2019年11月02日

【絵川柳】よそのカゴ白滝足りないでしょう/大川崇譜

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よそのカゴ白滝足りないでしょう/大川崇譜

* 「そして大阪バラが咲く街」「コンテナが太平洋に帰宅する」「雲は焼きサバ冬を待っている」。どうして現代川柳は口語構文をたいせつにするようになったのかなあとときどきどきどきしながらかんがえる。サラリーマン川柳やシルバー川柳は口語構文をたいせつにする傾向はなく、むしろ標語的にして意味性を強く相手に訴えるが、現代川柳は、「今夜はくもりときどき雨が降るでしょう」のような口語構文を密輸して転用する。もしかしたら川柳というのは、〈みじかい文〉というジャンルなのかもしれないなあとおもうことがある。そういうジャンルはないですよ、と言われたとしても、オカルト的に、〈みじかい文〉をあるとき信じたひとたちが集まっているばあいもあるのではないか。Suicaをかざすことと、詩を書くことのあいだにどれくらいのちがいがあって、どれくらいそのふたつがとりかえっこできたりするんだろう。かざしたときと書くときの顔はどれくらいちがうんだろう。そうおもったときに、そういうことをかんがえながら、あるいた。(柳本々々)
posted by 柳本々々 at 03:41| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

今月の作品 米山明日歌「次の音」を読む

@「桐」「梨の芯」「白い花」「草いきれ」といった植物のあしらい
A「行き先のある風だけにある香り」、「その次の音を求めてたつうぶ毛」に見られる触覚(風は肌で感じるものだ)と嗅覚の、また聴覚と触覚の親密な結びつき
B「この先」「行き先」「明日」「その次」といった空間的・時間的に未来を志向する言葉たち(その中にあって、「草いきれ日傘の骨にある記憶」だけが異質である。)
これらの特徴から、繊細にして清冽な連作という印象を受けた。

ぬかるみに落としてもまだ白い花

「落としても」という動詞から、白い花を敢えてぬかるみへ落そうとする意図を読み取らないことは難しい。それでいて「なぜ花をぬかるみに落そうと思ったのか」「花をぬかるみに落としてどう思ったか」と人間の心理を追うのではなく、花の白さだけを言うのが潔い。「ぬかるみ」と拮抗する花の白さに、塚本邦雄の〈芍藥置きしかば眞夜の土純白にけがれたり たとふれば新婚〉も思い起こされる。

貫乳からもれだす夜の歯ぎしり

連作中ではこの句にもっとも惹かれた。貫乳とは陶磁器の釉(うわぐすり)の表面に入った細かなひびのこと。「歯ぎしり」、すなわち歯と歯が擦り合わされる音と陶磁器同士が擦れ合う音が似ているという、ほとんど生理的な納得のうえにこの句の世界は立ち上がる。「夜の歯ぎしり」という下の句からは、時間帯が夜であるということ以上に「夜」そのものが陶磁器に憑依して歯ぎしりをしているかのようなイメージを受け取りたくなる。「行き先のある風にだけある香り」が(ほんらい風に行き先はないはずなのに)「行き先のある風」とそうでない風を嗅ぎ分けるすごい嗅覚の句であるとすれば、これは(ほんらい歯ぎしりをしないはずの)「夜」の歯ぎしりを聴きとってしまうすごい聴覚の句なのである。

posted by 暮田真名 at 02:07| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

今月の作品 石川 聡「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」を読む

 秩序、というもの/ことは、何のためにあるのだろうか。
 こんな問いを立てるのも、川柳というもの/ことにあって、いっけん「法」が支配しているように見えるからである。ルール、とあえて片仮名で書いた方が感触は伝わるだろうか。たとえば五七五ということ、それが川柳にとって、最も尊ばれる「法」であると、多くの人が理解している。
 だが、なぜ五七五なのか。その理論については、拍打などの音声的な点からも説明はなされている。だが、その当否はここでは置いておく。ここで考えたいのは、多くの人々(主に五七調に携わらない人々)にとって、五七五(短歌なら五七五七七)が当然の前提として了解されているという問題についてである。
 およそ、五七調に関わった者ならば、いちどならず「ここで五音(あるいは七音)にしなければどんなにかよいのに」と誘惑された経験があるはずだ。その次には、当然として「なぜ五七五なのだろう?」という疑問にぶち当たる人も多いだろう。そのあとに「それはルールだから」と言って納得するのか、その「ルール」自体を食い破ろうとするのかには、優劣はない。ただ、携わる者の志向が異なるだけである。
 だが、その「ルール」は果たして五七五にとって必然なのか、を意識してしまう者はいる。
 五七五は、五七五でなくともよいのではないか。
 しかし、「携わらない人々」からは、五七五は、五七五であると、前提されている。その無自覚性を含めて、「五七五」は「法」と呼ぶのがふさわしいように思う。無論、「法」によって「秩序」がうまれたわけではないし、その逆に「秩序」によって「法」がうまれたわけでもない。「法」が発見されたときに「秩序」も発見されたという考えは、一考に値すると思われるが、「法」と「秩序」(この順番は攻×受のように固定化されたものではなく、リバ可能なものと思っていただきたい)の連関を説明するものではない。いや、ここで「法/秩序」を語るのは、大言壮語にすぎる。私が語ることができるのは、あくまで川柳のことだけだった。
 川柳とは何か。
 そんな問いに答えが出せるのだったら、誰も苦労しないが、仮説を立てることはできる。たとえば「川柳とは、秩序をあたえるものである」という説はどうだろうか。渾沌、という言葉ではとらえきれない〈ぐちゃぐちゃ〉を、言葉という枷をもってかたちと成す。それが川柳であると、とりあえずは仮定しておく。
 であれば、五七五とは、やはり枷のかたちとして、必然なのか。否、と答える作品群が確かに存在する。自由律、と呼ばれる句が、その一角を占めるだろう。回り道をしたが、九月の作品、石川聡「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」もそのひとつである。
 視点を今作に絞るとして、そこに秩序はあるか。是、と答える。その回答に至るまでに、私は、冒頭の問いを以下のように修正しなければならない。
 秩序、というもの/ことは、何によってもたらされるのだろうか。
 その問いを続けつつ、まず「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」を見てゆくことにしたい。
 まず目につくのは、連作が進むたびに文字数が昇順でふえてゆくこと。
 これは全体を見たときに、一種強烈な印象を与える。同時に、そこに「ルール」があることを了承させる。ふえてゆくという自己規程。斜面のような紙幅を見るとき、この連作は自ら「ルール」を課するものだということを私たちは感じ取る。
 自由律、というものが、絶えざる自己管理の結果であると、この型式は明示している。それがゆえにひとつの秩序がもたらされているのでもあるが。

  逆立ちした秋だ

 「秋」が「逆立ち」しているのか、逆立ちをしている作中主体が秋を詠嘆しているのか、あるいは、「逆立ちした」と「秋だ」のあいだには連関がないのか。そのいずれも読み方として可能である。むしろ、さまざまな読み方を、これだけの字数で提示することができる、そこに句としての構成力=秩序の兆しとして解釈したい。

  雷去り萩に色さす

 第一句に比べ、ここでは因果関係が表記されている。意味の上での因果関係はあまり「意味がない」。雷が去ったから萩に色がさしたというのは、たしかに因果として成立していないだろう。だが、因果がないところに因果を設定する。すなわち、ここにおいても秩序が発生すると言うことである。連作として見た場合、字数がふえてゆくことによる、情報量の増加もまた、一定の秩序であろう。

  セミのパトラッシュ

 当然ながら『フランダースの犬』の「パトラッシュ」を踏まえている。ここで示されているのは、パトラッシュが「セミ」である世界と、「犬」である世界の交錯である。セミを「パトラッシュ」と呼ぶ世界は、犬をそう呼ぶ世界に折り重なることによって、より世界観を補強される。世界というもの/ことが秩序のためのツールだとして、この句は秩序としての世界を描いている。

  そよりさよりひかりきる

 ここでは、「り」の連続による統一がなされている。しかしそれは無意味なのか? という問いを立ててみても良いだろう。文脈において、ここに矛盾はない。しかし、「そより/さより/ひかりきる」のあいだには断絶がある。その断絶をひとつの文章にすること。そこに、渾沌を濾過する「詩」があるように思うのだ。

  なかゆび舐めて駆けのぼる龍

 このあたりから、情報量の増大により、「意味」と「無意味」がいっそう際立ってくる。この句において「舐めて」は「なかゆび」に、「龍」は「駆けのぼる」に強く結びついていることは言うまでもない。しかしこの二群の連結、あるいは非連結に、まぎれもなくなんらかの「法」が通底している。それが、五七五に拠らない、「自由」というルールなのではないか。

  平積みの浸透圧の無いフォント

 連作中、はじめて私たちは五七五に遭遇する。しかしそれは一瞬で、すぐに通過するものと、連作の全体を見た私たちはよくわかっている。この句において五七五は絶対ではなく、連作を構成するための一パーツにすぎない。それを証立てるように、句として「詠まれた」もの/ことは、ほぼ意味性を剥奪されている。だからこその、Aが「無い」Bという奇妙な公式が導き出される。

  赤く重く滑り落ちる満月不飽和脂肪酸

 そう、そして五七五はあっけなく通過されてしまった。五七五をはみ出していくことに、実は必然性などいらない、というのはこの評でにじみ出してきたテーゼである。この句はうつくしい。うつくしさのために何をしてもいい、という理屈ではない。むしろ句の意味の解体と再構成が、一句の中で続けられている、という点において、美、が存在するのだ。それはこの「不飽和脂肪酸」が「ある」ものではない、存在しないという存在の仕方によって保証されるのではないだろうか。存在しないものが存在するというのは、やはりひとつの秩序立てであるかもしれないが、この句のインパクトはその秩序自体をも解体する。

  浮いた静脈の第四弦サティーの蒼いしらべ

 そしてついに、ここはゴールなのだろうか。理論上は、文字数をさらにふやしてゆくことが可能なはずである。八句、というルールがあるからこの連作はここで終わっているが、連作のベクトルはさらに先を目ざしているようにも見える。この(仮の)最終句における情報量の多さは、〈さらに入れられる〉詩の面積の無限性を示している。だが、この連作はここで終わった。それは八句という縛りのせいだけではないだろう。短詩が短詩として成立するぎりぎりのところで、この句はあやうく立っている。それはこの句および連作に対する否定ではない。むしろ、〈短詩は無限の詩へのエネルギーを内蔵しつつ、それをさえぎる〉ことによって成立するのではないか。そうした「川柳」というものの構造を、くっきりと見せているのではないか。
 ここでのルールは、その〈さえぎる〉という一点に集約されるのかもしれない。何かを規定するときの、切断。
 だから全体として見たときに、「切断」によって「秩序」はもたらさるのではないか。評中に挙げた「何によってもたらされるか?」という問いに、この連作はひとつの答えを示してくれたような気がする。
 秩序は型式ではない。秩序は〈ぐちゃぐちゃ〉を切断したときにはじめて発生する。
 だがその秩序は、切断ゆえの自己切断と、反動としての自己増殖に常に突き動かされている。
 その運動体をとらえるのが、五七五の、川柳の意義なのかもしれない。そしてそれが、〈携わらない〉人びとの、「前提」への回答になっているはずだ。
 この連作を呼んで、渾沌としたまま、考えさせられたもの/ことである。

追記
 ネット環境の不備から、鑑賞文を書くのがかなり遅くなりました。石川聡さんはじめ、皆さまにご迷惑お掛けしたことを謝罪します。たいへん失礼しました。
posted by 川合大祐 at 20:03| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月02日

今月の作品 涅槃girl「言の葉増えて七枚となり」を読む

皆様、お暑うございますね。ご機嫌如何でしょうか。わたくしの盆休みは子連れで大阪の実家で過ごしておりました。いつもは実家で読む用に必ず詩歌句の本を一冊は用意して臨むのですが、今回は珍しく詩歌句の本ではなく、筑摩文庫の『ギリシャ悲劇T アイスキュロス』と『ギリシャ悲劇U ソポクレス』の二冊のみで川柳も短歌も全く詠んだり読んだりすることはなく、頭を空っぽにして毎日缶ビールとウォトカを空ける日々でした。これではいかんと思い、川柳モードに切り替える為、盆休み明け初日に涅槃girl氏の連作をプリントアウトしてオフィスのデスクに貼りつけ、毎日眺めておりました。時折、同僚がこれはなんですかと訊きますが日本人特有の曖昧な笑みを浮かべて黙っています。世の中は摩訶不思議なものがないといけません。
さて涅槃girl氏の作品も摩訶不思議です。それも五七五ではなく七七で統一されております。なんとタイトルも七七です。凝っておりますね。狙ったであろう作者のしてやったり顔が脳裏に浮かびます。ぼくは作者にお会いしたことがないのでイメージ湧きませんが。
個人的に七七句は五七五に比べて山や谷がなく平坦なイメージがあり、実際に実作してみても良くできたという場合とちょっと駄目だなという句の差が大きく感じます。ただ今回の涅槃girl氏の作品はそうではなく成功しているのではいかと思いました。


映画館だけ忌中でやすみ

街中戒厳令下の中、映画館だけ上映しているというのは映画ではありそうですが、街中普通に活動しているにもかかわらず、映画館だけ休館というのはこれいかに。しかも忌中というのが良い。有名俳優か有名映画監督でもお亡くなりになったのでしょうか。ゴダールかタランティーノあたりがお亡くなりにでもなったらどこかの単館映画館が休みそうです。そうなったら、入り口にでかでかと忌中と書いた札を貼って貰いましょう。


虹が出るたび朽ちていく街

虹という言葉はよく句に使われます。ぼくもよく作りますが、朽ちていくとは思いつかなかった。虹とともに滅びゆく街という画が浮かびます。今回の連作の中でも特に印象に残った句です。


母の遺影を巣箱に隠す


隠すのはたいてい靴箱と相場が決まっておりますが、巣箱なんですね。母上と生前なにがあったのか気になります。


夜の帳に付箋紙を貼る


付箋紙って最近あまり言いませんね。「ポストイット」と言うんですよと、会社で付箋紙と言ったらそう返されました。ただ「ポストイット」は3Mの商標なので、付箋紙でいいのではないか、と後から気付いたので言い返せませんでした。
たいてい付箋紙はなにか大事な箇所があって、その目印替わりに貼っておくものです。ではこの場合の「夜の帳」には何か重要な秘密があるのやも知れませんね。
posted by いなだ豆乃助 at 19:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月12日

沢茱萸「ポルナレフ鳥」を読む

7月の「今月の作品」は、沢茱萸さんの「ポルナレフ鳥」だった。

氷少なめとはどの嘴が言う

最近は「氷少なめ」に対応してくれる店がある。掲句ではその注文が「嘴」から発せられた。インコ、オウム、九官鳥あたりだろうか。ただ、カフェに鳥を連れていくことはできないだろうから、家庭内でよく使われている人間の言葉をおぼえて発しているのだろう。「どの嘴が言う」という語り手のツッコミからは、この鳥への思いや距離感がおのずと伝わってくる。
鑑賞と関係ないことを書いて恐縮だが、外食の天ぷらには衣がめちゃくちゃ厚い店がある。半分以上が衣のこともある。もし「衣少なめ」で注文したらどうなるだろうか。そのぶんタネを大きくしてくれる……わけもない。


巣ごもりを指人形で紛らわす

抱卵かなにかで鳥が巣ごもりしてしまい、語り手は鳥恋しい(?)気持ちでいるのだろうか。指人形は各キャラクターを十指すべてにはめることができる。とても賑やかだ。にもかかわらず、「紛らわす」という言葉から感じられるのは、指人形を総動員しても鳥の代わりにはならないという心境だ。


オルゴール化 素知らぬポルナレフ鳥

「オルゴール化」とは何だろう。ポルナレフ鳥に言葉を仕込もうとして、語り手が同じ言葉をリピートしている状況か。あるいは、ポルナレフ鳥が、おぼえた言葉をずっと発している状況か。それとも、単にミッシェル・ポルナレフ(「シェリーに口づけ」が日本でも大ヒットしたフランスの歌手)の歌をオルゴールの曲にした、ということなのか。
また、「ポルナレフ」がミッシェル・ポルナレフのことなのか、『ジョジョの奇妙な冒険』のジャン=ピエール・ポルナレフのことなのか、こちらも判然としない。ただ、両者ともインパクトの強いビジュアル(特に髪型)をしており、キャラクター的にもはっちゃけているため、根強いファンがいる。そのポルナレフ(のような)鳥が、オルゴール化にたいして「素知らぬ」ご様子のようだ。
「素知らぬ」の意味は「知っているのに知らないふりをするさま」。したがって、語り手と鳥の関係性は、鳥が上位、語り手が下位という転倒が起こっているのが見て取れる。言い換えれば両者の関係性は、人気者とファンのそれに類似しているのである。


くちびると嘴グレープフルーツ病

「飼い主と鳥のくちづけ」と「グレープフルーツ病」とが、お互いを補完し合っている構造の句だろう。鳥から人への感染症があること、グレープフルーツを鳥に与えないほうがいいという説があること。これらの事情を勘案すれば、おのずと句のこころは感じ取れる。

posted by 飯島章友 at 23:41| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする