2015年11月08日

速贄の僕らのあらわなる肢よ   清水かおり

leaf3.JPG

2011年1月1日発行の「Leaf」vol.3より。
ちなみに上部の画像は表紙ではなく扉絵。

「Leaf」誌は清水かおり、畑美樹、兵頭全郎、吉澤久良の4人が立ちあげた柳誌。掲出句は、メンバーの作品欄とは別枠の「共詠4 plus 1」より引いた。plus 1というのは、メンバー4人に加えて湊圭史がゲスト参加しているという意味だ。この共詠欄では、「消失」というテーマで5人が5句ずつ提出しあい、鑑賞文を掲載している。

掲出句は、初見から非常に興味をおぼえた作品。それにもかかわらずこの約5年間、イメージが定まらないままに、素性の分からないままに付き合ってきた不思議な句だ。以下、わたしの中で掲出句がどのように変転してきたのか、その道のりを思い起こしながら書き綴ってみようと思う。

まず、「速贄」の意味をどう捉えればいいのか迷った。

「速贄」には、〈百舌の速贄〉と〈初物の供え物〉という二通りの意味がある。わたしは最初、それを〈百舌の速贄〉の意味で捉えてみた。さらに「僕たち」という一人称複数から、青年もしくは少年たちが〈百舌の速贄〉として串刺しにされ、肢がだらんと垂れている光景をイメージした。それは、次の短歌がわたしの脳裏に焼き付いていたため、自然に類推されたのだと思う。

 棒高跳の年天【そら】につき刺さる一瞬のみづみづしき罰を  恂{邦雄『日本人靈歌』
 火の剣のごとき夕陽に跳躍の青年一瞬血ぬられて飛ぶ  春日井建『未青年』

恂{と春日井の短歌に通底するのは、青年の跳躍する一瞬に〈死〉を重ねる感覚であり、また躍動する青年の生や肉体が罰せられる感覚だと思うが、わたしはこの二首を見るたびに「聖セバスチャンの殉教図」を連想する。それは、木や柱に縛られた青年に数本の矢が刺さっている場景で、多くの画家によって描かれている。

「聖セバスチャンの殉教」へ連想がいたったとき、「速贄」を〈供え物〉の意味で捉えるのも捨てがたくなってきた。〈殉教〉も〈供え物〉も、神に命を捧げる点で宗教的だ。清水の句を恂{や春日井、聖セバスチャンの系譜で鑑賞するとしたら、〈初物の供え物〉の方向性だってありうる。

〈初物の供え物〉が神に差し出される、というイメージは、わたしに次の俳句を思い出させた。

 百合鷗少年をさし出しにゆく  飯島晴子『朱田』

上掲句について飯島晴子はこんなふうに書いている。

 この句が出来上がったとき、私は今から約四百年の昔、イエズス会の宣教師に連れられてヨーロッパへ渡った天正少年使節を思い出した。しかし決してあの九州の少年達を描いたのではない。
 具体的な場面の選択は読者にまかせて、ただ、華やかな傷ましさへの嗜好が出ていればよいのだが──。
『飯島晴子読本』(富士見書房)


「速贄」を〈百舌の速贄〉とするにせよ、〈初物の供え物〉とするにせよ、わたしのばあいどこか〈天〉のイメージにつながっていくようだ。そういえば、平成22(2010)年、第二回木馬川柳大会・吉澤久良選「ひらく」の特選になった清水の句は、「モーゼの海を渡りゆく思惟 一羽」という〈天〉に関わる句だった。

このような経緯で、「速贄」の意味がどっちつかずなまま掲出句を愛誦しつづけていた。伝達が目的の散文と違い、短詩では〈意味は分からないけど惹きつけられる〉という次元があるかと思う。わたしにとって掲出句は、まさにそんな感じだった。

ところが、そんな不透明な状態にも転機が訪れた。それは、「肢」という漢字に注目したのがきっかけだ。そのときから俄然、「速贄」を〈初物の供え物〉と解する方向に固まっていった。というのも、「足」「脚」「肢」には一応の使い分けがあるようで、そのばあい「肢」は哺乳動物に多く用いるというのだ(大辞林 第三版の解説)。恥ずかしながら、「肢」の使い分けを意識したことは全くなかった。

「肢」を哺乳動物の〈あし〉と捉えてみたとき、「速贄」は神に捧げられる純潔の羊や牛、すなわち〈初物の供え物〉とするのが理屈だと思えるようになった次第だ。

哺乳動物の供え物、という風習に触れたことがなく少々イメージをしにくかったので、『旧約聖書』に出てくる燔祭を想いうかべてみた。アブラハムが神への生贄として、わが子イサクを捧げようとした「イサクの燔祭」は有名だ。

しかし──と、次からつぎに別の疑問が生じてくる句なのだが──〈供え物の僕ら〉の意識が自分たちの「あらわなる肢」に向けられているのは、どんな意味があるのだろうか。そこで躓いてしまった。かりに生贄の動物が肢を縛られている様だとしたら、少々情緒に欠けてしまう。

そこで、何か手掛かりがつかめないものかと句の構造を見てみた。「速贄僕らあらわなる」というふうに、助詞や形容動詞で言葉がつながれながら「肢」に向かっていく。そして最後は助詞の「よ」によって、意識が「肢」に固定される。読み手の印象が「あらわなる肢」に誘導される構造である。

傷ましく、逃れようのない「速贄」の状態にありながら「あらわなる肢」に意識を向け、同時にそれを誇示するかのような「僕ら」。

こうした非動物的な自意識に気づいたとき、哺乳動物であるはずの「僕ら」は、人間の少年の「僕ら」として再構築された。これが特殊撮影であるなら、毛むくじゃらの哺乳動物たちが徐々に人間の少年と二重写しになり、やがて完全に人間となる感じだろうか。そして画面に映し出されるのは、まるで石膏像のようにすべすべした〈あらわなる脚〉である。

このとき、速贄の僕らの〈あらわなる脚〉は、生贄の精神性や肉体性や文化性を抜き取られて〈オブジェ〉となった。このように見なせば、共詠テーマの「消失」とも符合する。そして、そのような〈オブジェ〉化は、まるで西洋絵画の中に少年がはめ込まれたような次の歌と通じるかも知れない。

 少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて  葛原妙子『原牛』

〈オブジェ〉として鑑賞すればよい、と思い至ったとき、〈意味は分からないけど惹きつけられる〉という地点に還った気がする。

 *

ここにいたるまで、連想に連想を重ねて相当な回り道をしてきた。しかも、串刺しになった少年・青年のイメージが消えたわけではない。この句に触れるたび、おのずとそのイメージが浮かんでくる。自分の固定観念の強さにはなんとも驚くばかりである。

言葉は伝達性の機能ばかりでなく、蓄積性・アーカイブズ性の機能もあわせもつ。だから、句語やテクストの全体が、神話や伝説、古典文学といった歴史性を呼び起こすことがある。清水の速贄の句から先行する事物に連想が飛んだのも、そのような言葉の機能が十全に発揮される要素をそなえた句だからかも知れない。少なくともわたしという鑑賞者にとってはそう思える。

今こうしてこの文章を書いているあいまにも、掲出句は醗酵しつづけている。

 少年の裸は白いエジプト忌  石部明「バックストローク」33号



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2015年10月18日

トイレあけるとがぜん犀でした   柳本々々

『おかじょうき』2015年9月号所収、柳本々々「がぜん犀」より。

むかし『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』(ポール ストラザーン著、浅見昇吾訳・青山出版社)という本を読んだことがある。
当時、現代保守思想の内容を感得するには、フリードリヒ・フォン・ハイエクの自生的秩序論と、彼の親戚にあたるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は知っておかなくちゃ、と見当をつけていた頃なので、わぁ90分でわかるんだ、すげえ、てなことで飛びついたわけだ。

その本の中で、ヴィトゲンシュタインと彼の先生だったバートランド・ラッセルに関するこんなエピソードが紹介されていた。
ちなみにラッセルは当時「人間は経験から知識を得るのだ」と考えていた。

ラッセルが「私は部屋に犀がいないことを知っている」と主張しても、ヴィトゲンシュタインは納得しない。論理的には、犀が部屋の中にいることも可能である、というのである。ラッセルはこれを受け、「その犀はこの部屋のどこにいることができるんだい」と尋ね、椅子の背後や机の下を覗き込んだ。それでも、ヴィトゲンシュタインは譲らなかった。「ラッセルは部屋に犀がいないことを確実に知っている」ことを絶対に認めなかった。

これは、ラッセルが経験にしたがって〈私はいつもと部屋に差異がないことを知っている〉としているのに対し、ヴィトゲンシュタインは〈ラッセルはいつもと部屋に差異がないことを確実に知っているわけではない〉として一歩も引かなかった、と言いかえられそうだ。
あるいはこうも言いかえられるかも知れない。
ラッセルは、部屋がいつもと類似しているから犀(差異)は存在しないとしているのに対し、ヴィトゲンシュタインの方は、部屋がいつもと類似しているとは確実に言えない、したがって犀(差異)は存在可能である、という立場なのではないだろうか。

 トイレあけるとがぜん犀でした 
 

「がぜん」というのは〈突然に〉〈俄かに〉という意味だから、作中主人公が想定していた通常のトイレの状態に反して「犀でした」=「差異でした」ということになる。
ラッセルならば、〈私はトイレを開けると犀でないことを知っている〉というだろうが、ヴィトゲンシュタインはそう考えなかったことだろう。
その意味で掲出句は、ヴィトゲンシュタインに近いレベルで書かれているといえそうだ。

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2015年07月18日

わかろうとするから線がふるえだす   ひとり静

ひとり静の第2句集『海の鳥・空の魚U』(新葉館出版)より。

ひとり静さんとお会いしたことはないが、お名前は以前からよく知っていた。
筆名(ですよね?)がオモシロいので覚えたという面もあるが、それよりも、わたしが川柳の情報を得ようとネットや柳誌に触れていく中でおのずと覚えた川柳人だ。
そして、おのずと覚えてしまったというそのことが、何ともいえず感慨深い。
それは川柳界ならではの事情による。

川柳には柳壇がない。
新聞の川柳投句欄としての新聞柳壇こそあるものの、短歌での歌壇に相当するような規模の公や共同意識やネットワークは、少なくともわたしの経験したかぎり川柳には存在しない。
また、若い歌人たちは、既成歌壇とはべつの場をインターネットによって形成しているが、それに相当するようなものも川柳ではまだまだ発展途上だ。
川柳人はネットを使って交流し合ったり、情報発信することがそれほどないのだ。
これは良いとか悪いとかのお話ではない。
要は川柳人の共有領域というのは狭いんですよ、という現状のお話だ。
穂村弘や斉藤斎藤の名前を当然知っていて、作品にもかならず一度は触れているという前提で交流できる短歌界とは環境が違うというお話だ。
その意味で、わたしの狭く偏った川柳領域に既知の存在としてひとり静さんがいることは、ちょっぴり大げさかも知れないが〈縁〉のようなものを感じたりしてしまうわけである。

さて、掲出句。
何を「わかろうとする」のか対象は明示されていないが、ふつう「わかろうとする」ことは理性的な態度である。
また、他人の気持ちを「わかろうとする」ならばヒューマニズム的な態度でもある。
だから一見善いことのように思える。
でも、「わかろうとする」ことは、「線」=境界を越えて侵入していくということにもつながり、客体によって主体の領域が脅かされる事態ともいえる。
「ふるえだす」という措辞は、「わかろうとする」こと全般がもたらす領域侵犯の惧れがあらわれているのではないだろうか。

例をあげれば、ストーカーの恐怖というのは、過剰に「わかろうとする」ことにあるといえるだろう。
また、ちょっと次元は違うかも知れないが、国家間でもおなじことがいえそうだ。
ひと昔前のようにインターナショナル、国の際と際、つまり各国〈間〉という国際関係性であれば、相互関係のことなのだから悪い気はしない。
だがグローバル、つまりグローバリズムにのっとった〈世界規模〉を主張されると、わたしのばあい臆病だから「ふるえだ」してしまう。
このばあいは、じぶんの国のあり方が強い国によって無化されてしまう危険性に震えてしまっているのだが、それでもグローバルスタンダードは〈分かり合う基準を設けましょう〉という提言から始まるのだからおなじである。

このように「わかろうとする」ことの裏面を考えた途端、掲出句は〈穿ち〉の句としてたちあがってくる。

 線いっぽん引いただけでも意味がある
 まとまると重たくなってくる善意


おなじ句集にある作品だが、これらをあわせ読むことで作者の感じ方が一層うかがえる気もする。

さて、掲出句のように、ひとり静の川柳には〈省略〉による抽象の妙という特長がある。
 
 背景にキリンの首を敷き詰める
 ピーマンという前例はありません
 触れられたとたん善玉菌になる
 ほとんどが水分なのに偉そうに
 ちょっと目をはなすと増えているゴリラ


何の背景か、何の前例か、誰が触れたのか、何が殆ど水分なのか、何処でゴリラが増えているのか明示化されてはいない。
しかし、それによって散文としての欠落感が生じ、その欠落感によって逆説的に川柳としての屹立感が生れている。
こういう構造は、川柳であれば徳永政二や畑美樹の作品に、短歌であれば東直子の作品によく見られる。

 よくわかりました静かに閉める窓   徳永政二『徳永政二フォト句集1 カーブ』
 こんにちはと水の輪をわたされる   畑美樹『セレクション柳人12 畑美樹集』 
 つぶしたらきゅっとないたあたりから世界は縦に流れはじめる  東直子『青卵』


外山滋比古の俳句評論で『省略の詩学 俳句のかたち』(中公文庫)という本があるが、90年代以降、川柳や短歌にも省略の妙があじわえる作品が増えてきたと感じる。
そして、今回取り上げたひとり静は、その流れの最前線にいる川柳人とも思える。

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2015年07月10日

神様に添付ファイルでワタクシを   大西俊和

「今月の作品」にご寄稿いただいた大西俊和の連作「クリッククリック」より。

連作中の漢字とカタカナの使い分けから察するに、「ワタクシ」というカタカナ表記のレトリックは、パソコンの世界の仮想現実に存在する「ワタクシ」を示していると思われる。
その意味から言えば、この「ワタクシ」は〈もの〉化された私ということができるだろう。
〈もの〉とは、名詞的で主語になりうる客観対象物のこと。
だから、パソコンやスマホの外側から眺めたり知覚したりするだけの「ワタクシ」は、言わば〈もの〉的な存在なのである。
逆に、もし「私」と漢字で表記されれば、それは〈こと〉的な存在だということができる。
〈こと〉とは、行為的で述語的な事柄のこと。
つまり、身体的な行為や実践を通じてこの世界にかかわっていく様態をいう。
だから、もし「私」と表記されていたら、それは単なる客観的な知覚対象である〈もの〉ではなかっただろう。

さて、掲出句の「ワタクシ」は、仮想空間における〈もの〉としての「ワタクシ」が畏れ多くも「神様」にかかわっていく。
しかも、「添付ファイル」というこれまた〈もの〉を通しているのだから、二重に間接的な仕方で神様にかかわっていこうとしているのだ。
ふつうは、〈こと〉という行為・実践=信仰を通じて主体的にかかわっていくのが「神様」だ。
ところが掲出句では、〈もの〉としての「ワタクシ」が神に接していくことで、結果的に「神様」をも〈もの〉化して「カミサマ」と見なしてしまっている。
行為・実践を通じた漢字の「私」がかかわっていくことで漢字の「神様」も成り立つわけだから、カタカナの「ワタシ」がカタカナの「カミサマ」にかかわることは何の意味もなさない。

このように〈もの〉〈こと〉という区分けを用いて心の病を分析したのは精神科医の木村敏である。
木村敏というひとは、西田幾多郎や和辻哲郎といった日本の思想家ばかりでなく、ハイデガーなど西欧の実存思想家にも造詣が深い。
そして、彼らの思想を精神医学的見地から説明できる人物だ。
わたくしごとで恐縮だが学生時代、エリオットや(特に後期)ウィトゲンシュタインなどの保守思想と、キルケゴールやハイデガーなどの実存思想というものが、西田幾多郎の哲学と一脈相通ずる気がしていた。
西田幾多郎や西谷啓治が影響を受けた道元の思想をゼミで勉強したとき、合理主義を懐疑するところから出発し、人間の行為や実践にもとづいて思索を進めていく西欧の保守思想や実存思想とリンクしたのだ。
そのとき、どういう経緯で見つけたのかは忘れたが木村敏の本と出会い、東洋と西洋の思想を繋ぐうえでとても参考になったのを覚えている。

木村は次のように言う。

 私たちは、「死というもの」を怖れることはないけれども、自分が「死ぬということ」はこの上なく恐ろしいことである。また私たちは「存在というもの」に対しては無関心でいられるけれども、「存在するということ」は私たちにとって重大問題である。「美というもの」は実践を離れた美学的考察の対象となりうるにすぎないけれども、「花が美しいということ」は私たちを家からさそい出して一日の遊山という行動を起こさせる。
 このようにして、「もの」が私たちにとって中立的・無差別的な客観的対象であるのに対して、「こと」は私たちのそれに対する実践的関与をうながすはたらきをもっている。

つまり、「・・・・・・ということ」という言いかたの中には、私自身の世界に対するかかわりかたが、あるいは私の生きかたが含まれている。いいかえれば、「・・・・・・ということ」は「私があるということ」と表裏一体の事態としてのみ成立する。(以上『自分ということ』)

〈(・・・・・・という)こと〉が「私があるということ」と表裏一体の事態だとすれば、逆に言えば〈(・・・・・・という)もの〉は「私がない」事態だろうと推測できる。

 コピーアンドペースト微笑するワタシ
 ワタシの画像もポイとゴミ箱に


上記の議論にそくして言えば、ネットの仮想現実にいる「ワタシ」は〈もの〉であるのだから、「私がない」事態である。
だから〈もの〉と見なしたうえで「微笑するワタシ」の画像をいくらでもコピペできるし、用が済めばそれを「ポイとゴミ箱に」捨てられる。

この現実世界で、身体を持って存在する「私」には有限性がある。
別のいい方をすれば、現実に生きる「私」は不自由な存在である。
たとえば、じかに対面して他人と会話をするのはとても疲れるし、一瞬で海外の情報にコミットすることもできないし、そして何よりも「ワタシ」と違っていつかは死んでしまう運命だ。
顕在的にしろ潜在的にしろ、「私」は〈死の不安〉を抱え持っている。
しかし、現代の都市は、墓地を壁で囲ったり公園化したりして〈死〉を隠ぺいするように設計されている。
のみならず、人はインターネットなどに代表されるテクノロジーによってちょっとした万能感をおぼえ、あたかも〈死〉の訪れを忘れてしまっているかのようだ。

 ダウンロード途中フリーズした命

「命」というのは、いつかはそれが〈死〉に回収されると実感できたとき、一所懸命の「命」となりうる。
その意味で「命」は〈もの〉ではない。
どこまでいっても世界の中に〈こと〉として存在するしかないのが「命」だ。
だから「命」を〈もの〉のように「ダウンロード」しようとすれば、それは「フリーズ」してしまうことになる。

現代の技術革新は、生活環境をどんどん〈もの〉化の方向に進化させ、身体性を伴う面倒臭い〈こと〉から人間を解き放っている
それが良いか悪いかについてはいくらでも意見を出せると思うが、いずれにせよ明らかなのは、現代人が技術文明をひたすら無視したり、過去に回帰したりすることはもう出来ないという事態だ。
その状況認識が以下の句だと思う。

 ネットサーフィンもうエンジェルに戻れない

大西俊和の連作「クリッククリック」は、めくるめく技術革新・高度情報化社会に生きるしかない現代人の宿命を見据えたところから、〈もの〉と〈こと〉の狭間で翻弄され、葛藤する現代人の姿を描いているのだ。

なお、「あとがき全集」でも「クリッククリック」についての記事が書かれているので、あわせてご覧いただきたい。

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2015年06月30日

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む   川合大祐

この句は柳本々々も「あとがき全集」で取り上げている。
柳本は、掲出句のこわさの原因として、ひとつに意味不明であること、ふたつに意味不明でありながらも定型にそった規則性があることと分析している。

こわさとは、まず、意味不明なことです。とつぜん、うしろにだれかがいることです。意味がとれなくなるしゅんかんが、こわい。
ところが、もうひとつ。その意味不明な存在がみずからの規則をもち、その規則にそって行動していることがわかると、さらにこわいということです。

意味不明でありながら規則性をもっている。
確かにこわい。
しかし、平仮名の〈こわい〉は、〈怖い〉という意味だけではないかも知れない。
〈こわい〉ことは同時に〈おもしろい〉ことでもある気がする。
人びとが超常現象や都市伝説のテレビ番組を観るのは〈こわい〉からだが、同時にそれが〈おもしろい〉からこそ観るのである。

意味不明ながらも或る規則性をもった表現。
ここからわたしが思い出すのは、ジャズミュージシャンの坂田明や小山彰太、小説家の筒井康隆、そしてコメディアンのタモリらが得意とする「ハナモゲラ」である。
「ハナモゲラ」とは、ほんとうは意味などないのに如何にも意味があるように思わせる表現だと、わたしは捉えている。
たとえば、有名なところではタモリの偽外国語芸がある。





これらは如何にも外国語として何かの意味を表現しているようだが、ネイティブの人が聞いたら何を喋っているのか分からない。
そもそもハナモゲラのアイディアは「初めて日本語を聞いた外国人の耳に聞こえる日本語の物真似」が原点だからである。



小山彰太は、山頭火ならぬ「山章太」という筆名でハナモゲラからなる「ヘラハリ和歌」を開発した。

 たらこめし はたのめかしみ めたこりす こりすこすりこ めかしめたはれ
 ひりみはし はまさこれみか みてはしこ そまにまれこめ みしはさたみれ
 しこそまれ とんとさまれこ ちましこれ たまはれしれと とまはこしそれ


ハナモゲラ語なので意味を取ろうとしても出来ないが、こころみに和歌の披講の調子で読み上げてみると何となく雅やかな和歌に聞えてくるから不思議だ。
『叩いて歌ってハナモゲラ』(小山彰太著・1983年・徳間書店)には、小山のヘラハリ和歌にたいする歌論が載っている。
ここで同書所収、山下葉山女(山下洋輔)の「ハナモゲラ和歌の鑑賞」から少し引用してみたい(なお、この鑑賞文じたい、歌論のパロディになっている)。

 享受パターンを我々が時に応じて自由自在に変えられるものとする。それはつまり、それに応じて確定していたはずの被享受物──世の中のすべてだ──の姿がどんどん変形するということになる。
 そして実は、このプロセスを我々はハナモゲラと呼ぶのではないだろうか。
 我々はひとまずここで、鑑賞の側面からハナモゲラを次のように定義することができそうである。
 自分自身の内部の享受パターンを意識的に自由に変化させることによって、被享受物としての外界の姿を随意に変形せしめるプロセス。
 変形の方向は唯一「面白がる」方向である。それが享受者の特権であり、我々は世界に対してこの特権を持つ。

要するに、ハナモゲラは「面白がる」ことがキモだというのだろう。

ヘラハリ和歌に先行するハナモゲラ系の和歌としては、大橋巨泉の次の歌が有名だ。

 みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ

わたしの生れる前のCMで披露された歌だが、有名なのでごく当たり前に知っていた。



当時の子供たちにも大受けだったそうだが、意味にこだわらず「面白がる」ことが大事だということの証しだろう。

さて、そろそろ川合大祐の掲出句に戻らねばなるまい。

 ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む

この句は課題吟のお題「チャレンジ」から創られたもの。
山岳の岩壁か何かに挑んでいるようだということは何となくイメージできるが、「ぐびゃら」「じゅじゅべき」「びゅびゅ」は解読不能だ。
ただ「じゅじゅべき」は、助動詞「べき」とおなじ音が使われているので、イメージ生成の助けにはなる。

ところで、ここでわたしが問題にしたいのは、これらの擬音をオノマトペと取るべきか、ハナモゲラと取るべきかである。

わたしは、この句の擬音めいたものは、オノマトペよりもハナモゲラに近いと思う。
オノマトペは音喩という意味だが、喩というからには抽象的な何かを音に変換して具体的に伝える技法だろう。

 サキサキとセロリ嚙みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず  佐佐木幸綱
 しゆわしゆわと馬が尾を振る馬として在る寂しさに耐ふる如くに  杜澤光一郎
 「けれども」がぼうぼうぼうと建っている  佐藤みさ子


オノマトペは「〜と」という形で使われることが多い。
喩だから「サキサキと(いう新鮮な音を立てて)」「しゆわしゅわと(円を描くような)」「ぼうぼうぼうと(雑草のようにあちこち直立して)」などと、抽象的な事態を音に変換し、具体的な意味へ近づけている。

それにたいして、「ぐびゃら岳」「じゅじゅべき壁」「びゅびゅ挑む」はどうだろう。
「ぐびゃら(という〇〇な)岳」「じゅじゅべき(〇〇すべき)壁」「びゅびゅ(と〇〇して)挑む」の〇〇に、「サキサキと」「しゆわしゆわと」「ぼうぼうぼうと」のときのような具体的な何かを当てはめることができるだろうか。
わたしは、これらにオノマトペほどの具体的喚起性はないと思う。
巨泉の「すぎかきすらの」という四句目が、「スラスラ書けすぎて」というイメージと「杉垣すらの」というダブルミーニングを想わせながら、結局は具体性にたどり着かず、抽象に留まったままなのとおなじである。
川合の擬音は、意味があるようで意味に回収できない。
それゆえにとても衝撃力が強い。

と、ひとまず結論めいたことを言ってみたが、オノマトペとハナモゲラについてはさらなる考察の必要性があるだろう。

身内意識から少々遠慮なくいうと、川合大祐の川柳には、「え、そんな分かりやすいところに着地してしまっていいの?」という句も散見される。
しかし、時にこの川柳人は「なんじゃ、こりゃ!」という川柳を生み出す。
その意味で、川合大祐は〈こわい〉川柳人なのである。

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