2016年08月21日

Fw:舌 を読む。

徳長怜さんから「舌」が転送されてきた。
「舌」「パピコ」「ペティナイフ」「毛にリンス」「蜂に刺される」「三角折り」になにやら触感の残る句が並ぶ。

整理券ですよと舌をわたされる
事務的にわたされた整理券が「舌」だなんて。じとっと分厚い感触にぞわりとする。誰の舌なのかととりあえず自分の舌の安全を確かめてみる。さて入場のとき「1番から20番までの整理券をお持ちの方〜」のような感じで「舌をお持ちの方〜」と呼ばれるのだろうか。ひとりだけだろうか。何人くらいが前に進むのだろう。バッグやポケットから舌を取り出しながら。係員は無造作に舌を受け取るのだろう。舌と引き換えに案内された席ははたして。

腰骨はパピコにくっついているし
腰骨は作者のものとして読んだ。パピコのひんやりしてやわらかな感覚。パピコはふたつセットになっているけれど、そういえばかたちは女性の体型みたいで、頭と腰のあたりでくっついている。そのパピコに、3人目のパピコみたいに腰骨がくっついているのである。
腰骨にパピコがくっついているのではなくて、腰骨がパピコにくっついている。パピコバイクのサイドカーにわたし。パピコ主体なのである。ひとと異物がくっつく話といえば、楳図かずおの人面譚や、肺の中に睡蓮の蕾を宿した『日々の泡』のクロエなど浮かぶけれど、パピコなのである。腰がびしょびしょしそうで笑ってしまう。「くっついているし」というため息交じりの言い捨てもおもしろい。

「舌」「くっついている」からは「切り離す」という行為が連想されるもので、続く2句には「ナイフ」が登場する。

わナたイしフとガ ふるふる してるとこ
1音飛ばしに「わたしと」と「ナイフガ」を並べて、ふるふる具合をあらわす。「してるとこ」という音も軽くて、ふるふるである。

充電がきれてもしゃべり止めぬSiri
Siriはアップル社の音声アシスタント機能である。Siriを起動してiPhoneに向かって話しかける。「牛舌のおいしい店はどこ?」と聞いたら、Siriが答えてくれるのである。カレンダーに予定を追加したり、友人にメッセージを送ったりもする。Siriに「家族はいるの」ときいたら「わたしとあなただけです」と答えるらしい。ちょっとこわくておもしろい。
さて句中のSiriはついに意思を宿したらしく、充電がきれてもしゃべり止めぬ。アシモフのロボットものを連想する。すでにどこかで起こっているような気がするのが現代の気分なんだろう。

Ladies and gentlemen , 正しい蜂の刺されかた
「お集まりのみなさん」何かと思えば、周知されるのは「正しい蜂の刺されかた」なのである。正しく蜂に刺されるための集い。ばかばかしくてすてきである。

長音の使い終わりを三角折り
「使い終わりを三角折り」といえばトイレットペーパーである。トイレの三角折りをみるとかすかに感情が動く。何なんだろう。みなで揃ってプチ作法というのが、かるーく胡散臭いのである。
ここでは、使い終わったのは長音だ。「使い終わる」までには時間がある。「長い」長音で終わる言葉って、考えてみたけれど、浮かぶのは、悲鳴(ぎゃぁぁぁぁぁ)だとか、親を呼ぶ声(ままぁぁぁぁぁ)くらいだ。そんな言葉をさっと三角折りでしまって、すましこむ。
三角折りをしたのは作者だと思う。長音を使ったのは誰なのだろう。作者であれば「使い終わり」とすることで、発した言葉との心的距離感がおもしろいし、他者の長音をするっと三角折りにしたというのなら、静かな毒があってこれもまたおもしろい。

「Ladies and gentlemen」「三角折り」も整理券をわたされるというシチュエーションや、「パピコ」と同じ日常とすぐ続いている言葉で、そこへ非日常の物語がおしこまれているのが魅力的だった。




posted by 江口ちかる at 20:17| Comment(4) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月31日

今月の作品・徳永政二「かんにんして」を読む

7月の「今月の作品」は、「川柳びわこ」誌の編集長をされている徳永政二さんの「かんにんして」。やわらかな口語体がむかしの「かばん」誌の作風にどこか通じる気がして、わたしが川柳をはじめた当初から大好きな川柳人のおひとりだ。「バックストローク」誌では、短期間ながら誌面でごいっしょしていた。
それでは作品を見ていこう。


 お見せする両手の中にある顔を

「男の顔は履歴書」といったのは評論家の大宅壮一。昨年亡くなった安藤昇が主演の映画にもそんなタイトルの作品があった。
徳永政二さんには、「わかりますわかりますとも手を見れば(『大阪の泡』あざみエージェント)という句がある。この句から想像できる解釈のひとつは手相。手相は日々変わっている。生活の変化は手相という情報に反映されるのだ。また過去の人生も手相に痕跡として残るという。そうなると、手の相とはまさに人間の〈履歴書〉といえるだろう。

上記の話にしたがえば、〈顔≒履歴書≒手相〉というニアリーイコールの関係性が成り立ちそうだ。そこから上掲句は〈手相〉、すなわち「顔」を誰かに示すことによって〈履歴書〉を見せているのだろう、と読んでみた。「お見せする」というやわらかな、どこか恥じらいを含んだ謙虚な口語体が、〈履歴書〉を示さなければならない少々緊張するシーンを、まるで童話のような質感に仕上げている。


 笑わせてくれるじゃないか洗面器

初読では、(ここは盥じゃなく洗面器だよね)などと、ただただ「洗面器」のオモシロさに惹かれた。ちょうど「はっきりしない人ね茄子投げるわよ(川上弘美著『機嫌のいい犬』集英社)という句の「茄子」とおなじおかしみを「洗面器」に感じたのだ。

ところが、何度か読み返しているうちに印象が変わってきた。「笑わせてくれるじゃないか」という表現にペーソスを感じるようになってきたのだ。
洗面器に水を入れる。水の面はかすかに揺らめいている。先に「男の顔は履歴書」という言葉を引いたが、揺らめきに映るじぶんの顔を見た一刹那、これまでの境涯がふっと湧きあがった。そして自嘲するかのように、同時にじぶんを慰めるかのように「笑わせてくれるじゃないか」という言葉がこぼれた。
もちろん、水の面にゆがんで映る顔におもわず笑ってしまった、という軽みの句である可能性もある。けれども、「笑わせてくれるじゃないか」の「くれるじゃないか」には人生が滲んでいる気がする。

な〜んて川柳カードの同人らしからぬ読みをしてみました。


 まんじゅうはうまいあなたはやわらかい

政二さんの川柳には、先の「わかりますわかりますとも手を見れば」のようなリフレインを駆使した句がけっこうある。と同時に、上掲句のような重文構造の作品も散見される。たとえば「空を押すように金魚の浮くように」「光らせてみよう くよくよしてみよう(共に『カーブ』あざみエージェント)という句がある。

さて、上掲のまんじゅうは〜の句のような重文構造は、「まんじゅうはうまい」⇔「あなたはやわらかい」というふうに、互いが他のパートへ影響を及ぼし、被さっていく働きがある。すなわち、「まんじゅうはうまい」という単体の好もしさに「あなたはやわらかい」という別種の好もしさが重なり、「まんじゅうはうまい」というパートだけでは成立しえなかった奥行きを生みだしている。おなじことは「あなたはやわらかい」というパートにもいえる。

と、これで上掲句の読みを終えてもいいのだけど、上記の分析をすこし発展・飛躍させた考えも書いておきたい。それは、このような重文構造では、「まんじゅう」と「あなた」が交換可能な関係性にあるのではないかということだ。おなじように「うまい」と「やわらかい」も交換可能のように思える。「まんじゅうはやわらかい」「あなたはうまい」というふうに。
まあ、「あなたはうまい」というのはちょっと猟奇的な感じもするのだけど、〈あなたはまんじゅうのうまさにも似た多幸感を私に与えてくれます〉と捉えれば、なかなかオシャレな物言いになるのではないか(んなこたーない!)。
重文にはこのように、対等のパートが結合した構造ならではの働きがある気がする。


 すみませんそれは私の鼻の穴

川柳人には、句が〈明快〉であることを大切にする書き手も多い。わたしの好きな川柳作品でみてみよう。たとえば前田雀郎の「音もなく花火のあがる他所の町」、大山竹二の「かぶと虫死んだ軽さになっている」、橘高薫風の「人の世や 嗚呼にはじまる広辞苑」という句は、書かれている状況も句意も明快であり、かつ通俗性を回避する技量もひしひしと感じる。

それにたいして徳永政二さんの川柳は、テクストの〈データ〉が欠落している作品が多い。そのため、書かれている状況や句意を〈理解する〉のではなく、読み手が雰囲気を〈嗅ぎとる〉ことで句の鑑賞が成立する。
上掲句では、どういう状況で「それは私の鼻の穴」だと言っているのか、というデータがない。読み手は想像力でそこを補うしかない。したがって、なぜ「すみません」と呼びかけているのか・謝っているのかも分からない。結果、句意は一読明快でない。

しかし、それにもかかわらず、わたしはたしかに或る雰囲気をこの句から感じとることができた。「鼻の穴」とは、言ってみれば恥ずかしいところ。つまり恥部である。そのため、「すみません」という言葉にはおのずと〈照れ〉や〈自嘲〉のニュアンスが嗅ぎ取られ、また道化めいた〈おかしみ〉と同時に〈ペーソス〉も嗅ぎ取られた。
句で描かれている具体的状況は分からなくても読み手に雰囲気を手渡すことはできるのだ。別言すれば、具体的状況が分からないからこそ雰囲気だけが読み手の感覚に沁みこんでくる。それが徳永政二の川柳の本領だ。

たとえば以下の句も、おなじように政二さんの本領が発揮されている。

 何も書いていないところは水ですね  (『カーブ』)
 よくわかりました静かに閉める窓  (同上)
 
かりに、これまでの句に具体的状況を補完してみると印象はどのように変わるだろうか。
 
 すみません(赤子のあなたがいま触っている)それは私の鼻の穴
 何も書いていないところは(水族館の水槽の)水ですね
 よくわかりました(という言葉を最後に議論を終えて)静かに閉める窓

たしかに句の語り手がおかれた状況は明瞭になった。句意も明快になった。その反面、読み手からみて句が客体・対象物と化してしまい、読み手の感覚へ沁みこんでくる働きは下がってしまったのではないだろうか。もちろん、先ほど引用した雀郎・竹二・薫風の句のように、具体的状況(データ)を明瞭にした方が輝きが増すケースも少なくないのだが、わたしがデータを補完した政二さんの3句のばあい、謎があることによって逆に句の魅力が増幅されたことが分かる。政二さんは〈謎〉の効用を熟知した川柳人なのだろう。そういえば恋愛上手なひとは、いい塩梅に〈謎〉を保っているものだ。

最後に、「バックストローク」33号(2011年1月25日発行)に石部明さんが次のような評を書いていたので引用してみたい。
  入口は影を伸ばして待っている  徳永政二
 「入口で」ではなく、「入口は」と意志を持たない「入口」に意志を持たせて自らの影をかさねる。あるいはずっと昔から、生れた時から徳永政二は「入口」だったかも知れぬと思わせる不思議な句。「わからなくなってつまんでしまいます」「ほろほろがこわい机によりかかる」など、ひらがな多用の徳永作品は、意味をそぎ落とし、省略を重ねてなお立っているしなやかな強さが特徴だが、対象を捉える視線のあたたかさが、個のひそやかな息遣いとして読み手にとどく。

posted by 飯島章友 at 08:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月01日

ゲスト作品「くうねるほろぶ」をよむ

今月の作品は鳥栖なおこさんの「くうねるほろぶ」です。

くう、ねる、くう、ねる、くう…
それ自体があたかも輪廻の似姿であるかのように繰り返される日常の生と、その中に潜む「ほろぶ」。

あなかなし砂肝を噛み切る力

低反発枕に埋まる 種となる

例えば、砂肝を噛み切る瞬間。
例えば、低反発枕に埋まる瞬間。
生活の中の、些細で、それでいていつまでも痛むささくれのような感覚は、その具象としての顕現だろう。感覚はだんだんと肥大し、やがては「さよーなら」の呪文と共にすべてを呑み込み終わらせてしまう。

いっせーのせーでさよーならっていお

しかしその一方で、それに対抗しうる「祈り」もまた、「ほろぶ」と同様に日常のそこかしこに偏在している。

ルミエール反応で読む置き手紙

ルミエール反応によって誰かが伝えようとしたメッセージは、自分がかつてそこにー血の通った生き物としてー存在したこと、その一つに集約される。
そしてその置き手紙は「読まれる」ことで確かに届けられ、いつかの未来で透明ペディキュアの「祈り」へと転生していく。

透明のペディキュアの如き祈りかな

透明のペディキュアを、爪先にそっと施す。それはささやかで小さく、繁多な日常の中に誰にも気付かれないまま埋没してしまう行為だ。
けれど爪先の持ち主だけは、その艶やかな薄い膜の存在を、その無垢な美しさを知っている。おそらく「祈り」とは、本来この透明のペディキュアのようなものなのだ。日常の些細な瞬間にこそ宿るこのようないくつもの「祈り」によって、何度滅びたとしても、私たちは再び生を始めることができる。

くうねるほろぶ、いのる。

posted by 飯島章友 at 01:22| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月09日

えんえんと藤のうまれるブリキ缶 (2)

えんえんと藤のうまれるブリキ缶      八上桐子

八上さんが書いてくださった『この春の』のなかで、この句が一等好きです。

川合さんが「えんえんと」のかな遣いに言及されていました。
「えんえんと」は延々であり、うまれでる声であり、永遠という音を連想させる、
なるほど、と思いました。
それと「うまれる」。
生まれる、だけでなく、わたしは「倦む」という言葉も連想してしまいます。
和歌の、掛詞のような、仕掛けだと思います。

ですが、わたしはなによりこの句の映像に参りました。

以前、どなたの作品か失念しましたが、
鉄工所と桜をとりあわせた俳句を読んで、きれいだな、と思ったことがありました。
藤とブリキ缶もとてもきれいです。
鉄工所と桜はどっしりしていますが、藤とブリキ缶はシュール。

大きさが釣り合っていないところがおもしろい。
日本画の、銀箔と藤色。
しかも動画です。
藤はうまれつづける。
束芋の映像作品みたいだ。

うつくしい藤をみあげるとき、ひょっとしたら、たどっていけば、ブリキ缶に行きつくかもしれない。
そんなふうにこれからは思えるかもしれない。

また、藤をうみ続けるブリキ缶がどこかにあると想像してみる。
それは案外わたしのなかかも。










posted by 江口ちかる at 19:36| Comment(2) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月01日

えんえんと藤のうまれるブリキ缶  八上桐子

 今月の作品「この春の」から。
 連作八句のうち、あえて一句に拘泥して読む、と言うことをしてみたい。それが「深い読み」になるかどうかは定かではないのだが。

 まず、「えんえん」と来る。「延々」ではない。平仮名で表記されることによって、ここで「たたごとでない何かが起きている」ことをまず理解させられる。「えんえん」は意味内容からも、意味表現からも、容易く「永遠」を想起させるし、何か泣き声を連想させる。(笹井宏之の「えーえんとくちから」を並べても面白いだろう)。
 その後に「と」である。ここで「と」が置かれることにより、「えんえん」の異化作用、「えんえん」が動詞のように動き出す踏み切り台になっている。
 「藤のうまれる」に至って、読者は慄然とする。「藤」とは「うまれる」ものだったのだろうか、という、指摘されれば確かにその通りであるが、誰も注目したことのない「見つけ」である。
 何故ここで「藤」なのか。われわれは、たとえば人名などで「藤」に接している。「藤川」「藤村」「川藤」など。「藤」はごく身近にあるように思われる。しかし実物の、植物としての「藤」をどれだけの人が切実なものとして、己との関係性を考えているのだろうか。言語界上の「言葉」と実生活上の「もの」が乖離した存在として、「藤」は最も相応しい素材であろう。「藤」は「不二」であり、「富士」であるかもしれない。
(余談ながら、僕が「藤」と聞いて真っ先に連想するのが「藤子不二雄」である。矛盾を含み、のちにその矛盾がさらなる矛盾を引き起こした名前)。
 しかも「藤の」である。「の」を使うところが計算されている。「が」ではない。「の」の一歩引いた、観察者の視点に立つことによって、藤がえんえんとうまれる、増殖して行く不気味さが強調されている。
 不気味と言えば、「うまれる」は不気味である。「生まれる」でも「産まれる」でもこの感覚は出ない。先ほど、藤がうまれるという点を誰も見つけられなかった、と書いたが、増殖する藤を描く時に、「うまれる」という動物的な動詞を(しかもひらがなで)持って来ることにより、増殖の無意識的な能動性、不気味さが見事に表現されている。先ほど書いたように「えんえん」を泣き声とすれば、照応して、産声を思わせるのかもしれない。
 そして最後に「ブリキ缶」である。ここで何故「ブリキ缶」なのか。おそらく多くの人が戸惑うに違いない。日常言語を使っている限り、ここでブリキ缶は出て来ないだろうからである。ただ、「ブリキ缶」が「藤」と同じく、「言葉」と「物」が乖離してしまっている存在であることは指摘しても良いだろう。僕たちはどこまで「ブリキ缶」と近しく生活しているか。その隔絶を突く物として、「藤」と「ブリキ缶」は対応している言葉である。
(また余談だが、「ぶりき」という言葉の響きが、日本語的/非日本語的の境目に立っている。「ぶ」の肉厚さ、「り」の丸み、「き」の硬質な肌ざわり。さらに余談になるが、『ブリキの太鼓』の受容のされ方には「ブリキ」という言葉の特質が大いに関連していると思う)。

 以上で句は終わる。だが読み手の中でこの句は終わらない。なぜ「えんえんと」「ブリキ缶」なのか。なぜ「藤」が「うまれる」のか。一句通して読んだ時の不可解さは、エンドレスに続く。前述のように、言葉をパーツ分けして読んで見ても、である。いや、パーツごとに読んだからこそ、この句の全体像がよりキメラのような貌を見せているのかもしれない。
 だが、その「わからなさ」「不可解さ」こそが、この句の魅力だ。この世界には「わかる」ものが多すぎる。(つまり、僕らには何一つわかることなどないということである)。
 その世界にあって、藤のうまれ続けるこのブリキ缶は、確かな実在性をもって現前する。ここには、ひとつの永久運動がある。希望を込めて言うが、川柳は、この句は、無限、なのだった。
posted by 川合大祐 at 05:46| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする