2016年02月26日

財産のひとつに優しそうな顔    竹井紫乙

竹井紫乙「風呂敷は紫」より。
この句のキモは「優しそうな顔」の「そうな」の部分だと思う。けっして「優しい顔」ではないのだ。
「優しい顔」が内容をともなった〈実質〉を表しているのにたいし、「優しそうな顔」はあくまでもそのように見えるという〈形式〉を表している。財産のひとつとして持っておくのなら「優しい顔」のほうがいいと思うのに、なぜ「優しそうな顔」なのだろう。

「風呂敷は紫」には、

 誓いますかなりいびつな良心に
 絵空事の限界デイリー六法


という句もある。
一句目はたぶん、〈良心にしたがって真実を述べ云々〉という法廷での宣誓がモチーフになっているのだろう。人間の良心が「いびつ」で信用できないのは今さらいうまでもない。だからこそ偽証罪という刑罰がちゃんと用意されている。それだったら最初っから良心に誓ったりせず、じぶんが偽証したばあいはこれこれの懲役に処されることに同意します、と言ったほうが筋がとおる気もするのだけど、それはひとまず置いといて、ここで注目すべきは法廷でも〈形式〉がとても大切にされているということだ。
それは二句目もおなじかと思う。この句の解釈の一つとして、「デイリー六法とは?」「絵空事の限界である」という問答に捉えることができる。法律が庶民の善悪の基準と合致するかといえば、必ずしもそうではない。また法律的な量刑が罪の深さに釣り合うかといえば、必ずしもそうではない。さらに法律が社会で起こりうる罪をすべて網羅できているかといえば、必ずしもそうではない。そう考えると、法律とは〈形式〉的な基準といえる。〈形式〉的であればこそ、法律はつねに「絵空事」となるリスクにさらされている。

こうして見てくると当連作では、世界の〈形式〉を読み手に突きつける力が働いているように思われる。

 財産のひとつに優しそうな顔

財産のひとつを「優しい顔」ではなく「優しそうな顔」とすることで、〈形式〉と〈実質〉のズレを読み手に突きつけるのが掲出句だ。「優しそうな」といういっけん何でもなさそうな措辞によって、一元的と思われていた世界がゆらゆらと揺すられ、世界の多元的構造があらわになるのである。
そして、そのような〈形式〉と〈実質〉の関係性は、「風呂敷は紫」というタイトルへもつながっていくかも知れない。効率よく円滑に社会を運営していくためには、〈形式〉という「風呂敷」によって〈実質〉を包み込むことが必要になってくる。ことに紫の風呂敷は慶弔いろんな場面で使うことができるのでとても〈形式〉的なのだ。そんな〈紫の風呂敷〉に包まれた世界を句から手渡されたとき、読み手はどんな感慨を抱くのだろう。

と、こんな風に読んでみては風呂敷を広げすぎかしら。


posted by 飯島章友 at 06:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月25日

【ゲスト作品を読む】竹井紫乙を読む柳本々々−あたしの位相−

今月のゲスト作品は竹井紫乙さんの「風呂敷は紫」でした。
今回のこの連作を読むにあたってわたしは〈自称詞(自分を呼ぶ言葉)〉に注目してみたいと思うんですね。〈自称詞〉のある句を抜き出してみましょう。

  自転車の君と私は人さらい  竹井紫乙

  あたしたちこんなに愛があったのね  〃

  すみっこでわたしはなにをされてるの  〃


「私」、「あたしたち」、「わたし」とみっつの異なるレベルの〈自称詞〉が出てきます。

これらはひとつひとつは異なる自称詞ですが、ちゃんとその句の言葉のネットワークで〈意味〉を抱えています。

たとえば一句目の「君と私は」は、「私」でなければいけません。ここは「あたし」でも「わたし」でもいけない。なぜ、か。

それは「君」と「私」が〈対等〉であるためです。おなじ「人さらい」として「君」と「私」は〈対等〉でなければならない。これがこの句の語り手の〈自称詞〉を通した意志です。

じゃあ、二句目の「あたしたち」はどうでしょう。これも「あたしたち」でなければならない。なぜなら、ここには〈愛の偏差〉があるからです。「あたし」というのは偏差のある言葉です。それは中性的ではない。だからこの〈愛〉には偏差がある。「あたしたち」といったとき実は〈君〉がどう思っているかはわからないのです。それがこの句の語り手の〈思い〉です。

三句目の「わたし」はどうでしょうか。これはもしこの句が「すみっこであたしはなにをされてるの」だったらどうなるかを考えてみるといいでしょう。もしそうするとおそらくジェンダーバイアスによって「なにをされてるの」の〈なに〉が固定されてしまう。それはセクシャルな方向に傾くかもしれない。でもここで「されてる」ことをもっと不可解に、言語化不能にするためには「わたし」という中性的な自称詞を使う必要がある。それが語り手の〈位置性〉です。

こんなふうにこの連作は、〈自称詞〉がたくさんつまっています。いわば、この連作は〈自称詞〉が詰まった「風呂敷」にもなっているのです。

そう、あたしは、思うのです。




posted by 柳本々々 at 00:43| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月02日

語呂のよいヘイトスピーチ蒙古斑  湊圭史

当スープレックス招待連作「硝子を踏んで」より。
この句、一見して社会吟っぽいですね。
そういう視点から解釈すれば、
「ヘイトスピーチは一部の人びとにとっては語呂がよい、甘言である。何としたことか。同じ蒙古斑を持つ仲間なのに」
という読み方ができますね。
でも、何か違うでしょ?
例えば、新聞の時事川柳に載るような句だったら、

 兄弟にヘイトスピーチ許すまじ

とか言うような句になると思うんですよ。(これ僕がいま適当に作った句です。モデルは何もありません。ご承知置きください)
これ、つまんないっすよね。
あ、僕もヘイトスピーチ大っ嫌いですよ。「厭」です。
でもその「厭」を川柳にする時、どう書くか、ですね。
厭なものを厭と書くのは、たやすい。
もちろんそれを突き詰めて行くなら、それはそれで凄まじく生命力を燃焼させる求道であると思うのですが。
だけど「兄弟に〜」とか詠んでいる人たちって、厭なものが厭でなくなったら、あっさりとヘイトスピーチ万歳の句を作ると思うんですね。
何故かというと、「悪」を仮定しているから。
「敵」と言ってもいいんだけれど、世の中にはワルイヒトたちがいる、それに引き比べて自分は正義である、そういう自己肯定感。
お気楽な自己肯定は、つまらない。
それって、自分が妄想した「悪」を使って自己肯定して、完結しちゃってるから、ほんとうの意味で「悪」に迫ることすらできないんですよ。
社会を風刺するはずが、自己肯定の道具になっちゃう。
自己肯定をさせてくれる悪なら、コロコロと取り換え可能です。
「ヘイトスピーチ万歳の句を作るだろう」って、そういうことです。
(ちなみに、仮想敵を作って、それを攻撃して悦に入るというのが、今こうやって書いている僕の論法です。うわあ)
で、やっと掲出句の話になりますが、この句は「悪」を「悪」として攻撃しない。
というか、そういうレベルにいないのです。
「へいとすぴーち」という言葉の響きがいかに語呂がいいか、それによって僕たちはいかにヘイトスピーチを受容してしまったか。
「蒙古斑」という五音字の言葉を最後に持って来ることによって、「語呂のよさ」のおそろしさを、句みずからが表現している。
表現。
表現なんですよ。
これは表現である、ということを意識したとき、それは「川柳」というものの首筋に当てられた、ひんやりした刃になるはずです。
自己肯定の、対極にありますね。
もちろん、自己否定でもありませんよ。
肯定/否定を超えた地点に立っているのです。
ある意味で、それは風刺とも、批評とも言えるかもしれない。
でもそんな言葉じゃ追い付かないほど、厳しい、鋭い行為です。
詩、って言葉は安易に使いたくないけれど、ただひとつ言えるのは、この句はほんとうの意味で「悪」に立ちむかっているということです。
社会を詠む、ってそういう行為だったはずなんです。
震えますね。
震えませんか? 僕たちのいる、この場所に。
posted by 川合大祐 at 08:51| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする