2017年02月05日

3ぽ ぽ概論 安福望×柳本々々−田島健一『ただならぬぽ』から−

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柳本 短詩のことを考えていると、人生でぽにむきあわねばならなくなるときってあるじゃないですか。なんだかちょっとおもしろいなとおもって。短詩、短歌とか俳句とか川柳ってなんなんだろうと思って。ぽをひとに真剣に考えさせるって。

安福 そうですね。荻原裕幸さんのぽのことをかんがえてたんですよ。

  恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず   荻原裕幸

あれ、なんかインフルエンザみたいな、悪いぽに感染しちゃったのかあっておもったんですよね。ぽに侵略されたというか。ぽにのっとられて、ぽしか考えられなくなったのかなっておもったんですよね。

柳本 いろんなぽをみてきておもうのは、ぽにはじつはこまかさがあるってことなんじゃないかと思うんですよ。

安福 えっぽにこまかさが

柳本 そう。

 ぽ「なんでもいっしょくたにすんな!」
 
って微分化されたぽたちが言ってるような気がして。
短歌とか俳句を読んでるといろんなぽをめぐる短歌・俳句があるでしょう。けっきょくそこに気づくというか。そうしたときにはじめて、

 ぽ「ありがとう」

ってぽがいってくれるんじゃないかとおもって。いろんなぽがあるなあってしみじみとあらためて思ったんですけどね。ぽって抑圧されるものなのかもしれないですね。ぽって記憶できないんじゃないのかなとおもって。

安福 あっそうかもしれないですね。あの、昔、やぎもとさんが書いた文章なんですけど、

  最近〈ぽぽぽぽ〉だけで話す訓練をしており、「火を起こす」まではなんとかぽぽぽぽだけで伝えられるようになった。ただ、「愛している」が、まだいえない。微妙なぽぽぽぽのニュアンスが要るようだ。

柳本 ああ。だから、わすれちゃってんですよね。荻原さんのぽの話にもどるんですけどね。ぽ、って言語化不可能ななにかですよね。ふつう言語化不可能なときって、まじめなほうにいくとおもうんですよ。言葉にならない事件とか。

安福 ああ。

柳本 だけど、なんていうか、ふざけというわけでもないんだけど、なにか得体の知れない陽気さのほうにいくっていうのがおもしろいとおもうんですよね、ぽぽぽぽぽぽって。

安福 たしかに言葉にならないってまじめなほうにいくのかもしれない。

柳本 なんか、言葉にならないことがうれしいっていうか。言葉いらんよ、って。

安福 あっ、ぽってなんかうれしそうなかんじですね。

柳本 でも、いらんよといいながら、ぽを必要としたんですけどね。それが、恋人とか愛のふりきれなさなのかなあ。なんかそれでも、ことばでいいたくなっちゃったんですよね。それでぽでいったのかなあ。荻原さんの川柳連作のタイトルで「るるるると逝く」ってのがあるんですけど、やっぱ「逝く」なのに楽しそうなんですよね。ぽとかるとか、ことばをふりきりそうにしながらも、またことばにけっきょくもどっていくんですよ。それって、言葉のかなしみ、じゃないかとおもうんですよね。

安福 へーそうなのかあ。

柳本 なんかお別れしたはずなのに、けっきょく部屋にかえってきちゃった、っていう。ぽ、ってそういうかんじなんですかね。

安福 ああ、なんかわかります。さよならってわかれて家かえったら、またいるっていうかんじ。

柳本 あの、さいきん、尾崎放哉さんの捨てるはなしをフシギな短詩に書いたんですけどそれにもちかいんじゃないかと思う。いちどすてたらもうすてられないって。ぽってことばの意味、をすてたんだけど、すてちゃったのに、ぽが残って、あっ、もう、すてらんないよ、って。

安福 なるほどなあ。

柳本 あの、ぽぽぽぽってたのしいけどかなしいんですよね。

安福 なにもいってないのがかなしいんですかね。咳みたいなかんじで。

柳本 ひとって結局どこにもいけないんだ、ってことなのかなあ。ぽ、にせっかくいけたけれど、けっきょくは、ぽにかえってきてしまっていることもわかる。尾崎さんもそうだとおもうけど、すててどっかいこうとしてもまたかえってきてしまう。

 ぽ「ここにいろ」

安福 ぽがひきとめるんですね。

柳本 そうですね。

 ぽ「酷使するのはやめろ」

安福 ぽってなんか鏡みたいですね。

柳本 ちょっとぽの響きのことについて話してみたいんですけど、ポエムっていうばかにされてる言葉ありますよね。ポエム(笑)、みたいなかんじで。でも、ポエムってことばってもともとは意味深長なんですよ。なんかちゃんとした意味がある。だけど、ばかにされてるのはポのひびきがわるいんじゃないかとおもって。

安福 ああ、ぽがふざけてるようにおもうんですかね。

柳本 ぽって、なんかこう、チャンネルがきょくたんにかわるんですよね。ぽ、っていわれたしゅんかん。

安福 ぽいっとすてるとか。すてるも、ぽ、ってかんじですよね。

柳本 中沢新一さんのことばなんですけど、ちょっと長いですけど、

  「ポエム」という言葉の原形になった、古代ギリシャ語の「ポイエーシス」は、もともと「何かが、立ちーあらわれてー来る」という意味を持っていた。それまでは隠されていた何ものかが、自然のうながしや人の技によって、存在の世界の中に立ちあらわれてくる。冬枯れの植物の中に、隠されてあったものが、春の訪れとともに、みずみずしい芽吹きや花の花開きとなって、自分をあらわにしめす時が来る。自然はそのようなポイエーシスを本質としている。そして、人の作る詩歌の本質もまたポイエーシスなのである。隠されてあったものを、あらわに立ちあらわれさせるための言葉の技、それがポエムであるからだ。だから、世界中いたるところで、詩の発生の現場には、いつも恋の現象が、いっしょに立ち会ってきたのである。恋は人の心の見えない奥で生まれる。はじめそれは隠されていたもので、その恋心が表にあらわになるとき、人々の心には驚きや興奮が生まれる。恋はポイエーシスの現象そのものなのである。そのために、詩と恋とは切っても切れない関係にある。
  (中沢新一『日本文学の大地』)


柳本 ポエムってなにかがたちあらわれてくる現場だとおもうんですよ。もともとの原義は。でも、いまは、あまったるいことばの羅列みたいになってますよね。で、響きだけで、かんがえてみると、あの荻原さんの歌って、ぽぽぽぽを、ポエムポエムポエムに変換するのもありなのかもとおもったりするんですよ。恋人といろんなものがたちあらわれてくる現場として。

安福 なるほど。

柳本 たとえばほんとはポエムポエムポエムポエムポエムだったのが、はやくちでいえなかったのかもしれないとか。いきいそいでいてね。エムなんてはっきりしたことばじゃないでしょ。だから耳としてきくと、ぽぼぽぽになる。

安福 ポエムポエム、かあ。

柳本 ポエムってはやくちでポエムポエムポエムポエムっていうとけっきょくぽぽぽぱぽになりますよね。今はやくちでいってみたんですけど。

安福 なるほど、エムがいいにくくてぽっていいやすいんですよね。

柳本 ポとエムが格差がありすぎるんですよね、発声のしかたの。どっちかになっちゃうから。さきにあらわれたポのほうになっちゃうんですよね。

安福 わかれる運命ですねポとエムは。

柳本 ただエムっていうといみがもうわからないですよね。たぶん海外のひとのポエムの発音ってほとんどポ一音なんじゃないですかね。

安福 ああ、ほんとですね。ぽにアクセントが。エムはつけたしってかんじ

柳本 「po・em /póʊəm」だから。

安福 「ぽはpo」

柳本 ここで発音がきけますね。

安福 poより日本語のぽのほうがいいですね、なんかぽってかんじする。ぽがこの「ぽ」って形がいちばんしっくりきてるかんじ。poだとpとoにわかれるからかなあ。

柳本 それはほがぽとぜんぜんちがうからじゃないですかね。ほになんか付着してぽになるっていう事態が、なんな。

安福 あ、ほんとだな。ぜんぜんちがいますね。

柳本 ぽって変形物なんですよね。ほが変態したもの。なんかそれが同棲的なのかな。ぽをしっちゃうとほにもどれませんよね。ほにもどるとき、うしなうことになる。○を。

安福 pとoがpoになっていつのまにかぽになるの同棲的っておもいました。pとoだったのに、ぽになっちゃうのかなあ、同棲すると。そんでぽになっちゃうと、わかれるときpとoにはもどれなくて。

柳本 英語だとわかれられるんですけど、日本語だと○をうしなうことになりますよね。ということは、日本語だとほと○が一体化しちゃうってことですよね。英語とちがって。埋め込まれちゃう、○が。

安福 ぽはほになるとき〇をうしなうしかないってことですかね。

柳本 傷がついたり、へこんだりするんでしょうね。うしなうと。

安福 そうですね。もうもとの自分にはもどれないんですよね。

柳本 ○はでもまたどこかでぴとかぷになるかのうせいがある。あっそうだ、トレンディエンジェルの斉藤さんもヒントになるかもしれませんね。なにかしらの。ぺぺぺぺぺぺって。くまのプーさんなんかもそうかもしれない。そういう圏内。ムーミンパパとか。

安福 あっほんとですね。いっぱいいますね。

柳本 ペンギンプルペイルパイルズとか。

安福 あとピコ太郎さんね。

柳本 あんまり名前にじつは破裂音ってないんですよね。柳本ぽ、とかになんないじゃないですか。江戸川乱歩くらいじゃないかな。乱歩かペリーくらいじゃないでしょうか、日本でぽとかぺだったひとは。大塩ぺの乱とかなんないから。あっ、でも、いなかっぺいさんがいるか。あっ、でも、林家三平がいた。だから、いなかっぺいさんと林家三平のふたりがいなくなると、日本からぺの一族が途絶えるんじゃないかなあ。あっでも、林家ペーパー夫妻がいるか。

安福 あっほんとだ。ともだちが、衛星ペポってなまえで絵とか立体をつくってたことありますよ。

柳本 あとPontaカードがありますね。まあだいたいそのひとたちがせおってるってことですかね、歴史的には。

安福 ぽをせおってるんですね。

柳本 ポーの一族ってことですね。

安福 はい。


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2017年02月04日

2ぽ なんだかぶきみなことが 安福望×柳本々々−田島健一句集『ただならぬぽ』から−

安福 たじまさん、ブログで

  句集なのでどこから読んでもかまいませんが、1ページ目から読んでいってもらえると、先の読めない予告編をあつめた、予告編だけの映画を観たような気分になれるかも知れません。もしご覧になる機会があれば、そんなつもりで読んでみていただけるとありがたいです。

ってかいてたんですよね。だから、じゃあ、起こったあとなんだけど、起こってることをうまいこと編集してるかんじの句、なのかな、とか、予告ってことはまだ起こる前ってことかな、とか考えたりしていたんですけどね。なんかよくわかんなくなってきました(笑)。

柳本 なるほどなあ。予告だと起こってないかんじですね。

安福 人にみられるまでシンメトリーの桃とか豆にしらないひとがいるとか、なんか予告っぽいですよね。いまからはじまるかんじがします。なんだかぶきみなことが。

柳本 いまちょっと面白いなと思ったのは、田島さんが俳句を映画と関連づけて考えているところだと思うんですよね。田島さんって、俳句の基礎的な部分を考えてるうちに、他ジャンルのことも考えざるをえなくなったところがあるんじゃないのかなあって時々おもうんですよね。だからあとがきで、俳句が俳句であることを書かれたんじゃないのかなあ。

安福 ああ。

柳本 映画をたとえにするのっておもしろいですよね。映画っていってみれば、なにもなくても・なにかが起こってる場所だから。

安福 えっ、あっ、そうかあ。なにもなくてもおこってるばしょですか。映画って、みえてないそのまわりにめちゃくちゃ人がいるのがふしぎだなあっていつもおもいますけどね。うつってないんだけどほんとはまわりにいっぱいひといますよね、一人の場面でも。あれふしぎだなあ。

柳本 映画って、いってみれば、ただの光なんですよね。ただの光しかみてない状態だと思うんですよ、ひとの。つまり、「ぽ」ってかんじの光をみて、かってにイメージをうつしてるだけで、ただたんにひかりしかみてない、スクリーンの。なんか、ひとの感覚の根っこの体験ですよね、映画って。ただの光をみてるんだから。さいきん、安井浩司さんの原稿を読ませていただく機会があってそのときに、そもそも俳句の〈根っこ〉ってなんなんだろう、って考えたんですよね。どうやって、ひとは俳句の根っこに出会うのかなって。それって、筑紫磐井さんや攝津幸彦さんについて書いたときもおもったんですよ。根っこってなんだろう、って。それで、田島さんも現代詩手帖でずっと時評を書かれているんだけど、どうも、俳句をめぐる根っこについてかんがえられているんじゃないかって気がしたんです。

安福 田島さんの句集のいいなと思った句に、

  根の研究あかるくて見えにくい蝶  田島健一

があるんですよ。これいいなあとおもって。

柳本 ああ、これいいですね。いやほんとに、まさに「根の研究」なんだと思います。その、表層の部分としての「蝶」は、見えないというか。見えにくいのか。田島さんって「根の研究」者なのかなあと思うときがあるんです。根の研究をするためには蝶をいったん見えにくくする必要があるというか。

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柳本 これまたやすふくさんの昔の作品なんですよね。これもおもしろい作品ですね。

安福 雲の本なんですよ。

柳本 きのうの芽Amazonも場所が志向されていたけれど、今回の雲の本も本が雲化することによって場所が志向されているんですね。そうかんがえると、安福論としても今の絵につながってて面白いと思うけど、こうやって田島さんの句集と組み合わせてみると田島さんの句ももくもくなにかが生成されてるかんじってありますよね。

安福 わたしの好きな句で、

  蟬時雨いるような気がすればいる  田島健一

っていう句があるんですけど、これってなにかが生まれてるかんじしますよね。生まれてるところにたちあってるというか。

柳本 ああ、「いるような気がすればいる」ってなにかが生まれることの根っこなんじゃないですかね。この「いるような気がすればいる」っていうのも俳句の根っこのひとつなんじゃないかな。俳句であるような気がすれば俳句である、っていう。

安福 そうしたら、すべてのものがいえるじゃないですか。わたしであるような気がすればわたしである、とかね。

柳本 だから、その、あの、根っこ。


posted by 柳本々々 at 21:49| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月03日

1ぽ ぽがいっぱいはえるかんじ 安福望ぽ×柳本々々ぽ−田島健一句集『ただならぬぽ』から−

安福 「これまで書いてきたものは、結局書けなかったものの堆積なのかも知れない」って『ただならぬぽ』のあとがきに書かれてるんですよ。

柳本 へえおもしろいですね。そもそも、挫折したところ、〈去勢〉されたところからはじまってるんだ。「ぽ」には苦(にが)みもあるんですね。

安福 やぎもとさん、挫折と去勢、好きですね。

柳本 うーん、さいきんなんか自分のテーマってけっきょくそれなんじゃないかと思ってるんですよ。

安福 あとがきで、「私の息切れや痙攣のような一句一句を」とも書かれてます。この句集、「息のおわり」っていう連作でおわりますね。

柳本 ああ、息とも関わりがあるんですね。そういう長さをもったものと、でも逆の、息切れとか痙攣の瞬間的な短さとも関わりがあるのかあ。あんまり、「ぽ」でなんでも語っちゃダメなんですけど、そういうすべてもろもろをひっくるめると、もう、「ぽ」としか言い表せないような気がしますね。まだ、それをいいあらわすことばはこの世界に生まれてないから。

安福 俳句だけど、よみやすいなっておもいました。

  人に見られるまでシンメトリーの桃  田島健一

ってあるんですけど、

柳本 ああはい、

安福 あと、

  いんげんまめ家に知らない人がいる  田島健一

なんか川柳の読みやすさがあると思いました。

柳本  ああ。なるほど。ぶきみですね、どっちも。

安福 ほんとですね。

柳本 田島さんの句ってぶきみさがあるとおもいますね。もし現代川柳につうじるとしたらそこなんじゃないかな。

安福

  回し見る桃にちいさく起こる風  田島健一

もありました。あ、でもこれなんか俳句っておもいましたね。

柳本 すぱっと切ってある感じがするからかなあ。「風」で。あの、今までの句、なんか、起きてますよね。タルコフスキーの映画みたいに。なんかが、起きる。俳句ってしずかな文芸だと思うんですけど、だけど、田島さんの俳句のなかでは、なにかが起こる、ってかんじがするんですよ。なんか独特の起こり方。でも、俳句でも川柳でもないような起こり方な気がするんだけど。ぽ、ってなんかが起きるときの音ですよね。

安福 俳句は起こったあとのことをあらわすんじゃないですか。

柳本 ああそうですね。田島さんの俳句では起きていることをあらわしている気がして。だから、「ぽ」。「ぽ」っと起こる。ひかりでも、いきでも、ことばでも、風でも。俳句は起こったあとのことを描いて、川柳は起きているときのことをあらわすのだとしたら、なんかそういう両方のことを想起させるのが「ぽ」なんじゃないかとおもって。それって、〈ただならない〉ことですよ。安心して暮らしてるひとにとっては。

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柳本 これやすふくさんが撮ってくれたんですが、おもしろい写真ですね。この芽の〈ぽ〉感が、すばらしい。

安福 その下の芽のやつは、私の昔の作品ですよ

柳本 え、そうなんだ。いろんな才能あるんですね。これおもしろいですね。なんか、〈ぽ〉のひとつのコンセプトが造形化されてるきもするけど。そうかあ、発芽かあ。

安福 アマゾンの箱に生えてるんですよ。

柳本 ええっ。Amazonの箱。やるなあ。

安福 なんかそのころ、アマゾンの箱、なんかにつかえないかなあっておもって。

柳本 Amazonの箱って、なんかアートにちかづくっていうか、なんか生まれますよね、ダンボーとか。

安福 あと白鳥と黄色い花の箱がありますよ。アマゾンの箱ってふたがあるから、それがいいなあってなんかできないかなって思うんですよね。

柳本 Amazonの箱って生態系をつくるんだね。〈ぽ〉って生態的なんだなあ。ぽって生態がはびこることなのかもしれませんね。句集タイトルの「ただならぬぽ」ってすると、「ぽ」がいきものめいてくるし。

安福 そうですね。ただならぬ、だから、なんか妖気を発してるかんじ。

柳本 田島さんの句でも白鳥を定食にしちゃう白鳥定食の句とか芭蕉がふたりになったりする句があるんですけど、生態がただならぬ生態系なんですよね。なんかね、生態系的なんですよ。その意味で、「ぽ」はあらゆる生態系の始原というか。なんか、まずはじめに「ぽ」ありき、なんじゃないかと思います。はじめに言葉ありき、じゃなくて。聖書のね。これ、ただならぬ「ぽ」のひとつの造型って感じしましたね。

安福 ぽがいっぱいはえるかんじね。

柳本 なんかこう、田島さんの句っていろんな入り方がある気がするんですよ。視覚から考えたらぽはどうなんだとか、造型から考えたらどうなんだとか。ある意味、どこかで、ラフなかんじでむきあうことをゆるしてくれる句集かもしれないなともおもうんですよね。なんかこの芽Amazonをみたときに、ふっと、そうおもったんです。俳句の全方向化というか。

安福 芽アマゾン(笑)


posted by 柳本々々 at 18:51| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月13日

【フシギな短詩・裏の話】安福望×柳本々々「菜の花菜の花子供でも産もうかな」をめぐる

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菜の花菜の花子供でも産もうかな  時実新子

安福 今回のフシギな短詩の新子さんの句、菜の花菜の花って菜の花が分裂してるかんじなんですかね。
 菜の花にはなしかけてるのかとおもいました。だからひとりごとっていうのはおもってたんですよ。
 入っていますの句がおもしろかった。寝る前にかんがえてて。電話していってるかんじっていう結論にひとりでなってました。この世じゃないところから電話がかかってきて、今この世だよって。着きましたか?みたいな電話かなって。

柳本 ああなるほど。

安福 この世に入国してるところだから、いそがしいのって。

柳本 トイレだとおもったんですよね。

安福 トイレ! なるほどなあ。おもしろいですね。ノックされてるんだ。

柳本 でも個室トイレって書きたくなくて、「個室」にしたんですよ。

安福 あ、そうなんだ。「入っています」をくり返すのっていそいでますよね。
 二回くりかえすって、相手に伝えようとしてるかんじするんですよ。だから菜の花も二回くりかえしてるから、ほんとは伝えたいんですよ。子供でも産もうかなって伝わってほしい気がしました。

柳本 そうかあ。たしかに新子さんの句はくりかえしばかりですよね。

安福 一回じゃ伝わらないってわかってるから二回いうのかなあって。菜の花はそんなかんじしました。

柳本 うーん、こんなこと言っていいのかな。菜の花菜の花って二回繰り返すと脳内お花畑って気もするんですよね。わざとそういう感じを出すっていうか。

安福 菜の花が一面に咲いてる感じ。二回くりかえされてるから。

柳本 アハハアハハみたいな。

安福 (笑)。なんかわかります。なんでだろう。菜の花かな。春だからかな。

柳本 「子供でも産もうかな」っていうのは、どこかなにかがくるわないといえない発言なんじゃないかと思うんですよね。通常の状態では言えないんじゃないかって。この発言のこわさってなんか童謡に近い気もします。さいきんアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』の海外ドラマをみていても思ったんですが、童謡って基本的に思考のチャンネルが少しあぶない感じがしますよね。だから殺人事件のモチーフにも使いやすいのかな。
 基本的に繰り返しって童謡ですよね

安福 ああ、ほんとですね。

柳本 「咲いた咲いた」とか。

安福 ほんとだ。童謡にいきなり子供でも産もうかなってくるかんじですね。

柳本 「子供でも産もうかな」っていろんなリミッターを解除しないと言えないんじゃないですかね。

安福 うーんそうかも。なかなかいえないですね。そうですね。こどもを産むって一大事だけど、それをかるくいってる。

柳本 生態を無視してる気がするんですよね。身体知をリセットしようとしているというか。生理学とか医学とかそういう身体知をすべておじゃんにしてしまうというか。

安福 ああ、そういうことかあ。ひとりで産むんですもんね

柳本 子どもも関係ないんですよ。

安福 え、こどももかんけいないの。

柳本 おなじ文法で任意に文をつくってみるとわかりますよ。「カレーでも食べようかな」

安福 ああ、そういうかんじなのか。おなじかんじなんですね。

柳本 カレーでなくてもいいんだよね。こどもでなくても。
 ナノハナナノハナってうわごとっぽいというか。

安福 うわごとっぽいですね。そうかあ、すこしおかしな思考の感じしますね。

柳本 「な」にさそわれてますよね、「かな」が。
 ナノハナナノハナ
 あと母(は・は)がはいってる。

安福 ほんとだ、さそわれてますね。あ、ほんとだ。なんかだんだん怖い句におもえてきた。

柳本 母(ハハ)か花(ハナ)か、なんじゃないですかね。母の名は、ともきこえるから。

安福 あ、きこえますね。

柳本 母か花をえらぶってことなのかなあ。

安福 菜の花にさそわれて、こどもでも産もうかなってぽろっとでたのかな。
 母になるか花になるか? たまたまじゃなくて、えらぶの? 母になるか花になるか。たまたま女のひとにうまれたけど、母になるのは選択ですね。

柳本 産もうかなっていうのは選択ですよね。しないばあいは、うまないでしなせてしまう場合もあるんだろうか。産もうかな産まないことにしようかな、と。そう考えるとすさまじくこわい句ですね。おろしてしまうというか。これそもそも愛がどこか過剰で欠乏してますよね。「あなたでも愛そうかな」みたいなもんだもんね。

安福 あなたでも愛そうかなってかんじしますね。ああ、そういうことかあ。まだ子供がおなかにいないのに、産もうかなっていってるとおもってました。

柳本 ああそれもありますね。うそをついてるばあいもありますね、おとこに。おとこの愛をためすために。こどもでも産もうかなって。

安福 なるほどなあ。

柳本 不倫だったら相手がびびるから。

安福 びびりますね。

柳本 うもうかな、っていわれたらびびりますよね。でも女のひとは不倫のときだって妊娠するかもしれないから、いつも身体レベルで不倫をかんがえてると思うんですよね。男のひとはロマンチックに考えていても。だから男のひとはびびるけど、女のひとにとってびびることでもなんでもない、ずっと考えてなくちゃならないことなのかも。でも、男はびびる。

安福 びびるでしょう。でもそうですね。そういうとき、ふわっといいそうですね。産もうかなって。

柳本 ただし、それを菜の花のレベルでいうんですよ。般若とかのレベルじゃなくて。
 ふつうのレベルですさまじいことをいうっていうのかな、すさまじいことをふつうのレベルでかんがえる。菜の花のレベルで。

安福 川柳ってすさまじいんですね。

柳本 なんか新子さんの句を今回考えているあいだ、本多真弓/本多響乃さんの短歌のことを同時に考えていたので本多さんの歌を引用して終わりにしたいと思います。

  誰からも習つたことはないはずのへんな形になる ひとを恋ふ  本多真弓/本多響乃

posted by 柳本々々 at 19:59| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月08日

【川柳トーク】時実新子「目の前に水晶玉がある逢える」の句をめぐる 安福望×柳本々々

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  目の前に水晶玉がある逢える  時実新子

柳本 この句の「逢える」って言い切っちゃう、強気なのってやっぱり新子さんだなっておもったんですね。「水晶玉」って幻想ですよね。でも「逢える」っていいきっちゃうのがしんこさんだとおもったんです。

安福 水晶玉を媒介に逢うってことなのかな。このひとにとって水晶玉が夢とかそういう人とあうためのものなんですよね。

柳本 水晶玉を媒介にするのって逢えないひとですよね。だって「水晶玉」にゆきつくしかないんですから。

安福 ほんとですね。

柳本 逢えないんだっていうのをある意味割り切れないんだと思うんですよ。その意味では「逢えない」句でもあるんですよ。

安福 あれですよ、魂の移動のひとなんですよ。身体はあえないんですよ。

柳本 ああ。身体っていえば、「目の前に水晶玉がある」っていう言い方が冷たい気がしたんですよね。さめてないかなこれ。

安福 あ、そうなの。さめてるのかな。それおもわなかったです。たぶん自分は逢いたいけど、あっちゃだめなひとだから、水晶玉をとおしてあうんですよ。水晶玉であうってこっそりあってるってことでしょう。

柳本 だってですよ。「目の前」にあるのをわざわざ「目の前」なんていわなくていいでしょう。じぶんの目を「目」って記述するひとってさめてるとおもうんですけどね。

安福 ああ、そうかあ、「目の前に」っていってるのわすれてた。「水晶玉がある逢える」ばっかり気にしてましたよ。

柳本 なんていうのかなあ、わたしがわたしに会ってる。私の目に、わたしがいままず会ってる。だからこれ、わたし=わたしでもう閉じてるのかもしれないですね。「逢える」はだから打ち消されるのかな。そういうなんか不思議な句じゃないかな。

安福 じゃああれかな、記憶にあるあなたに逢ってるのかな。閉じてる感じしますね。

柳本 きょうごめんいけないんだの認識なのかもしれないですね。ひとつの。あるいは、もしかしたらわたしの目にあってるってことかな、目からわたしのなかのあなたに。

安福 「逢える」がものすごくつよいですよね。やっぱりひとりで完結してる気がしますね

柳本 ただ「る」で韻をふんでるのがきになるんですよ。システマティックなんですよね。なんかさめてるんですよ、それも。

安福 水晶玉にね、あなたが閉じ込められてるかんじがしてきました。やっぱりさめてるのかあ。

柳本 感情はほとばしってない気がするなあ

安福 それは水晶玉にとじこめてるんじゃないですか。水晶玉って記憶のかたまりみたいなかんじがしますね。たくさんあるんですよ、水晶玉。そのなかの一つをみてるんですよ

柳本 水晶玉かあ。あ、○の力学なのかなあ。目も○でしょう。

安福 〇ですね

柳本 「る」って文字も○が入ってますね。下の方に。新子さんってかたちのひとだと思うんですよ。Zの椅子にすわるとかそういう句があるんですよ。

安福 あ、そうなんだ。水晶玉は〇だからえらばれたかんじしますね。

柳本 未来は三角形に折るとかね。そもそも新子さんは絵を描いてたひとなんですよ。

安福 そうなんですね。だから、「たましいのかたちとわれてまるくかく」なんですね。

柳本 新子さんの絵はがきがあって。新子さんが絵を描いてましてね。へえってこないだみてたんですけど。でもかんがえてみると、□とか○ってひとつの水晶玉ですよね。形をとおして概念にあってるわけですよね。

安福 そうですね。形って重要ですね。わたしも形からはいりますね

柳本 ひとってかんぺきな○にはであえないじゃないですか、あたまのなかだけでしか。プラトンがたしか言ってたのかな。かんぺきに○や△かこうとしてもミクロン単位でゆがむわけですから。水晶玉でであってもかんぺきなあなたにはであえないですよね、像はゆがむから。

安福 なるほどー

柳本 会えることはできないですよね。ゆがんだあなたにしか逢えない

安福 かんぺきなあなたというか、ほんとうのあなたにはあえないですね。記憶ってどうしても改ざんされるから。あ、そうそう、記憶のあなたはゆがんでるんですよね。

柳本 水晶玉とか形って規定ですよね、定型もそうかも。

安福 あ、ほんとですね。定型って不完全なものを完全にみせてくれるようなきがします。完全というかなんかおぎなってくれるきがする

柳本 完全のなかの不完全をかんがえるのが絵や定型なのかもしれないですね。新子さんのこれを恋愛句だとしても、たぶんでもたとえば恋愛って完全のなかの不完全をたえずつきつけられることですよね。こうありたいとかおもうんだけど、不完全さにうちのめされるっていうか。ひととひとの関係がそもそもそうなのかな。

安福 ああ、なるほどなあ。不完全にうちのめされますね。自分の完全とひとの完全ってずれてますしね

柳本 定型が神さまならやっぱりふかんぜんな民はうちのめされるんじゃないですかね、なんどもなんども挑戦しては。水晶玉ってあるいみ、かんぺきな○ですよね。○だからイメージをうつせる気がするし。

安福 かんぺきな〇ですね

柳本 でもそれは不完全なわたしの幻想かもしれないってことですよね。転移の句ですよね、精神分析的には。これは。

安福 あ、なるほど、ほんとですね

柳本 そう考えれば、ひとって水晶玉なんですよね。ほんきにならないでよねって。好きとかってそうでしょって。転移ってそういうことですよね。

安福 そうなのかも。水晶玉みたいに自分をゆがんでみてるのかな

柳本 だからこわいのは、言葉で組み立てられて韻をふまれるとその言葉のノリでうそかどうかわかなんくなっちゃうことですよね、本気になっちゃう。あと、これってたった3音しかないんですよ、じぶんの場所が。ほとんど場によってコントロールされているんですよね、句の比率としては。「逢える」しかない、じぶんの場所は。

安福 ほんとだ。「水晶玉が目の前にある」っていうのがほとんどですもんね。

柳本 「水晶玉」だけでもよかったのに。

安福 でもだから逢えるがすごく強いんですよ。そうかあ、「目の前に」っていわなくても「水晶玉」っていうだけで目の前にありますもんね

柳本 「会いたい」でもないわけですからね。「会う」でもないし。3音のちからなんだなあ

安福 「逢える」ですもんね。

柳本 3音では「会えない」はいえないですよね。

安福 水晶玉がある=逢える世界ですね。水晶玉があるから逢えるってどういうことなんでしょ

柳本 「逢える」って言い方よくよく考えてみると不思議な言い方じゃないですか。目の前にあるんだったら逢ったらいいじゃないですか、もう。「会う」って。「あえる」ってまだあってないわけですよね。

安福 あってないですね。やっぱりあえないんじゃないですか、じっさいには

柳本 だからこれひきさかれてる句なんだとおもうなあ。いろいろ

安福 そうですね

柳本 なんかね、句が句をうらぎっていくと思うんですよね

安福 なんかぐるぐるしてきましたね。

柳本 新子さんって実はそういう少し深いつくりかたをしているんじゃないかとおもうんですよ。めまいのような。

安福 そうなんですね

柳本 読者をいい意味で裏切っていくような。素直に読みたいときはそう読めるし、そうじゃない場合もそうじゃなく読める。つまり枝分かれできるようになってる。それって文学ですよね。

安福 枝分かれできるのかあ。「目の前に水晶玉がある 逢える」って一字あけありそうなのにないから、逢えるがすごくつよくかんじました。

柳本 そうすると「る」が離れちゃうんですよね。「あるあえる」って巻き舌になってまきこまれていくかんじしますよね。

安福 しますね。あるあえる。あえるの「え」がなかったら、あるが重なりますね。えーえんとくちからみたいに。

柳本 だからこれ違和感があるのは、「ある」っていうのはモノなんだけど「逢える」はヒトで、でもそれがくっついちゃってんのね。

安福 ああ、そうですよ

柳本 ひとがあるとはいわないし、モノに逢えるとはいわないから

安福 ほんとですね。水晶玉とひとが一緒になってるんですね

柳本 あと現在形なのにたどりつかないんだよね。「逢える」ってまだあえてない。現在形なのに。

安福 そうですよね、それおもいました

柳本 「あう」ってそもそもなんだってことですよね。なにをやったらひとはひとにあえるのか、あうといっていいのか。あうことはほんとうにあうことなのか。ひとはひとに一度でもあうことができるのか。

安福 うーん、逢えるっていってるけど、まだ逢ってないですね。

柳本 どうやったらひとってひとにあえるんだろうって

安福 あう。なんですかね。あ、触れたらかな。逢えてますよってことでみんな握手するのかな。あうってつながるってかんじします。

柳本 触れたらかあ。コンタクトしないとだめですよね。でも、「あえる」ってふつう、明日あえるとかですよね。明日あえる、っていうふうに使いますよね。ちょっとさきの未来ですよね。

安福 そうですね、あしたあえるです。みらいですね

柳本 なのに、「目の前」なんですよね

安福 あ、ほんとだなあ

柳本 目の前なのに。逢えるってわざわざ離れて。

安福 はなれてますね

柳本 「逢える」じゃなくて「あなた」とかだったらもうあえてるんですけどね

安福 そうですね、目の前にいますね。逢えるはそのひとが逢えるって思ってるだけだから、相手は逢えるかわかってないんじゃないですか。あ、あれかなあ、目の前にいるんだけど、あなたにはみえてないんですよ。水晶玉がある逢えるっていっているひとは死んじゃってるとか、幽霊とかで。じぶんにはみえてるけど、あなたがみえてるけど、あなたは私がみえないんですよね。え、でもそしたら結局あえないのかあ。なんかわかんなくなってきましたね。

柳本 しんでるばあいありますね。

安福 水晶玉わりたくなりますね。あえなかったらわってますね

柳本 いや、それは(笑)。ちょっと安福バイオレンスが出てますね。そうか、暴力性もひきだす句なのかなあ。うーん、でもこの句ってちょっとスパイシーなところはあるんですよね。過激なというか。水晶玉で逢えるんだっておもったら、ほんとうの会うの意味もかわっちゃいますよね。そういうのがありますよ。この句のなにかこうスパイシーなかんじはそこにあるとおもいます。メディア論なんですよね。それネットそのものなんだから。

安福 あ、それ思いました。水晶玉がメディアなのかなって。スマホみたいなもんなんじゃないですか、水晶玉

柳本 あとは性でもないなってことですよね。性を特権化しない恋愛ですよねこれは。水晶玉っていうのは脱身体の世界だから。でも目の前っていう身体性も描かれてる。けっきょく身体を脱臭しても身体くささってどこかにはのこるんですよね。

安福 あ、そうですね、身体がない。そうなのかあ、のこるんですね。なんかちょうど最近、スマホをさわってるひとを電車でみてて、祈ってるみたいっておもって、祈るって無防備な姿勢っていってたじゃないですか。スマホさわってるひとも無防備なんですよね。どこかとつながってるひとって無防備な姿勢になるんだなと思いました。祈るひとは神とつながろうとしてるかんじ。寝て夢をみるのも無防備な姿勢で、夢は過去のじぶんとつながってるのかなって思いました。握手も目の前のひととつながってるから、目の前のことでいっぱいで無防備ですよね

柳本 ああ、握手って無防備になることなんですよね。だから、手をつなぐ恋愛ってね、ふたりで破滅していこうとする行為にちかいですね。ふたりで世界に対して無防備になっていくというか。

安福 そうか、これ、無防備になる句なのかあ。目の前を支配されるってそういうことなんですね。この水晶玉の句って、相対性が絶対性になる句なんだ。

柳本 でも、こんな絶対性を相対性にしてしまう句もあるんですよ。つまり、最後になりますが、

  菜の花菜の花子供でも産もうかな  時実新子

posted by 柳本々々 at 22:47| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする