葉を交わしあう双方向性の句がない気がするのである。


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2017年09月24日

真昼間の音楽室の渦づくし  暮田真名


真昼間の音楽室の渦づくし  暮田真名

掲出句は、今年の7月に行われた川柳スパイラル東京句会での兼題「渦」に提出された作品。

当日は「音楽室」と「渦」の取り合わせに面白味を感じたのだけど、いま改めて見ると「渦」と「づくし」の組み合わせのほうが面白い。「渦づくし」ということは、音楽室にはいろいろな種類の「渦」があるということになる。もし鳴門を舞台にした映画を制作するなら、渦潮を要所要所に組み入れると良いつなぎになりそうだ。おなじように、音楽コンクールを目指す管弦楽部や合唱部の映画を制作するなら、音楽室に発生するさまざまな渦をワンシーンに組み入れると良い感じになりそうだ、なんて思う。

ところで、先月の若草のみちさんの「斉唱」にも、次のような作品があった。
 
 斉唱に音楽室は破裂して  若草のみち

いろいろな種類の「渦」があったり、斉唱で室が「破裂」してしまったり。こうした音楽室の光景を見ると、どちらも音楽室の本分がじつに満たされているなあ、という感慨をおぼえる。というのも、わたしにとっての音楽室は、声を出すことが人生を左右する過酷な場だったからである。

わたしの中高生時代の個人的経験でいうと音楽室っていうのは、管弦楽部や合唱部、軽音楽部、吹奏楽部といった〈専門集団〉にのみ声や音を出すことが許された。対して、一般の生徒たちが音楽の授業で音楽室を利用するときは、極力声を出さない・出せない場所だった。とくに男子は、真面目に歌おうものなら「お前なに大きな声出して歌ってんだよ、恥ずかしくねえのか、あん?」という内容のありがたいご指導ご鞭撻を、口頭または無言でたまわることになる。いわゆる〈同調圧力〉ってやつだ。
だから男子にとっての音楽室は、(声を出しなさいという)大人側のルールに恭順して実利を取るか、(声を出すんじゃないという)子供側のルールに適応して身の安全を確保するか、文字どおり人生をかけた駆け引きの場だったのである。駆け引きに失敗して学校をやめることにでもなれば、とうぜん人生は変わってしまう。

もちろん、これはわたしの通った学校がときたまそうだったというだけのこと。学校、地域、時代、偏差値などによって環境はさまざまだろうから、一般論ではなくあくまでも個人的経験での話である。

まあそんなわけで「音楽室」というのは、いかに声や音を押し殺すかが問われる場、という印象が強いのだ。だから「渦づくし」や「破裂して」しまう音楽室という表現は、わたしにとってこの上なく〈晴れやか〉な世界だ。大人になったいまは、ロックンロールでもポップスでもヒップホップでもジャズでも、気兼ねなくノビノビと歌うことができるけど、おなじことを中高時代の音楽室で出来たらどんなに楽しかったことだろう。

おなじ意味で男子トイレの・・・いや、その話はやめておこう。


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2017年07月16日

僕らここから標本の羽背負う  清水かおり(バックストローク創刊号)

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僕らここから標本の羽背負う  清水かおり

発行・石部明、編集・畑美樹による柳誌「バックストローク」創刊号(2003年1月発行)より。

「バックストローク」誌は2003年創刊号から2011年の第36号までつづいた。わたしは2009年から会員として参加していた(ちなみに「歌人集団 かばんの会」への参加もこの年だ)。

「バックストローク」創刊号の同人作品欄(アクア-ノーツ)に句が掲載されている川柳人を挙げてみよう。小池正博、金築雨学、筒井祥文、樋口由紀子、広瀬ちえみ、清水かおり、渡辺隆夫、松永千秋、楢崎進弘、松本仁、田中博造、前田ひろえ、北沢瞳、松原典子、横澤あや子、前田一石、山本三香子、浪越靖政、田中峰代、石橋水絵、白藤海、一戸涼子、丸山進、いとう岬、津田暹、石田柊馬、河瀬芳子、柴田夕紀子、草地豊子、井出節、畑美樹、石部明。
また会員作品欄(ウィンド-ノーツ)に句が掲載されている川柳人の一部を挙げると、加藤久子、徳永政二、中川一、山本忠次郎、矢島玖美子、木本朱夏、峯裕見子、柴崎昭雄、泉紅実、斉藤幸男、重森恒雄がいる。いま見るとほんと、精鋭の川柳人たちだなと驚く。

ちなみに「バックストローク」の命名者は倉本朝世さんだと、畑美樹さんの編集後記に書かれてある。

2003年1月といえば、わたしは東直子さんのところで月1回、短歌を始めたかどうかというころ。著名な歌人や大手短歌結社の名前すらあまり知らなかった状態だから、とうぜん川柳誌のバックストロークは知らなかった。それでも、短歌だけ作歌していたにもかかわらず、2005年ごろには石部明さん、石田柊馬さん、樋口由紀子さんのお名前はしぜんにおぼえていた気がする。

さて掲出句。
わたしには短詩作品の〈見所〉をみつける一つの指標がある。それは、一読明快でないために〈読みの流れがとまる箇所〉へ注意をはらうということだ(ただし単に初心者が句語という荒馬を乗りこなせていないケースや、ベテランでもロデオに失敗しているケースがあるので、そこは区別が必要かも)。
掲出句で一読明快でない箇所、つまり読みの流れがとまる箇所は「標本の羽背負う」だった。「標本」は、観察や研究のために特殊処理を施して保存されている嘗て生きていた個体やその一部だから、「標本の羽」を「背負」ったところで翔べるわけではない。

中村あゆみに「翼の折れたエンジェル」(1985年)というヒット曲があって、歌詞は「みんな 翔べない エンジェル」と言って閉じられる。清水さんの句も、「僕らここから〜」と言って未来へ飛翔しそうであるにもかかわらず、そもそもその羽は折れているも同然だ。翔べない。なにせ飛翔の用に供することができない「標本の羽」なのだから。なんと痛ましいことだろうか。

でも思う。どうして「僕ら」は、飛ぶための機能を果たし得ない「標本の羽」を「ここから」背負わなければならないのだろうと。もちろん、この一句だけからそれが分かる訳はない。しかし、「バックストローク」誌が川柳運動体として意志力があったことを考えると、その創刊号に掲出句が掲載されたことは非常に暗示的だ。というのも……。

「バックストローク」創刊号1ページ目には、石部明さんによる巻頭言が載っている。そこでは冒頭、田中五呂八の『新興川柳論』の言葉が引用されたあと、次のように書かれてある。

それぞれの時代と闘いながら、川柳革新に挺身した先人に思いを馳せた。常に先端を切り開く苦闘を厭わなかった先人の歴史をどう残し、どう蘇生し、次の世代にどう手渡すか。

この石部さんの文章に触れ、あらためて清水さんの句を見直したとき、シンクロニシティ(共時性)めいたものを感じずにはいられなかった。「僕らここから標本の羽背負う」という姿に、(常に先端を切り開く苦闘を厭わなかった)「先人の歴史をどう残し」「どう蘇生し」「次の世代にどう手渡すか」というバックストロークの精神がはからずも重なったのである。


見開きにイカロスの眼を描き入れる  清水かおり「川柳木馬」2012年・冬号


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2017年07月11日

「っぱねえっす、ぱねえっす」と来る寒太郎  魚澄秋来


「っぱねえっす、ぱねえっす」と来る寒太郎  魚澄秋来

名古屋のリアル句会「ねじまき句会」がネット上で句会を行った「ねじまき番外編」より。

鉤括弧の「っぱねえっす、ぱねえっす」は、「半端ない」という俗語がさらにくだけた言い回し。「まったく」という言葉が、マンガや若者向けドラマの台詞では「ったく」と略して表されることがあるけど、あれと同じような感じだと思う。
ちなみに「っす」は「です」の変化で、「口語の丁寧語の終助詞。聞き手に対する敬意を示す。知的なイメージは無い」とリンク先に書いてあったっす。

また「寒太郎」とは、NHKの「みんなの歌」でおなじみの楽曲「北風小僧の寒太郎」のことだろう。わたしも幼児の時分によく歌っていたおぼえがある。

さて、掲出句で面白かったのは、「っぱねえっす、ぱねえっす」という鉤括弧内の〈話言葉〉が〈オノマトペ〉としても機能しているように思えたからだ。というか初見でわたしは、鉤括弧がついているにもかかわらず、まず寒太郎=北風のオノマトペとして受け取ったくらいで。
それは、北風の一般的なオノマトペ「ぴゅうぴゅう」のP音と「ぱねえっす」のP音が共通したからかも知れない。あるいは「っぱ」「えっす」という促音が、寒太郎=北風の力強くも無邪気な動きを想起させたからかも知れない。いずれにせよわたしの頭の中では、寒太郎=北風が「っぱねえす、ぱねえっす」と言いながら空でくるくると回転し、街中に寒気をふりまく映像が再生されている。

或る音が複数の表現機能を兼ね備える例として次の短歌を思い出した。

音速のセナや おおおお 咲き盛るセナや おおおお 万乗のセナ…  池田はるみ『妣が国大阪』

音速の貴公子≠アとアイルトン・セナの人気はすさまじかった。と同時に、賛否はあるようだけど、古舘伊知郎のF1実況も強烈な印象をのこした。
掲出歌の「おおおお」という音は、〈レーシングカーの通過音〉〈観客たちのどよめき〉、そして古舘伊知郎の十八番である〈おおおっと!〉など、さまざまな表現へと連絡していく。また「天子。また,天子の位」という意味の「万乗」が、「中国の周代に,天子は戦時に兵車一万両を出した」のが元だと分かると、「おおおお」は〈兵車一万両の地響き〉にすら連絡していく。

何はともあれ今回の魚澄作品は、去年出合った川柳の中でも特に印象深く、最近もしょっちゅう口遊んでいるのであります。



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