2017年01月05日

川合大祐『スロー・リバー』を読む 5

そこにあるもの ないもの あったもの 『スローリバー』の「   」

ながや宏高


川合大祐さんの川柳句集『スローリバー』は空白がとても気になる。1章の「猫のゆりかご」は特にそうだ。言葉で書かれていること以外の膨大な領域をつねに意識させられてしまい、なんというか途方もない気持ちになるのだ。

 の文字が消えないだろう消しゴムで

例えばこの句、一字下げによる空白がブラックホールのように思えてくる。どんな言葉も当てはめられるような気もするし、逆になにも当てはめられないような気もするのだ。正解は作者だけが知っているといったものではなく、空白そのものを表現しようとした結果このようになったのではないかと思うのだ。

目に見えぬものを書いたが文字がある
字余りになって言えない愛している


言葉にしてしまった途端、言葉にできたという心地よさと共に虚しさが去来するのは、言葉にしようがない膨大な領域を知っているからだ。伝えたいことは文字ではなく空白の中にあって、でもその空白をそのまま伝えることはできない、そんな虚しさがどうしようもなく迫ってくる。

図書館が燃え崩れゆく『失われ
」あるものだ過去の手前に未来とは「


こちらは断片的なメモ、切れ端のような言葉づかいだ。
見た目で文脈から切り離されてしまっているだけで、書かれてある文字だけで意味が完結している言葉など本当は存在しない。その言葉が書かれた背景、過去、未来にずっと連続しているなにかがあるのだ。〈 」 〉で始まり、〈 「 〉で終わることによって否応なく前後の文脈を意識させられて、前後に広がっていく空白部分に、意味を読み解こうとする気持ちごと吸い込まれていきそうになる。



【ゲスト・ながや宏高・プロフィール】 
歌人集団かばんの会 会員



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2016年12月27日

川合大祐『スロー・リバー』を読む 4

川合大祐『スロー・リバー』の数句を川柳に慣れない人が読む

佐藤弓生


川合大祐さんの作品はふだん短歌に接していて、以前「問いが自己の内部で反射しているせいか、歌いぶりはやや理屈っぽい」という評を書かせていただいたことがあります(「かばん新人特集号vol.6」2015年)。
最近作では、たとえば

  この意味の意味に意味などない意味を考えている塹壕の中
  (「かばん」2016年11月号)


と、旧約聖書の「伝道の書」みたいな哲学口調ながら、結句の〈塹壕〉はやはり閉鎖の感覚をあらわしていると思われます。いつ攻撃があるかわからないという危機感も。
ところが川柳句集『スロー・リバー』にはその感覚がありませんでした。

  中八がそんなに憎いかさあ殺せ

中学八年生まで留年したらそりゃあ疎まれるでしょう。じゃなくて。〈そんなに憎いか〉の八音のことか。
冒頭からメタ語り態勢です。自分語りではありません。
自分語りはよくもあしくも短歌の領分であるとあらためて認識しました。

  ふし/めな/らも/うき/ざま/れて/蟻の/はら

〈蟻〉の漢字一字がなければ「節目ならもう刻まれて蟻の腹」と読むのはむずかしいでしょう。そして、この句を家人に見せたら「蟻ってそんなたくさんには分かれてないでしょ?」と言いました。
でもこれはたぶん、分裂の感覚です。蟻を見つめているうちに知覚のなかでどんどん節が増えてゆくという。

  図書館が燃え崩れゆく『失われ
  こうやって宇宙をひとつ閉じてゆく」


こういう句を読んでも、というか見ても、閉鎖の感覚はありません。前者は出口が、後者は入り口があいています。
ただ、あいているということは、堅牢ではないということです。なにかのはずみに、ばらばらになりそうな危うさがひそんでいます。

以上は「T.猫のゆりかご」の章から。これ、カート・ヴォネガットのSF小説のタイトルでしたね。自明すぎて誰も言わないかもですが。
すると風刺の章ということでよいでしょうか。メタ語りだし。

次の章題は「U.まだ人間じゃない」。
フィリップ・K・ディックの同名小説は未読ですが、二次元や特撮のキャラクターがたくさん出てくるから「人間じゃない」のか。

  二億年後の夕焼けに立つのび太
  ウルトラの制限時間越えて滝


一般人が二億年後に存在し、超人は三分で退場という対比をしてみると、その逆よりもなぜかせつない。
このせつなさ、感傷は、短歌に近しいものかもしれません。

  永劫が7〜11時だったころ

いまセブンイレブンが営業時間を創業期の7〜11時に戻すと言い出したら公式アカウント炎上まちがいなしです。
夜11時がはるかに遠い「深夜」だったころ、作者も読者も若かったはずですが、24時間営業になって以来みんな大人になれたのかと考えはじめると……沈黙。

最後の章は「V.幼年期の終わり」。
アーサー・C・クラークの小説、旧訳の『〜終り』のラストが忘れがたく、新訳の『〜終わり』も読まずにいられませんでした。人類の知性とか上位概念とか、気が遠くなるSFで。
この章の句も気が遠くなることを扱っているでしょうか。

  牧場に両親だけが残される

変なことを言っているようには見えません。
見えませんが、〈両親だけ〉ということは、その子はどうしたのかということになります。死んだとも出ていったとも書かれていないため、異次元に消えてしまったような説明のつかなさ、不気味感があります。
わかりにくい「見せ消ち」手法なのかも。

  世界からサランラップが剝がせない

いやな感じです。日常よく体験するあのうっとうしさが、世界レベルというのは。
〈世界〉という概念語は詩歌では安易に使ってはいけないムードがありますが、ここぞと決めてきました。

文学としての川柳の専門家は「V」の章にもっとも深みを見いだすのではと、門外漢はかってに想像しています。「T」は理に落ちるところがあるし「U」はサブカルチャー寄りだし。
でも「V」の最後の一句は、その想像を覆すわけではありませんが、越えます。
この抒情的な句は、その下に見えない七七がつづいているから最後が読点なのです。きっと。

  だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、



【ゲスト・佐藤弓生(さとうゆみお)・プロフィール】
歌人。短歌誌「かばん」会員。
著作に歌集『薄い街』『モーヴ色のあめふる』などのほか、
掌編集『うたう百物語』、共著『怪談短歌入門』などがある。



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2016年12月16日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】

第5回 生きよという命令

小津夜景


ブローティガンの作品はつねに無類の《貧しさ》と共にありました。彼は奇妙に病んだ人々の世界を、かぐわしい想像力と才迸る言葉によってキラキラと嘉しました。彼の作品に出て来る人々は孤独です。そして孤独な人々はだれしも素敵なのでした。

東京の初夏にブローティガン 生きよ   川合大祐

はじめて目にした時、ああ、わたしが書きたかったのはこれだ!と思ったほど気に入った句です。

以前わたしは『スロー・リバー』初読の感想を次のように書いたことがあります。

《休日の朝の、ささやかな幸福。さらっと正気なことを書けば、川合大祐にとってのSFとは、他には何ももたず、ただ己の想像力だけを武器にして孤独を生き抜いた時代に固く握りしめていた、今も手に残る銃弾のようなものであるにちがいない、と思う。》(筆者ブログ「これがSFの花道だ」)

このように書いたときわたしの脳裏にあったのは実はブローティガンのことでした。想像力を武器にこの世界を生き抜くブローティガンのキュートな人生を見て、どれだけの読者が勇気づけられたことでしょう。それと同じ感覚を、わたしは『スロー・リバー』の佇まいに覚えたのです。

けれども、結局、ブローティガンはその生涯を最後まで生き抜くことはありませんでした。

この句の「生きよ」はブローティガンに対する、そして作者自身に対する(またこの句を読んだわたしに対する)命令です。

作者(かつわたしは)はブローティガンを埋葬します。ブローティガンに「生きよ」とくりかえし命令しながら。

そういうわけで作者は(かつわたしは)ブローティガンに「生きよ」と念じつつ埋葬するために、今日も一日を生き抜くのでした。

ところで、ブローティガンという人は「じょぴ」にとてもよく似ていると思いませんか? わたしは心の底からそう思います。

《かれは1976年5月にはじめて日本にやってきた。1ヶ月半あまりの滞在のあいだ、かれは日記をつけるように詩を書いていった(中略)この詩集の作品は、その6月30日までの滞在のあいだにブローティガンが日本で何をしたか、何を見たか、何を感じたかを記録している。こんなふうに詩を書いてゆけるというのは、かれがこんなふうに詩を書いてゆく以外にきりぬけるすべのなかった深い孤独の中にあったということでもある。》(ブローティガン『東京日記』訳者あとがき)



ゲスト・小津夜景・プロフィール
句集『フラワーズ・カンフー』。日記はこちら


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2016年12月15日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】

第4回 貧しさ、その愛と弔い

小津夜景


さて「生き抜く」ことに執着する川合大祐の川柳は、たえず死への言及をやめません。

今日もまたじょぴを墓場に埋めてやる  川合大祐

この句の人物は、とても変わった星に住んでいます。彼は埋葬人として「じょぴ」という、なにかよくわからないものを埋め続けているのでした。

毎日「じょぴ」は死にます。そのたびに彼は「じょぴ」を埋めてやります。このどことなく恥ずかしくみすぼらしい名を負う「じょぴ」を彼が埋めてやることに、いったい何の意味があるのでしょうか?

わかりません。

唯一わかるのは「じょぴ」が、ただ彼によって弔われる為に存在するということ。

その意味で彼と「じょぴ」とは相即不離の間柄なのでした。

「人でなしばかりの国で椅子になる」の「椅子」がそうであったように、この句の「じょぴ」も意味秩序の転倒や異化ではなく、ただ「じょぴ」という音が抱える《貧しさ》に胸を衝かれることがおそらく作者の狙いです。またそれは《貧しさ》と相即不離の自分自身を思い知ることでもありましょう。

《貧しさ》を手厚く埋葬する(それは愛の身ぶりでもあります)ために毎日を生き抜くこと──もしかすると「ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む」における珍妙な音もまた、この世界の《貧しさ》との愛憎この上ない格闘を含意していたのかもしれません。

(次回につづく)

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2016年12月14日

【生き抜く川柳 ⌘ 川合大祐『スロー・リバー』を読む 3】

第3回 わたしは椅子になりたい

小津夜景


川合大祐の川柳の美点は、破天荒な作品ばかりにもかかわらず、反権威の姿をしたナルシシズムや功名心が感じられないこと。その自意識への執着のなさは奇蹟的です。

人でなしばかりの国で椅子になる  川合大祐

この句においても、無機物萌えによってモノを人格化したり、あるいはその逆に無機物を介して個我を浄化したりといった《密かな自己愛を巡る物語》とは一線を画したところで「椅子=自分」の図式が提示されます。

「椅子=自分」は世界を異化し、それによって新たな意味秩序を編成するための装置ではありません。この辺りの雰囲気は『スロー・リバー』全体を通して眺めないと掴みにくいのですが、そもそも『スロー・リバー』は異化や秩序といったものに無関心なのです。ついでに言えば表現とか説得力とかいったものにも。

ならば作者は何に興味があるのか。

たぶんそれは「生き抜く」ことです。

人でなしばかりの国で椅子になる──決死の選択です。だって人は決して椅子になれないから。にもかかわらず、人でなしの国で生きのびるには人でなし以下のモノに成り下がるしかない時がある。自意識を少しでも抱えていたままでは、到底切り抜けられない局面というのがある。モノには成仏がない。救いがない。思考も感覚もない。しかし成仏も救済も思考も感覚も投げ捨てた圧倒的な《貧しさ》だけが、世界から自分を守る盾となる瞬間が──いや、これ以上繰り返すのはやめましょう。さしあたり今は。

最後に。この句を読んだ時まっさきに思い出したのは楳図かずお『漂流教室』の、主人公の少年が椅子になるシーンでした。生きることの不条理と恐怖を、とてつもない想像力で乗り越えるあの少年の。

(次回につづく)

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