2019年03月31日

大川博幸「たどり着いて いまだ荒野」を読む


今月の作品は「たどり着いて いまだ荒野/大川博幸」だった。

朝の闇釜鳴り出して動きだす

朝食の頃合に向けて予約炊飯しておいた電気釜が鳴る。朝はまだ闇の中だという。どことなくまだ寒そうな雰囲気がある。季節はいつだろう。夏や春の朝は、4時台5時台から闇が退きはじめるものだから、この句の朝は秋か冬、わけても冬の可能性が高いと思う。冬であれば6時台ですらまだまだ暗く、7時台に朝食をとるとしたら、暗いうちから電気釜が始動するはずだからだ。

「朝の闇」「釜鳴り出し」「動きだす」といった状態の描写のみで、寝静まっている家の様子や、春を待つ寒い朝を疑似体感することができる。これがもしも、朝は釜が鳴り出してから始まる、などといった説明調であったなら、体感するよりも早く理知で納得してしまい、掲句のような臨場感は出なかっただろう。

むかしから川柳は、理知が優先する文芸である。理知が優先される書き方では、「AはB(である)」という問答構造が、顕在的にも潜在的にも句に含まれてくる。それは、ともするとその一句だけで自己完結してしまい、読み手の想像力の参入する余地がなくなる弱みをもつ。ところが掲句のように、状況を描写することに徹した写生句はどうか。読み手は、句の背景をあれやこれやと想像することができる。そこに、作者と読者の共同作業性が生まれる。写生の良さとは、作品を読み手に開放するところにある。何も「句語の飛躍」ばかりが作者と読者の共同作業性を担保するわけではないのだ。


なぜか嬉しい神の反対語が塩で

昨今よく耳にする「神対応」という言葉。これは、驚くほど行き届いた対応、というくらいの意味がある。その神対応の反対語が「塩対応」。素っ気ない対応、というくらいの意味である。プロレスファンの方なら「しょっぱい試合」というプロレス業界用語をご存知かと思う。「つまらない試合」という意味だ。実例をひとつ。レスラーの平田淳嗣がマイクをもって、「みなさん、こんなしょっぱい試合ですいません」といったシーンは、プロレスファンの間では語り草だ。このしょっぱいがやがて「塩」となり、現在の興行格闘技の世界では「塩試合」に、アイドルの握手会などでは「塩対応」という言葉に発展した。

このように言葉の発展を概観してみると、神と塩との「縁」の強さが思われて感慨深い。神棚にお供えするのは通常、米・水・酒・塩。その祭祀における神と塩とのつながりが、全く次元の異なるビジネスの世界で奇跡的な再会を果たす。しかも反対語という、一直線に対応しあった関係で。

「……何にまれ、尋常よのつねならずすぐれたることのありて、可畏かしこき物を迦微かみとは云なり。」(本居宣長『古事記伝』)

日本では、神話上の神々や社の御霊、それに動植物や海山など、そこに超尋常性が感じられればすべて神になる。わたしはさきほど、神と塩との再会を奇跡的といった。しかし、これほど包括的な日本の神概念を確認すると、けっして奇跡的な再会などではなかったように思えてくる。そう思うと、なぜか嬉しい。


宇宙は四角だろう部屋が四角なので

宇宙は三角や四角ではないだろうし、そもそもかたちという次元に収まると思えない。しかしこの語り手は、卑近な部屋の四角形を広大無辺な宇宙のかたちにまで押し広げている。決めつけといえばそうに違いない。しかし川柳は、その決めつけを武器にしてきた歴史がある。

「AはB」「AするとB」「AだからB」といった川柳的問答構造においては、答え(B)の部分に、いかに読み手を納得させる決めつけをもってこられるかがポイントだ(それはけっして論理的に納得させるわけではないので注意)。さきほどわたしは川柳的問答構造について、「ともするとその一句だけで自己完結してしまい、読み手の想像力が参入する余地がなくなる弱みをもつ」と述べた。しかしそれを翻すようだが、川柳の自己完結性=決めつけというものは、その内容いかんでは他者を惹きつけずにいられない。

 ふぐ汁を食はぬたはけに食ふたはけ  江戸川柳
 死刑の宣告程名文はないじゃろ  木村半文銭
 諏訪湖とは昨日の夕御飯である  石部明
 明るさは退却戦のせいだろう 小池正博
 雑巾をかたく絞ると夜になる  樋口由紀子


「宇宙は四角〜」の句も、一般社会で突然こんなことを言ったなら、宇宙の専門家と思われるか変人と思われるかのどちらかだ。しかし川柳という一般社会の論理の外にある世界では、部屋が四角なんだから宇宙は四角だ、といったほうが正常になる。

以下の前川佐美雄『植物祭』(昭和5年)の作品も、短歌という場ではむしろ好ましい過剰さとも思える。

 なにゆゑにへやは四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす  前川佐美雄
 四角なる室のすみずみの暗がりを恐るるやまひまるき室をつくれ
 丸き家三角の家などの入りまじるむちやくちやの世が今に来るべし


posted by 飯島章友 at 23:50| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月27日

森山文切さん「さけや」を読む/柳本々々

文切さんの川柳には、〈なんでこんなとこに/なんでこんなことに〉のエネルギーがある。それは、間違えることのエネルギーといってもいいかもしれないし、誤配のエネルギーともいってもいいかもしれない。世界のボタンをあえて掛け違えてみることで川柳はことばや意味のエネルギーを発見する。

ガールズバーにある墨書き、救護訓練中の通知音、扉に貼ってある終了の付箋、仏壇のグルテンを除去したナポリタン、なんでこんな〈とこ〉にのエネルギー。

卑猥に見えるダクト平面図、なさけやさんからかけられるおさけ、ギロチンにキレる生首、なんちゃら増える奈良の鹿、なんでこんな〈こと〉にのエネルギー。

さいきん久保田紺さんの句集『大阪のかたち』を持ち歩いて読んでいるのだが、樋口由紀子さんと小池正博さんがこんなことを書いていた。

「生きていくうちにはどうしようもないものが必ずある。なんだかわけのわからない事象にも出会う。最後まで割り切れないものが残ったり、どういえばいいのかわからない感情だってある」と樋口由紀子さん。「人は天使でも悪魔でもなく善悪のグレーゾーンで生きている。どうでもいいことはどうでもいいのであり、しかし本質的なことだけで生きていけるのかというと、そうでもない」と小池正博さん。

ふたりが書いているのは、なんでこんなとこに/なんでこんなことに、の認識を放棄するな、ということではないかともおもう。

文切さんの川柳は、放棄しない。それをことばに置き換え、ひとつ・ひとつとして確認する。川柳はそうした世界のボタンのかけ違えのエネルギーをひとつひとつ配置していくことだとおもう、かけ違えたままで。

かけ違えたままで、どこかにたどりつこうとしている。そういうわたしたちのひとつのありかた。


posted by 柳本々々 at 10:17| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月30日

杉倉 葉「流体のために」を読む

 たとえば、短詩型というモノ=コト=トキをひとつの、という「ひとつの」自体がすでに先触れとしてあるのだが、ひとつの断裂としてとらえること、絶え間ない〈何か〉の一部を切り取ったものであるという認識は可能であろうし、それは思いもかけぬ豊穣さを書き手=読み手=テクストに与えるであろうことは想像に難くないが、しかしそこで想定されている〈何か〉すなわち〈流れ〉とは別の〈流れ〉として、完璧に〈作者〉の統御下にあると見える作品の隙間から、それこそ何其れのように、と無限の類比を発生させる無意識、ないしはノイズが漏れ出してくることは当然あるだろうし、それこそが、いっそ奇蹟、と呼ぶべき作品なのだ。
 この「流体のために」が奇蹟の名にふさわしいかどうかは今は置いておき、一読して目を引くのは無論ドゥルーズのテクストを下敷きにした飛躍であり、詩的なうつくしさであることは疑いなく、そこに見られるのは、挙げるなら『差異と反復』という書名を流用しなお「差異と反復 裁断の」という一字空けによる「差異」から「裁断」への反復と裁断を表現した自己言及であり、またこの連作の八句目が『差異と反復』であるなら一句目は「流体として孕まれて」というやはりドゥルーズのコンテクストを指向した句であり、二句目の「暗殺」「コーヒーに落とす」には七句目の「暗い」「雨が、降っていた」が対応するだろうし、三句目の「無傷の翅」は六句目の「睡眠が祈られる」「好きなひと」のイノセンスと相通じるだろうし、四句目の「ひかりに」は五句目の「星」「あふれだしてゆく水銀」にイメージとして重なり合うと読むことが出来るのであり、すなわち、この連作は四ー五句目の間隙を折り線として、前半と後半が鏡のように対応しあっているのはまぎれもなく、作者の統御が作品を律していることの証左に他ならない。
 だがここまでは、作者の意識下と読むことは可能であるが、無意識下として作品を読むことは可能であろうか、という問い自体が、他者の意識を詮索出来ると確信している傲慢さでもあろうが、それでも作者の統御を放たれて飛翔する蝶が、いっそ奇蹟の名にふさわしいのではあるまいか、という断言もまた傲慢の謂であるが、しかし〈作者の統御〉にすべてを帰するには、ドゥルーズを引く作者に対しては、ある意味で礼を欠くことになりはしまいかという懼れもあり、それ以上に作品の魅力が、〈読み手〉であるわれわれに、このテクストに参加したいという欲動を統御不能とさせるのだった。

  たえまなく流体として孕まれて

 この句において、なにが選択され、なにが選択されなかったのかという問いは、ある地層まで有効であると思われるのは、「選択」という行為がひとつの「切断」であり、「流体」を切断することによって短詩型が成立するというのならば、この愚かにも見える問いにも何らかの意義はあると正当化はできるであろう。
 選択されたのは「たえまなく/流体/として/孕まれて」という、これ以上の分解も可能ではあるが、当座の目安として分子としておくパーツ群であり、この選択は、作品がこの型式で完成されている以上、揺るぎのない〈結果〉として読むことも当然ではあろうが、仮に作品が流体であるならば、〈結果〉という完結はあり得ないはずであり、読み手にとっては、この句のよって来たるところ、そしてこれからゆくところを、自然とイマジネートさせられてしまうのだ。
「たえまなく」はどこから来たのか?
「流体」はどこから来たのか?
「として」はどこから来たのか?
「孕まれて」はどこから来たのか?
 そして、彼女ら彼らはどこへ行くのか?
 そのいちいちの検証は今は手に余るし、それはあくまで〈私〉のひとつの読み方に過ぎず、だから〈正解さがし〉などというものが端から成立しないこの連作を前に、そのようなふるまいをするのは句が喜ばないだろう。
 ただ、句が読み手にこのような過剰と言ってもいい反応を引き出すということ。
 そのこと、だけをもってしても、この連作の存在意義はあると思うのだ。
 そして、それは〈読み手〉の存在意義を肯定する。
 そんな文芸が、ジャンルを問わず、この世にあるのだろうか?
 この見地から、この「流体のために」が〈奇蹟〉であるかどうか、〈読み手〉のひとりひとりがみずからの存在を賭けて立ち向かうべきテクストであると、私は断言する。
 呪わしくも輝かしかった(余言ながら、作者がまだ未生だった)八〇年代風の戯文、許されたい。
posted by 川合大祐 at 20:38| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月27日

千春「するから」を読む

  船を漕ぐ掃除機を忘れないで下さい

一句目から強烈である。この句の主人公は船を漕ぐことを生業としている一介の労働者であり、家庭ではまた良き夫でもある。主人公はそのことを密かに誇りに思っている。今朝のこと、主人公は出勤前に妻から掃除機を買って帰るよう言付けられたのである。掃除機が壊れた家庭はやがて家庭も壊れてしまうという強迫観念に駆られて、良き夫である主人公は仕事中(つまり船を漕ぎながら)もずっと、頭の中で「掃除機を買って帰るのを忘れないで下さい」というセリフが駆け巡っているのである。


  「めっぽう赤い服!」地球が自転するから

めっぽうという言葉は最近なかなか使われないが、ぼくは好きである。なんだか一昔前の大島弓子あたりの少女マンガに出て来そうな言葉ではないか。「めっぽう赤い服!」「めっぽう赤い服!」呪文のように何度も呟いてみる。もうこの9文字、これだけで十分である。「滅法赤い服!」これでは駄目なのである。めっぽうはひらがなでなくっちゃいけない。それなのにその後にくるのが、「地球が自転するから」である。この落差に驚かされる。川柳は言葉を用いた知的なゲームである。千春氏の川柳はそのことをよくわかっていらっしゃる。


  申し訳ないなめ茸がやさしさを失った

主人公はあまり社交的ではないうえに、最近色々やらかしてしまい、もうパニックになってしまった。その為、家族にも周りにも当り散らしてしまい、以前のような生活には戻れなくなってしまった。ただ、このままではいけないことは主人公も勿論わかっているので、自分の身代わりとしてなめ茸を差し出したのだ。なめ茸の入った透明な瓶の中でなめ茸は申し訳なさそうに俯いているのが見えるかもしれない。


かように川柳は刺激的で面白い詩形である。特に今回の千春氏の作品はそれが顕著である。こんなのは川柳ではない、という無粋なことを言う人もいるかもしれないが、そんなことは言わせておけばいいのである。
最後にタイトルが非常にそっけないが内容はそっけなくないのが憎いなあと思った次第である。
posted by いなだ豆乃助 at 18:03| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月30日

内田真理子「いのこづち」を読む


いのこづち   内田真理子

私有地の大蒜六片十二片
古今東西薬草園の袋詰め


横書きで見ると、最初の句の「大蒜六片十二片」と最後の句の「古今東西薬草園袋詰」の「一」によって境域が感じられ、八句全体が一般世界から区切られた〈ゾーン〉のように思えてくる。また、縦書きで八句全体を見ると対称図形になっていることに気づくし、句語の「私有地」も「大蒜」も「薬草園」も「袋」も、よくよく考えれば一般世界から区切られた〈ゾーン〉を形成している。今回の群作で作中主体は、一般世界から区切られた〈ゾーン〉で動植物や赤子と触れ合い、川柳という作物を生んでいる。してみると、一般世界/川柳という境域性をも示唆されてくるのである。

ちなみにわたしは、薬用植物園で一人吟行をすることがある。そこは薬用植物ばかりでなく有毒植物も数多く栽培されているため、短歌文芸にはもってこいの場所なのだ。だって短歌は反社会性と相性がいいから。で、そこのケシ畑に行くと、複数の鉄柵で囲われている。園内でも特定ゾーンになっているのだが、それがかえって妖しい雰囲気を演出しており、わたしをいっそう作歌モードへと変換してくれるのである。

前もって聞き耳頭巾侍らせる


「聞き耳頭巾」は各地に伝わる昔話で、この頭巾を持つと動物の話が分かるようになる。「前もって」とあるから、作中主体は頭巾の働きをあらかじめ分かっているようだ。これは、動植物や赤子が一般世界とは違う〈ゾーン〉の住人であることをしっかり意識しているからではないだろうか。

村に鍛冶屋はいたのだろうか彼岸花

彼岸花の赤⇔村の鍛冶屋という連想が見てとれる。「村の鍛冶屋」は戦前からある唱歌。恥ずかしながら今回、「村 鍛冶屋」で検索して初めてこの歌を知ることになった。ただ、どこかで聞き覚えが。そうだ、幼いころよく流れていたキッコーマン・デリシャスソースのCMだ。「トマトに リンゴに ニンジン タマネギ グツグツ にこんで スパイス入れよ♪」という歌詞で、村の鍛冶屋の替え歌になっている。「彼岸花」の花言葉の中には〈転生〉〈再会〉がある。「村の鍛冶屋」はCM曲に転生し、わたしは久々にそのCM曲と記憶の中で再会できたわけである。

ちなみに、「ドリフ大爆笑」のオープニング曲も替え歌で、戦前の「隣組」が原曲だと知った。これも大人になってからのことである。 

大丈夫アンモナイトな地図がある

「アンモナイト」は、形象としては殻が地図の等高線を想わせるし、また実用としては地層の地質年代を特定する指標、つまり地図になる。八句目の「古今東西薬草園の袋詰め」の「古今」に注目するとき、「アンモナイトな地図」をとおして古生代〜中生代の生き物の声をも聞こうとする作中主体が想像でき、とても面白い。


posted by 飯島章友 at 23:59| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする