2018年04月28日

【短句】誹諧武玉川の短句と近現代の川柳十四音【十四字詩】@


【誹諧武玉川の短句】

津浪の町の揃ふ命日  (初篇)
陰間の声の二筋にたつ  (二編)
闇のとぎれるうどん屋の前  (同)
恋しい時ハ猫を抱上だきあげ  (同)
酒買時さけかふときに灯のうつる川  (同)
洗ッた馬のかハく松かぜ  (三篇)
うつくし過て入れにくい傘  (五篇) 
むすめの箱へ戻る夕ぐれ  (同)
白い所ハ葱のふと股  (六篇)
屋ねから落た人と酒もり  (七篇)
蛇の惚れたる娘見にゆく  (同)
蓮にふたりハ狭いやくそく  (九篇)
鶴の死ぬのを亀が見てゐる  (十篇)
鞠の上手の女顔也  (同)
握られた手を抱て来る尼  (十一篇)
化した狐土手に手まくら  (同)
干シたら何ぞ云そふな夜着  (十二篇)
娘ひとりで世界うごかす  (十三篇)
めかけひそかに臍の緒を干ス  (十五篇)
除夜元日ハ年の唇  (十六篇)


※ふりがなは投稿者が適宜付けた 

『誹諧武玉川』(はいかいむたまがわ)初篇〜十八篇の中より、わたしの好きな二十句を挙げてみた。善いことを書こうとしていないぶん、現在の所謂「伝統川柳」よりも面白い(伝統川柳と便宜的に呼ばれているスタイルは、じつは近代になって再構築された書き方で、詩性川柳、私性川柳、時事川柳と歴史的長さはさほど変わらない)。

 真じ目に成るが人の衰へ (武玉川・三篇)

川柳十七音形式の発端が『誹風柳多留』(初篇1765年)とされているのに対し、川柳十四音形式の発端は『誹諧武玉川』(初篇1750年)とされている。武玉川の編者は、慶紀逸(けい・きいつ)という俳諧の判者で、武玉川は俳諧の高点附句集である(ただし十六篇からは二世紀逸の編)。つまり、俳諧での前句を省略して附句だけを収録したわけである。その構成は、のちに『誹風柳多留』の手本になったといわれている。とはいえ武玉川は、附句一句を独立した文芸形式にしようと企図したわけではない、という見方がある。

 『武玉川』はこういう市井の作者の手に成った連句の中から、紀逸の以ってよしとした附句の一句を抜いて集としたものであって、後の『柳多留』の如く、前句附の附句の単句独立を図ったものではない。
『川柳探求』(前田雀郎著/有光書房)

俳諧には長句(575)と短句(77)があるため、武玉川でも長句と短句が入り混じって収録されている。川柳の十四音形式の発端とみなされているが、けっして短句集というわけではないから注意が必要。ちなみに川柳人の清水美江(しみず・びこう)が、武玉川初篇での長句と短句の割合を調べてみたところ、短句が67%だったそうだ(『川柳学』2008冬・春号所収の「十四字詩の現況」/佐藤美文)

武玉川は俳諧の附句集なので十四音形式は川柳とはまた違う、という意見はあると思う。川柳の発端は柳多留であり、その柳多留は前句(お題)を省略した前句附の附句集である、という筋道でいけばそうなる。ただ、@前句附は俳諧の一部であり、両者は血縁関係にあるということと、A近代になって十四音形式(武玉川調)を取り込み創作してきたのは川柳界であり、それが取り立てて他分野から異を唱えられたことがないのを考えると、十四音形式は、川柳のもう一つの定型と「みなす」べきだと思う。あまり事の発端に重点を置きすぎると、現状が見失われてしまう。たとえば言葉の語源に重点を置きすぎると、日々暗黙的に更新されつづけている〈今ここ〉の言葉遣いなど、途端に正当性と正統性を失ってしまう。それと同じだ。

現在、川柳の十四音形式は、短句、七七、十四字、武玉川調など、さまざまな呼ばれ方をしている。十四音形式の専用雑詠欄を設けている川柳雑誌「風」では、「十四字詩」という名称を採用している。

わたしの感覚では、〈川柳十四音〉もしくは単に〈十四音〉と呼んだほうがしっくりくる。それというのも、十四〈字〉よりは十四〈音〉というのが実状だからである。その一方で、かりに川柳とは別の文芸として十四音を広めるとしたら、「短句」という名称が良いと思う。短歌、俳句、連句がそうであるように、三音の名称が定着しやすいと考えるからだ。ただし、短句という名称を前面に出したばあい、連句における短句との関係が紛らわしくなるし、連句人がどのように思うかも考慮しなければならないだろう。

なお、『誹諧武玉川』をこれから読まれる方にお勧めする本は、朝日選書337『「武玉川」を楽しむ』(神田忙人著/朝日新聞社)だ。同書は、武玉川収録の12253句から著者が1000句を選び出し、現代人にも分かるよう簡単な評釈が付けられているため、とても読みやすい。また武玉川を全部読みたい方には、岩波文庫の『誹諧武玉川』1〜4(山澤英雄校訂/岩波書店)がいいだろう。初篇から十八篇まで読むことができるほか、同書4巻には総句索引が付いているため、大変便利である。

posted by 飯島章友 at 22:05| Comment(3) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月30日

学習漫文・川柳のひみつ 序(かもしれない)

僕は勉強が昔から嫌いで、それは、のちのちに、祟ります。

これから述べることは、論、にも何にもなっておりません。
単なる思いつきであります。

川柳、のはじまりって何なんだろう?
歴史をひもとけば、『誹風柳多留』がはじまり、とどこの本にも書いてあります。
そう一口に言っちゃうのは簡単だけど、それって、凄いことじゃないですか?

全国から投稿して、それが出版されるという〈システム〉が出来ているわけですから。
江戸時代については(他のことにもだけど)、暗いのですが、投稿−出版−購入という流れが確立していなければ、〈川柳〉ってものはありえなかったわけですよね。
(郵便−デリダの視点から考えることもできるかもしれないけど、僕の手には余ります)

で、それって、江戸期の人びとにとっては、〈ニュー・メディア〉だったんじゃないでしょうか。

たとえばツイッターにつぶやく、という中心のない世界である、2010年代のいま、とはまた違うかもしれませんが。
雑誌に、あるいはラジオに投稿するハガキ職人さんたちの姿がだぶります。(古いですね)
サラ川に、あるいはオタク川柳などに投稿するひとたちも、そういうことですよね。
それって、偏見なんですが、いわゆる「暗い」、孤独な作業という気がするんです。
ひとりぼっちの、いとなみ。
だから、江戸期の話に戻りますが、川柳の発生は、〈個人〉の発生と関わりを持っているのじゃないかと。
(メディアが個人をつくる? あるいは個人がメディアをつくる?)
物理的・精神的に離ればなれの人びとが、〈個〉として作品を発表する、という構造は、もしかしたら川柳が発生から抱えてしまっている宿命なのかもしれませんね。
(古川柳と現代川柳と、その断絶を無視して言ってますが)

だから、仮説、と言うほどのものでもないですが、思っていることがふたつ、あります。

 ・川柳は、メディアとわかちがたく結びついているのではないか。
 ・川柳は、〈個〉の文芸なのではないか。

「いや、そんなことは前提だよ」と言われるかもしれませんが。
ちょっと、このテーマについて、皆さんと一緒に考えてみたいのです。
……しっかし、僕は、不勉強だなあ。
あああ、勉強しないと。(江戸期のメディアについて、そもそもメディアって何だろう? ってことについてなど。それに、そもそも川柳のことについて)
日暮れて道遠し(いま、朝ですが)。
どこまで・いつできるかわかりませんが、何かご意見ありましたら、教えてください。
あ、僕はひとりじゃないや。
では、今日はここまで。

(つづく、かもしれない)
posted by 川合大祐 at 06:38| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月29日

木村半文銭の冒険心

hanmonsen.gifクリックしてご覧ください


以前から木村半文銭の川柳をネット上に載せたいと考えていた。
木村半文銭は、大正末期〜昭和10年前後にかけて展開された〈新興川柳〉という、川柳革新運動の代表的な人物である。
短歌にも少し遅れて〈新興短歌〉があった。
それは、大まかに分けると、モダニズム短歌(芸術派)とプロレタリア短歌があったのだが、新興川柳もおなじような構図があり、森田一二・鶴彬といったプロレタリア川柳と田中五呂八・木村半文銭といった芸術派川柳で対立していた。

さて、上掲の画像の句は、川柳と見なしていいのか読み手をまどわせる作品群と思う。
しかし、半文銭も最初からこういう川柳を創りつづけていた訳ではないし、通常は川柳と了解できる作品がほとんどである。
手持ちの『新興川柳選集』(渡辺尺蠖監修・一叩人編/たいまつ社)から少し引いてみる。

 生首と月給ボタリボタリ落ち
 家中の暗さあつめて灯をともし
 死刑の宣告程名文はないじゃろ
 莫迦がよってたかって可能にして了ふ
 博士の鼻と近眼鏡との距離
 豆腐蒟蒻唯物論の続き哉
 頭の中に米が一杯
 紀元前二世紀ごろの咳もする
 がたぴしと  金が出て行く音を聞け


木村半文銭ほど冒険をした川柳人はいないと思う。
だが、とうぜん、冒険などではなく奇をてらっているだけではないかという意見も多いかも知れない。
でも、そもそも世界っていうのは想定外のことがいっぱい起こる。
その想定外を経ることで、ある有機的な文化圏の秩序は非設計的におのずから再調整され、エッセンスを残しながらも装いはどんどん変わっていく。
たとえば、戦後の〈前衛短歌〉における句割れや句跨り、本歌取りやモンタージュ、記号使用、比喩の開拓といった方法は、昭和20年代後半から30年代にかけてさまざまな批判や議論を生んだ。
それにもかかわらず、それらの方法は、べつに誰かが計画的に取捨選択したわけでもないのに、おのずから現在の短歌に自生している(もちろん、根づいたとまで言えないものもあって、たとえば恂{邦雄の図形詩的手法は、一部の歌人を除きほとんど試みられていない)。

ある一時、どれだけ集中的に批判にさらされようとも、時が経ればおのずと取捨選択がなされた状態にいたり、一定の秩序のもとに有機的な文化圏が営まれていくものだとすれば、川柳界も冒険的な創作をひとまず俎上に載せてみればいいのである。
ただ、既成川柳界のばあい、川柳グループは数あれど、それが点描のように或る統一性をもったネットワークになっていない。
一言でいえば、柳壇がないのだ。
だから、自分と違うスタイルの川柳を知らないまま作句をつづけていくことになるので、おのずと取捨選択されてカオスがコスモスにいたる、という現象じたいが起こらない。

半文銭は「─────────────────── 水」という作品について次のように述べている。

ただ私としては、いろいろの形態に悩みぬいて遂に、
   ─────────────────── 水
の一句に到つて行き詰つてゐることを申し上げて置きたい。私としては、この一本のラインに適当な言葉を嵌めて行く常套的手段に厭いてしまつたのだ。そして、全てを語らず、この一本のラインに頼つて今日に到つてゐる。勿論、これが正しい表現形態だとは言ひかねるし、殊に活字的発表に転回した詩歌本来の口唱的発達と反する欠陥とは認めるが、ただ此の行詰りにまで形態問題が突入してゐることだけを、諸君の記憶に牢記していただければ倖甚である。
(『川柳は斯うして創れ』木村半文銭/川柳叢書刊行会/昭和8)

川柳とどう付き合うかは川柳人それぞれで違う。半文銭のように文学的に突き詰める姿勢はちょっと現代の人間からは重く感じられるかも知れない。ただし、彼が当時の新興的な潮流をしかと受けとめ、新たな時代の中で川柳を飛躍させようとした冒険心にはとても勇気をもらえるし、今の時代の中でいかに川柳を生きたものとするかのヒントがあるような気がする。

posted by 飯島章友 at 00:33| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月12日

問と答・短歌と川柳の合わせ鏡〜曾呂利亭雑記をきっかけに〜A

短歌の「対話性」にたいして川柳はどのような構造をもっているのだろうか。もういちど曾呂利亭雑記の「詩型と笑いと」に戻ってみよう。

 うまい棒緩衝材にちょうどいい  松橋帆波
 げんじつはキウイの種に負けている  なかはられいこ


川柳スープレックスでとりあげられている句から任意に引いた。
どちらの句も、実に「一発芸」的ではないだろうか。

たとえばこれらの句は、「かいーの」とか「アメマ!」とか(Ⓒ間寛平)、「そんなの関係ねぇ!」とか(Ⓒ小島よしお)、それぞれ、急に文脈を無視して挿入される違和感によって、笑いを生み出すタイプのギャグである。


短歌が「漫才」的、つまり対話なのにたいして、川柳は「一発芸」的。何の脈絡もなく発せられる昨今の「一発芸」とたしかに通じそうだ。そう、昨今。ドリフターズの、わりと律儀にコントの文脈の中で意味性をもっていたギャグ──なんだバカヤロ、どうもすんずれいしました、ひっくしょん!、怒っちゃやーよ、だいじょぶだ、しょうゆラー油アイラブユー──などとはちょっと違う、昨今の「一発芸」だ。理由や経緯なんてすっ飛ばして唐突に「緩衝材にちょうどいい」「キウイの種に負けている」と断言するあたり、バカボンパパの〈これでいいのだ〉にも通じるかもしれない(ちがうか)。

ところで、さきほど「問と答の合わせ鏡」論について話したけれど、もともと川柳は、前句附から附句を独立させた文芸なので、問答の構造を基本にして発展してきた文芸だ。たとえば、「母おやハもつたいないがだましよい」という句は、〈母親は?〉という問いに「だましよい」と答える問答構造の基本形として有名だが、この句じたいも「気をつけにけり気をつけにけり」という前句(問)に付けられた附句(答)だった。問答の構造、言いかえれば問答体。近年は、かたちの上では〈AはBである〉という問答体の構文をとりながらも、非問・非答としかいいようがない川柳も出てきている。だが、松橋帆波の上掲句がきっちりと「緩衝材」という「答」を出しているように、いまでも問答体は強い磁場としてある。

こうしてみてみると、短歌と川柳は問答体という点でいかにも似通った文芸にみえる。たしかに「問と答の合わせ鏡」の〈問と答〉の要素で、短歌と川柳は共通しているのだ。でも、はたして〈合わせ鏡〉の働きが川柳にあるのだろうか、という疑問が生じてくる。〈合わせ鏡〉の働き、つまり「答えるということが、すなわちさらに深い『問』の断崖に目覚める」という再帰的な働きが川柳に似合うのだろうか。

短歌は57577の31音と長い詩型である。だから、上の句と下の句を駆使して〈主体〉と〈客体〉を対句的に描写することができる。

 退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり
 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや


志垣の歌は上の句が〈主観句〉で下の句が〈客観句〉、山中の歌は上の句が〈客観句〉で下の句が〈主観句〉となっている。そしてこの主・客が、「問」と「答」の「合わせ鏡」として呼応しつづけ、「答」が出たあとにふたたび「問」へと戻る再帰性を生じさせる。
それにたいして、

 うまい棒緩衝材にちょうどいい  

という松橋の川柳は、短歌での〈主観句〉だけで勝負している。ここに客観句との対話性はない。「うまい棒」「緩衝材」「ちょうどいい」のすべてが発話者の主観に回収できる。迷いがない。おなじ問答体をもった短歌と川柳であるが、短歌は主観と客観のズレを調整していく〈迷い〉の問答であり、川柳は主観と客観を調整しない〈断言〉の問答である。したがって川柳では、短歌のように問と答を合わせ鏡のように往復する必要性は基本的にない。言い切って終了。だから「一発芸」的なのである。まちがっても「緩衝材」という答えを受けて「うまい棒」をふたたび問いかえし、未来へ自己を企投しつづけていく、ということにはならない。それが川柳のむかしからの特徴であり、特長なのだから。

曾呂利は川柳の「完結」性に言及している。わたしの話と重なるところかと思う。

 なんぼでもあるぞと滝の水は落ち 前田伍健
 滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半


川柳と俳句の違いとして、しばしば引用、比較される両句。

やはりどちらかと言うと俳句は「ツッコミ待ち」の気配があり、川柳は「ツッコミ」が必要なく、それ自身で完結し、ツッコミまで自分で引き受けているような、そんな感触がある。



ここまで、川柳では基本的に「問」と「答」を合わせ鏡のように往復する必要がない、という結論を出してみた。そう、基本的には。そのように留保したのには、もう一方の川柳、なかはらの句にどこかしら「合わせ鏡」の働きが感じられたからだ。

 げんじつはキウイの種に負けている

なかはらの句は、【問】「げんじつを負かすのは?」 【答】「キウイの種」という問答体になっているが、「キウイの種」は答えでありながらどうも答えになりきれてない。この句をはじめて読んだときのことを思い出せば、確かに(あ、)とわたしの中で共鳴したのだが、句の意味が割り切れて共感に至ったわけではない(共鳴と共感はちょっと違う)。「げんじつがキウイの種に負けるって?ん?ん?」という状態だ。

そんな状態の中、「げんじつ」という平仮名書き、ここにすごく興味をかきたてられた。これは、不透明で、手触りがなくて、とらえどころがなくて、問いとして立てることすらできないような「げんじつ」のあらわれではないのか。そんな手触りのない「げんじつ」ならば、小さいながらも確かな手触りをもつ「キウイの種」に負けてしまうだろう。このように考えを巡らせたとき、「キウイの種」で「げんじつ」を問いかえす「合わせ鏡」の働きは認められるのではないか。言いかえれば、手触り感のない「げんじつ」(問)を、確かな手触りをもつ「キウイの種」(答)と対比させることによって、あいまいな「げんじつ」に手触りを回復させたいという「問と答の合わせ鏡」作用があるように思えるのだ。

「れいこです・・・キウイの種にも負けとるとです・・・れいこです」という「一発芸」的なレベル、あるいは「自分のげんじつ、キウイの種に負けてますやん!」という「セルフツッコミ」的なレベル、そのどちらにも当てはまる「げんじつはキウイの種に負けている」。しなしながら、この句の発話者はもう一人の自分を相方に見立てて対話をしているのではないか。どこかそんな感じがする。

曾呂利亭雑記の記事をきっかけに松橋帆波となかはられいこの川柳を、問答体や合わせ鏡の観点から考えてきた。松橋帆波は問答体の完結性を活かし、なかはらは問答体を未完性のレベルで用いている。どちらも現代川柳の主要スタイルだ。しかし、問答体・合わせ鏡の働き・完結性・未完性といったものは、おそらく現代の短歌、俳句、川柳、連句などの短詩型全般、いや表現物全般に共通するものかと思う。この記事を書くきっかけとなった「詩型と笑いと」において曾呂利は、「ただ、川柳にせよ俳句にせよ、現在の『広がり』は、とてもそんな原理原則どおりにはいかないのですが」と結んでいる。わたしも同感である。それでいて、そんな現代川柳の広々とした「げんじつ」に、じぶんを見失ってしまいそうになる。だからこそ、わたしは、山のように積まれた「うまい棒」に今日も明日もダイビングしつづけることだろう。
(おわり)
posted by 飯島章友 at 22:00| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

問と答・短歌と川柳の合わせ鏡〜曾呂利亭雑記をきっかけに〜@

曾呂利亭雑記の亭主である曾呂利が、「詩型と笑いと」という記事をアップした。とてもオモシロい内容で一気に読み進めた。そこでは俳句・短歌・川柳をお笑いのジャンルに喩えて三分野を考察している。俳句についてはわたしの勉強不足のためなかなか反応できないのだが、短歌と川柳にかんしてはこの記事を起点にいろいろ考えを巡らせることができた。

まず短歌についての喩えを同記事から引いてみよう。曾呂利は若手歌人と話し合う機会があって、短歌と俳句と川柳の違いについて話し合ったという。そのとき「短歌は漫才だと思っているんです」という発言が出たそうだ。それを受けて曾呂利は、「いま適当な短歌の構造論を引くだけの余裕がないが、上の句(五七五)、下の句(七七)の対話性が短歌の生理なのだという見立ては、ある種の説得力を持つ」と書いている。

上の句と下の句の「対話性」。厳密にいうと短歌は一人称文学なので独話形式なのだけれど、独話といっても実際は仮想の他者を自分の頭の中に出現させて問答しているのだから、たしかに「対話」「漫才」というのは巧みな表現だ。

漫才、すなわち「上の句(五七五)、下の句(七七)の対話性」という表現を読んで思い出した歌論がある。それは永田和弘著『表現の吃水──定型短歌論』(1981・3 而立書房)の中におさめられた「『問』と『答』の合わせ鏡」だ。以下、かんたんに「問と答の合わせ鏡」論をみていきたいと思う。

 退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり 志垣澄幸

上掲歌を引いて永田は、上の句と下の句が「問」と「答」の関係にあると説く。

……「退くことももはやならざる」という上句は、その時点で作者を表現行為へと促した自己認識、つまり問題意識である。それを内部状態と言ってもよいが、広い意味でここでは「問」と言い換えて差しつかえなかろう。即ち作者は「退くことも……」という「問」をもって、その「問」を支えるに足る対象を外界に求めたのであり、下句は言わば上句に対する「答」であるとも言い得る。


そして永田によれば、下の句「鳥ながされて……」を「問」、上の句「退くことももはやならざる……」を「答」と見ることもできるという。問と答をイコールと捉えるならば、上下句の問答関係が逆転することに矛盾はない。

永田の「問と答の合わせ鏡」論はこれだけでは終らない。

だがまだそれだけでは十分ではないのであって、作品が本当に緊張したものとなるのは、その「答」がさらに新たなる「問」となって作者を、従って最初の「問」を問いかえすという場合であろう。


「鳥ながされて森越えゆけり」という「答」がそのままで充足せず、それが新たに「問」として「退くことももはやならざる」に反っていくのである。これをわたしなりに言い直すと、「答」が正・反・合の〈反〉となって、ふたたび「問」=〈正〉に判断を迫っていく事態なのだと思う。

 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや 山中智恵子

この歌について永田は次のように説明する。

上句から下句へと、山中智恵子はいっきょに時間を越えて歴史の彼方へと飛翔するのであるが、下句における「はじめに月と呼びしひとはや」という、その「はや」に籠めた彼女の感動はそのままおうむ返しに上句に返って、何の疑念をさしはさむこともなく「月」を「月」と呼び慣わしている彼女自身、およびわれわれの現在を鋭く問いかえすことになるのだ。


もういちどこれを正・反・合で説明してみる。まず上の句「三輪山の背後より不可思議の月立てり」において主人公が見ている「月」が〈正〉である。その〈正〉としての「月」にたいして、下の句で表明された感覚「はじめに月と呼びしひとはや」が〈反〉となって最初の「月」に対立される。主人公は下の句で時空を遡り、「ツキ」と最初に呼んだひとの心情に同化したうえで、上の句の「月」を問いかえしているのだ。この上下句、問と答のあいだに起こる緊張した相互照射が、たんに自分の認識や判断を表明するだけの問答を回避する働きとなる。それを永田は「問と答の合わせ鏡」と表現したのである。

「答」を出すことが一つの自己充足となるのではなく、答えるということが、すなわちさらに深い「問」の断崖に目覚めることであること、そのような「問」と「答」の相互転換が充足されるとき、作品は文字どおり読者を引き込み、読者をもまた、その「問」の断崖にまで追いつめることができるのである。このような事情を、私自身は「問」と「答」の合わせ鏡構造≠ニでも呼びたく思っている……。


ここでちょっと思うことが一つある。さきほどわたしは、短歌の上下句の問答を、正・反・合の〈正〉と〈反〉で説明した。しかし、結局どうしたって、575・77の対句構造の中では〈合〉に至らないのではないかと思うのだ。〈正〉←→〈反〉の往復をくり返すのが短歌形式ではないだろうか。たしかに「答」が〈反〉となって最初の「問」を問いかえせば〈合〉が立ち顕れるのかも知れないが、その〈合〉はあくまでも通過点である。その〈合〉もまた新たに〈反〉をつきつけられる、いわば〈取りあえずの合〉である。そのようにいえる根拠は、ほんとうに〈合〉に至れるのであれば、もう「問」と「答」の記述など必要がなくなるはずだからだ。575・77という対句構造の檻は、いやがおうでも正←→反の往復をくり返して〈合〉に至らない。その意味で短歌の対話性、いわば問答構造は、まるで砂時計のように「問」と「答」を往復しつづけ、〈絶対的な合〉に至らない構造だといえるかもしれない。そしてそれが、昭和の短歌からじめじめした〈私〉がつよく感じられた主因なのではないだろうか、などと思ったりする。

ここまで短歌の「問と答の合わせ鏡」論とそこから敷衍したわたしのお喋りを書いてきたが、誤解が生じるといけないので一言断わっておくと、短歌の定型に絶対の規則性があるわけではない。問答の働きもその例外ではない。その点は永田和宏も議論の中で示唆している。また、「問と答の合わせ鏡」という短歌の基本的構造が書かれてから四十年近く経過した現在、当時の説得力をどこまで保っているかは分からない。だが、「もしドアの開閉を望むならば、蝶番は固定されていなければならない」というウィトゲンシュタインの言葉のとおり、短歌性を考えるには、問答の構造という固定された蝶番がなくてはならないのではないだろうか。
(つづく)
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