2019年01月30日

杉倉 葉「流体のために」を読む

 たとえば、短詩型というモノ=コト=トキをひとつの、という「ひとつの」自体がすでに先触れとしてあるのだが、ひとつの断裂としてとらえること、絶え間ない〈何か〉の一部を切り取ったものであるという認識は可能であろうし、それは思いもかけぬ豊穣さを書き手=読み手=テクストに与えるであろうことは想像に難くないが、しかしそこで想定されている〈何か〉すなわち〈流れ〉とは別の〈流れ〉として、完璧に〈作者〉の統御下にあると見える作品の隙間から、それこそ何其れのように、と無限の類比を発生させる無意識、ないしはノイズが漏れ出してくることは当然あるだろうし、それこそが、いっそ奇蹟、と呼ぶべき作品なのだ。
 この「流体のために」が奇蹟の名にふさわしいかどうかは今は置いておき、一読して目を引くのは無論ドゥルーズのテクストを下敷きにした飛躍であり、詩的なうつくしさであることは疑いなく、そこに見られるのは、挙げるなら『差異と反復』という書名を流用しなお「差異と反復 裁断の」という一字空けによる「差異」から「裁断」への反復と裁断を表現した自己言及であり、またこの連作の八句目が『差異と反復』であるなら一句目は「流体として孕まれて」というやはりドゥルーズのコンテクストを指向した句であり、二句目の「暗殺」「コーヒーに落とす」には七句目の「暗い」「雨が、降っていた」が対応するだろうし、三句目の「無傷の翅」は六句目の「睡眠が祈られる」「好きなひと」のイノセンスと相通じるだろうし、四句目の「ひかりに」は五句目の「星」「あふれだしてゆく水銀」にイメージとして重なり合うと読むことが出来るのであり、すなわち、この連作は四ー五句目の間隙を折り線として、前半と後半が鏡のように対応しあっているのはまぎれもなく、作者の統御が作品を律していることの証左に他ならない。
 だがここまでは、作者の意識下と読むことは可能であるが、無意識下として作品を読むことは可能であろうか、という問い自体が、他者の意識を詮索出来ると確信している傲慢さでもあろうが、それでも作者の統御を放たれて飛翔する蝶が、いっそ奇蹟の名にふさわしいのではあるまいか、という断言もまた傲慢の謂であるが、しかし〈作者の統御〉にすべてを帰するには、ドゥルーズを引く作者に対しては、ある意味で礼を欠くことになりはしまいかという懼れもあり、それ以上に作品の魅力が、〈読み手〉であるわれわれに、このテクストに参加したいという欲動を統御不能とさせるのだった。

  たえまなく流体として孕まれて

 この句において、なにが選択され、なにが選択されなかったのかという問いは、ある地層まで有効であると思われるのは、「選択」という行為がひとつの「切断」であり、「流体」を切断することによって短詩型が成立するというのならば、この愚かにも見える問いにも何らかの意義はあると正当化はできるであろう。
 選択されたのは「たえまなく/流体/として/孕まれて」という、これ以上の分解も可能ではあるが、当座の目安として分子としておくパーツ群であり、この選択は、作品がこの型式で完成されている以上、揺るぎのない〈結果〉として読むことも当然ではあろうが、仮に作品が流体であるならば、〈結果〉という完結はあり得ないはずであり、読み手にとっては、この句のよって来たるところ、そしてこれからゆくところを、自然とイマジネートさせられてしまうのだ。
「たえまなく」はどこから来たのか?
「流体」はどこから来たのか?
「として」はどこから来たのか?
「孕まれて」はどこから来たのか?
 そして、彼女ら彼らはどこへ行くのか?
 そのいちいちの検証は今は手に余るし、それはあくまで〈私〉のひとつの読み方に過ぎず、だから〈正解さがし〉などというものが端から成立しないこの連作を前に、そのようなふるまいをするのは句が喜ばないだろう。
 ただ、句が読み手にこのような過剰と言ってもいい反応を引き出すということ。
 そのこと、だけをもってしても、この連作の存在意義はあると思うのだ。
 そして、それは〈読み手〉の存在意義を肯定する。
 そんな文芸が、ジャンルを問わず、この世にあるのだろうか?
 この見地から、この「流体のために」が〈奇蹟〉であるかどうか、〈読み手〉のひとりひとりがみずからの存在を賭けて立ち向かうべきテクストであると、私は断言する。
 呪わしくも輝かしかった(余言ながら、作者がまだ未生だった)八〇年代風の戯文、許されたい。
posted by 川合大祐 at 20:38| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月27日

千春「するから」を読む

  船を漕ぐ掃除機を忘れないで下さい

一句目から強烈である。この句の主人公は船を漕ぐことを生業としている一介の労働者であり、家庭ではまた良き夫でもある。主人公はそのことを密かに誇りに思っている。今朝のこと、主人公は出勤前に妻から掃除機を買って帰るよう言付けられたのである。掃除機が壊れた家庭はやがて家庭も壊れてしまうという強迫観念に駆られて、良き夫である主人公は仕事中(つまり船を漕ぎながら)もずっと、頭の中で「掃除機を買って帰るのを忘れないで下さい」というセリフが駆け巡っているのである。


  「めっぽう赤い服!」地球が自転するから

めっぽうという言葉は最近なかなか使われないが、ぼくは好きである。なんだか一昔前の大島弓子あたりの少女マンガに出て来そうな言葉ではないか。「めっぽう赤い服!」「めっぽう赤い服!」呪文のように何度も呟いてみる。もうこの9文字、これだけで十分である。「滅法赤い服!」これでは駄目なのである。めっぽうはひらがなでなくっちゃいけない。それなのにその後にくるのが、「地球が自転するから」である。この落差に驚かされる。川柳は言葉を用いた知的なゲームである。千春氏の川柳はそのことをよくわかっていらっしゃる。


  申し訳ないなめ茸がやさしさを失った

主人公はあまり社交的ではないうえに、最近色々やらかしてしまい、もうパニックになってしまった。その為、家族にも周りにも当り散らしてしまい、以前のような生活には戻れなくなってしまった。ただ、このままではいけないことは主人公も勿論わかっているので、自分の身代わりとしてなめ茸を差し出したのだ。なめ茸の入った透明な瓶の中でなめ茸は申し訳なさそうに俯いているのが見えるかもしれない。


かように川柳は刺激的で面白い詩形である。特に今回の千春氏の作品はそれが顕著である。こんなのは川柳ではない、という無粋なことを言う人もいるかもしれないが、そんなことは言わせておけばいいのである。
最後にタイトルが非常にそっけないが内容はそっけなくないのが憎いなあと思った次第である。
posted by いなだ豆乃助 at 18:03| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月30日

内田真理子「いのこづち」を読む


いのこづち   内田真理子

私有地の大蒜六片十二片
古今東西薬草園の袋詰め


横書きで見ると、最初の句の「大蒜六片十二片」と最後の句の「古今東西薬草園袋詰」の「一」によって境域が感じられ、八句全体が一般世界から区切られた〈ゾーン〉のように思えてくる。また、縦書きで八句全体を見ると対称図形になっていることに気づくし、句語の「私有地」も「大蒜」も「薬草園」も「袋」も、よくよく考えれば一般世界から区切られた〈ゾーン〉を形成している。今回の群作で作中主体は、一般世界から区切られた〈ゾーン〉で動植物や赤子と触れ合い、川柳という作物を生んでいる。してみると、一般世界/川柳という境域性をも示唆されてくるのである。

ちなみにわたしは、薬用植物園で一人吟行をすることがある。そこは薬用植物ばかりでなく有毒植物も数多く栽培されているため、短歌文芸にはもってこいの場所なのだ。だって短歌は反社会性と相性がいいから。で、そこのケシ畑に行くと、複数の鉄柵で囲われている。園内でも特定ゾーンになっているのだが、それがかえって妖しい雰囲気を演出しており、わたしをいっそう作歌モードへと変換してくれるのである。

前もって聞き耳頭巾侍らせる


「聞き耳頭巾」は各地に伝わる昔話で、この頭巾を持つと動物の話が分かるようになる。「前もって」とあるから、作中主体は頭巾の働きをあらかじめ分かっているようだ。これは、動植物や赤子が一般世界とは違う〈ゾーン〉の住人であることをしっかり意識しているからではないだろうか。

村に鍛冶屋はいたのだろうか彼岸花

彼岸花の赤⇔村の鍛冶屋という連想が見てとれる。「村の鍛冶屋」は戦前からある唱歌。恥ずかしながら今回、「村 鍛冶屋」で検索して初めてこの歌を知ることになった。ただ、どこかで聞き覚えが。そうだ、幼いころよく流れていたキッコーマン・デリシャスソースのCMだ。「トマトに リンゴに ニンジン タマネギ グツグツ にこんで スパイス入れよ♪」という歌詞で、村の鍛冶屋の替え歌になっている。「彼岸花」の花言葉の中には〈転生〉〈再会〉がある。「村の鍛冶屋」はCM曲に転生し、わたしは久々にそのCM曲と記憶の中で再会できたわけである。

ちなみに、「ドリフ大爆笑」のオープニング曲も替え歌で、戦前の「隣組」が原曲だと知った。これも大人になってからのことである。 

大丈夫アンモナイトな地図がある

「アンモナイト」は、形象としては殻が地図の等高線を想わせるし、また実用としては地層の地質年代を特定する指標、つまり地図になる。八句目の「古今東西薬草園の袋詰め」の「古今」に注目するとき、「アンモナイトな地図」をとおして古生代〜中生代の生き物の声をも聞こうとする作中主体が想像でき、とても面白い。


posted by 飯島章友 at 23:59| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月02日

樋口由紀子「ビラ配る」を読む−ぼくらは檸檬を忘れない/柳本々々

由紀子さんの今回の連作のキーワードは〈足す〉ことではないか。

「父上京」と父が足され、「空海を信じて」空海が足され、「ひそひそと殖える」フランスパンが足され、「帝にも知らせず小匙五杯足」され、「湯槽より水があふれ」、「ビラ」が配られることによってひとりの手からみんなの手にビラが足されてゆく。

かつてこんな由紀子さんの川柳があった。

  なにもない部屋に卵を置いてくる  樋口由紀子

この由紀子さんの句も〈足す〉行為だ。梶井基次郎は「檸檬」においてテロを仕掛けるように丸善に檸檬を置いたが(実際、当時のテロ活動と関係があるらしい)、由紀子さんにとっても〈足す〉行為は、(足すだけで)過激な行為となっている。足すことは、まんなかわけの「髪」のように世界のだいたんな改変にも通じている。「帝にも知らせず小匙五杯足す」のは、「小匙五杯足す」行為であっても、テロ的な過激性を秘めているからだ。「殻むきにくい茹で卵」も檸檬が爆弾であったかもしれないように卵が爆弾であるかもしれない不穏さを秘めている。それは、たべものなんかではないかもしれないし、そもそもたべものには過激さが宿っているのかもしれない(それを川柳はひっぱりだす)。

「もし君が鰐を捨てたら」という〈踏み絵〉的な句は、わたしときみの思想=方向性の違いをしめすかもしれない。わたしはこんな句をおもいだす。

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

わたしは小池さんのこの句から川柳をはじめたところがあるけれど、この句はいま樋口さんの連作を通して考えると〈思想の違い〉を描いた句でもある。わたしときみは思想がちがう人間かもしれない。だからいまは離れているかもしれない。でもたてがみを失うというなにかのきっかけ、去勢行為を通じてまた再会できるかもしれない。失うことが再会になること。そして樋口さんにとっては逆に、鰐を捨てるという去勢行為はおたがいの別れのきっかけになるのだ。失うことが別れになること。(ふたつの句がライオンと鰐という猛獣をめぐっているのもちょっと興味深いところだ)。

この連作には〈足す行為〉をめぐりながらの隠密で過激な不穏さがある。足す行為を通して、世界の煽動(父上京)が、変革(まんなかわけ)が、地下活動(ひそひそと殖える)が、主張(言ってみろ)が、崩壊(あふれて)が、革命(ビラ配る)が、示唆される。

こうまとめてみようとおもう。

川柳は、とっても身近な事物をとおして、不穏で過激な世界地図をえがくことです。と。

川柳は世界をマッピングしなおす。わすれていたことで、わかってたこと。




posted by 柳本々々 at 03:02| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月08日

今月の作品 本間かもせり「球 根」を読む

川柳とは不思議な詩型である。
そもそも川柳という名称もなんだかよくわからない。川柳という名称は人の名前から来ている。例えていうと俳句を芭蕉というようなものである。実にヘンテコだ。名称の由来となった初代柄井川柳という人は川柳の名作家という訳ではなく、ただの選者である。これまた意味がわからない。関係ないが落語の世界に〈川柳川柳〉という噺家がいて、〈せんりゅうせんりゅう〉とは読まずに〈かわやなぎせんりゅう〉と読む。川柳をやっていると妙に引っかかる名前である。
またまた話は変わるが、川柳というものは575定型が一般的である。これは俳句でも同じであるが、川柳には575だけではなく、77というものもある。77の形式のものは武玉川調とも十四字詩ともいう。武玉川調の名前の由来は『誹諧武玉川』という江戸時代中期の付句集から来ており、同書には575と77という長句と短句が含まれている。武玉川という名称もこれまた独特である。川柳といい武玉川という名称は芸術至上主義者からみると嫌悪感を覚えるかもしれない。ただこの訳の分からないところが川柳の良さではないかと考える。

さて、本間かもせりさんの今月の作品であるが、見事に全句武玉川(もしくは十四字詩)形式である。575に比べて文節が2つしかないので575に慣れている人からみると妙な違和感をおぼえるものだが、ハマると心のどこかにひっかかる。それが非常に刺激的で興奮するのだ。


  添付ファイルをカフェに忘れる
私事ですが、よくモノを忘れます。カフェや飲み屋やレストランでいろいろなものを置き忘れてきましたが、さすがに添付ファイルだけは忘れたことはありません。これを忘れてしまうとは作中人物はさすがです。

   脱ぐのが早いほうが容疑者
私は脱ぐのは早い方なので、容疑者になるかもしれません。いったいなんの容疑者でしょうか? 姦通罪かもしれません。恐ろしい世の中です。

  謙虚なひとは球根になる
先日イヌサフランの球根をイモと勘違いして食べてお亡くなりになった80代女性の人がいたと、ニュースで知りました。球根は毒にもなりうるのです。謙虚なひとは尚更です。

  歌を忘れたMiG-21
ソビエト連邦が誇る名機は何故に歌を忘れたでしょうか? 1976年に ベレンコ中尉が日本に亡命した際に乗っていたのはMiG-25でしたので、もしや先に亡命した弟を思って悲しんだのかもしれません。ところでミグ21の正式表記はMiG-21なのですね。川柳やっているといろいろ勉強になります。


色々心惹かれる句ばかりでこれを書いている私も楽しくなります。
このように575だけが川柳ではないのです。575に縛られず77にも目を向けてみませんか。
posted by いなだ豆乃助 at 10:22| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする