2015年04月28日

言葉の手触り──現在の言語表現としての川柳   湊圭史 

 川柳の現在はどこにあるか? この問いには二通りの答えかたができる。ひとつには現在書かれている川柳を参照することによって。そしてもうひとつは川柳にいま可能なのはどのような表現かを示すことによって。ここではその二通りを同時に果たすために、短詩型の他ジャンルからの主に二〇〇〇年代の表現と現在の川柳作品とを比べてみたい。

 短詩型の現在を考える場合、まず視野に入れておきたいのは、第二次大戦後のパラダイムから表現の質を大きく変質させた「短歌ニューウェーブ」の存在である。

 「この道はまみのためにつくられたんだ」(神様、まみを、終わらせて)パチン   穂村弘
 つきの光に花梨が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて   岡井隆
 一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の翅が舞ふイメージで   黒瀬珂瀾

右3首のうち、短歌史上での「短歌ニューウェーブ」作品は穂村の歌だけだが、重要なのは、穂村の句に見られる口語や虚構性の扱い、言葉への冷めた視線がより若い世代の黒瀬らに留まらず、先行世代の岡井にも及んでいることだ。同様の言葉の質を感じさせる俳句をあげると、

 梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど  外山一機
 美しい僕が咥えている死鼠   中村安伸
 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ   田島健一

外山、中村、田島の句は従来の枠組みでは「前衛」あるいはその末裔として扱われるだろう。しかし実際には、戦後の「前衛」や「革新」の根本にある言語表現が社会的現実と結びつき、さらにはその革新にもつながるというヴィジョンからはほど遠い。古いタイプ(しかし、自分が今でも新しい「前衛」だと思い込んでいる人種)には単なる言葉遊びと断罪されるところだが、社会的現実とは結びつかない言葉やイメージの手触りこそがこれらの表現が見逃せない理由なのだ。
 川柳においてこの方向で成功しているのは、なかはられいこである。その意味で、なかはらの『脱衣場のアリス』(〇一年)は川柳界にとって決定的な句集だろう。

 他人じゃないよ夢で何度も殺したよ   なかはられいこ
 ウォシュレットぷらいどなんてもういいの
 朝焼けのすかいらーくで気体になるの
 よろしくね これが廃線これが楡

各章の前につけられた短いメッセージ(「からだとこころ、こころとからだ。うそをつくのはいつでもこころ。」「「またね」と手を振って彼女は消えた。雨の匂いがした。」など)も含めて、本の作りからも短歌ニューウェーブの同時代を生きている言葉が伝わる。この句集に続いて同様の本が次々と出なかったことが現在の川柳が他ジャンルより遅れてみえる決定的な理由ではないか。

 だが今からなかはらの真似をしても、すでに過去の(バブル経済期の)亡霊に見えてしまうだろう。大事なのは、こうした表現が示した転回により、従来のものと似てはいるが根本的に位相が異なる表現が表れてきたのを認識することだ。

 好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ   東直子
 寂しいと言い私を蔦にせよ
   神野紗希
 みづうみのみなとのなつのみじかけれ   田中裕明

右の三作品は、従来の視点では、それぞれの方法で「抒情」を目指した表現とみられるだろう。また、

 それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
   笹井宏之
 原子心母ユニットバスで血を流す   田中亜美
 きつねのかみそり迷子になつてゐないふり   太田うさぎ

これらは二〇世紀のシュルレアリスム(超現実主義)と共通した手法を用いている。抒情にしろ、シュルレアリスムにしろ、主観に重きを置き、客観世界ではとらえられない確実性を感情やイメージの中に捉える方向性である。注目したいのは、右にあげた諸作品にはそうした確実さ、言うなれば「真実」への執着が見られないことだ。この点で、これらと先ほど短歌ニューウェーブ的表現としてあげた作品群とは同様の基盤に立っていることが分かる。つまり、社会的現実にしろ、内面的現実にしろ、そうした絶対的基準を喪失した代わりに言葉の自由度を得て、言語作品としての一回性に賭ける表現なのだ。
 川柳において同様の変化をみるためには、従来のシュルレアリスム的表現、例えば、

 縊死の木か猫かしばらくわからない   石部明
 ローソクは鷲を生んでいきました   青田煙眉
 顔のスイッチを入れる 夜を消すのを忘れていた   普川素床

と、一見シュルレアリスム風の小池正博の句、

 贋札を渡すメルヘンのふりをして   小池正博
 島二つどちらを姉と呼ぼうかな
 ジュール・ヴェルヌの髭と呼ばれる海老の足

とを比べてみればよい。前者が意外な飛躍によって一般的現実を離れた現実を指向しているのに対し、小池の句では言葉が一つの方向を目指すようには働いておらず、むしろ、つかみがたい言葉の動きそのものが作品の眼目なのだ。これはどちらの表現が上とかいう問題ではない。ただ言語表現が現在置かれた状況から、従来のシュルレアリスム的表現が力を失くしつつあるとは言えると思う。

 短詩型における別の傾向を考えるとすれば、右のような現実や真実などから離れた表現に対して、逆に、性急に現実とのコンタクトを求めるような方向も見てとることができる。

 たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔   飯田有子
 駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに   中澤系

飯田、中澤の歌は、ここまでストレートに言われては反論ができない、と思わせると同時に、なぜ短歌にしたのかが疑問でもある。現実を捉えたというより、現実に追いつめられた歌の姿だろう。川柳で同様の肌触りを感じるのは、飯田良祐の次のような句だろうか。
 
 ビニール袋の中のカサカサの勃起   飯田良祐
 迂回路にキュウピイさんの行きだおれ

なかはらの句集と同様、現在の社会のシンドさをとらえた飯田の表現も例外的だ。川柳は一般的なイメージとは逆に、時流を掴むのが不得手かもしれない。
 また、シュルレアリスム的なイメージの連結とは違う「省略」による真実の暗示の手法も現在的だろう。

 アザラシのタマちゃんどこかにいるのだがぜんぜん報道しなくなったね   奥村晃作
 ひだまりを手袋がすり抜けてゆく   鴇田智哉

これらの作品は、発話主体の意図が見えないのが気味が悪く、強い印象を残す。この省略の技法は川柳の得意とするところで、実際、次のような例句をあげることが可能だ。

 滑り台怒ったまんま降りて来る   金築雨学
 家を出るときに時計が鳴っていた
 ストローの折れるところを握りしめ   徳永政二
 よくわかりました静かに閉める窓

 こうして書きだすと、一句一句では、川柳は他ジャンルに匹敵する表現レベルと現在性を十分に見せているようだ。そうした達成が点にしかならず、線(系列)や面(ムーブメント)として見えてこないところに現在の川柳ジャンルの難しさがあるように思われる。


(初出は2012年11月25日発行「川柳カード」創刊号 掲載にあたっては著者の許可をいただいております)
posted by 飯島章友 at 00:30| Comment(0) | 柳論アーカイブズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする