2017年04月11日

ゲスト作品「暮らしラッシュ」をよむ


ゾンビになったら探そうゾンビのしあわせ   山中千瀬

通勤ラッシュと通学ラッシュが融合した朝の駅では、動く歩道に、ホームへの階段に、連絡用通路に、実にたくさんの人が押し寄せる。彼らは皆一定の方向に向けて、なおかつ一定のペースで歩みを進める。急いで走ることはなく、かといってのんびり歩いているわけでもない、奇妙なスピード感。自らの意志のようにも、何者かに操られているかのようにも見える、不思議な歩行。彼らを眺める度に、私は決まってホラー映画のワンシーンを思い浮かべてしまう。白眼をむきボロボロの服をまとい、土気色の両手を前に突き出してゆらゆらと近付いてくる、大量のゾンビの群。何より怖いのは、私もまたいつのまにかその中の1人になっていることだ。とはいえ〈暮らし〉の中で消費し消費されることはどうしたって避けられない。
しかしこの句は「ゾンビになったらゾンビのしあわせを探そう」と言う。やむをえずゾンビになってしまう事を決して否定せず、その中で幸せを探そうと、探しても良いのだと、言ってくれる。私はそれを皮肉ややけっぱちなどではなく、一種のエールとして心にしまいたい。

posted by 倉間しおり at 14:19| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月01日

いばひできを読む柳本々々

らりるれれ季節変わりの声変わり  いばひでき

らりるれれ/り/りとラ行音によってリズムがつくられているのがわかります。

以前から興味があったのが、川柳に出てくるラ行音です。

ちょっとヒントになることを八上桐子さんが徳永怜さんの句を引きながら書かれていました。

Re:Re:Re:Re:Re: もっとRe:Re:Re:Re:  Re:Re:Re:Re:Re:  徳長怜

徳長さんのこの句をですね、八上さんは「音読」をして「リリリリリ もっとリリリリ
リリリリリ」と読まれたんですね。「切実さを帯びる」のが「効果的」と書かれています(『川柳木馬』150•151号、2017年1月号)

で、この「Re:」だけみれば意味としてはメールの返信になっていくんだけれど、でも八上さんが示したように短詩っていうのは律でもあるので、リリリリリリリリリリと続いていくことで、鈴虫が鳴いているような、ベルにせき立てられているような、音の切迫感が出てくるわけですよね。

ラ行っていうのはつまり、そうした音から読むことの示唆なんじゃないかっておもうんです。

小池正博さんがこの同じ『川柳木馬』で川柳の、いや、表現の出発点っていうのは、〈既知のわたし〉ではなくて、言葉をとおしてあらわれてきた〈未知のわたし〉にであうことなんだよ、と書かれていたんだけれども、こうした、リズムとしての言葉の主体性がたちあがってくるしゅんかんにたちあうことも〈未知のわたし〉にであうことなんじゃないでしょうか。それはときに、無意識であり、ふいうちであり、意想外であるんだから。

わたしはこの律、リズムのふいうちの感じになにかちょっと可能性があるんじゃないかとおもうんですね。それは短歌もそうなんじゃないかとおもうんです。 

で、長い遠回りをしていばさんの句なんですが、いばさんの句がおもしろいのは、

らりるれれ季節変わりの声変わり  いばひでき

というふうに「り」というリズムに引っ張られて「変わり」が二回も出てきたところにあるとおもうんですよ。これはラ行音のリズムを意識しはじめたとき、すなわち、「れれ」と反復し気づいてしまったときに起こってしまった〈大変化〉なんじゃないかとおもうんですよ。

だから、そういう律に気づいたわたしの変化の句として読めるんじゃないかとおもったんです。

連作タイトルは「ギター」。音が走り始めてしまったとき、わたしはどんなわたしにであうのか。みすぼらしいわたしなのか、それともきらきらしてるのか、それとももじもじしてるのか、それとも、まごまご、いや。

谷底に落としたギター逃げ出した  いばひでき

posted by 柳本々々 at 07:09| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

今月の作品・岩田多佳子「くぐもる」を読む

みなさ〜ん。お元気ですかあ〜。
などと妙なテンションになっているのも、今月のゲスト作品「くぐもる」を読んでしまったからで、特に一句、というより一文字にこだわって鑑賞を書いてみたい。

 「たすけて〜」と干ぴょうは叫べない  岩田多佳子

これを読んだ時、「うっ」となる。
原因はわかっていて、「たすけて〜」と言っているからである。特にこの「〜」に鋭い突きを食らった感じになる。
というのも、「〜」って、所謂「正しく美しい日本語」とは認められていない、はずで、僕も正しい日本語なんて「けっ」と思っているが、句で「たすけて〜」と言い切る自信はない。
ちょっと遠回りになるが、なんで「〜」は「正しい日本語」と認められていない(はず)なのか、愚考してみることにしよう。
たとえば、長音を延ばしたいのだったら、「ー」だ。「ー」のほうが、一応日本語として認められている(しつこいが、はず、の話である)。それは何故かと言えば、「ー」は、「書き手のコントロールが効くから」じゃないかと思っている。
掲出句を少し変えて「たすけてー」にしてみるとしよう。この場合、読み手は「たすけてえ」と、まっすぐに「音」を受け取るだろう。これは書き手が「こう読んでくださいよ」という支配下に読み手を置いていることになる。
それが「たすけて〜」になったとき、どうなるか。
「〜」は、どう発音するか。イントネーションは、起伏は、長さは、読み手が百人いれば百通りの読み方になるだろう。つまり、書き手のコントロールが効かないのだ。
「正しい日本語」というものが、まさに「正しい」ルールで規定されるものならば、そこに「〜」が「正しくない」とされる理由があるような気がする。
掲出句に戻ろう。
「「たすけて〜」と干ぴょうは叫べない」。ではこの句は書き手のコントロールを放棄した、読み手にすべてを委ねる句なのか。
どうもそうではないように思う。
「干ぴょうは叫べない」を目にしたとき、多くの人は「わからない」と言うだろう。「わからない」ということは、同時に「どのようにもわかることができる」ということでもある。「干ぴょうは叫べない」を相手に、読み手は、無限の可能性を持たされている、ような感覚をおぼえる。
だが、ここでもう一度「〜」を目に留めてみよう。
ここに「〜」が配置されているのは、まぎれもない、書き手の意志である。
「〜」は作者のコントロールが効かない、とさっき書いた。だがそれは、「たすけてー」と読まれない、という次元においてである。
「〜」が自由に見えるのは、「〜」という記号が置かれた上で成り立つ、放牧に近い。自由に読める、ということは、自由に読ませられているということに他ならない。
「たすけて〜」を自由に読ませているのは、書き手なのだ。
「私の命令を聞くな」というパラドックスに近いものが、この「〜」にはある。
もちろん、「干ぴょう」も「叫べない」も、作者の意志によって統御された、読み手の自由である。
このへん、「自由」というもののパラドックスに踏み込むことになりそうだが、今回はあくまで川柳の一句の範疇にとどめておく。
川柳の一句として見た時、この句は書き手に支配された句である、と言いたいわけではない。
この句が句として成立するためには、読み手の「自由」が必要とされている。しかしその自由は書き手によって与えられたもので、だがその自由を賦活するためには読み手の力が必要で……キリがない。
これはあれだ、「書き手と読み手の共犯関係」というやつだ。
どちらが欠けても、川柳は成立しない。そんなのは当たり前のことだが、その構造を暴いてみせるという点で、この句は「川柳」を超越している。
そしてそのキーになるのは、「〜」の一文字だと思うのだ。
余談になるが、「〜」を入力するとき、「から」と打って変換している。もしかしてこの句は、「ここ『から』はじまる」という句なのかもしれない。何がはじまるのかは、共犯者同士の黙契ということにしておこう。

posted by 川合大祐 at 17:16| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

今月のゲスト作品『LUNCH BOX   宝川踊 』を読む

LUNCH BOX   宝川踊
三世紀後にもお箸を洗ったよ
ミネラルを引きまわしつつ冬が来る
声を濾過そのジュラルミンの反省
帰らない言葉があるよ相撲にも
てーぱらんてーぱらんたたかう振付
まぶされた紙吹雪に探す原点
米粒をニュートリノを撒き丘になる
さよならのうしろにマヨネーズの余り


LUNCH BOXというタイトルでの宝川踊さんの8句。
お箸、ミネラル、ジュラルミン(かつてアルミ合金ジュラルミン製の弁当箱があったそう)まぶされた(おかずには、ゴマやら鰹節やらタラコやら、何かとまぶしがちなもの)、マヨネーズと、大半の句に、お弁当箱がらみのワードが投入されています。
いろんな要素を詰め込んだ、という意味合いもあるのでしょうか。

三世紀後にもお箸を洗ったよ
未来からの報告です。
「お箸を洗ったよ」には近しいひとに向けられたような語感があります。
三世紀後には変化の方が多いはず。あえて「お箸を洗ったよ」と報告するやさしさ。ささやかな、こうふくな共感をえようとするココロの動き。
ほっこりする句でありました。

帰らない言葉があるよ相撲にも
「返らない」のではなくて「帰らない」のだから、自分発信の言葉なのでしょう。
かつて口にした言葉が、帰らない。
後悔なのか、忘却なのかは不明ですが、「帰らない言葉がある」という認識は誰にでもあるのではないでしょうか。
それが相撲にもあるという。
擬人化された相撲の存在感が、哀切。

てーぱらんてーぱらんたたかう振付
以下、妄想読みですので、ご容赦を。
「相撲」の句と並んでいたものですから、脳内には、うつくしい力士がふたり。
たがいに張り手をスローモーションで「てー」くりだして「ぱらん」と垂らす。たたかいのための振付を披露して、こちらをみる力士、満面の笑み。(以上、自覚ありの妄想読みです、失礼しました)
「たたかう振付」っておもしろいです。たたかいは一発本番のはずなのに、振付が用意されている。妙にリアル感があるのが興味深いです。
「てーぱらんてーぱらん」は「手がぱらん」ではもちろんなくて、すてきなオノマトペなのでしょう。擬音でなく、擬態。あるいは純粋、音。あとに「振付」という言葉が置かれているためか、「てーぱらんてーぱらん」に動作をつけたくなってしまいます。

さよならのうしろにマヨネーズの余り
この句にはくすっとなりました。
マヨネーズって一味足すもの。野菜炒めに、卵焼きに、明太子のパスタに。
「さよなら」も、意識無意識問わず、マヨネーズを足すみたいに、脚色されがちなものではないかしらん。
同じテーマの句はやまほどありそうですが、この句のウィット、よいですね!✨


たのしく読ませていただきました。



posted by 江口ちかる at 14:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月31日

今月の作品・西田雅子「遠浅の夜」を読む

今月のゲスト作品、西田雅子さんの「遠浅の夜」は聖夜、すなわち12月24日の夜からはじまる。

 月光をリボン結びにする聖夜

また、連作最後の句は「はじまりか終わりか夜明けの号砲」である。最後の句でありながら「はじまりか終わりか」が未確定なのだ。そこに違和感をおぼえたとき、この句はもしかしたら大晦日を詠んだものかも知れないと思った。大晦日は一年の「終わり」でありながら来る年の「はじまり」が目前である。であるならば、当連作八句は、12月24日から12月31日の八日間と重なりうる。以降、この仮定のもとに本連作を読んでいこうと思う。

 ピリオドかコンマか月のひとしずく

25日の句。「ピリオドかコンマか」という未確定性は、先にあげた31日の句の「はじまりか終わりか」とほぼ同じのようだ。それはいいとして疑問に思うのは、大晦日ならいざ知らず、なぜ25日に「ピリオド」と「コンマ」のあいだで揺れ動かなければならないのだろうか。
俗っぽいレベルではあるが12月25日というのは、テレビのCMや番宣の流れがクリスマスから正月へと変わっていく。テレビだけではない。お店の広告やら内装やら商品も一気に正月向きになっていく。視点を変えれば、正月の方が25日に向かってきているともいえようか。
「月のひとしずく」の形象としての〈.〉と〈,〉。12月25日は、〈クリスマス=ピリオド〉と〈正月=コンマ〉が同居する12月のひとしずくでもあるのだろう。

 潮風にほどかれてゆく夜の横顔

26日の句。クリスマスも過ぎていよいよ来る年が解かれはじめ、その「横顔」が見えてきたのだろうか。

 断崖を月日も花もこぼれ落ち

27日の句。西田さんには「一本の冬へとつづく滑り台(『ペルソナの塔』・あざみエージェント)という句があるが、上掲句も断崖直下に今年一年が「こぼれ落ち」ていく感覚、いわば〈月日に関守なし〉の気持ちが詠まれているのではないだろうか。

 遠浅の夜を二つに折りたたむ

28日の句。「遠浅」だから海の景色であることを前提に考えると、〈水平線〉が折り目となって海と空とが「折りたた」まれるイメージだろうか。ちなみに西田さんには「バッグには折り畳み式水平線(同上)という句もある。
問題なのは、なぜ「遠浅の夜」なのかということだ。タイトルにもなっているからとても気になる。一つの解釈。「遠」という文字からは過去の日の遠さ、たとえば行く年の元日の遠さにつながるかも知れない。また「浅」という文字からは未来の日の浅さ、たとえば来る年の元日が浅いながらも確実に迫っていることとつながるかも知れない。行く年と来る年、それを二つに折りたたむのが28日の夜、という認識。そういえば大掃除は28日までに行うものだった気がする(適当な記憶です)。

 降りてくるもの待つタラップ冬すみれ

29日の句。「タラップ」と「冬すみれ」は並列としても読めるし、「タラップ」と「冬すみれ」のあいだに切れを入れて読むこともできる。ただし、わたしは「降りてくる」ものを〈新春〉と仮定している。すると「タラップ」も「冬すみれ」も新春を待つものとして並列になる。したがって、前者のように読むのがわたしにはしっくりくる。「タラップ」と「冬すみれ」、異種・異類を無理なく同格としたところは作者の腕か。

 水たまり昨日の月が座礁する

30日の句。「水たまり」に名残の月が映り、座礁しているように見えたのだろうか。「昨日の月」「座礁」という言葉からは、大晦日を明日に控えながらも日にちの前後感覚が揺らいでいる状況が感じられる。

 はじまりか終わりか夜明けの号砲

31日の句。「号砲」とは何だろうか。「夜明け」とあることからして、行く年最後の〈日の出〉と捉えてみた。大晦日は元日の一日前だけど、これまで見てきたように、作中主体は行く年と来る年のあいだでゆらゆら揺れ動いているのだ。

「ピリオドかコンマか」「遠浅の夜」「はじまりか終わりか」などの揺らぎに見られたように、本連作は二つの時間軸、すなわち行く年と来る年とが並走してしまうことで、終わりと続き、過去と未来、始まりと終わり、という葛藤が生じている。この葛藤に注目したとき、わたしは外山滋比古の切字論を思い出した。

   古 池 や 蛙 飛 び 込 む 水 の 音
において、「古池や」のあとに、断切によって生じた空間がある。古池という語によって喚起されたイメージ・連想の残曳は、その空間において尾をひく。それは、いわば古池という語の延長線上を走ると想像される。ところが句末の切字と違って、句中の断切空間ではイメージの残像は、ただちに余韻とはならない。イメージが残曳しているのと並行して、新しい句「蛙飛び込む」がつづくからである。そうすると、「古池や」のあとの空間において、古池の残像と、それと方向の違った「蛙飛び込む」という二つの表現が重なり合うことになる。残曳の虚像と、次句の実像とが葛藤を生じているということもできる。(『省略の詩学』・中央公論新社)

年末にこの文章を書いているわたしにも、行く年の残像と来る年の実像とが葛藤を生じはじめている。

posted by 飯島章友 at 20:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする