2016年05月01日

ゲスト作品「くうねるほろぶ」をよむ

今月の作品は鳥栖なおこさんの「くうねるほろぶ」です。

くう、ねる、くう、ねる、くう…
それ自体があたかも輪廻の似姿であるかのように繰り返される日常の生と、その中に潜む「ほろぶ」。

あなかなし砂肝を噛み切る力

低反発枕に埋まる 種となる

例えば、砂肝を噛み切る瞬間。
例えば、低反発枕に埋まる瞬間。
生活の中の、些細で、それでいていつまでも痛むささくれのような感覚は、その具象としての顕現だろう。感覚はだんだんと肥大し、やがては「さよーなら」の呪文と共にすべてを呑み込み終わらせてしまう。

いっせーのせーでさよーならっていお

しかしその一方で、それに対抗しうる「祈り」もまた、「ほろぶ」と同様に日常のそこかしこに偏在している。

ルミエール反応で読む置き手紙

ルミエール反応によって誰かが伝えようとしたメッセージは、自分がかつてそこにー血の通った生き物としてー存在したこと、その一つに集約される。
そしてその置き手紙は「読まれる」ことで確かに届けられ、いつかの未来で透明ペディキュアの「祈り」へと転生していく。

透明のペディキュアの如き祈りかな

透明のペディキュアを、爪先にそっと施す。それはささやかで小さく、繁多な日常の中に誰にも気付かれないまま埋没してしまう行為だ。
けれど爪先の持ち主だけは、その艶やかな薄い膜の存在を、その無垢な美しさを知っている。おそらく「祈り」とは、本来この透明のペディキュアのようなものなのだ。日常の些細な瞬間にこそ宿るこのようないくつもの「祈り」によって、何度滅びたとしても、私たちは再び生を始めることができる。

くうねるほろぶ、いのる。

posted by 飯島章友 at 01:22| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月09日

えんえんと藤のうまれるブリキ缶 (2)

えんえんと藤のうまれるブリキ缶      八上桐子

八上さんが書いてくださった『この春の』のなかで、この句が一等好きです。

川合さんが「えんえんと」のかな遣いに言及されていました。
「えんえんと」は延々であり、うまれでる声であり、永遠という音を連想させる、
なるほど、と思いました。
それと「うまれる」。
生まれる、だけでなく、わたしは「倦む」という言葉も連想してしまいます。
和歌の、掛詞のような、仕掛けだと思います。

ですが、わたしはなによりこの句の映像に参りました。

以前、どなたの作品か失念しましたが、
鉄工所と桜をとりあわせた俳句を読んで、きれいだな、と思ったことがありました。
藤とブリキ缶もとてもきれいです。
鉄工所と桜はどっしりしていますが、藤とブリキ缶はシュール。

大きさが釣り合っていないところがおもしろい。
日本画の、銀箔と藤色。
しかも動画です。
藤はうまれつづける。
束芋の映像作品みたいだ。

うつくしい藤をみあげるとき、ひょっとしたら、たどっていけば、ブリキ缶に行きつくかもしれない。
そんなふうにこれからは思えるかもしれない。

また、藤をうみ続けるブリキ缶がどこかにあると想像してみる。
それは案外わたしのなかかも。










posted by 江口ちかる at 19:36| Comment(2) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月01日

えんえんと藤のうまれるブリキ缶  八上桐子

 今月の作品「この春の」から。
 連作八句のうち、あえて一句に拘泥して読む、と言うことをしてみたい。それが「深い読み」になるかどうかは定かではないのだが。

 まず、「えんえん」と来る。「延々」ではない。平仮名で表記されることによって、ここで「たたごとでない何かが起きている」ことをまず理解させられる。「えんえん」は意味内容からも、意味表現からも、容易く「永遠」を想起させるし、何か泣き声を連想させる。(笹井宏之の「えーえんとくちから」を並べても面白いだろう)。
 その後に「と」である。ここで「と」が置かれることにより、「えんえん」の異化作用、「えんえん」が動詞のように動き出す踏み切り台になっている。
 「藤のうまれる」に至って、読者は慄然とする。「藤」とは「うまれる」ものだったのだろうか、という、指摘されれば確かにその通りであるが、誰も注目したことのない「見つけ」である。
 何故ここで「藤」なのか。われわれは、たとえば人名などで「藤」に接している。「藤川」「藤村」「川藤」など。「藤」はごく身近にあるように思われる。しかし実物の、植物としての「藤」をどれだけの人が切実なものとして、己との関係性を考えているのだろうか。言語界上の「言葉」と実生活上の「もの」が乖離した存在として、「藤」は最も相応しい素材であろう。「藤」は「不二」であり、「富士」であるかもしれない。
(余談ながら、僕が「藤」と聞いて真っ先に連想するのが「藤子不二雄」である。矛盾を含み、のちにその矛盾がさらなる矛盾を引き起こした名前)。
 しかも「藤の」である。「の」を使うところが計算されている。「が」ではない。「の」の一歩引いた、観察者の視点に立つことによって、藤がえんえんとうまれる、増殖して行く不気味さが強調されている。
 不気味と言えば、「うまれる」は不気味である。「生まれる」でも「産まれる」でもこの感覚は出ない。先ほど、藤がうまれるという点を誰も見つけられなかった、と書いたが、増殖する藤を描く時に、「うまれる」という動物的な動詞を(しかもひらがなで)持って来ることにより、増殖の無意識的な能動性、不気味さが見事に表現されている。先ほど書いたように「えんえん」を泣き声とすれば、照応して、産声を思わせるのかもしれない。
 そして最後に「ブリキ缶」である。ここで何故「ブリキ缶」なのか。おそらく多くの人が戸惑うに違いない。日常言語を使っている限り、ここでブリキ缶は出て来ないだろうからである。ただ、「ブリキ缶」が「藤」と同じく、「言葉」と「物」が乖離してしまっている存在であることは指摘しても良いだろう。僕たちはどこまで「ブリキ缶」と近しく生活しているか。その隔絶を突く物として、「藤」と「ブリキ缶」は対応している言葉である。
(また余談だが、「ぶりき」という言葉の響きが、日本語的/非日本語的の境目に立っている。「ぶ」の肉厚さ、「り」の丸み、「き」の硬質な肌ざわり。さらに余談になるが、『ブリキの太鼓』の受容のされ方には「ブリキ」という言葉の特質が大いに関連していると思う)。

 以上で句は終わる。だが読み手の中でこの句は終わらない。なぜ「えんえんと」「ブリキ缶」なのか。なぜ「藤」が「うまれる」のか。一句通して読んだ時の不可解さは、エンドレスに続く。前述のように、言葉をパーツ分けして読んで見ても、である。いや、パーツごとに読んだからこそ、この句の全体像がよりキメラのような貌を見せているのかもしれない。
 だが、その「わからなさ」「不可解さ」こそが、この句の魅力だ。この世界には「わかる」ものが多すぎる。(つまり、僕らには何一つわかることなどないということである)。
 その世界にあって、藤のうまれ続けるこのブリキ缶は、確かな実在性をもって現前する。ここには、ひとつの永久運動がある。希望を込めて言うが、川柳は、この句は、無限、なのだった。
posted by 川合大祐 at 05:46| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

【ゲスト作品を読む】タイムマシンは段ボール製

弥生三月のゲスト作品は、奇妙な問題がつづられた、いなだ豆乃助さんの『問題山積み』。


幽霊の手相診るまで帰れない
どこまで出かけているのだろう。冥途行きの切符を買ってのお出かけなのだろうか。
それにしても幽霊に手相があるって想像したことがなかった。みるのは過去か未来か。未来だったらおもしろい。幽霊にもある未来。「帰れない」と大真面目のおかしさ。

パイ投げの身長制限に引っ掛かる
「身長制限」といえばおもい浮かぶのはCAとテーマパークのアトラクション。前者は機内の荷物収納棚に届くかどうかという基準らしく、後者は安全のため。たとえばディズニーシーのレイジングスピリッツだと117センチ以上OK、195以上NG、補助なしですわれること、なんて書いてある。
でもパイ投げの身長制限はいったいどんな理由からだろう。「161センチ以上の人はパイ投げできません」とか?ばかばかしくておもしろい。そして「161センチの人しかパイ投げできません」というのはもっとおもしろい。パイ投げがしたくて背伸びをしたり、膝を曲げてみたり。週末こそパイ投げをと意気込んでいたのに、「EAT ME」と書かれたお菓子を食べたアリスまでとはいかなくても、うっかり一晩で成長してしまい身長制限を超えて歯噛みするひともいるかもしれない。パイ投げをするのもたいへんなのだ。

Amazonの箱が終の棲家です
Amazonの箱には清潔感がある。こざっぱりとしている。ロゴの品のいいアピールがさわやかである。「a」から「z」にのびる矢印は「なんでもそろっていますよ」というメッセージで、その矢印はほほえんだ口元のようにカーブしている。
だがAmazonの箱は開けられる定め。それが終の棲家だということは、届け物は開封されなかったという意味なんだろうか。「Amazonの箱が終の棲家です」という言い切りが大げさでおもしろい。
Amazonの箱は、遠い次元の発注者のもとへ永遠の旅を続ける、段ボール製のタイムマシンなのかもしれない。

靴べらをコレクションする有閑マダム
「有閑マダム」って死語かと思っていた。すくなくともわたしの周囲では聞かない。「有閑マダム」という言葉を自分に向ければ自虐。ひとにむければからかい。川柳のなかに置くと、仕立てようとする意識が出すぎるかもしれない。
でも「靴べらをコレクション」はおもしろい。靴べらなんて、然ほど差異はないと思うのはわたしだけで、世の中には多種多様な靴べらがあるのかもしれない。
パイソンのヒールにはこれ、ガラスの靴にはこれ、というふうに決まっているのだろうか。それとも曜日毎?
使われることのない靴べらの群れかもしれない。コレクターは靴を履かない。靴べらを蒐集する素足の女性。素敵である。

一読してナンセンスな世界のようで、いや、だからこそか?
さまざまな物語が空想できる句がいくつもあり、たのしく読んだ。




posted by 江口ちかる at 01:02| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月26日

財産のひとつに優しそうな顔    竹井紫乙

竹井紫乙「風呂敷は紫」より。
この句のキモは「優しそうな顔」の「そうな」の部分だと思う。けっして「優しい顔」ではないのだ。
「優しい顔」が内容をともなった〈実質〉を表しているのにたいし、「優しそうな顔」はあくまでもそのように見えるという〈形式〉を表している。財産のひとつとして持っておくのなら「優しい顔」のほうがいいと思うのに、なぜ「優しそうな顔」なのだろう。

「風呂敷は紫」には、

 誓いますかなりいびつな良心に
 絵空事の限界デイリー六法


という句もある。
一句目はたぶん、〈良心にしたがって真実を述べ云々〉という法廷での宣誓がモチーフになっているのだろう。人間の良心が「いびつ」で信用できないのは今さらいうまでもない。だからこそ偽証罪という刑罰がちゃんと用意されている。それだったら最初っから良心に誓ったりせず、じぶんが偽証したばあいはこれこれの懲役に処されることに同意します、と言ったほうが筋がとおる気もするのだけど、それはひとまず置いといて、ここで注目すべきは法廷でも〈形式〉がとても大切にされているということだ。
それは二句目もおなじかと思う。この句の解釈の一つとして、「デイリー六法とは?」「絵空事の限界である」という問答に捉えることができる。法律が庶民の善悪の基準と合致するかといえば、必ずしもそうではない。また法律的な量刑が罪の深さに釣り合うかといえば、必ずしもそうではない。さらに法律が社会で起こりうる罪をすべて網羅できているかといえば、必ずしもそうではない。そう考えると、法律とは〈形式〉的な基準といえる。〈形式〉的であればこそ、法律はつねに「絵空事」となるリスクにさらされている。

こうして見てくると当連作では、世界の〈形式〉を読み手に突きつける力が働いているように思われる。

 財産のひとつに優しそうな顔

財産のひとつを「優しい顔」ではなく「優しそうな顔」とすることで、〈形式〉と〈実質〉のズレを読み手に突きつけるのが掲出句だ。「優しそうな」といういっけん何でもなさそうな措辞によって、一元的と思われていた世界がゆらゆらと揺すられ、世界の多元的構造があらわになるのである。
そして、そのような〈形式〉と〈実質〉の関係性は、「風呂敷は紫」というタイトルへもつながっていくかも知れない。効率よく円滑に社会を運営していくためには、〈形式〉という「風呂敷」によって〈実質〉を包み込むことが必要になってくる。ことに紫の風呂敷は慶弔いろんな場面で使うことができるのでとても〈形式〉的なのだ。そんな〈紫の風呂敷〉に包まれた世界を句から手渡されたとき、読み手はどんな感慨を抱くのだろう。

と、こんな風に読んでみては風呂敷を広げすぎかしら。


posted by 飯島章友 at 06:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする