2017年05月31日

今月の作品・瀧村小奈生「射干玉の」を読む

5月のゲスト作品は、「ねじまき句会」「川柳ねじまき」で活躍されている瀧村小奈生さんの「射干玉の」である。

「射干玉の」とは短歌における枕詞だ。夜・月・夢・黒・髪といった語にかかる。
枕という土台には頭を載せることになっているのと同じで、「射干玉の」という枕を置けば「夜」という頭部が載せられることになっている。パスワード(ぬばたまの)を入力することでログインする(夜にかかる)ようなものだろうか。
枕詞は現代短歌でも使われていて、東直子さんにもこんな作品がある。

 ははそはの母の話にまじる蟬 帽子のゴムをかむのはおよし  東直子(『春原さんのリコーダー』)

枕詞についてはこれくらいにして、さっそく瀧村作品を見てみよう。


1、言葉の世界にログイン

 ぬばたまの夜をぴかぴか光らせて
 バスクリンばらまいて世界変えてやる


「ぬばたまの」とパスワードを打ち込むことで「夜」という時間帯にログインする。また「バスクリン」というパスワードを打ち込むことで「世界を変え」ようとする。作中主体にとって「夜」とは、一日の終わりとしてあるのではなく、べつの世界にアクセスできる光り輝く時間帯なのだ。べつの世界とは〈言葉の世界〉であり、また〈夢の世界〉でもあるのだろう。「ぬばたまの」に代表される枕詞は、特定の語にアクセスする働きをもっていることが示唆的だ。
「ぬばたまの」や「バスクリン」によってログインできる〈言葉の世界〉。1句目から7句目の句頭を見ると分かるのだけど、「ぬばたまのよる」と折句になっている。「世界を変えてやる」という物言いからも察せられるが、作中主体には〈言葉〉によって「世界」を変える意志がある。それは、日常の生を離れての〈真剣なあそび〉と言い換えてもいいかも知れない。


2、言葉の心はバネ心 跳ねれば意味の泉湧く

 バスクリンばらまいて世界変えてやる
 垂乳根の母ちがうからかめへんねん
 ヨード卵・光くまなくリビングに
 廬舎那仏ツバルるっこらランドセル


当連作全体を見ていると、そこはかとなくではあるけれど、前の句の言葉が後の句の言葉を引き出しているように感じられる。ちょうど言葉が言葉を引き出す枕詞のように。
たとえば、前句の「世界変えてやる」によって後句の「垂乳根の母ちがう」が引き出された雰囲気がないだろうか。母が違えば世界も変わるのだから。
また、前句の「ヨード卵・光」によって後句の「廬舎那仏」が引き出される。「ヨード卵・光」の黄身と光が、唐招提寺に坐す金色の「廬舎那仏」に飛躍していると考えるのは、詩歌の世界でなら充分ありうる。

英単語の意味をおぼえるには〈連想〉を働かせなさい、なんてことを受験のとき言われたことはないだろうか。たとえばSpringという言葉は、春・バネ・跳躍・泉というまったく関連のなさそうな意味をもっているけど、春を〈張る〉と読みかえるだけで、はる→バネ→跳躍→泉と連想していけるのである。


3、隠れたタイトル

 ぬばたまの夜をぴかぴか光らせて
 扁桃腺腫らしてコレコソガ夜


連作タイトル「射干玉の」は、とても面白いタイトルのつけ方だ。というのも、それじたいが枕詞であるため、「夜」という隠しタイトルが炙り出されてくるからだ。そして、本当はこちらがメインタイトルなのだ。それを示すように、1句目と最後の句には「夜」が登場する。ちなみに、上掲の「ぬばたまの〜」の句が1句目、「扁桃腺〜」の句が最後の句である。
先述したように作中主体は、「夜」という時間帯に〈言葉の世界〉〈夢の世界〉へログインする。しかし最後の句では、「扁桃腺腫らし」ながら現実の厳しい「夜」を過ごしている。夢のような言葉の世界から現実へ。「コレコソガ」というカタカナ書きは、もしかしたらログアウトに相当するのかも知れない。
 

『中世の秋』『朝の影のなかに』といった著作で知られるヨハン・ホイジンガは、〈遊び〉の観点から文明を考察した歴史学者。瀧村小奈生さんの遊び心に触れて、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)を久しぶりに読み直してみた。

詩作〔ポイエーシス=作ること、創作。〕は遊びの機能の一つである。それは精神の遊び場の中、つまり精神が創造した独特の世界の中において営まれている。そこでは事物は「日常生活」の場合とはうって変わった風貌を示し、論理とは全く別の絆で互いに結ばれている。もし醒めている生活の言葉できちんと表現されたものを真面目というなら、詩は完全に真面目とは決して言えない。それは真面目の彼岸に立つものだ。子供、動物、野獣、それに予言者の属する本源的な向こう岸の世界、夢と陶酔と恍惚と笑いの分野にそれはあるのだ。詩を理解するためには魔法のシャツのように子供の魂を引きつけなければいけない。子供の知恵を大人のそれよりも大切にしなければならない。

ここで遊びの本来的な特徴と思われるものを今一度数え上げてみよう。それは時間、空間および意味の一定限界内で行なわれ、誰の眼にも明らかな秩序の中で、自由意志で受け入れた規律に従い、物質的利益や必要を度外視した行為だ。遊びの情趣は熱中と陶酔だ。それが神聖なものであるか、あるいは単にお祭り的なものであるかによって、遊びは聖なる儀式となったり、あるいは娯楽になったりする。その行為は昂揚と緊張の感情を伴い、やがて喜びと解放感をもたらしてくれる。
(ホイジンガ選集 1 『ホモ・ルーデンス』/河出書房新社)

posted by 飯島章友 at 23:30| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

ゲスト作品「暮らしラッシュ」をよむ


ゾンビになったら探そうゾンビのしあわせ   山中千瀬

通勤ラッシュと通学ラッシュが融合した朝の駅では、動く歩道に、ホームへの階段に、連絡用通路に、実にたくさんの人が押し寄せる。彼らは皆一定の方向に向けて、なおかつ一定のペースで歩みを進める。急いで走ることはなく、かといってのんびり歩いているわけでもない、奇妙なスピード感。自らの意志のようにも、何者かに操られているかのようにも見える、不思議な歩行。彼らを眺める度に、私は決まってホラー映画のワンシーンを思い浮かべてしまう。白眼をむきボロボロの服をまとい、土気色の両手を前に突き出してゆらゆらと近付いてくる、大量のゾンビの群。何より怖いのは、私もまたいつのまにかその中の1人になっていることだ。とはいえ〈暮らし〉の中で消費し消費されることはどうしたって避けられない。
しかしこの句は「ゾンビになったらゾンビのしあわせを探そう」と言う。やむをえずゾンビになってしまう事を決して否定せず、その中で幸せを探そうと、探しても良いのだと、言ってくれる。私はそれを皮肉ややけっぱちなどではなく、一種のエールとして心にしまいたい。

posted by 倉間しおり at 14:19| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月01日

いばひできを読む柳本々々

らりるれれ季節変わりの声変わり  いばひでき

らりるれれ/り/りとラ行音によってリズムがつくられているのがわかります。

以前から興味があったのが、川柳に出てくるラ行音です。

ちょっとヒントになることを八上桐子さんが徳永怜さんの句を引きながら書かれていました。

Re:Re:Re:Re:Re: もっとRe:Re:Re:Re:  Re:Re:Re:Re:Re:  徳長怜

徳長さんのこの句をですね、八上さんは「音読」をして「リリリリリ もっとリリリリ
リリリリリ」と読まれたんですね。「切実さを帯びる」のが「効果的」と書かれています(『川柳木馬』150•151号、2017年1月号)

で、この「Re:」だけみれば意味としてはメールの返信になっていくんだけれど、でも八上さんが示したように短詩っていうのは律でもあるので、リリリリリリリリリリと続いていくことで、鈴虫が鳴いているような、ベルにせき立てられているような、音の切迫感が出てくるわけですよね。

ラ行っていうのはつまり、そうした音から読むことの示唆なんじゃないかっておもうんです。

小池正博さんがこの同じ『川柳木馬』で川柳の、いや、表現の出発点っていうのは、〈既知のわたし〉ではなくて、言葉をとおしてあらわれてきた〈未知のわたし〉にであうことなんだよ、と書かれていたんだけれども、こうした、リズムとしての言葉の主体性がたちあがってくるしゅんかんにたちあうことも〈未知のわたし〉にであうことなんじゃないでしょうか。それはときに、無意識であり、ふいうちであり、意想外であるんだから。

わたしはこの律、リズムのふいうちの感じになにかちょっと可能性があるんじゃないかとおもうんですね。それは短歌もそうなんじゃないかとおもうんです。 

で、長い遠回りをしていばさんの句なんですが、いばさんの句がおもしろいのは、

らりるれれ季節変わりの声変わり  いばひでき

というふうに「り」というリズムに引っ張られて「変わり」が二回も出てきたところにあるとおもうんですよ。これはラ行音のリズムを意識しはじめたとき、すなわち、「れれ」と反復し気づいてしまったときに起こってしまった〈大変化〉なんじゃないかとおもうんですよ。

だから、そういう律に気づいたわたしの変化の句として読めるんじゃないかとおもったんです。

連作タイトルは「ギター」。音が走り始めてしまったとき、わたしはどんなわたしにであうのか。みすぼらしいわたしなのか、それともきらきらしてるのか、それとももじもじしてるのか、それとも、まごまご、いや。

谷底に落としたギター逃げ出した  いばひでき

posted by 柳本々々 at 07:09| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

今月の作品・岩田多佳子「くぐもる」を読む

みなさ〜ん。お元気ですかあ〜。
などと妙なテンションになっているのも、今月のゲスト作品「くぐもる」を読んでしまったからで、特に一句、というより一文字にこだわって鑑賞を書いてみたい。

 「たすけて〜」と干ぴょうは叫べない  岩田多佳子

これを読んだ時、「うっ」となる。
原因はわかっていて、「たすけて〜」と言っているからである。特にこの「〜」に鋭い突きを食らった感じになる。
というのも、「〜」って、所謂「正しく美しい日本語」とは認められていない、はずで、僕も正しい日本語なんて「けっ」と思っているが、句で「たすけて〜」と言い切る自信はない。
ちょっと遠回りになるが、なんで「〜」は「正しい日本語」と認められていない(はず)なのか、愚考してみることにしよう。
たとえば、長音を延ばしたいのだったら、「ー」だ。「ー」のほうが、一応日本語として認められている(しつこいが、はず、の話である)。それは何故かと言えば、「ー」は、「書き手のコントロールが効くから」じゃないかと思っている。
掲出句を少し変えて「たすけてー」にしてみるとしよう。この場合、読み手は「たすけてえ」と、まっすぐに「音」を受け取るだろう。これは書き手が「こう読んでくださいよ」という支配下に読み手を置いていることになる。
それが「たすけて〜」になったとき、どうなるか。
「〜」は、どう発音するか。イントネーションは、起伏は、長さは、読み手が百人いれば百通りの読み方になるだろう。つまり、書き手のコントロールが効かないのだ。
「正しい日本語」というものが、まさに「正しい」ルールで規定されるものならば、そこに「〜」が「正しくない」とされる理由があるような気がする。
掲出句に戻ろう。
「「たすけて〜」と干ぴょうは叫べない」。ではこの句は書き手のコントロールを放棄した、読み手にすべてを委ねる句なのか。
どうもそうではないように思う。
「干ぴょうは叫べない」を目にしたとき、多くの人は「わからない」と言うだろう。「わからない」ということは、同時に「どのようにもわかることができる」ということでもある。「干ぴょうは叫べない」を相手に、読み手は、無限の可能性を持たされている、ような感覚をおぼえる。
だが、ここでもう一度「〜」を目に留めてみよう。
ここに「〜」が配置されているのは、まぎれもない、書き手の意志である。
「〜」は作者のコントロールが効かない、とさっき書いた。だがそれは、「たすけてー」と読まれない、という次元においてである。
「〜」が自由に見えるのは、「〜」という記号が置かれた上で成り立つ、放牧に近い。自由に読める、ということは、自由に読ませられているということに他ならない。
「たすけて〜」を自由に読ませているのは、書き手なのだ。
「私の命令を聞くな」というパラドックスに近いものが、この「〜」にはある。
もちろん、「干ぴょう」も「叫べない」も、作者の意志によって統御された、読み手の自由である。
このへん、「自由」というもののパラドックスに踏み込むことになりそうだが、今回はあくまで川柳の一句の範疇にとどめておく。
川柳の一句として見た時、この句は書き手に支配された句である、と言いたいわけではない。
この句が句として成立するためには、読み手の「自由」が必要とされている。しかしその自由は書き手によって与えられたもので、だがその自由を賦活するためには読み手の力が必要で……キリがない。
これはあれだ、「書き手と読み手の共犯関係」というやつだ。
どちらが欠けても、川柳は成立しない。そんなのは当たり前のことだが、その構造を暴いてみせるという点で、この句は「川柳」を超越している。
そしてそのキーになるのは、「〜」の一文字だと思うのだ。
余談になるが、「〜」を入力するとき、「から」と打って変換している。もしかしてこの句は、「ここ『から』はじまる」という句なのかもしれない。何がはじまるのかは、共犯者同士の黙契ということにしておこう。

posted by 川合大祐 at 17:16| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

今月のゲスト作品『LUNCH BOX   宝川踊 』を読む

LUNCH BOX   宝川踊
三世紀後にもお箸を洗ったよ
ミネラルを引きまわしつつ冬が来る
声を濾過そのジュラルミンの反省
帰らない言葉があるよ相撲にも
てーぱらんてーぱらんたたかう振付
まぶされた紙吹雪に探す原点
米粒をニュートリノを撒き丘になる
さよならのうしろにマヨネーズの余り


LUNCH BOXというタイトルでの宝川踊さんの8句。
お箸、ミネラル、ジュラルミン(かつてアルミ合金ジュラルミン製の弁当箱があったそう)まぶされた(おかずには、ゴマやら鰹節やらタラコやら、何かとまぶしがちなもの)、マヨネーズと、大半の句に、お弁当箱がらみのワードが投入されています。
いろんな要素を詰め込んだ、という意味合いもあるのでしょうか。

三世紀後にもお箸を洗ったよ
未来からの報告です。
「お箸を洗ったよ」には近しいひとに向けられたような語感があります。
三世紀後には変化の方が多いはず。あえて「お箸を洗ったよ」と報告するやさしさ。ささやかな、こうふくな共感をえようとするココロの動き。
ほっこりする句でありました。

帰らない言葉があるよ相撲にも
「返らない」のではなくて「帰らない」のだから、自分発信の言葉なのでしょう。
かつて口にした言葉が、帰らない。
後悔なのか、忘却なのかは不明ですが、「帰らない言葉がある」という認識は誰にでもあるのではないでしょうか。
それが相撲にもあるという。
擬人化された相撲の存在感が、哀切。

てーぱらんてーぱらんたたかう振付
以下、妄想読みですので、ご容赦を。
「相撲」の句と並んでいたものですから、脳内には、うつくしい力士がふたり。
たがいに張り手をスローモーションで「てー」くりだして「ぱらん」と垂らす。たたかいのための振付を披露して、こちらをみる力士、満面の笑み。(以上、自覚ありの妄想読みです、失礼しました)
「たたかう振付」っておもしろいです。たたかいは一発本番のはずなのに、振付が用意されている。妙にリアル感があるのが興味深いです。
「てーぱらんてーぱらん」は「手がぱらん」ではもちろんなくて、すてきなオノマトペなのでしょう。擬音でなく、擬態。あるいは純粋、音。あとに「振付」という言葉が置かれているためか、「てーぱらんてーぱらん」に動作をつけたくなってしまいます。

さよならのうしろにマヨネーズの余り
この句にはくすっとなりました。
マヨネーズって一味足すもの。野菜炒めに、卵焼きに、明太子のパスタに。
「さよなら」も、意識無意識問わず、マヨネーズを足すみたいに、脚色されがちなものではないかしらん。
同じテーマの句はやまほどありそうですが、この句のウィット、よいですね!✨


たのしく読ませていただきました。



posted by 江口ちかる at 14:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする