2017年03月05日

〈引きこもり〉と『アナと雪の女王』をめぐって 安福望×柳本々々

『アナ雪』のレリゴーってぜんぜんポジティブな歌じゃないよね。だって、エルサが力を解放して、これからはたった一人で氷の城にひきこもろう、ってことなんだから。ひきこもりで超OK! みたいな歌だよ。
  (斎藤環『おたく神経サナトリウム』)


柳本 斎藤環さんも書かれていたけれど、アナ雪って〈引きこもり〉が軸になっているというか、自分が発動してしまった病(やまい)とどう向き合うかっていう物語な気がするんですよ。メンタルヘルスの物語というか。わたしも高校中退したからわかるんだけど、なんか病んじゃうときって、病みたくて病むわけじゃなくて、なにか自分で制御できないちからが発動して、そのちからに負けて病んじゃうとおもうんですよね。
これだからメンタルヘルスと引きこもりと人間不信の物語なのかなって思ったんですよ。じぶんじゃどうにもならない病み=闇があって、だから引きこもるんだけど、まわりとの軋轢はどんどんそれでも生まれてきて、人間不信になっていって、ATフィールドでつくったような巨大な氷の城に閉じこもっちゃう。
だれにもわかってもらえないし、妹はその日会った男と平気でけっこんしちゃうし。
あの「ありのままで」の歌が力強いのって、もういいや、って吹っ切れたのがすごいとおもうんですよね。べつに病んでてもいいよねって。なんかちょっと仏性ですよね。この世界に〈こう〉じゃなきゃないもんなんてない。〈これでいい〉みたいな。ニーチェみたいでもあるけど、仏(ほとけ)みたいでもある。
なんかもしそんなふうにみとめられたら、たとえどれだけ病んでも、いったんは、病みから解放されるような気もする。
たとえば、学校や会社に行けないとかも、行けなくてどうしよう、がずっとつきまとうと思うんですよね。ただ行かなくていいかと思えたところから出発できることって多いようにも思うんですよ。「なになにできなくてどうしよう」ってちょっと呪いみたいなところがあるんじゃないかと思う。その〈なになに〉にとらわれるというか。
わたしは「行けなくていいか」と思えたときに、そこからばたばた未来が音をたててやってきて、大学に行けたかんじがしました。

安福 「ありのままで」っていろんな「ありのままで」があるんですね。

柳本 ちょっと話を変えますが、『アナ雪』がいいなとおもったのが、はじめて〈口臭〉が感じられるCGをみたっていうことだったんですよ。

安福 えーそうなんですね。

柳本 はい。アナって主人公の女の子なんですけど、そばかすが多いのね。で、肩にまでしみというかそばかすがひろがってんですよ。

安福 へえ、そうですか。

柳本 それってなくてよいことじゃないですか。ただ人間の身体ってなくてよいことのかたまりみたいなもんで、そのなくてよいことのためにアンチエイジングとか必死にやってるわけじゃないですか。だから、そのなくてよいことをCGでたんねんに描くっておもしろいなと思って。しかもおんなのこね。

安福 たしかにそばかすいっぱいありましたね。

柳本 アナ雪のひとつのテーマに〈わたしをきずつけないで〉っていうのがあるとおもうんですよ。氷って傷つきやすいですよね。全面氷の世界って、傷の世界でもあるとおもう。傷つきやすさの世界というか、可傷性の世界っていうのかな。
氷ってそのメタファーなんだとおもったんですよ。氷も傷つきやすいし、氷によって誰かを傷つかせることもできるしね。刃物ざっくざくというか。

安福 なるほど。

柳本 この映画おもしろいなと思ったのが始まりのシーンで、ぶあついこおりを割るところからこの映画はじまってるんですけどね。男たちが仕事として氷をきりだしてるんだけど、つまり、男たちや社会は氷を〈割る〉んですね、ためらいなく、ばんばん。だけど、エルサは、その氷を頑丈で分厚いこころの〈壁〉にしてしまう。そういう社会や男との対比があるのかなって。エルサは社会とおりあえない。アナはそのとき男社会の側に取り巻かれた価値観として対立しちゃう。
わたし、ふっと思い出した短歌があって、

  いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい  北山あさひ 

エルサって氷の城で「結婚を一人でしたい」っていう価値観だったんじゃないかと思って。それは社会と対立することになるから、しんどい状況だともおもうんだけど、ただそういう場所に立っちゃうことってあるんじゃないかと思って。

安福 ああ、なるほど。

柳本 ディズニー映画って、物語が結婚成立に向けてむかっていきますよね。カップル成立に向かって。でもこのアナ雪って、引きこもり脱出が焦点になってるからそれがちょっとおもしろいなと思ったんですよね。しかも愛する男のひとが助けにくるとかじゃなくて、家族が助けにくる。『美女と野獣』の野獣も引きこもりだったけど、あれはカップル成立すると引きこもり脱出の物語だったじゃないですか。あとあれは〈外見〉の物語でもあったんだけど、アナ雪はカップル単位がなくても家族というか妹の愛によって引きこもりからたちなおるっていう〈内面〉の物語だったっていうのがちょっとおもしろいのかなって。

安福 エルサは氷の城にとじこもって巨大な氷のモンスターまでだしはじめちゃうけど、そういうなんか〈傷〉で社会とつながっていく部分って、竹井紫乙さんの川柳とか思い出したんですよね。柳本さんがフシギな短詩でかいてた、

  階段で待っているから落ちて来て  竹井紫乙

とか。

  ここが好き生まれ育った地下である  竹井紫乙

とか。

柳本 ああほんとですね。うーん、だから、傷によって社会とつながってゆくことってあるんですよね。傷からたちなおっていったり、生き方の路線変更したり。

安福 傷、って可能性かもしれないってことですね。

柳本 痛い、は、可能性かもしれない。

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2017年03月04日

定型から考える古畑任三郎 安福望×柳本々々−ファーストシーズン第2話「動く死体」(犯罪者:中村右近【歌舞伎役者】=堺正章)

柳本 短詩にとって主体ってたぶん定型だとおもうんですよ。定型や構造が主体になっている。ただそうした定型観ってじつはけっこう生活のあちこちにあるんじゃないかと思って。
たとえば、『古畑任三郎』を観ていて似ているなと思うのが、死体なんですね。死体って定型みたいだなとおもって。

安福 ああ、なるほど。たしかに定型ってほんと死体みたいですよね。なんかあるだけで、なにもしてくれない。でもすごい存在感。死体の存在感ってすごいですよね。生きてる人間よりある。ミステリーだと一番大事にされますね、死体。

柳本 あの、古畑の第二話って「動く死体」ってタイトルなんですけど、一話目のタイトルが「死者からの伝言」であったように、一話二話目で、もう、死体が主体っていうのがはっきりきまってるんですよね。だから古畑ってなんだったかっていうと《死体への苦労》なんだとおもうんですよ。死体にふりまわされる話。死体は伝言もってきたり、動いちゃったりするから。死体、たいへんだよ! ってなる。死体に引っ張られて古畑もくるし。

安福 なるほどなあ。

柳本 「犯罪者はつらいよ」、みたいな話になってる。コロンボもそうですけどね。

安福 死体が主役なんですね。

柳本 なんか力学の中心なんですよ、死体が。ちょっと京極夏彦さんの『姑獲鳥の夏』みたいだけど。あれは「動かない死体」か。

安福 ほんとですね。

柳本 ただ三谷幸喜さんのコメディの基本的な構造は、《主体はつらいよ》なんですよ。なにかの核があってそれにみんながばたばたふりまわされるというか。

安福 えっそうなのか。

柳本 それが喜劇の核になってるとおもうんですよ。だれかとまちがえられたり(『君となら』)、潰れる間際のレストランをなんとかしなきゃいけなかったり(『王様のレストラン』)、ラジオドラマをさいごまでやりぬかなきゃならなかったり(『ラジオの時間』)、家たてなきゃならなかったり(『みんなのいえ』)、なにかをなんとか・どうにかやりぬくっていう主体。
だいたいでも一話目でも話したみたいに建物をめぐる話でもありますよね。『真田丸』も真田丸っていう建物のタイトルがつけられていたし。今回の二話目も歌舞伎の舞台装置が事件の鍵になっている。だから建物に主体がある。これも定型という音数律=構造が主体っていうのとよく似てるとおもう。短詩をする人間はともすれば定型にふりまわされて、コメディにもトラジディにもなる。
そういうみんながどうにもならないものを前にしてなにかをどうにかこうにかやりぬく。それが三谷さんのドラマツルギーというか作劇だとおもうんですよ。だから犯罪者も死体をまえになんとかやりぬこうとする。

安福 古畑さんは、後始末してるかんじしました。

柳本 だから、『古畑任三郎』の一話目と二話目のタイトルにそういう《主体はつらいよ》ってかんじがよくあらわれてるとおもうんですよ。「死者からの伝言」に対処しなければならない、「動く死体」に対処しなければならない。
死体はいきいきしてるんですよね、いきているにんげんよりも。

安福 いきいき。

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古畑任三郎「動く死体」の回の絵:安福望

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古畑任三郎「動く死体」の回の絵:柳本々々


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2017年03月03日

短詩から考える古畑任三郎 安福望×柳本々々−古畑ファーストエピソード「死者からの伝言」(犯罪者:小石川ちなみ【漫画家】=中森明菜)

柳本 短詩ではよく対句表現ってありますよね。反対のことばをリズムはおなじで使う表現。たぶん昔話でも対句表現って使われていて、「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に」も対句表現だとおもうんです。
で、この昔話なんかもそうですけど、そういうリズムとか構造がことばをひっばっていくことがありますよね。
それってドラマでもみられることだとおもうんですよ。
それでちょっと考えてみたいのが『古畑任三郎』のいちばん最初の第一話なんです。中森明菜=小石川ちなみが犯人の回です。わたしいちばんこのエピソードが《殺人に力はいらない》っていう古畑の魅力を描いていていちばん好きなんですけど。すごく暗いんですよね。初期の古畑ってどれも暗いんですけど、嵐のなかの洋館でいちばん暗い。もてあそばれたおんなのひとがころしちゃうはなしです。巨大な金庫にとじこめて。
ただこれラストがなんかいみてもよくわかんなかったんですよ。はじめてみたのが中学生だったので、それ以来、古畑事典や謎本系やノベライズ版を読んだんですけど、やっぱりよくわかんない。ただ最近、短詩をかんがえていたら、あれ、ってちょっとわかりかけたんですよ。
最後に今泉があわてて走ってきて「下でひとが死んでます」っていうんだけど、古畑はマンガを読みながら「犯人は上」っていうんです。それがね、ずっとわからなかったんですよ。なんでそんなこと言うんだろって。
そのまえに事件解決があって、小石川ちなみが「ひとりで部屋で泣いていいですか」っていうと「どうぞ」っていうんだけど。ちなみがまあ逃げるかもしれない可能性があっても古畑は意を決して「どうぞ」って言ったわけですよね。それで犬にもついていてあげてくださいってやさしく言ってる。やさしさを示したんですけど、そのあと入ってきた今泉に、「犯人は上」ってすぐ言っちゃう。なんか冷たいなとおもって。冷たいなとおもうし、なんかさっきまでのやりとりがだいなしだなとおもって。今泉はがさつなキャラクターじゃないですか、そのがさつな人間をこれから泣いているちなみのもとにおもむかせるのかと。よくわからないなって。
泣いていいっていったのに、今泉につかまえてこいってなんかひどくないかなあって。せっかくあたたかい交流したのにね。
それがね、よくわかんないんですよ。好きだからなんびゃっかいもみたんだけど。

安福 え、中森明菜が上の階で泣いてるんですよね。今泉に犯人は上っていうんですよね。

柳本 はい。なんでそんなこというんだろうとおもって。今泉は「よし、わかった!」っていってうえにはしっていくわけなんですけど。なんかやさしくないよね、と思って。

安福 古畑さん、ずるいなあ。今泉に逮捕させるんですね。じぶんじゃなくて。じぶんはやさしくせっしたおとことしているんじゃないですか。わからないけど。

柳本 ああそういう考え方もありますね。それは新しいな。自分で逮捕したくなかったのかあ。それはありですね、ひとつ。ただなあ、あれだけやさしい交流があってかよいあったのになあ。三谷幸喜さんってラストをすごく気遣うひとなんですよ。それは刑事コロンボがもともとそうなんだけど、古畑でもラストのしめって大事なんだけど、これだけよくわかんなくて。

安福 おんなのひとが犯人のときってやさしいですよね。古畑さん、だいたい。

柳本 ああ、三谷幸喜さんの劇は基本的にそうなんじゃないですかね。女のひとの過酷な面って描かれないですよね。どちらかというと男のひとが女のひとを崇拝している構造ですよね。それによって物語が動いていくというか。

安福 わたしは、今泉に上っていってるから、つめたいっておもわなかったんですよ。あの場にいるのって、中森明菜、古畑、今泉だから、上っていわれて、犯人はもう中森明菜しかいないですよね。そんで、今泉は、その「上」っていわれたことで、もうすべてがおわったって察したんじゃないですかね。今泉は、死体をみつけて、古畑さんしらないだろうからって報告いったんだけど、その「上」のひとことで、すべておわったんだなあってわかったんだとおもう。今泉おふろからあがったとこだったし、あれですぐにはつかまえるってならないですよね。服着替えて、どういうことですか? って、まず古畑さんにきくんじゃないですか。だから、中森明菜が泣く時間ってじゅうぶんもらえてるっておもいました。

柳本 え、今泉、着替えるんですか? うーん、そうかなあ。今泉ってがさつなキャラクターですよ。人の家にびしょぬれでびちゃびちゃあがっていくような。だからそのままの姿で、「よしわかった」って走っていくとおもうんだけどな。
だから、がさつに行くだろうからね、どうして古畑は今泉に「犯人は上」だなんていったんだろうって。嘘をいうならわかりますよ。それまでも今泉をおざなりにあつかってたんだから、嘘をついて、「犯人は外」ならわかるんですけど。

安福 シャツとパンツだから、まず服きるんじゃないですか。そんで、もっかい古畑さんのとこくるっておもった。

柳本 うーん、なるほど。そうかあ。

安福 あれが、なんかいけすかないおっさんとかだったら、がさつにいくだろうけどきれいな女性だからいけないとおもう。あんなお屋敷にいるおんなのひとにがさつにいけないんじゃないかなあ。

柳本 でもその一話の今泉はがさつなおとこだからはしっていっちゃったんだとおもうんですよ。そこがわたしの長年の違和感だとおもうんです。今泉をだませばいいのにとおもって。そのあとさんざんつめたくあたるのに。いやもうそのはなしでつめたくあたってるけど。時系列としては一番目じゃないですけどね。

安福 そうか、じゃあはしっていっちゃったのかなあ。わたしのなかのいまいずみははしっていかなったんですよ。今泉をだますより、漫画がよみたかったのかもね。あと犬がいるから。今泉ががさつにいったら、犬がとめるかも。犬においかけられて、もどってくるかも。

柳本 ああそれはちょっとおもしろいけど笑
「下で人が死んでいます」「犯人は上」ですよね、ラストの台詞が。
これもしかしてただの対句なんじゃないかってふっとおもったんです。下と上の。
うーんでもこのせりふはね、それまでのちなみとのやりとりがだいなしになってるとおもう。三谷幸喜さんはラストかならずきのきいたことをいうんですよね。それでこの回は、下と上を対にしたんだとおもうけど。きみょうなことになってるとおもうんですそれが。きのきいたことばをいったがために、物語がぎもんをなげかけてる。それまでのちなみとのやりとりは? って。

安福 ああ、そうですね。それまでのちなみのやりとりとぜんぜんちがいますもんね。たしかに下と上かあ。

柳本 ただなんていうかな、こう冷たくね、対句にして、泣いていた犯人をあっさり逮捕させちゃったのは、犯人にたちいらないっていう古畑の態度をいちばん最初の一回目で象徴させたともいえるとおもうんですよ。刑事コロンボでこの古畑の「死者からの伝言」とまったくおんなじつくりのエピソードがあるのね。「死者のメッセージ」っていう。推理作家のおばあさんが義理の甥を殺すはなしなんだけど。これも金庫にとじこめてころすはなしなんですけど、わたしはコロンボでやっぱりこの話がいちばんだいすきなんですね。なんでかっていうと、力のないおばあさんでも殺人者になれる、コロンボと対等に戦えるっていうコロンボは言葉の劇だっていうことを端的に示してるエピソードだから。
それで、さいご、わたしはもうおばあさんだからわたしを見逃してくださいってこのおばあさん、コロンボに頼むのね。ちなみにこの台詞は、古畑では、加藤治子の回の「偽善の報酬」でも使われたけど。でもね、コロンボはたすけないんですよ。おばあさんを。しっかり逮捕する。あなたがプロでいらっしゃるようにあたしもプロだから、って。それでおばあさんは納得してにっこりするんだけど。だからふたりのきもちはかよいあってるんです。そして友情と仕事は別っていう。

安福 あ、そうか。古畑もべつなんですね。

柳本 その別!ってありかたに、コロンボと古畑のかちかんが端的にでてるとおもうんですよね。だけど、陣内孝則の「笑うカンガルー」の回で古畑は犯罪をおかしたおんなのひとみのがしてもいるからそこらへんちょっとよくわかんないんですけどね笑。

安福 笑うカンガルーって川柳っぽいタイトルですね。

柳本 これはオーストラリアのことわざで、男に逃げられた女のひとをカンガルーが笑うっていうらしいんですけど。ただ邦訳するとふしぎな語感がでてきて、マジカルな川柳っぽくなるのかなあ。

安福 話もどしますけど、やっぱり、あの「上」にわたし、違和感なかったんですよね。でもそれは、もう古畑をしってしまった私がもう一度みたから、違和感なかったのかなあ。これ一回目なんですよね。はじめてみたら、違和感わくのかも。
うーん、わたしはやっぱり今泉ががーってあのとき上にいかないだろうっておもったんですよ。

柳本 殺人犯だから着替えないでわたしは行ったとおもうんですけどね。

安福 えっ、あの姿で? パンツじゃなかったでしたっけ? いやいかないですよ。おんなのひとだし、さっきあったとこだし。お風呂までいれてもらってて

柳本 たぶんちなみとはわかんないじゃないですかね。古畑は「犯人は」としかいってないから

安福 あ、そうかあ。

柳本 だから暴漢みたいのがいるっておもうかと

安福 ああ、なるほどなあ。そこまで考えなかったですよ。

柳本 「犯人は外」とか今泉をだますならわかるんですけど、それだとおわりのことばとしてきがきいてないですよね。

安福 そうですね。

柳本 下の死体と上の犯人の対句、しかもそういう下と上って示すことで建物や空間がキーワードになってる殺人だったんだよってことを端的に示す。

安福 ああ、そうですね。

柳本 この建物ってちなみが漫画家で売れて手にはいったものですよね。ずっと暖炉のある家にすむのが夢だったって。でもかんたんにかなっちゃったわけですよね。家は手にはいったけど、でも恋愛は手にはいらなかった。そういう、手にはいったものと手にはいらなかったものの話ですよね、これは。この事件は。そして、手にはいったもののなかで殺人をした。手にはいらなかったものを殺した。そういう心理的な建物をめぐる事件だとおもう。ちょっと綾辻行人さんみたいだけど。

安福 建物の話だね。あの建物を手に入れてなかったら、殺人もおこってなかったかも。

柳本 でも、さいしゅうてきに、上にいられたちなみはなにか救いはあるってことかもしれないですね。このあと裁判で無罪になって結婚するので。明石家さんまが無罪にしたんですけど

安福 ああ、そうかあ

柳本 あとはそういう犯罪者と死体のまんなかにいつも古畑はいるっていうことですね。上には犯罪者、下には死体、まんなかに古畑任三郎。だれも、であえない。そこから、始まった。それぞれが孤独な場所から。
古畑はこんなふうに上と下の事件ではじまったんですけど、いちばん最後のエピソードの「ラストダンス」は松嶋菜々子と踊りながら終わるんですよ。それは上も下も右も左と前も後ろもない世界でしょ。そういうダンスっていう二人が向き合って、コンタクトしあいながら終わったのはとっても象徴的だとおもいますね。古畑任三郎とはなんだったかというと、けっきょくこの上と下がなくなっていく話だったんじゃないか、と。

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古畑任三郎の絵:安福望

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古畑任三郎の絵:柳本々々


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2017年03月01日

6ぽ なにがただならなかったのか 安福望×柳本々々 田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を佐藤文香さんのツイートから考える

昨日のNHKカルチャーは句集の読み方という回で、田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)をとりあげたが反応がまちまちだったなあ。でもここでわたしがよさをゴリ押しするのも違う気がしたのであえて意見を統合したりしなかったのであった。私のぽ愛はまたどこかで。
     佐藤文香さんのツイート



安福 佐藤文香さんが、NHKのカルチャーセンターみたいなとこの講座で、ただならぬぽを紹介したんですけど、反応がまちまちだったとおっしゃってましたね。句集をよむという講座だったみたいです。そうなのかあって思ったんですけど。

柳本 田島さんの俳句ってどう読んでいいのか実はだれもわからないんじゃないんかって昔ふっと思ったことがあったんですよ。それは私も田島さんの句にであって、こんな俳句をつくられる方がいるんだってびっくりしたのもあるんだけど。ただそれが田島さんの俳句なのかなあって。
俳句以外のひともすごく田島さんの句集読まれてますよね。そこらへんにもなにか理由があるんじゃないかと思って。
でもおもしろいのは、田島さんの句って絵は描きやすいんですよね。イメージは浮かびやすい。それもふしぎだなあ。「ぽ」って文字だけだと「ぽ」だけど絵にしてくださいって言われたら、ひかりを描いたりとか、わりといろんなことできますよね。そうなると「ぽ」ってなんかリンクみたいだなっておもうんですよね。クリックするといろんなとこにつながっていくハイパーテキストみたいだなって。ぽ、ってね。

安福 (聞いている)

柳本 わたしはね、あの句集を読んでいて、《出来事未満句集》だと思ったんですよ。これは《出来事未満》を出来事として描いた句集なんじゃないかと。あえての俳句未満の句集というか。へんな言い方ですけど。あえて未満の領域につっこんでいく出来事が出来事になったり、俳句が俳句になったりすることをかんがえる。
だからもう俳句観というか、なにかこう《観》ができあがっちゃってると、よくわかんないって抵抗がでるのかもしれないですよね。
「白鳥定食」の句があるんですけど、「白鳥定食」ってへんな言葉でしょ。だれもわかんないと思うんですよ。でも構造として考えてみると、白鳥と定食が分割できなかった世界なわけですよね。それって、まだ白鳥未満、定食未満の世界なんだっておもうんですよ。だから白鳥定食みたいにハイブリッドなものがうまれる。ちょっと宮沢賢治の世界にもちかいですよ。境界が未満の世界でいろんなものがぐじゃぐじゃしてるって。
あと私が好きな句で、滝のそばで結婚式あげてると猫たちがあつまってくる句があるんですよ。これなんか結婚未満の風景だとおもいます。結婚って、社会的なもので、社会的承認みたいなところがあるけど、ここでは猫たちが承認しようとしてるわけでしょ? それだと結婚、成り立たないですよ。だから未満の風景。でもそれによって結婚のふしぎな感覚がでてきますよね。
この句集でね、ひかりをみる映画、っていう句があるんですよ。映画は物語をみるんじゃなくて、この世界のひとは、映画をみるとき、ひかりをみてるわけです。映画未満をみているというか。でも実は映画ってひかりなわけですよ。テレビとか、スマホも、まあ印象派の絵画みるとわかるけど、世界ってひかりなわけですよ。みえてるのは実は。意味で区切ってるけれど。そこには光しかない。

安福 なるほど、出来事未満。だからたじまさんも、予告編っていってるんですね。

柳本 未満って根っこのことですよね。映画は光って、映画の根っこは光なんですよ。結婚の根っこに猫たちがあつまってくる。猫と根っこだと思って。

安福 猫と根っこ。出来事未満って光のことなんですね。

柳本 菜の花はそのまま出来事になるよ、っていう句があって。なんかね、《出来事の探索者》なんですよ。この句集にある風景って。出来事懇親会、みたいなのしてるわけです。出来事会談というか。あれって出来事になる?ってきいて、いやあれはどうかなあ、うーん、あれはね、ならない、とか。

安福 はあ。

柳本 菜の花? あああれはもうできごと。できごとになるわ。あのまんまで、とか。
ただ、出来事ってなんなのかってかんがえてみると、出来事って出来事っておもったときにあらわれるものだから、出来事そのものが生成の現場なんですけどね。出て・来る・ことみたいなね。

安福 (聞いている)

柳本 だけど、なんか、この語り手は、出来事かどうかでとらえてるから。そうすると出来事って出来事未満になっちゃうんですよ。ふつうひとは、これって出来事かなあ、とか思いませんからね。

安福 あ、そうですね。辞書だと、「世間に起こる様々な事柄。また、ふいに起こった事件・事故」ってなってますね。

柳本 この句集の語り手は、出来事をいまだにじぶんのなかで自然化できてないひとなんじゃないかなあ。だから宮沢賢治の語り手みたいにね、世界のいちいちの出来事に驚いて記述している。出来事未満の場所に降りていって。

安福 出来事の根っこ。

柳本 あるいはですよ、名詞とか事物を出来事としてみてるから、だから映画とかいちごとかぽとか白鳥定食とかも出来事にみえてしまう。それそのものが、ですよ。言葉そのものが出来事にみえてしまう。それはなんていうか、まあ、事件ですよ。名詞の事件というか。ぽはなんか事件ってかんじするんですよ。ただならぬぽだし。なんかただならないことが起こってるわけでしょう。出発はそこなんですよ。やばい、ってとこからはじまってるから。しかもなにがやばいかっていうと、ぽがやばいわけでしょ。なんかそのもろもろぜんぶただならぬ状況ですよ。ぽの事件なんですよ。

安福 (聞いている)

柳本 実存的な句集と現象学的な句集があるとおもうんです。田島さんの句集は、実存的じゃなくて、現象学的なんだとおもう。どういうことかというですね、コップをみているじぶんをかんがえながらコップをかんがえるとコップがへんになっていきますよね。こういうものと自分の関係をさぐるのが現象学なんですよ。現象をかんがえるんです、あらわれてくるものを。

安福 なんかマトリックスで、スプーンがうにょんってなるの思い出します。

柳本 実存的っていうのは、わたしはコップをいまみている! これがわたしなんだ! これいがいにわたしはないんだ! これがわたしの存在なんだ! これがわたしの現実であり、世界であり、人生なんだ! っていうのが実存的ですね。〈わたしの生〉にウェイトをおく。

安福 わたしとコップが両想いみたいね

柳本 世界や物と両思いになれてこそ、わたしの実人生がいきいきしてくるからですよ。ぽ、は実存的じゃなくて、現象学的なんだとおもいますね。

安福 (私は聞いている)

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写真・作品:安福望(モールサンタは市販)

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2017年02月06日

4ぽ 俳句の感想って言ってもいいのかどうか罰せられないかどうか 安福望×柳本々々

安福 田島さんの句集『ぽ』、ぱらぱらしたとき川柳っぽいなあっておもったけど、最初からめくってると、やっぱり俳句なきがしました。季語って昔からあるから難しい字が多かったりもするんですよね。だから俳句を読むってことは俳句をやってないひとには不安になる行為になることもあるんじゃないかなって思いました。

柳本 季語がね、すごくふしぎなんですよね。季語ってなんなんでしょうね。ときどきものすごく季語がぬーっと立ってみえるときがある。ダイダラボッチみたいに。季語って共有言語だとはおもうんですよ。それは歳時記があるからそうじゃないですか。それに決まりもちゃんとありますよね。春の季語をわたしだけきょうから夏の季語にします、とかはできないじゃないですか。
でも、季語って共有言語とはいいながら共有言語でもない部分ありますよね。「浮いてこい」って夏の季語なんですけど、ふつうに暮らしてたらちょっとわかんないですよね。季語ってわからないものがけっこうたくさんあって。そのときの季節感ってなんだろうと思うんですよ。ほんとうはそれによって季節がざわっと感じられるはずなんだけれど、文字のざわざわした感じをむしろ今は感じる場合もあるわけですよね。
あと、間違えちゃうこともある。イチゴは季語ですっていわれても、えっ、そうなのと思ったり。でも俳句は基本的に季語を使う。
そうすると、なんかこう理解不能な場所にじぶんからわざわざつっこんでゆく行為なわけですよね。それってずっと不思議で。わたしにとって俳句の不思議ってたぶんそういうことなんだろうなと思います。それで興味もってるんだとおもいます。それってなんなんだろ。なんのためなんだろうって。
季語ってそのいみで魅力的でこわいんですよ。よくわからないところがある。安心させてくれるとともにつきおとすような。
ただし、この季語って広げてみると、定型にもなってくるとおもいます。だから短歌とか川柳も無縁ではないとおもう。なんのためにわざわざ定型という理解しにくいかたちでひとは発話するんだろうって。それはすごく不思議なことですよ。定型って生まれつきそなわってるものじゃないし、たぶん、もしかしたらだけど、自然なリズムでもないのかもしれないし。8音とかのほうがナチュラルなのかもしれないし。

安福 そうですね。たしかに安心させるようで、わかんないとつきおとされるところがあるかもしれない、季語は。

柳本 つきおとされるといえばね、象徴的自殺っていろんなかたちがあるとおもうんですよ。一日ふとんにもぐって家からでない、とか。
俳句もすこし近いのかなとおもうときがあるんです。なんていうか、季語がね、刀にみえるときがあるんです。
ただ象徴的自殺ってわるいことじゃないですね。なにかのきっかけになるし、生き返る。
こないだNHKのハートネットTVで、新宿歌舞伎町屍派のドキュメンタリーがやっていて、北大路翼さんが、生きることの不思議、みたいなことについてさいご話されてたんですよ。死んでも生きる、みたいな。だから、屍なんだよ、って。で、ああそうかあ、なんか、俳句って象徴的自傷というか象徴的自殺があるのかなあって。そこからの再生というか。
うまくいえないですけどね。でも、うーん、屍派の俳句ドキュメンタリーをみていて、そのなかで生きることと俳句が結びついていたんですよね。生きること、生きないことと結びついていく。なんかそこからいろいろ考えられないかって。そうおもいながら、何度か繰り返し、深夜に、みました。

安福 テレビで俳句先生とかやってて、母とかよくみてるから、やりはじめるひと多そうですよね。どこまで奥にすすむかなのかなあ。奥にすすむとやっぱりおそろしくなっていきますね。でもどんな奥にいくかなのかなあ。そもそも奥があるってことなのかなあ。

柳本 だから、たぶん、俳句って高層ビルみたいなもんで、いろんな場所でエレベーターから降りていくひとがいるんですよ。だからものすごくみあげながら相手と話してる場合もあるんじゃないかな。
俳句ってなんなんですかね。ただ田島さんの俳句みてると、なんか俳句やったことないひとにも抜け道みたいのを示してる気もして。それはなんなのかはよくわからないんだけど。
なんかこう、高校のいちばん暗いころに、田島さんの俳句みてたら、ちょっと俳句に対する考え方が変わってたんじゃないのとはおもうときあるんですよ。ああこんなこともできるのかって。ちょっとだけ明るくなれる、っていうかね。そのときの生が。

安福 なるほど、

  いちご憲法いちごの幸せな国民  田島健一

この「いちご憲法」の「いちご」が季語なんですね。

柳本 こうみてみると、季語ってファンシーなものなんだなっておもいますよね。俳句だからいちごって季語がはいってくるんだけど、そのいちごが憲法とか国民とくっついてファンシーなものになっていく。この句の中のすべてのことばがそわそわしてるかんじがある。季語のいちごも憲法も国民も落ち着いていなくてね、あっそうか、落ち着いてない俳句なんだ、っておもう。
だから、幸せだっておもってることって、その同一性がじつは落ち着いてないかもしれないんだよとも、おもう。幸せなときってがーっといっちゃいますもんね。季語がトリガーみたいになって、ことばをそわそわさせていく。でもここまで読んじゃっていいのかなあ。読みすぎかもしれない。

安福 なるほどなあ。私も俳句を読むといろいろ感想をもつんですけど、ときどきいっていいものなのかなっておもうんですよね。それはなんだろう。季語があるからなのかな。でも季語がわかったからといって感想いえるようになるのかなあ。そもそも俳句と感想がどうむすびつくかもわからないところがあるのかな。

柳本 そうなんですよね、私もずっと考えてるんですよ。昔、西原天気さんとお話させていただいたときにやっぱり、季語がこわい、って話したんですよね。なんかすごくこわいものだと。
俳句を読む、ってどういうことなんですかね。わたしもよくわからないんです。わたしは俳句を詠んでないし。ただ田島さんみたいにおもしろい俳句があるから、なんだ俳句ってへんなことが起こってるのかなと思ってきょうみもつんだけど。
俳句ってなんなんでしょうね。ふしぎなものです。で、ときどき感想を書いてみるんですけど、たぶん、決定的に間違えてることもあるとおもうんですよ。致命的な、とんでもない間違いを。こいつとんでもない誤読してんな、って。そういうとき、少しだけ死ぬわけですよね、感想をもつことが。だから、俳句の形式ってふしぎだなあとおもう。
なにかね、ときどき罰せられることもあるのかもしれないなって。饒舌さにたいして。

安福 誰から罰せられるんですか。

柳本 俳句から。

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(写真・白鳥:安福望。作品名「白鳥のつかいみち」)


posted by 柳本々々 at 22:02| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする