2015年09月10日

木曜日のことのは蒐集帖10 裏側へでる

踊り場の裏側へでる桜闇    内田真理子 (句集『ゆくりなく』より)

「裏側」に惹かれるのは、それが表の反対、陽でなくて陰だから、というわけではなくて、「裏」が隠された場所だからだと思う。
隠された場所を意識するのは、どこにでも行けるという思いに通じている。でもほんとうはどこにでも行けるなんてことは(すくなくともわたしには)ほぼ幻想で、だから「裏側」が魅力的なのかもしれない。
内田真理子さんの句、どこの裏側かとおもえば踊り場のそれなのである。
踊り場に裏側があるんだろうか。階段室のような空間であれば、踊り場は壁に接している。建物の、壁からはなれて配置された階段の踊り場は、床から浮遊して周囲には何もないことがみとおせているはず。
踊り場の裏側っていったいどこ?
それは三次元の世界に住む者からはすっかり隠されている場所。異なる世界。クラインの壺のなか。
「桜闇」は「踊り場の裏側へでる」という状況の比喩なのか。「桜闇」をぬけると「踊り場の裏側へ」至るということなのか。
異界にすっとはいりこんでしまうという感覚がおもしろく。

野も鳥も鏡裏から戻らない 石部明


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2015年08月20日

木曜日のことのは蒐集帖H ひしめいて

つゆだくや姫やわやわとひしめいて   榊陽子  (第58回川柳北田辺)

「ひしめく」ということばをはじめてきいたのはたぶん、「走れコータロー」だったとおもう。ひしめきあっていななくは、というひびきがふしぎだった。
そのせいかどうかはしらないけれど、わたしは「ひしめく」ということばを使いがちなのである。

掲句の「ひしめく」はおもしろい。
「つゆだくや」という言葉にひきずられてお椀を思い浮かべる。
ふたをあけると、お椀のなかにひしめいている姫たち。
やわやわと、というのだから、ひしめいているといってもさほど窮屈な印象ではなさそうだ。姫たちはおしあいへしあい、上機嫌でゆらゆら揺れている。
見たことがない眺めのはずなのに、ほんのりなつかしい。
連想は、フラワーロック、村上隆の花、草間彌生のソフトスカルプチャー(舟やソファをペニスを思わせる突起物でびっしり覆ったもの)とたのしく飛ぶけれど、やっぱりムーミンのニョロニョロ、かなぁ。
ニョロニョロの姫化。

「つゆだく」に切れ字「や」をあしらう。希少価値があるはずの「姫」を量産してキャラクター化する。「ひしめく」をやわらかなものにしてみせる。
くわだてごとの好きな作者である。

「ひしめく」を漢字で書くと「犇めく」だとおそまきながら知る。
馬ではなくて牛だったか。


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2015年08月16日

木曜日のことのは蒐集帖 G かもしれない人

かもしれない人がひゅんっと通過する 瀧村小奈生 (川柳ねじまき#1より)

先日、大阪中崎町の「葉ね文庫」というすてきな本屋さんで『川柳ねじまき#1』を入手いたしました。図書館の棚を見上げるおんなのこの写真が表紙なのですが、おんなのこの背中側の柱の線がちょうど『川柳ねじまき#1』の本の背の部分になっていて金属色の製本テープみたいでおもしろいです。棚がゆうるりカーブしているのも「ねじまかれた図書室」の一部みたいなのでした。
(前置きながくなりました)
さて標題の句、「かもしれない人」の前に、なにかが省略されているのかな、と考えたけれど、どうもそうでない気がします。
誰かが(なにかが)通過して、「あっ」となる、こころの動きかな?と思うのです。それが誰か(なにか)はさほど問題ではなくて、あるいは説明できない誰か(なにか)で。しいて名づけるなら「かもしれない氏」。
で作者は「あっ」という一瞬の動きを経験してあっけらかんとそこにいる。
シオドア・スタージョンに『不思議のひと触れ』という短編があります。原題は(A Touch of Strange)だから、大森望の訳ってすごい!となるのですが、瀧村さんのこの句は(A Touch of Strange)の瞬間だと思うのです。
「ひゅんっと」という音もたのしく、一瞬をナチュラルに切り取る瀧村さんの世界のあかるさってすきです。明確にどこがどうとは説明できないけれど、確かにそう!と感じられることってままあります。わたしなんかはその瞬間をそばから忘れがちなんですけど、かたちなさない瞬間の直感をそのまま文字にできるのっていいなと思うのでした。

何か言う前のあなたのような雲 瀧村小奈生



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2015年08月06日

木曜日のことのは蒐集帖 F  遅れはじめる時間

林檎をおくと遅れはじめる時間    内田万貴 (川柳木馬 第145号)

甘美な、と思う。

いやな時間は遅くすぎるという。
でも「遅れはじめる」というのは日常がゆらぐこと。
琴線が引かれて、たわんで、おおきく揺れようと息をとめている。

目の前には林檎がある。みずからおいた林檎だ。
林檎は原罪や知恵やさまざまなことを象徴すると考えられているけれど、ここでは純粋にうつくしいかたちの果実。
恋う気持ちの、よりしろのように。

時間は、出来事や変化を認識するための基礎的な概念である、と辞書にあった。
日や月や数字は認識を助ける目盛り。
時間が遅れはじめるとき、目盛りはふわふわとただよい、時計は溶けはじめるのだろうか。


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2015年07月23日

木曜日のことのは蒐集帖 E 桔梗

義眼みなはずし桔梗が揺れている    石部明

義眼をはずすという行為と「みな」という言葉の組み合わせには違和感がある。
ひとつならぬ義眼が装着されているのだろうか。
また目の数の話になるのだけれど、目はふたつが一般的なイメージで、義眼をふたつはずすとき「みな」という言葉をつかうだろうか。
やはり義眼はひとつでもふたつでもなく、あまたあるように思われる。
ふと、桔梗畑の句かと思った。はずしたのは桔梗の集合体の意思。
ひとつひとつの桔梗の義眼をはずし、集合体は桔梗の義眼をみなはずし、盲目となった花は義眼をはずして桔梗になり、揺れる。
怖いようである。

石部さんは花を中心に据えた句が多いと思う。桔梗であれば、次のような句がある。

野に老婆生まれ桔梗を抱いている   石部明
またがって桔梗の首を締めている


テレビを見ていたら、ホテルのコンシェルジュが客のリクエストで、「一輪でもさまになる花」を探していた。コンシェルジュは薔薇、と思うがすぐには揃えられず、花屋は桔梗を提案した。

なるほど、濃い青紫の星のかたちの花は、凛と存在感がある。

石部さんに桔梗が好きなんですかとお尋ねしたら、「どんな花かよう知らんのや」と言われたことがあった。
ひどく驚き、愉快でもあった。


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