2016年11月09日

【ゲスト作品を読む】竹内ゆみこを読む柳本々々


それらしいものがようやく生えてくる  竹内ゆみこ

この竹内さんの連作はぼんやりしたものなかに生えてくる〈たしかさ〉の力学なんじゃないかっておもうんですね。

「それらしいもの」というぼんやりしたものがしっかりしたかたちで「生えてくる」。

ここには、あいまいさが「生える」という動きを与えられることでたしかさを手に入れるというプロセスがあります。

でも、考えてみると、連作のタイトルの「しりとり」ってそういうことじゃないかとおもいませんか。

わたしたちはぼんやり「しりとり」をはじめる。ぼんやりことばを続けながらも、あるたしかさがつながっていくことを感じてしまう。でもただ言葉がにていただけでつながっていくしりとりはなんのイメージもむすびません。「それらしい」ものでしかないのです。どれだけくりかえしても。

きっといい人ね端までやわらかい  竹内ゆみこ

そのぼんやりしたやわらかさのなかにやさしさがあるし、厳しさもある。「いい人」もいれば、「あなたでもなかった」ひともいる。

あなたでもなかった しりとりは続く  竹内ゆみこ

ぼんやりはやさしくて、きびしいんです。ぼんやりは、実はとってもはっきりしたものだから。ぼんやりはわたしたちをさまざまな世界に仮想的に連れ去って、価値観をそのつどたしかめさせるから。いいわるいも、あなただあなたじゃないもそうゆうことですね。

人生とおなじように、ぼんやりもつづくんです。長いぼんやりの航海が。ぼんやりはひとつの〈決意〉ですから。

うたた寝の長さよ戸籍謄本よ  竹内ゆみこ



posted by 柳本々々 at 21:18| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月26日

ゲスト作品「アーケードのある」をよむ


平日へ牽制球を投げまくり

魔方陣だらけやないか商店街

あっち向いてホイが強いな矢印は

平日に向かって牽制球を投げることが出来る、商店街の魔方陣につっこみをいれることが出来る、矢印の強さに文句を言うことが出来る。これって実はなかなか難しい事だと思う。気負い過ぎることも無く、かといって毎日の中で自分を擦り減らしたりはしない。一線はちゃんと守る。そしてその絶妙なバランス感覚があるからこそ、溶け出した角砂糖が消えてしまう前に、まさにその一瞬にきちんと目を止め、まばたきなどせずに見つめることが出来るのだ。

角砂糖溶けるまでまばたきしない


posted by 倉間しおり at 19:50| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

【今月の作品を読む】「左手にマングース」を〈読む〉川合大祐

 「「左手にマングース」を〈読む〉」と題して一文を書こうとしているわけだが、〈読む〉とはどういうことなのだろうか。
 たとえば、〈読む〉だけなら根気さえあれば誰にでもできる。『失われた時を求めて』の活字を追うだけなら、小学生にも可能のはずだ。だが、普通(って何だろう)、そういう行為を〈読む〉とは思わないだろう。
 ではどうすればいいのか。感じればいいのか。Don't think,Feel. だが私は、〈感じる〉という言葉で物事を片付けることに、一抹の危惧を覚える。今語っていることは「左手にマングース」についてだが、これは〈考え〉て〈わかる〉句群ではない。だが〈感じ〉てしまった時に、何か大切なものが欠落してしまう。
 考える、でもなく、感じる、でもない第三の道はないものだろうか。それは私にも明確な答えは出ていない。出ていないが、漠然と〈する〉ではないかと仮に名付けておく。テクストを、まさに体験として体験〈する〉こと。それがおそらく〈読む〉ということの、ひとつのありかたなのかもしれない。小池正博の句は、長さとしては最小に近い川柳という形式の上で、人にそういう〈読む〉体験を否応なく迫ってくる。
 そのあたりを念頭に置きつつ、一句ずつを〈読む〉ことにしたい。

まみどりのねばねばたちの総くずれ
 この句には主体がない。まみどりのねばねばたち「が」総くずれしているわけではないのだ。「まみどりのねばねばたち」が正体不明なのではない。「の総くずれ」と書かれることによって、句全体が客体化されているところに、この句の〈わからなさ〉があるのだ。あえて主体を探すとすれば、それはこの句を読んでいる読者だろう。読者とはわたしであるかもしれないし、あなたであるかもしれない。だがそこで主体を問われているところに、読むという体験がある。まみどりのねばねばたちの総くずれとは、〈する〉ものなのだった。

仰向けに死なない蝉もいるようだ
 この句においても、主体は句の中にいない。「死なない蝉」が主体かと思えば、すぐさま「いるようだ」と外から眺められる被観察物になる。「いるようだ」は誰が言っているのだろうか。作者であるとは言い切ることができない。「仰向けに死なない」という蝉の行為があるかぎり、これは作者の観察眼だとか、そういう範疇を逸脱している。やはりこの句でも一貫した体験を〈する〉のは〈読む〉ものにのみ与えられた特権なのだと思う。

攻めることにする左手にマングース
 「左手にマングース」という言葉自体は難解ではない。意味/無意味を越えた地点に、左手とマングースの出会いがある。問題は「攻めることにする」の寄る辺なさだろう。誰が、何を、どうして攻めることにするのか、この句は頑として語らない。だが、〈わたし〉と世界との関わりは、本来こうしたものではなかったか。「左手にマングース」とは、普遍的な体験なのだ。

鳥葬が終わったあとの赤と青
 この句で、作中主体を探すとすれば「赤と青」ではない。赤と青はいわば残響として置かれた手がかりである。同時にこの「赤と青」がある限り、「鳥葬」も主体にはなりえない。「鳥葬」と「赤と青」のベクトルは正反対を向き、互いに主体であることを牽制しあっているのだ。強いて主体を挙げるとすれば「あと」ではないのか。すべてが「終わった」後の「あと」。これはやはりひとつの行為が終わったというしるしである。それを〈体験〉と呼ぶのではないだろうか。体験を〈する〉のは、必然的に、読者であろう。

空白を曳けば山鉾動き出す
 この句においては、二重の主体が使われている。「空白を曳」く誰か、そして「動き出す」山鉾の二つである。一句の中に巧妙に嵌められた(ゆえに、一読しただけでは気付かない)二重の主体に、読み手は惑乱させられる。「空白」とはまぎれもない空白であり、そこに〈わたし〉も〈あなた〉も回収されるのだった。

肉食は滝であろうとなかろうと
 「滝であろうとなかろうと」において、〈滝である〉という行為が想定されている。それは、日常言語であれば成立しない行為である。そこに読者を立たせてくれること、これこそが〈詩〉の言語である。ここで読み手が目くらましにあったような感覚に襲われるのは、この句が〈滝である〉という体験のただ中に置かれるからなのだろう。それが川柳を「する」ということなのではないだろうか。

快晴の空から降ってくる子ども
 今まで見てきた句がそうであるように、「子ども」が主体なのではない。「快晴の空から」という視点が、明らかにメタレベルの主体を示している。〈わたし/あなた〉は「子ども」が「降ってくる」のを、まさに体験として体験する。視点がそうであったように、一見してあるように見える〈意味〉も、メタフィクション的な領域に存在するのだった。

預金から月の光をひきだそう
 「まみどりのねばねばたちの総くずれ」から始まった連作は、ここで終わる。「まみどりの」の句に主体が存在しないことはすでに触れた。ではこの句では主体はどこにあるのか。「ひきだそう」は決意の表明であるとも、読み手への呼びかけであるとも取れる。どちらにせよ、そこにあるのは、まぎれもない意志である。意志は主体を呼ぶ。あるいは、主体が意志を明確にすると言えるかも知れない。だが、この句の主体は作者なのか、読み手なのかあえて撹乱されている。考えて(!)みれば体験とは、主体が主体でなくなる、あるいは主体の交差に生まれる現象だった。だからこの句の配置は偶然ではない。必然的に選ばれた「ひきだそう」という言葉である。やはりこの連作は〈する〉ものだったと考えられる、感じられるものだったのだ。

 以上、粗い読みながら八句を鑑賞してみた。舌足らず、思慮足らずな面があるのは申し訳ない。この連作の〈意味〉を考えるのも、無論有効な読み方である。ただ、ここではなるべく〈意味〉を探すのを避けた。それが小池正博という作家への、私なりの正当な向き合い方であると思うからである。暴論平にご容赦願いたい。
 ただ、この読み方を〈する〉のは大変面白かった。
 私も、川柳をしてゆこうと思う。
posted by 川合大祐 at 06:02| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

Fw:舌 を読む。

徳長怜さんから「舌」が転送されてきた。
「舌」「パピコ」「ペティナイフ」「毛にリンス」「蜂に刺される」「三角折り」になにやら触感の残る句が並ぶ。

整理券ですよと舌をわたされる
事務的にわたされた整理券が「舌」だなんて。じとっと分厚い感触にぞわりとする。誰の舌なのかととりあえず自分の舌の安全を確かめてみる。さて入場のとき「1番から20番までの整理券をお持ちの方〜」のような感じで「舌をお持ちの方〜」と呼ばれるのだろうか。ひとりだけだろうか。何人くらいが前に進むのだろう。バッグやポケットから舌を取り出しながら。係員は無造作に舌を受け取るのだろう。舌と引き換えに案内された席ははたして。

腰骨はパピコにくっついているし
腰骨は作者のものとして読んだ。パピコのひんやりしてやわらかな感覚。パピコはふたつセットになっているけれど、そういえばかたちは女性の体型みたいで、頭と腰のあたりでくっついている。そのパピコに、3人目のパピコみたいに腰骨がくっついているのである。
腰骨にパピコがくっついているのではなくて、腰骨がパピコにくっついている。パピコバイクのサイドカーにわたし。パピコ主体なのである。ひとと異物がくっつく話といえば、楳図かずおの人面譚や、肺の中に睡蓮の蕾を宿した『日々の泡』のクロエなど浮かぶけれど、パピコなのである。腰がびしょびしょしそうで笑ってしまう。「くっついているし」というため息交じりの言い捨てもおもしろい。

「舌」「くっついている」からは「切り離す」という行為が連想されるもので、続く2句には「ナイフ」が登場する。

わナたイしフとガ ふるふる してるとこ
1音飛ばしに「わたしと」と「ナイフガ」を並べて、ふるふる具合をあらわす。「してるとこ」という音も軽くて、ふるふるである。

充電がきれてもしゃべり止めぬSiri
Siriはアップル社の音声アシスタント機能である。Siriを起動してiPhoneに向かって話しかける。「牛舌のおいしい店はどこ?」と聞いたら、Siriが答えてくれるのである。カレンダーに予定を追加したり、友人にメッセージを送ったりもする。Siriに「家族はいるの」ときいたら「わたしとあなただけです」と答えるらしい。ちょっとこわくておもしろい。
さて句中のSiriはついに意思を宿したらしく、充電がきれてもしゃべり止めぬ。アシモフのロボットものを連想する。すでにどこかで起こっているような気がするのが現代の気分なんだろう。

Ladies and gentlemen , 正しい蜂の刺されかた
「お集まりのみなさん」何かと思えば、周知されるのは「正しい蜂の刺されかた」なのである。正しく蜂に刺されるための集い。ばかばかしくてすてきである。

長音の使い終わりを三角折り
「使い終わりを三角折り」といえばトイレットペーパーである。トイレの三角折りをみるとかすかに感情が動く。何なんだろう。みなで揃ってプチ作法というのが、かるーく胡散臭いのである。
ここでは、使い終わったのは長音だ。「使い終わる」までには時間がある。「長い」長音で終わる言葉って、考えてみたけれど、浮かぶのは、悲鳴(ぎゃぁぁぁぁぁ)だとか、親を呼ぶ声(ままぁぁぁぁぁ)くらいだ。そんな言葉をさっと三角折りでしまって、すましこむ。
三角折りをしたのは作者だと思う。長音を使ったのは誰なのだろう。作者であれば「使い終わり」とすることで、発した言葉との心的距離感がおもしろいし、他者の長音をするっと三角折りにしたというのなら、静かな毒があってこれもまたおもしろい。

「Ladies and gentlemen」「三角折り」も整理券をわたされるというシチュエーションや、「パピコ」と同じ日常とすぐ続いている言葉で、そこへ非日常の物語がおしこまれているのが魅力的だった。




posted by 江口ちかる at 20:17| Comment(4) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月31日

今月の作品・徳永政二「かんにんして」を読む

7月の「今月の作品」は、「川柳びわこ」誌の編集長をされている徳永政二さんの「かんにんして」。やわらかな口語体がむかしの「かばん」誌の作風にどこか通じる気がして、わたしが川柳をはじめた当初から大好きな川柳人のおひとりだ。「バックストローク」誌では、短期間ながら誌面でごいっしょしていた。
それでは作品を見ていこう。


 お見せする両手の中にある顔を

「男の顔は履歴書」といったのは評論家の大宅壮一。昨年亡くなった安藤昇が主演の映画にもそんなタイトルの作品があった。
徳永政二さんには、「わかりますわかりますとも手を見れば(『大阪の泡』あざみエージェント)という句がある。この句から想像できる解釈のひとつは手相。手相は日々変わっている。生活の変化は手相という情報に反映されるのだ。また過去の人生も手相に痕跡として残るという。そうなると、手の相とはまさに人間の〈履歴書〉といえるだろう。

上記の話にしたがえば、〈顔≒履歴書≒手相〉というニアリーイコールの関係性が成り立ちそうだ。そこから上掲句は〈手相〉、すなわち「顔」を誰かに示すことによって〈履歴書〉を見せているのだろう、と読んでみた。「お見せする」というやわらかな、どこか恥じらいを含んだ謙虚な口語体が、〈履歴書〉を示さなければならない少々緊張するシーンを、まるで童話のような質感に仕上げている。


 笑わせてくれるじゃないか洗面器

初読では、(ここは盥じゃなく洗面器だよね)などと、ただただ「洗面器」のオモシロさに惹かれた。ちょうど「はっきりしない人ね茄子投げるわよ(川上弘美著『機嫌のいい犬』集英社)という句の「茄子」とおなじおかしみを「洗面器」に感じたのだ。

ところが、何度か読み返しているうちに印象が変わってきた。「笑わせてくれるじゃないか」という表現にペーソスを感じるようになってきたのだ。
洗面器に水を入れる。水の面はかすかに揺らめいている。先に「男の顔は履歴書」という言葉を引いたが、揺らめきに映るじぶんの顔を見た一刹那、これまでの境涯がふっと湧きあがった。そして自嘲するかのように、同時にじぶんを慰めるかのように「笑わせてくれるじゃないか」という言葉がこぼれた。
もちろん、水の面にゆがんで映る顔におもわず笑ってしまった、という軽みの句である可能性もある。けれども、「笑わせてくれるじゃないか」の「くれるじゃないか」には人生が滲んでいる気がする。

な〜んて川柳カードの同人らしからぬ読みをしてみました。


 まんじゅうはうまいあなたはやわらかい

政二さんの川柳には、先の「わかりますわかりますとも手を見れば」のようなリフレインを駆使した句がけっこうある。と同時に、上掲句のような重文構造の作品も散見される。たとえば「空を押すように金魚の浮くように」「光らせてみよう くよくよしてみよう(共に『カーブ』あざみエージェント)という句がある。

さて、上掲のまんじゅうは〜の句のような重文構造は、「まんじゅうはうまい」⇔「あなたはやわらかい」というふうに、互いが他のパートへ影響を及ぼし、被さっていく働きがある。すなわち、「まんじゅうはうまい」という単体の好もしさに「あなたはやわらかい」という別種の好もしさが重なり、「まんじゅうはうまい」というパートだけでは成立しえなかった奥行きを生みだしている。おなじことは「あなたはやわらかい」というパートにもいえる。

と、これで上掲句の読みを終えてもいいのだけど、上記の分析をすこし発展・飛躍させた考えも書いておきたい。それは、このような重文構造では、「まんじゅう」と「あなた」が交換可能な関係性にあるのではないかということだ。おなじように「うまい」と「やわらかい」も交換可能のように思える。「まんじゅうはやわらかい」「あなたはうまい」というふうに。
まあ、「あなたはうまい」というのはちょっと猟奇的な感じもするのだけど、〈あなたはまんじゅうのうまさにも似た多幸感を私に与えてくれます〉と捉えれば、なかなかオシャレな物言いになるのではないか(んなこたーない!)。
重文にはこのように、対等のパートが結合した構造ならではの働きがある気がする。


 すみませんそれは私の鼻の穴

川柳人には、句が〈明快〉であることを大切にする書き手も多い。わたしの好きな川柳作品でみてみよう。たとえば前田雀郎の「音もなく花火のあがる他所の町」、大山竹二の「かぶと虫死んだ軽さになっている」、橘高薫風の「人の世や 嗚呼にはじまる広辞苑」という句は、書かれている状況も句意も明快であり、かつ通俗性を回避する技量もひしひしと感じる。

それにたいして徳永政二さんの川柳は、テクストの〈データ〉が欠落している作品が多い。そのため、書かれている状況や句意を〈理解する〉のではなく、読み手が雰囲気を〈嗅ぎとる〉ことで句の鑑賞が成立する。
上掲句では、どういう状況で「それは私の鼻の穴」だと言っているのか、というデータがない。読み手は想像力でそこを補うしかない。したがって、なぜ「すみません」と呼びかけているのか・謝っているのかも分からない。結果、句意は一読明快でない。

しかし、それにもかかわらず、わたしはたしかに或る雰囲気をこの句から感じとることができた。「鼻の穴」とは、言ってみれば恥ずかしいところ。つまり恥部である。そのため、「すみません」という言葉にはおのずと〈照れ〉や〈自嘲〉のニュアンスが嗅ぎ取られ、また道化めいた〈おかしみ〉と同時に〈ペーソス〉も嗅ぎ取られた。
句で描かれている具体的状況は分からなくても読み手に雰囲気を手渡すことはできるのだ。別言すれば、具体的状況が分からないからこそ雰囲気だけが読み手の感覚に沁みこんでくる。それが徳永政二の川柳の本領だ。

たとえば以下の句も、おなじように政二さんの本領が発揮されている。

 何も書いていないところは水ですね  (『カーブ』)
 よくわかりました静かに閉める窓  (同上)
 
かりに、これまでの句に具体的状況を補完してみると印象はどのように変わるだろうか。
 
 すみません(赤子のあなたがいま触っている)それは私の鼻の穴
 何も書いていないところは(水族館の水槽の)水ですね
 よくわかりました(という言葉を最後に議論を終えて)静かに閉める窓

たしかに句の語り手がおかれた状況は明瞭になった。句意も明快になった。その反面、読み手からみて句が客体・対象物と化してしまい、読み手の感覚へ沁みこんでくる働きは下がってしまったのではないだろうか。もちろん、先ほど引用した雀郎・竹二・薫風の句のように、具体的状況(データ)を明瞭にした方が輝きが増すケースも少なくないのだが、わたしがデータを補完した政二さんの3句のばあい、謎があることによって逆に句の魅力が増幅されたことが分かる。政二さんは〈謎〉の効用を熟知した川柳人なのだろう。そういえば恋愛上手なひとは、いい塩梅に〈謎〉を保っているものだ。

最後に、「バックストローク」33号(2011年1月25日発行)に石部明さんが次のような評を書いていたので引用してみたい。
  入口は影を伸ばして待っている  徳永政二
 「入口で」ではなく、「入口は」と意志を持たない「入口」に意志を持たせて自らの影をかさねる。あるいはずっと昔から、生れた時から徳永政二は「入口」だったかも知れぬと思わせる不思議な句。「わからなくなってつまんでしまいます」「ほろほろがこわい机によりかかる」など、ひらがな多用の徳永作品は、意味をそぎ落とし、省略を重ねてなお立っているしなやかな強さが特徴だが、対象を捉える視線のあたたかさが、個のひそやかな息遣いとして読み手にとどく。

posted by 飯島章友 at 08:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする