2020年01月17日

今月の作品 中山奈々「ビラ貰う」を読む

「ビラ貰う」というタイトルであるがビラとは左翼党派のアジビラであると考えると腑に落ちる。1句目の「右」、2句目の「福祉」、3句目の「岩波」、4句目の「日雇い」、5句目から7句目は見なかったことにして(ただ6句目は宗教、7句目は資本主義ともとれる)、8句目の「ビラ」とまさに政治色満載の連作である。いまどきなかなか見かけないアジビラに思いを寄せる連作にぼくは体を震わせている。

さて1句目から順にみていこう。


  祝福の頭皮を右に寄せている

「逃避」でも「党費」でもなければ「頭皮」である。「頭皮」が右傾化したのである。右傾化はいけない。世の右傾化を憂う一市民であるぼくは日々悲しみに暮れているがそれでも生きている。その姿勢が大事である。うちに溜め込んでいては病んでしまう。だがぼくたちには川柳がある。川柳という爆弾で病んだ自分を解放しようではないか。そんな作者の強い姿勢を感じる句である。


  福祉総務課即身成仏係

すべて漢字だということは見てわかる。誰でもわかる。うちの娘でもわかる。なのでうちの娘にこの句を見せたところ読めないという。読めない、そう娘は句の意味がわからないのである。因みに娘は小学3年生である。仕方がないのでぼくが娘に解説した。おおよそ次の通りである。市役所には色々なお仕事をする場所があって、福祉総務課というところは生活に困っている人のお手伝いをするところであり、その中でもここは仏になる為の修行をする僧のお手伝いをするところなんだよ、と。それで? と言うのでまたぼくが説明をした。現実の社会で生活に困まっている人が、この世ではなくあの世で仏なんかになりたくはないのに、そんなお仕事がさもあるかのように書いてあるのが面白いんだよ。つまり現実の福祉政策は全く馬鹿げているのだ、とぼくは熱く語ったが娘は興味を示さずに「ちゃお」コミックスを読み出した。「ちゃお」ではなく川柳を読め、とは言えないので、ぼくは曖昧な笑みを浮かべて自室に引き篭もったのだった。


  昨日まで知っていた岩波文庫

岩波文庫はなかなか硬派な文庫である、が最近そうでもなくなってきた。以前は物故者の作品のみを扱っていた筈だが、いつぞや谷川俊太郎の詩集が出たときはびっくりした。とうとうあの谷川俊太郎も亡くなったのか、と驚いてしまった。因みにぼくはつい最近まで「たにがわ しゅんたろう」と読んでいたが、本当は「たにかわ しゅんたろう」だったと知ったとき、穴に入りたいと思ったものだ。岩波文庫が多数並んである本屋は信頼できる。ホッとする。愛おしい。そんな岩波文庫も変わるときがある。意外な一面を知ることになる。
とにかく作者は本を愛しているのだ。
個人的にぼくは大昔のパラフィン紙のカバーに戻して欲しいと思うこともある。今日から変わってくれないものか。


  日雇いのセロテープ長めの名札

日雇い労働者の越年・越冬闘争を支援する運動の為に、何度か釜ヶ崎の三角公園に行ったことがある。と言っても実際には支援の為のコンサートを聴きに行って、少しばかりのカンパをしただけなのだが。ご存知でない方もいるかと思ううので説明すると、釜ヶ崎は東京の山谷と並ぶ日雇い労働者の街である。ここは明らかに空気が違う。一種の霊気みたいなものが沈殿している場所である。そこで暮らす日雇い労働者の名札は安全ピンでとめる一般的なものではなく、セロテープに名前を直に書いたものを貼っているのだ。手配師が労働者を認識する為にそうさせたのかも知れないが、この労働者が自分で貼ったとぼくは考える。この境遇を笑っているのだ。そうでもしないとやっていられないのだ。


  一片を粘らせる太陽フレア

太陽フレアに目がいってしまうが、ここは「粘らせる」に注目したい。太陽フレアの実際の動画を見ると、少し興奮してきた。この句で初めて「太陽フレア」を意識してしまった。このようなものが何かを粘らせるなんて想像すると恐ろしい。一片とは何か? この句だけではわからない。前句のセロテープだとしたら面白い。


  片仮名で書けザビエルの親戚は

ザビエルはフランシスコ・ザビエルとするならば、彼はバスク人である。バスク人はスペインとフランス国境に跨って暮らす、国を持たない民である。それゆえ今でも独立運動が盛んである。独立運動と聞くと訳もなくぼくは興奮するがこの句とは関係ない。ザビエルの親戚となると片仮名を書ける人はいないのではないか、と思ったが調べるとなんとザビエルの兄の子孫で名をルイス・フォンテスという方が現在日本に帰化して神父をされておられるので、彼なら片仮名は余裕で書くことが出来るだろう。因みに日本名は泉類治という。


  買取の一冊が生焼けである

そんなんしらんがな、と思うが。そう言い切られてしまうとぼくは困ってしまう。


  取り替えたエンドロールのビラ貰う

かくしてタイトルに戻るのである。
posted by いなだ豆乃助 at 19:29| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月31日

浪越靖政「時間無制限一本勝負」を読む

今年最後の「今月の作品」は浪越靖政さんの「時間無制限一本勝負」でした。

タイトルをはじめとして、各句にも「裸締め」「卍固め」「場外乱闘」「異種格闘技」「タイガーマスク」「裏技」と、プロレスリングに関わる言葉が使われています。でも、プロレスそのものを詠んでいるわけではない。「あいだがら」「痴話喧嘩」という言葉も使われているように、人との付き合いをプロレスになぞらえて描いた連作だと思います。

この10年ほどでしょうか。いわゆる「昭和プロレス」を振り返る書籍がつぎつぎと出版されています。ただしその内容は、プロレス界の人間関係や人間模様に焦点のおかれたものが多いように思います。当時を知るレスラーや関係者が「実は当時あの人のことをこう思っていた」と証言していくものですね。そう、(なぜか日本の)プロレスマニアというのは、試合結果以上に人間ドラマを楽しむ傾向があります。実際、プロレスの世界はとても人間臭いのです。そのような訳で、人との付き合いをプロレスになぞらえるのは上手い方法かも知れません。

裸締め掛け合っている あいだがら

裸のお付き合い、つまり隠し事がない間柄ということでしょうか。ところでスリーパーホールドとは、相手の頸動脈を圧迫して失神させる技。同じように、裸のお付き合いだからこそ大きなリスクを伴うこともあるので、要注意です。

お約束の場外乱闘 痴話喧嘩

場外乱闘とは穏やかでありません。しかし、ここでは「お約束」といっているのですから一種の儀礼なのでしょう。同じように痴話喧嘩にも儀礼的な機能があるのではないでしょうか。
むかしのレスリングには紛争解決の儀礼的な側面があったと聞きます。部族間の代表同士が試合をするのですが、かならずドローで終わるのです。その意味では痴話喧嘩もレスリングといえるかも知れません。こまめに痴話喧嘩するくらいが長続きするのです。
尤も、儀礼のつもりが修復不能な喧嘩に発展してしまうこともあります。それは信頼の基盤が失われ、ノーコンテストや制裁マッチになってしまう試合と似ているのです。

ときどきは異種格闘技も試したい

わたしは馬場派・猪木派、あるいは全日派・新日派というスタンスをもっていません。好きで好きでしょうがないプロレスラーもいません。わたし、プロレスファンとしてはじつにツマらないタイプなのです。しかし、だからこそ少々公平に発言できると思うのですが、昭和の頃は新日本プロレス(猪木)のほうが全日本プロレス(馬場)よりも人気がありました。
その理由のひとつとして、新日本には異種格闘技戦という目玉があったからです(アントニオ猪木とモハメド・アリが戦ったことは、いまの若い格闘技ファンでも知っているはずです)。
当時の異種格闘技戦は特別な試合。その非日常感はいまの総合格闘技以上だったと思います。それに対して全日本(馬場)は、プロレスの領域を外れることがありませんでした(アントン・ヘーシンクの柔道ジャケットマッチなど一部例外的なものはありましたが)。それは堅実ではあるもののマンネリと紙一重です。
夫婦や恋人の関係が冷え込む一因にマンネリがあります。だからこそ、〈サプライズ〉という異種格闘技戦で非日常感を出し、アクセントを付けるものなのかも知れません。
尤もジャイアント馬場はマンネリを突き抜けた結果、ある時期から新日本プロレス以上に支持を集めはじめました。これも人間関係と重ねることができそうではありませんか。

裏技まで使い果した昼の月

当連作は「明烏呼ぶまで時間無制限」で始まり、最後に上掲句で終わります。連作の主人公は昨日の夜から、あらゆる工夫をこらして他者と交わってきたのでしょう。場外乱闘をし、異種格闘技戦をおこない、虎の覆面をかぶり。だが、とうとう主人公は「裏技」まで表に出してしまった。空には「昼の月」がうっすらと呆けたように浮かんでいる。まるで、すべてを出し尽くした主人公のように。

ちなみに、わたしの川柳はランカシャーレスリングでありたいと思っています。ですから、句会=興行で受けようが受けまいが関係ありません。道場で黙々と技術を追及していくのみです。

posted by 飯島章友 at 23:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月02日

【絵川柳】よそのカゴ白滝足りないでしょう/大川崇譜

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よそのカゴ白滝足りないでしょう/大川崇譜

* 「そして大阪バラが咲く街」「コンテナが太平洋に帰宅する」「雲は焼きサバ冬を待っている」。どうして現代川柳は口語構文をたいせつにするようになったのかなあとときどきどきどきしながらかんがえる。サラリーマン川柳やシルバー川柳は口語構文をたいせつにする傾向はなく、むしろ標語的にして意味性を強く相手に訴えるが、現代川柳は、「今夜はくもりときどき雨が降るでしょう」のような口語構文を密輸して転用する。もしかしたら川柳というのは、〈みじかい文〉というジャンルなのかもしれないなあとおもうことがある。そういうジャンルはないですよ、と言われたとしても、オカルト的に、〈みじかい文〉をあるとき信じたひとたちが集まっているばあいもあるのではないか。Suicaをかざすことと、詩を書くことのあいだにどれくらいのちがいがあって、どれくらいそのふたつがとりかえっこできたりするんだろう。かざしたときと書くときの顔はどれくらいちがうんだろう。そうおもったときに、そういうことをかんがえながら、あるいた。(柳本々々)
posted by 柳本々々 at 03:41| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

今月の作品 米山明日歌「次の音」を読む

@「桐」「梨の芯」「白い花」「草いきれ」といった植物のあしらい
A「行き先のある風だけにある香り」、「その次の音を求めてたつうぶ毛」に見られる触覚(風は肌で感じるものだ)と嗅覚の、また聴覚と触覚の親密な結びつき
B「この先」「行き先」「明日」「その次」といった空間的・時間的に未来を志向する言葉たち(その中にあって、「草いきれ日傘の骨にある記憶」だけが異質である。)
これらの特徴から、繊細にして清冽な連作という印象を受けた。

ぬかるみに落としてもまだ白い花

「落としても」という動詞から、白い花を敢えてぬかるみへ落そうとする意図を読み取らないことは難しい。それでいて「なぜ花をぬかるみに落そうと思ったのか」「花をぬかるみに落としてどう思ったか」と人間の心理を追うのではなく、花の白さだけを言うのが潔い。「ぬかるみ」と拮抗する花の白さに、塚本邦雄の〈芍藥置きしかば眞夜の土純白にけがれたり たとふれば新婚〉も思い起こされる。

貫乳からもれだす夜の歯ぎしり

連作中ではこの句にもっとも惹かれた。貫乳とは陶磁器の釉(うわぐすり)の表面に入った細かなひびのこと。「歯ぎしり」、すなわち歯と歯が擦り合わされる音と陶磁器同士が擦れ合う音が似ているという、ほとんど生理的な納得のうえにこの句の世界は立ち上がる。「夜の歯ぎしり」という下の句からは、時間帯が夜であるということ以上に「夜」そのものが陶磁器に憑依して歯ぎしりをしているかのようなイメージを受け取りたくなる。「行き先のある風にだけある香り」が(ほんらい風に行き先はないはずなのに)「行き先のある風」とそうでない風を嗅ぎ分けるすごい嗅覚の句であるとすれば、これは(ほんらい歯ぎしりをしないはずの)「夜」の歯ぎしりを聴きとってしまうすごい聴覚の句なのである。

posted by 暮田真名 at 02:07| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

今月の作品 石川 聡「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」を読む

 秩序、というもの/ことは、何のためにあるのだろうか。
 こんな問いを立てるのも、川柳というもの/ことにあって、いっけん「法」が支配しているように見えるからである。ルール、とあえて片仮名で書いた方が感触は伝わるだろうか。たとえば五七五ということ、それが川柳にとって、最も尊ばれる「法」であると、多くの人が理解している。
 だが、なぜ五七五なのか。その理論については、拍打などの音声的な点からも説明はなされている。だが、その当否はここでは置いておく。ここで考えたいのは、多くの人々(主に五七調に携わらない人々)にとって、五七五(短歌なら五七五七七)が当然の前提として了解されているという問題についてである。
 およそ、五七調に関わった者ならば、いちどならず「ここで五音(あるいは七音)にしなければどんなにかよいのに」と誘惑された経験があるはずだ。その次には、当然として「なぜ五七五なのだろう?」という疑問にぶち当たる人も多いだろう。そのあとに「それはルールだから」と言って納得するのか、その「ルール」自体を食い破ろうとするのかには、優劣はない。ただ、携わる者の志向が異なるだけである。
 だが、その「ルール」は果たして五七五にとって必然なのか、を意識してしまう者はいる。
 五七五は、五七五でなくともよいのではないか。
 しかし、「携わらない人々」からは、五七五は、五七五であると、前提されている。その無自覚性を含めて、「五七五」は「法」と呼ぶのがふさわしいように思う。無論、「法」によって「秩序」がうまれたわけではないし、その逆に「秩序」によって「法」がうまれたわけでもない。「法」が発見されたときに「秩序」も発見されたという考えは、一考に値すると思われるが、「法」と「秩序」(この順番は攻×受のように固定化されたものではなく、リバ可能なものと思っていただきたい)の連関を説明するものではない。いや、ここで「法/秩序」を語るのは、大言壮語にすぎる。私が語ることができるのは、あくまで川柳のことだけだった。
 川柳とは何か。
 そんな問いに答えが出せるのだったら、誰も苦労しないが、仮説を立てることはできる。たとえば「川柳とは、秩序をあたえるものである」という説はどうだろうか。渾沌、という言葉ではとらえきれない〈ぐちゃぐちゃ〉を、言葉という枷をもってかたちと成す。それが川柳であると、とりあえずは仮定しておく。
 であれば、五七五とは、やはり枷のかたちとして、必然なのか。否、と答える作品群が確かに存在する。自由律、と呼ばれる句が、その一角を占めるだろう。回り道をしたが、九月の作品、石川聡「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」もそのひとつである。
 視点を今作に絞るとして、そこに秩序はあるか。是、と答える。その回答に至るまでに、私は、冒頭の問いを以下のように修正しなければならない。
 秩序、というもの/ことは、何によってもたらされるのだろうか。
 その問いを続けつつ、まず「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」を見てゆくことにしたい。
 まず目につくのは、連作が進むたびに文字数が昇順でふえてゆくこと。
 これは全体を見たときに、一種強烈な印象を与える。同時に、そこに「ルール」があることを了承させる。ふえてゆくという自己規程。斜面のような紙幅を見るとき、この連作は自ら「ルール」を課するものだということを私たちは感じ取る。
 自由律、というものが、絶えざる自己管理の結果であると、この型式は明示している。それがゆえにひとつの秩序がもたらされているのでもあるが。

  逆立ちした秋だ

 「秋」が「逆立ち」しているのか、逆立ちをしている作中主体が秋を詠嘆しているのか、あるいは、「逆立ちした」と「秋だ」のあいだには連関がないのか。そのいずれも読み方として可能である。むしろ、さまざまな読み方を、これだけの字数で提示することができる、そこに句としての構成力=秩序の兆しとして解釈したい。

  雷去り萩に色さす

 第一句に比べ、ここでは因果関係が表記されている。意味の上での因果関係はあまり「意味がない」。雷が去ったから萩に色がさしたというのは、たしかに因果として成立していないだろう。だが、因果がないところに因果を設定する。すなわち、ここにおいても秩序が発生すると言うことである。連作として見た場合、字数がふえてゆくことによる、情報量の増加もまた、一定の秩序であろう。

  セミのパトラッシュ

 当然ながら『フランダースの犬』の「パトラッシュ」を踏まえている。ここで示されているのは、パトラッシュが「セミ」である世界と、「犬」である世界の交錯である。セミを「パトラッシュ」と呼ぶ世界は、犬をそう呼ぶ世界に折り重なることによって、より世界観を補強される。世界というもの/ことが秩序のためのツールだとして、この句は秩序としての世界を描いている。

  そよりさよりひかりきる

 ここでは、「り」の連続による統一がなされている。しかしそれは無意味なのか? という問いを立ててみても良いだろう。文脈において、ここに矛盾はない。しかし、「そより/さより/ひかりきる」のあいだには断絶がある。その断絶をひとつの文章にすること。そこに、渾沌を濾過する「詩」があるように思うのだ。

  なかゆび舐めて駆けのぼる龍

 このあたりから、情報量の増大により、「意味」と「無意味」がいっそう際立ってくる。この句において「舐めて」は「なかゆび」に、「龍」は「駆けのぼる」に強く結びついていることは言うまでもない。しかしこの二群の連結、あるいは非連結に、まぎれもなくなんらかの「法」が通底している。それが、五七五に拠らない、「自由」というルールなのではないか。

  平積みの浸透圧の無いフォント

 連作中、はじめて私たちは五七五に遭遇する。しかしそれは一瞬で、すぐに通過するものと、連作の全体を見た私たちはよくわかっている。この句において五七五は絶対ではなく、連作を構成するための一パーツにすぎない。それを証立てるように、句として「詠まれた」もの/ことは、ほぼ意味性を剥奪されている。だからこその、Aが「無い」Bという奇妙な公式が導き出される。

  赤く重く滑り落ちる満月不飽和脂肪酸

 そう、そして五七五はあっけなく通過されてしまった。五七五をはみ出していくことに、実は必然性などいらない、というのはこの評でにじみ出してきたテーゼである。この句はうつくしい。うつくしさのために何をしてもいい、という理屈ではない。むしろ句の意味の解体と再構成が、一句の中で続けられている、という点において、美、が存在するのだ。それはこの「不飽和脂肪酸」が「ある」ものではない、存在しないという存在の仕方によって保証されるのではないだろうか。存在しないものが存在するというのは、やはりひとつの秩序立てであるかもしれないが、この句のインパクトはその秩序自体をも解体する。

  浮いた静脈の第四弦サティーの蒼いしらべ

 そしてついに、ここはゴールなのだろうか。理論上は、文字数をさらにふやしてゆくことが可能なはずである。八句、というルールがあるからこの連作はここで終わっているが、連作のベクトルはさらに先を目ざしているようにも見える。この(仮の)最終句における情報量の多さは、〈さらに入れられる〉詩の面積の無限性を示している。だが、この連作はここで終わった。それは八句という縛りのせいだけではないだろう。短詩が短詩として成立するぎりぎりのところで、この句はあやうく立っている。それはこの句および連作に対する否定ではない。むしろ、〈短詩は無限の詩へのエネルギーを内蔵しつつ、それをさえぎる〉ことによって成立するのではないか。そうした「川柳」というものの構造を、くっきりと見せているのではないか。
 ここでのルールは、その〈さえぎる〉という一点に集約されるのかもしれない。何かを規定するときの、切断。
 だから全体として見たときに、「切断」によって「秩序」はもたらさるのではないか。評中に挙げた「何によってもたらされるか?」という問いに、この連作はひとつの答えを示してくれたような気がする。
 秩序は型式ではない。秩序は〈ぐちゃぐちゃ〉を切断したときにはじめて発生する。
 だがその秩序は、切断ゆえの自己切断と、反動としての自己増殖に常に突き動かされている。
 その運動体をとらえるのが、五七五の、川柳の意義なのかもしれない。そしてそれが、〈携わらない〉人びとの、「前提」への回答になっているはずだ。
 この連作を呼んで、渾沌としたまま、考えさせられたもの/ことである。

追記
 ネット環境の不備から、鑑賞文を書くのがかなり遅くなりました。石川聡さんはじめ、皆さまにご迷惑お掛けしたことを謝罪します。たいへん失礼しました。
posted by 川合大祐 at 20:03| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする