2016年01月11日

それとなくわかる神様の眉毛 樋口由紀子

それとなくわかる神様の眉毛 樋口由紀子 (2016/01/09 ふらすこてん句会)

ふらすこてん句会(京都)のメインイベントは3人選である。
筒井祥文、兵頭全郎の選者はほぼ固定で、プラスひとりの今回の選者は嶋澤喜八郎。お題は「神」で2句を投句。進行役はくんじろう。
投句は作者名を伏せて印刷、参加者へ戻される。今回は29名(選者含む)の作品が番号とABを振られて58句並んでいた。参加者はその58句をせっせと読む。選句の結果を書き込み、記名し提出するのだ。
参加者の持ち点は5点。配分は自由だが、あれやこれやと目移りして5句に各1点をふることになる。
まず選者が選と理由を述べる。他の選者と選が違えば選ばなかった理由を。視点がそれぞれで興味深い。参加者も意見を求められる。
さて掲句には最高点10点が入った。
選者で点を入れたのは嶋澤喜八郎で、筒井祥文の評は「なかなかおもしろい見つけ。ただそれとなくわかるはどうか」兵頭全郎は「『それとなくわかる』が長い」。だが名をあかされた作者は「『それとなくわかる』がいいんです」と。
そうだよなーと思った。
「それとなくわかる」という場面には偶然性が感じられるから、たとえば「なんとなくわかる」と言い換えてみる。でも「それとなくわかる」と「なんとなくわかる」では全然違う。「なんとなくクリスタル」が「それとなくクリスタル」になると厭味だし、「なんとなくカレシがいるかたしかめた」と「それとなくカレシがいるかたしかめた」では意思の強さが違う。「それとなく」得られた場面には、曖昧さがあまりないんだろう。
ほかに言い換えるとしたら「さりげなく」とか「なにげなく」といった言葉なんだろうか。「なんとなく」より近いけれど、何だか語感がぼんやりしている。
はじめから神様の眉毛を探そうとしていたわけではないのだ。ただわかってしまった。そのときの知覚のくっきりとした状態をあらわすにはやはり「それとなく」がぴったりなのだ。「それとなく」という言葉は自然さと知覚の際だった感じを併せ持っている。
そして「神様の眉毛」という発想がいい。「神様の目」では、目が合ったところから関係性ができてしまう。眉毛だから、はっと気づいて、気づいたけれどすれ違っていける。こころはたしかに動いたけれど、さほどは求めていないふうな、微妙さがいい。
そしてそしてなによりの魅力は、神様の眉毛について考えたことがなかった読み手を、なるほど、そのときがくれば神様の眉毛がきっとわかるんだろうと思わせてしまうところだ。
(参加者の何人からそういう声があり、わたしも同感だった)
知らなかったけど、言われてみればそうだなぁ。そんなふうに感じさせる。納得させられるここちよさ。
川柳でいう「みつけ」って、ひとのなかに少なからずあって、まだ言葉になっていないところを掬いあげるってことなのかな、とひとまず考えています。


posted by 江口ちかる at 23:52| Comment(0) | 江口ちかる・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月21日

さくらさくらこの世は眠くなるところ  松永千秋

さくらさくらこの世は眠くなるところ  松永千秋

さくらも八重のころあいとなった。

愛唱川柳ってあるのかな、と考える。
散歩のときや野菜をきざんでいるとき、ふと、
そらんじるのではなくて、くちずさむ。
「くちずさむ」を漢字で書くと、「口遊む」。
なるほどーと思う。
口の端に遊ばせてたのしいもの。ここちよいもの。

くちずさむものを思い辿ると、詩や短歌が浮かぶ。
俳句もなかなか浮かばず、川柳はもっと浮かばない。そらんじるものならあるけれども。
くちずさみことと音のつらなりの長さにはなにか関係があるのだろうか。
詩のフレーズは「ケルルンクックケルルンクック」(草野心平『春のうた』)や「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(中原中也「サーカス」)のようにみじかい部分がでてくるけれど、作品全体のもつ時間の長さがあるから、印象的な音が配置されるのかと思う。
17音では世界はあっというまに終わるから、言葉がいそがしい。

そんななか、掲句はわたしの愛唱する川柳だ。
はじめて知ったのも字ではなく音だった。
かたわらを歩くひとがこの句をくちずさんだのだった。

くちずさむものには、「とをてくう、とをるもう、とをるもう」のようなオノマトペがある。くりかえしもたのしい。
ポケットにしのばせたドロップを味わうように口にしてうれしい、すきな歌がある。
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて  穂村弘
茸たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして 石川美南

などは好きな歌。石川美南さんの歌はまいたけをほどくときに浮かびもする。
それからたのしいという感覚とはすこしちがった、遠くへ運んでくれ、あたかもわたしの物語のように感じさせてくれる歌がある。
観覧車回れよ回れ思い出は君に一日我には一生 栗木京子
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつたひとつの表情をせよ 小野茂樹


掲句もまた遠くへ運んでくれる。
「さくらさくら」と平易なくりかえしの入り口と「この世は眠くなるところ」と感じる場所はとんでもなくはなれている。それはこころのなかにある場所だから。

かくれんぼ三つかぞえて冬になる  寺山修司
が思い浮かぶ。つくりが似ている。「かくれんぼ」とだれしも子どもの頃したしんだ遊びからはいるのに、目をあけたら冬になっているなんて。置いてきぼりをくったようになる。
寺山修司のいかにも演出された世もおもしろいけれど、掲句の語り口のナチュラルさにも惹かれる。

「この世は眠くなるところ」とはどういう意味なんだろう。

ちいさいころ眠るのがこわかった。眠ったらもう目がさめないようで、けんめいに眠気をおいやろうとした。だがどうしたって眠ってしまうのだ。だが千秋さんの眠気には恐怖もあらがいも感じられない。でもやはりその眠気には死がはらまれているように思われる。
「死ぬことは眠ること」と言ったハムレットは大まじめに憂鬱で、うつしよの苦しみから解放される死を語ったけれど、千秋さんは自然体で、くちずさむわたしも花曇りにつつまれたように眠たくなってしまう。この句の眠りは死を孕んでいると連想させるけれど、穏やかだ。淡々と在るもの憂さ、やさしさがここちよく、くちずさむ句なのだった。


posted by 江口ちかる at 06:48| Comment(0) | 江口ちかる・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月01日

ブラウスと二の腕干してある深夜   榊陽子

ブラウスと二の腕干してある深夜   榊陽子

陽子さんと先日顔をあわせた折り、「陽子さんの二の腕の句、なんやったっけ」とお聞きしたら、あとからメールで教えてくださった。「なんやったっけ」というお尋ねの仕方もずいぶんなものだが、干された二の腕のイメージが鮮烈で、あとの言葉が抜け落ちてしまい、きになっていたのだった。
そうか、ブラウスだったか。

このブラウスはもちろん、魅力的な二の腕をきわだたせるものだから、短い袖丈のものだ。生地はやわらかで夜気に震えていることだろう。そしてかたわらには二の腕。ブラウスはハンガーに、二の腕は注意深く皺をのばされ、ぱんぱんっ、とたたかれなんぞして、ピンチハンガーに干されているのだろうか。
身体の部位に言及した作品が好きである。
手も足も目もふだんはあたりまえに自分のものだと思って暮らしているけれど、ふっと手指が遠いと感じたり、誰かがわたしのかわりに見ていたのだという感覚をおぼえることがある。
二の腕を干すという。からだの部位が代替可能とする感覚がおもしろい。
意思をさずかってしまった球体関節人形の、ひそやかな日常なのだろうか。血の通っていないふうであるのがおもしろく。
なんだか岸本佐知子さん訳の『変愛小説集』の収められた一篇に出てきそうな眺めである。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%89%E6%84%9B%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E9%9B%86-%E5%B2%B8%E6%9C%AC-%E4%BD%90%E7%9F%A5%E5%AD%90/dp/4062145448
代替可能な部位が「二の腕」であること、「ブラウス」であることは、女性らしさ(やわらかさ、やさしさ)という概念へのからかいもふくんでいるのだろうか。
干すひとは女性らしさを装着して帰宅、脱ぎ捨てて夜干したあとは、アリスの筋肉質で眠るのかもしれない。
ちなみに二の腕の語源は、上腕二頭筋に由来するそうである。

「その句のあと、陽子さん、また干してたよね」
「そうそう、白鳥干したわぁ」
は先日の会話。
陽子さんには次の句もある。

白鳥をたった一人で干している  榊陽子

「たったひとりで」というところに白鳥の重量感がある。二の腕とは違う怖さがあり、美しさがある。
怖いこと、毒あることが美しい。
陽子さんは怖いこと、悪いこと、毒あることこそ言いたいひとだと平素感じている。とはいえ、そこをつき極めるほうへは向かわず、軽く「深夜」と結び、「干している」と過度な表現を避けてかわしているところが、陽子さんらしさだと思う。
posted by 江口ちかる at 13:43| Comment(1) | 江口ちかる・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月15日

火事ですねでは朗読を続けます  きゅういち

火事ですねでは朗読を続けます  きゅういち
川柳カード叢書の第一巻『ほぼむほん』収録。

発語のみでつくられた句である。
ダイアローグだろうか。モノローグだろうか。
朗読の場で、火事ですね / では朗読を続けます/ と交わされる会話もこわくてどきっとするが、その場合はカギ括弧で発言者が複数だと示されるだろうから、これは朗読者ひとりの発語だということになる。

短詩型に発語が入れ込んである、となると、まず思い浮かぶのは次の一首だ。
「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
「ブーフーウーのウー」だなんて。酔っているのは少々いじわるな恋人らしい。あまり見分けのつかない三匹の子豚の末っ子とまちがえるなんて。しっかりものの末っ子。(声は黒柳徹子)でも恋愛中であれば、そんな恋人を「カワイイ」とおもえるのかもしれない。しっかりものらしく、恋人の世話を焼くのかもしれない。
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ   穂村弘
「奇麗なものにみえてくるのよメチャクチャに骨の突き出たビニール傘が」   穂村弘

こんなふうに、短詩型のなかに配せられた発語(台詞)は、日常を切り取り、漠とした気分、空気をあらわす演出に使われるものだとおもう。

そうおもうとき、きゅういち氏の
火事ですねでは朗読を続けます
は、特異である。
ともかく日常ではないのである。
耳傾ける者を持たない朗読者のモノローグかと思う。
無表情に淡々と発せられたものか。回り舞台上の絶叫なのか。

発出は『バックストローク』第23号で、一読して、わわわ!となった。わわわ!というにもいい加減な言葉だが、この句を得たときの、作者自身の手応えが感じられるようで、読んだこちらも爽快な気分になったのである。

石部明は同号で次のように書いている。

「火事ですね」「朗読を・・」と、なんの因果関係も持たない言葉が、常識をばらばらに解体した後に組み立てられた世界として、「火事ですね」・・「では」と、なにやら正当性を得たように立ち上がってくる。

わたしは「では」は火事と朗読の続行の因果関係を示す接続詞ではなくて、火事から朗読へ意識を移す前置きの言葉だと思った。朗読が、火事に気づいて、束の間滞る。再び通常の朗読へ戻るときの一呼吸分の「では」だと考える。
クレイジーである。
火事だと知ったとき、通常であれば、ヒトは怖れを抱くだろう。あるいは好奇心を満たそうと物見高く騒ぐかもしれない。だが発言者は朗読を優先する。
読み手は立ちどまらずにいられない。合理的に理解できないからだ。にもかかわらず、魅惑的だからだ。
いったいこの朗読とは何なんだろう。なにやらいけないものとすれちがったという感覚がうれしい。

そしてまた考える。
火事は対岸のそれなのか。であればおもしろさが削がれるのである。
やはりこれは、本能寺の信長の朗読がよろしいかと思われるのである。



posted by 江口ちかる at 22:13| Comment(0) | 江口ちかる・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする