2015年07月16日

木曜日のことのは蒐集帖D 目は奇数

何度数えても友だちの目は奇数       山口ろっぱ  (第57回 川柳北田辺 より)

奇数と偶数、どっちが好き?ときかれたことがあった。
心理テストの類だったのだろうか。
わたしの場合、まよわず「奇数」である。
きっちり半分に割れないところがかっこいい。

奇数は英語ではodd number。oddは「奇妙な」という意味だ。
左右の目の色がちがう猫がいる。左右の目の色がちがう状態をodd eyedというらしい。
odd eye だけでは和製英語だとか。参考:eyes mismatched in colour

動物の目のほとんどはふたつ。立体視のためだというが、霊長類のように二つの目が同じ面にならんでいるならわかるけれど、犀はどうなんだろう、魚は?いったいどんな視界をかれらは持っているんだろう。

さて「目は奇数」の句。
浮かんだのは、手塚治虫の『三つ目がとおる』だった。おおきな絆創膏でかくされることもある三つめの目は異能の証である。
でもまてよ、なのである。
「目はみっつ」とは書かれていない。さていくつなんだろう。
しかもこの目、とらえがたい位置関係にあるらしい。もしくは点滅?しているのか。何度も数えたくなるような在り方のようだ。
顔だけではなくて手のひらや頭頂部やひかがみにもあるのかもしれない。
いったいその友だちの目がとらえる世界とは・・・・・!?

おもしろいのは数える人が平静であることで、「やっぱり奇数だなぁ」と確認している。

まさに奇妙。

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2015年07月09日

木曜日のことのは蒐集帖C フックにかけておく乳房

帰ったらフックにかけておく乳房      悠とし子 (ふらすこてん句会 2015.07)

ボタンをぱちんぱちんとはずして(あるいは、かぶりのタイプかもしれない)乳房をフックにかける。
螺鈿細工のひきだしにおさめたり、うやうやしく台座にのせたりするのではなくて、無造作にフックにかけておくのがおもしろい。
乳房であれば、室内のデザイン的にもよろしい。

乳房の詩歌といえば辰巳泰子さんの短歌が浮かぶ。
乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる   辰巳泰子
一篇の物語が生まれでそうな歌だ。
あるいは
恐ろしき君等が乳房夏来たる 西東三鬼
圧倒されそうな、生命力。

悠とし子さんの句では、乳房が、母性や女性性の象徴でもなく、またはそれをまっこう否定する方向でもなく、からりとモノのように描かれていて愉快である。

川端康成『片腕』では、うつくしい娘が「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と右腕をとりはずす。持ち帰られ、だきしめられる片腕は、フェティシズム的性愛の対象にも思える。
悠とし子さんの「フックにかけられた乳房」は、ただただ純粋にモノである。そこがいい。

もし川柳の句会で「乳房」という題がでたら、どんな句がでるか。想像すると、ちょっとしんどい。乳房だって決めつけだけで詠まれたくないというものである。
「帰ったらフックにかけておく乳房」は、そんな乳房を想って、詠まれた句かもしれない。


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2015年07月02日

木曜日のことのは蒐集帖 B 代々のマトリョーシカ

代々のマトリョーシカでいきましょう  一戸涼子 (川柳カード 第7号)

三十年以上前、露文好きの友人からプレゼントされて以来、マトリョーシカが好きだった。
わたしのマトリョーシカは、その後みたものの多数が四頭身のドラえもん体型だとすれば、ボーリングのピン状に近く、ほっそりしていた。プラトークも衣装もシンプルで、顔立ちはバイオリニストの佐藤陽子さんに似ていた。ニスの匂いのする木製で(材料は菩提樹が多いと聞く)ひねると真ん中から上と下に分かれ、中からやや小さいマトリョーシカが出てくる。それもまた上下に分かれて、さらに小さなマトリョーシカが現れる。背丈順にならべるとマトリョーシカは五体だった。
意外だったがマトリョーシカの歴史はまだ百年強で、1900年のパリ万博に出展されひろく知られるようになった。箱根の七福神人形がヒントになったという説もある。(箱根の入れ子の一番外側は、額の長い福禄寿である)歴代の大統領など違うかたちを収めたマトリョーシカもあるが、やはり魅力は、同じかたちの大小が取り出せることで、もしこれが無限に続くと想像すれば、幻惑的な自己増幅である。

代々のマトリョーシカ」とは愉快である。
「代々の」というのを、ひとつのマトリョーシカからとりだされたものとは考えないから、増幅をはらむマトリョーシカに代々という時間の方向がくわって、空想上のボードゲームの升目が背丈のちがうマトリョーシカでばらばらばらと埋められていくようでおもしろい。

「いきましょう」は「今日の先発はマトリョーシカでいきましょう」という語感にひびく。
すると空想の升目をうめたマトリョーシカ達がいっせいに屈伸をはじめたりもするのだった。

         
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2015年06月25日

木曜日のことのは蒐集帖A 首から上が蠅

その男さみし首から上が蠅    西原天気 (はがきハイク 第12号)

わ!と思わず首をすくめた。

「その男さみし」という端正な表情の言葉につづく、「首から上が蠅」という口調と意味の転成。いいはなしておさめて、定型っておもしろい。

キメラの図なんだろうか。キメラの語源はキマイラで、異なるものの合成という意味合いでひろく使われているようだ。有名なギュスターヴ・モローの『キマイラ』の絵では羽根の生えたケンタウロスみたいなきれいで無表情の生きものが描かれているけれど、もともとのキマイラはライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾というからおそろしげである。ピカソのミノタウロス、ボスの怪物、スフィンクス、西欧には様々なキメラの発想があるけれど、日本にはあるのか、ちょっと思い浮かばない。

「さみし」と「蠅」が並ぶと思い出すのは映画『The Fly』だ。恋人に嫉妬し酔って転送ポットにはいりこんだ科学者セス。ポットは無機物の転送にはすでに成功していたけれど、セスは見事?有機物として別のポットへ転送される。でも!転送元には蠅が迷い込んでいて、転送されたセスは蠅の情報をとりこんだ生物になってしまっていた。

さて「首から上が蠅」。わたしのイメージは、むじな(のっぺらぼう)である。山高帽の男の表情は、無数の蠅のつらなりのなかに埋没しているのである。

さみし。
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2015年06月18日

木曜日の・ことのは蒐集帖@ 肺をふくらます

笑う 怒る 悲しむ えとせとら。
感情の動きを、感情の言葉ではなく表現できたら・・・・と思う。
たとえば

目を細める 小躍りする 肩をすくめる 舌打ちする 目を剥く 指を鳴らす 眉根にシワ 

ざんねんながら、ほとんどは常套句の範囲におさまるのである。だが

からかって男の肺をふくらます    八上桐子 (Senryu SO Vol.05 より)

を一読して、虚を衝かれた。
きれいだ、と思った。

肺がふくらむのは、息を吸ったからである。
息を吸って、吐き出す準備段階である。
吐き出されるのは怒りだろうか。それとも
あらあらしい愛の言葉だろうか。

感情の動きを不可視のところにとらえる。

からかうひとの冷静。
ひととひとがいれば自ずから生じるパワーゲーム。

ゲームではあるが、せつないのである。


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