2020年10月17日

千春『てとてと』読む 4

 千春の恋と生と死と
    愛と性と詩と そして猫と/くんじろう



 いつだったか、離婚して十数年経った頃に私、くんじろうの長女が尋ねてきた。彼女の瞳は虚で焦点が定まっていない。「少し寝かせて」とふらふらと二階に上がり猫二匹と一緒にぐっすり二時間ほども寝ただろうか。
 「ありがとう」と言ってそれ以外何も言わず帰っていった。そういうことが二、三度あってから、今度は次男から電話。「近頃、お姉ちゃんがお父さんところへ行ってないか?」と。「ああ、時々」と答えると「実は姉ちゃん病気やねん、心の病気や」・・・・・・言葉が出なかった。 
 その頃、川合大祐さんのブログをたまたま拝見した時、ご自分もパートナーの千春さんも「心の病気に向き合っている」云々の事を吐露されていて、思わず娘の病気について、メールをお送りしてしまった。以前からお付き合いはあったのだが、その事がきっかけで更に親しくお付き合いを続けて頂いて今に至っている。
 ある日、千春さんから「作品集を出すので表紙絵を描いて欲しい」とご連絡を頂いた。「喜んでお受けします」ということで「ついては作品集のゲラがあればお見せください」とお願いして、その時はじめて千春さんの作品に触れることになった。
 作品集が発刊され、しばらくして、「川柳スープレックス」に「てとてとの鑑賞文を」とのご依頼を受け、これも喜んでお受けした。お受けしたのであるが、本当に困ってしまった。
 「てとてと」の内容は、それこそ一筋縄の「読み」では鑑賞など出来ない。まず、端緒が見つからない。作品集を幾度か読み直し、更にその混迷は広がる。その混迷の末に、自分の娘の事から始めなければ進まないと思い立った。その事を触れずに千春さんの内面にはたどり着けないと思ったからに他ならない。
 この鑑賞がどういう結果になるか、私自身にも全く先が読めないが、私の感じるまま、思いのままに綴ってゆきたいと思う。以下の文章では敬称略とさせていただく。


  「恋」あるいは「失恋」

     初恋

  女の子なのに
  女の子を好きになった
  ああいい友達だな
  パスタの食器を置いた
  その瞬間
  これは友情ではない
  恋だ

  彼女は
  あの男子格好いいねと
  よく言っていた
  私は初恋と同時に
  失恋をした
  傷をえぐるように
  一緒に習字教室へ通った
  私が男子ならば

  中学卒業と同時に
  別々になり
  でも手紙のやりとり
  数年後
  告白をした
  「あ、そう」
  拒否もせず。
  それだけ。

  年賀状と
  時々のメールのやりとり
  彼女は今、婚活をしている

  十三歳の初恋を忘れない


      ※

  友達に会わないための嘘をつく
         君はほんとは初恋だから


  どきどきと実加子の眠る寺に行く
        同性愛の仲間と共に


      ※

 千春は十三歳で恋をした。そして同時に失恋もしたという。しかし、中学卒業数年後に告白をした。と、いうことは、十三歳の失恋を少なくとも四、五年、あるいはそれ以上の年数、告白もせずじっと「恋」ではなく「失恋」の想いに耐えていたということか。

 短歌に「会わないための嘘をつく」とある。恋の想いが燃え上がるのを一番恐れていたのは千春自身なのだ。「どきどきと実加子」の墓に行く同性愛の友達と。実加子は初恋の相手ではないのか。「同性愛の仲間」たちとの関係も微妙な距離感であるが。

 ここに千春の原点がありそうだ。十三歳での初恋と失恋。実加子の存在。そして「同性愛」への気づき。同性を好きになること自体罪でもなんでもない。ただ千春の悲しみは、初恋の相手に理解されなかったこと、数年後告白をした後も「あ、そう」と取りつく島もない。彼女は「婚活」という最後の言葉で決定的な別れを告げる。
 詩の中の
「拒否もせず。」の「ず。」
「それだけ。」の「け。」
この「。」がとても悲しくて哀れである。


     顔

  あなたが句を書く時
  別人の顔になる
  あなたが野球を見る時
  別人の顔になる 
  あなたがパソコンをいじる時
  別人の顔になる

  
  ぱんって手を叩く

  「あれ、どうしたの千春ちゃん」

  あなたは私のための顔になる


       ※

  赤ちゃんの頃のあなたを知る桜
        私はちょっと嫉妬している

  秋の月浴びてふたりは歩き出す
      燃えないゴミと燃えるゴミ出し

  降りだした雨の匂いで思い出す
        あなたの心嗅ぎわけたとき

  丁寧によろしくというお義母さん
         大祐君は返品しません


       ※

 千春は大祐の事を、主人とかうちの亭主とか、そんな呼び方をしない。よく使うのは「大祐くん」か、「私のパートナー」うん、パートナーが一番よく聞くかも知れない。
 あれっ?彼女は同性愛のはずでは?確かに結婚しているはずだ。結婚という形を保っているはずだ。しかし「顔」の詩は明らかに恋文である。「私(千春)をいつも見ていて欲しい」というラブレターだ。「ぱんと手を叩く」猫だましをしてまで自分を見ていて欲しいと願う。「桜」にまで嫉妬をしている。まことに不思議な二人の関係。決して偽装結婚なんかじゃない。お義母さんに「大祐君は返品しません」と心の呟き。確かに惚れている。しかしそれは夫婦としてであろうか。友達としてであろうか。あくまでも個人の感想ではあるが、大祐の中にある種の「母性」を千春は嗅ぎ分けているのかも知れない。


     着物

  ここ一、二年ひんぱんに
  和服を着るようになった
  窮屈な帯を締めていると
  何かを忘れられそうで
  素敵だと言われると
  何かを忘れられそうで
  ひんぱんに着るようになった

  ここ一、二年よく
  がんばってきたと
  和服を脱ぐとき
  帯を解いて
  ほっとするとき
  よくがんばってきたと
  自分にいいたくなる
  だから
  着るようになった


         ※

  姪っ子をみんなで囲み笑う日の
       猫の気持ちはきっとさびしい

  階段は静かに下りて千春ちゃん
         職場の壁に三ヵ所貼られ


         ※

 女の子を好きになった千春は「私が男の子だったら」と独白したが、この詩に触れると、やはり千春は「女の子」であって「女の子」として「女の子」に恋をしたのではないかとも思う。
 着物を着るには、帯の他に帯締めを含めて何本かの紐が必要となる。彼女のSNSでは、着付けをお習いになってご自分で着ることができるご様子である。私の母は水商売をしていたのでよく和服で出かけていた。その様子は手に取るように想像できる。
 着物を着るという行為は、自分の体を緊縛する作業だとも言える。それは見方を変えると自傷行為にも似ている。着付け慣れると、どこをキツく締めてどこを緩めるのかコツが掴める様ではあるが、私の母は帯をキツく締め上げるのが好みであった。
 千春自身に自傷行為にも似た行為だとの「気づき」があったのかどうかは定かではないが、帯を解いた時の開放感は想像に難くない。「女の子」というより「女性」としての喜びもまた、この詩には漂っている。


     こころ

  トイレ掃除の仕事をしていて
  さみしそうだと思った一輪挿しに
  花を活けてみた
  
  「えっ買っているんですか」
  すごく驚いた人がいた
 
  その人はもう居ないけれど
  その人の笑顔を思い出して
  今日も花を活けてみる


        ※

  ぼわっとした光つつまれ親友の
         出産前後ほんとにきれい

  手で雪のうさぎをつくる南天の
          燃える瞳の安産でした

  嵐の日産まれてきてもいいけれど
        出棺の日は晴れるといいね

  産まれた日親の離婚も雪の日で
        白は何かを知らせてくれる

  父と別れ店を始めた母の手は
        パンの匂いがしみつき温む


        ※

 「トイレの神様」そんな歌があったが、昭和以前から、嫁は「便所掃除」を進んでこなした。「便所を綺麗にしておくと安産になる」という言い伝えがあったから。
 千春はあくまでも「仕事」としてのトイレ掃除を詩にしているのだが、無償の「花」を活ける事によって、気づいてか気づかないかは別として「安産」あるいは「妊娠」という言葉がちらつく。この心情は後の短歌にも繋がる。

 五首のうち一首、二首目は親友の出産を心から喜んでいる気持ちが表現されているが、三首目からは少し様相が変わってくる。
 千春自身の産まれた日と両親の離婚の日も「雪の日」だという。これはおそらく心象風景であろう。それは、彼女がこれから体験していく自らの人生の暗示でもあろう。
 その人生は不幸であるのか幸福であるのか、 
 その答えは出ていない。だって一生とは言えないほどの、まだほんの人生の半ばを過ぎたばかりなのだから。
 その「こころ」の葛藤の中で、母の歌を詠む。彼女を育ててくれた母の手は「パンの匂い」がしみつき暖かいと懐かしむ。その「パンの匂い」は、千春の「こころ」と「からだ」の痛みの鎮静剤でもある。
(詩 短歌 おなかより)



  自愛 あるいは 自滅

  「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ

 ひらがなの「ちつ」は「膣」であり舌打ちの「チッ!」でもある。「入っても〜」「いいですよー」はあきらかに性交の承諾であろう。
 だが、性の悦びでは無い。愛のまぐあいでもない。あくまでも女性としての機能、器官の提供に過ぎない。肌を触れ合うことは嫌いでは無いけれど、性交そのものには嫌悪があり、「しなければ」との思いも滲み出る。それはその「嫌悪」の源に、自身の生理不順と不妊がある。コミカルに詠んではいるが、とても切実なのだ。
  
  不登校とうもろこしの葉が繁る

 「とうもろこし」は「とうもろこしの葉」に包まれて、さらにてっぺんには特有の「毛」が見える。おぼろげに男性性器を示している。
 「不登校」という三文字で当時の年齢、心の闇までも表現して、「異性」に対しての怖れが垣間見える。

  ストーブが無いと私は毛が生える

 寒くなると猫は冬毛になる。冬毛になって寒さから身を守る。「ストーブが無いと」「毛が生える」という。それは作者の身を守る冬毛なのだろうか。あるいは「毛深くなる」の意味を含めると「性転換」とも読める。真実は作者にしか解らない。否、作者さえ解らないのかも知れない。

  中待合室は猫である。わたしも診て。

「中待合室」が「猫」であって「わたし」は明らかに患者である千春。千春は「医師」に診てもらう前に「猫」の体内でじっとしている。「猫」はまた作者自身であって、そこに「医師」は介在しない。「猫」と「わたし」果たして病の正体は。

  母という蛸の壺を行ったりきたり

 「母という蛸の壺」は母の子宮であり、千春はそこを「行ったりきたり」する。作者自身は大人にもなれず軟体動物のまま母へ回帰する。「蛸の壺」で安らげるのであれば帰ればいい。そこで傷を癒してまた暗闇を浮遊すればいい。

  ナプキンの出番がこない月割れる

 生理が遅れる、来ないかも知れない。わたしは「女」であるのに。月は割れて暗黒のはらわたを見せる。原始女性は太陽だった。今ではその太陽でのみ輝く。その恐怖は人間としての「自立」さえ脅かす。「ナプキンの出番」は「自立」あるいは「行動力」であり、そして「鎖」であり「足かせ」でもある。

  女陰には女陰の薬あばれるな

 「女陰」とは作者自身、というより作者の体内に棲む「怪物」あるいは「もののけ」かも知れない。それ専用の薬があるという。それは「怪物」を鎮めるための呪文か。「あばれるな」は体内の「怪物」に。言い換えれば「自分」に対しての「呪文」でもあろう。

  いやけれどいつかウンコになってゆく

 「いやけれど」は「そう仰いますが」で「ウンコ」になってゆくのは「自然の理」である。作家は作品を吐く。いや排泄すると言ってもいい。どんなに努力したって、どんなに苦しんだって所詮「ウンコ」なのだ。千春は「ウンコ」を排す、とは詠まず「なってゆく」という。直訳すれば「そう仰いますがわたしは所詮ウンコになってゆく定めなのです」と言っている。「千春」という個体が咀嚼されて「排泄物」になってゆく。それはまさに、自分の足を食らう蛸そのものである。

  お風呂場のおしっこの吐息

 「子供」である。本来おしっこをする場所ではないところで。しかし、シャワーを浴びながら「大人」だってそういう衝動に駆られる。あるいはそれが「常識」だと言うなら、常識を破っていいじゃないか。さほどの罪でも無いとは思われるが、やはり吐息が漏れる。
 「尿意」と「お風呂場に漂う悪意」「おしっこの吐息」はおしっこをした「わたし」の吐息では無い。「おしっこそのものの吐息」であってふわっと臭いまで漂う。写生句である。

  いい結婚ってなんだろうレシートが溜まる

 作者は「結婚ってなんだろう」と問わず「いい結婚ってなんだろう」と問う。この問いは世間一般の常識に問うているのでは無い。自分の内面の「結婚」に対する価値観にである。しかし、この句を吐いた途端に、千春にはその答えが見えている。「レシート」は日常そのもの。この「レシート」は「溜まって」いるのであって家計簿などに貼って整理されているわけではなさそうだ。いつの間にか財布の中やキッチンの棚などに「溜まる」のである。整理するつもりで残してあるものが溜まるのである。それは日常の澱のようなモノであったり、二人の存在証明でもある。
 千春と大祐は、お互いにパートナーを求めている。ある目的に向かって進んでいる「戦友」なのかも知れない。「レシート」を見ながら「自分は良い妻なのか」と迷うことも無いでは無いが、パートナーは「良い妻」など求めてはいない。二人は傷つき何度も倒れながらお互いを抱き起こし、また前へ進む。ひょっとしたら「レシート」は戦士が放った銃弾の空薬莢のように床に散らばっているのかも知れない。
(川柳「ひげ」より)



  ・・・・ そして乳房
  
  初恋の人はみずうみ生理中

 千春の恋は、やはり作品に深く投影される。そして、恋人が同じ性ゆえにその思いやりの表現も生々しい。その事が川柳の質を高めている。女性はよく海に例えられる。確かに海は生命の故郷であって今地球上に存在する生物の全ては海から生まれた。「海」は「産み」と同義語だとも言える。
 「みずうみ」もまた「うみ」であるが、その世界は海に比べて限定的である。「みずうみ」には「うみ」になりきれぬ想いが隠されている。「恋人」は「みずうみ」で「生理中」だと言う。どこかはかなくて、叶えられぬ恋模様が狂おしい。

  触れた手のしろさしろさを振りほどく

 「しろさしろさ」がとても透明な表現である。漢字の「白」ではなくひらがなの「しろさ」のリフレインが痛いほど迫ってくる。その「触れた手」を振りほどく仕草がさらに痛い。この句もまた、同性への想い、別れの辛さが溢れ出ている。

  猫は浮かない

  猫は研がない

  猫はうまない

  猫は根づかない

  猫はよみがえらない

 五行詩である。これもまた川柳の「かたち」である。「猫」は水を嫌う、水に落ちると溺死するかも知れない。「猫」は爪を研ぐ前に爪を切られてしまう。「猫」は避妊手術を施され生む事は無い。「猫」はたまに宇宙へ行ったように帰らないし、誰の持ち物にもならない。「猫」は七度生まれ変わると言うが、目撃したものは誰もいない。読みながら、ふと「猫」と「千春」を入れ替えて読んでみた。あっ、そうか。やはり「猫」は千春そのものだったのだ。

  時間になる母にも樹にもなれない

 「時間になる」はどう読むべきか。「時間そのものになる」と読むのか「制限時間が来ましたよ」と読むべきか。「母」になることが出来ないまま、まして「樹」にもなれないまま、私(作者)はすでに「時の放浪者」と化している。やがて「化石の森」に同化して思考さえ止めてしまうのか。

  腐臭が漂う私の体からヒトデ

 気づかないうちに、私(作者)の中に何か得体の知れないものが蠢いている。いや、気づかないふりをしている間に、それが確信となって、腐臭となって私を恫喝する。ある時、私の中から、のそっとヒトデが這い出してきた。私はもはや空蝉の如く・・・。カフカの臭いを漂わせてシュールである。

  おっぱいに触れているとき昼の闇

 おっぱいに触れるのは作者自身。自慰行為であろう。少し汗ばんで真昼にも関わらず深い闇へと落ちてゆく。「闇」とは罪の意識なのか。「乳房」とは言わず「おっぱい」と言う。自分の乳房に触れながら、母のおっぱいを想い、やがては同性のおっぱいに憧れる。何度も言うが、そのこと自体まったく罪では無い。闇から抜け出す道具は、自分の笑い声かも知れない。

  PMSおっぱいが大きくなり洗いにくい

 PMSとは、月経前症候群のことで月経に関して周期的に体や精神に不調をきたすことをいい、月経が始まるとその症状は消えるとか。その「PMS」を上五の位置に据えて「おっぱいが大きくなり洗いにくい」と言う。さて「PMS」のせいであろうか。自分の性に対する嫌悪も含まれていて。にも関わらず、自分の性を愛おしくとも思うのだ。不思議な味わいがある句。
 
  恋人と友の区別がつかぬ風呂

 「恋人」と「友」と区別がつかないと言う。
 裸になって風呂に入っているのに。そんなことがありえるのか。最初パートナーとの風呂で「この人は恋人?それとも友?」との感慨を詠んだと理解したのだが、千春の場合はそこに同性との恋慕が加わる。それはむしろ表現の広さであって決してマイナスではない。いろんな恋があって豊かなのだ。

  こんばんは潮騒は足りていますか?

 海辺の民宿に泊まって、潮騒が聞こえて来るだけでなんとも心地よい。そんな潮騒を楽しみにしている観光者に「潮騒が足りていますか?」と聞いているのであろうか。あるいは恋人同士が砂浜を歩いていてBGMとして「足りていますか?」と余計なお世話をしているのだろうか。ひょっとして、その質問は「海」に向けて投げかけられたものかも知れない。
 鏡のように凪いだ海に何かが足りない。それは「潮騒」だったと。それを「海」そのものに問うている、と言う読みも成立するのではないかと思う。

  バス停で待っててくれた猫のてと

 「てと」は千春の愛猫の名前である。「てと」への思い入れは相当なものである。作品の中で、ある時は「猫」として登場し、またある時は「千春」と同化して登場する。バス停で自分の帰りを待ってくれていた「てと」どんなに愛おしい存在か。それが辛かった仕事帰りや病院の帰りだったとしたらなおさら。「てと」の与えてくれる癒しは「生きがい」そのものでもある。そして「バス停で待って」とは、まさに「パートナーを待つ千春」の姿でもある。
          
(川柳・しっぽより)



  「てとてと」を読んで。

 NHKのEテレで「性」についての番組があった。哺乳類、特に人間は染色体XXの女性とXYの男性の2種類だとされていたがそうでも無いらしい。極端に言うとXがひとつの女性もYが無い男性も存在すると。それも外見では分からない。男らしい人に案外Yがなかったりするとか。実はこれ奇形でも遺伝情報の異常でもなんでも無いらしい。それもずいぶん昔から存在していたとか。分類に分けるとすると(個々の個性なので分ける必要もないが)「女らしい女」「女」「男っぽい女」「女っぽい男」「男」「男っぽい男」となる。この分類を「性スペクトラム」と言うとか。文化や環境でそうなるのではなく、あくまでも遺伝情報の上であると。例えば、髭の濃い女性、体毛の無い男性。ゴツゴツとした女性、ふっくらとした男性など。外性器や内性器の形も千差万別でそれぞれ皆違う形をしていると。同性を好きになったり、自分の性に違和感を持つ事は異常ではない。性同一性障害と呼ばれるが、それが果たして障害なのか?将来自由に性が選べる時代がくるかも。
 さらにショッキングな話は、やがてY染色体は消滅する、と言う話。元々X染色体とY染色体は同じ長さであったものが今現在Y染色体はX染色体の半分の長さしかないとか。傷つきやすいY染色体は子孫に受け継ぐにつれて傷つきだんだんと短くなってきたとの話であった。受胎せずに子孫を増やしていく方法を人類は手にするかも知れないし、もはや恋愛は子孫を残すための行為だけでは無い時代になっているのだ。

 同性愛、異性愛。その差は微々たるもので大切な事は誰かを恋し、愛して、大切にするという行為であって、他人を傷つけること、自分を傷つけることが一番許されない。また外見で差別したり、少数派だと言うだけで排除したりする事のいかに知性のない所業か。人類、いや生命体は多様性がある事によって地球上で生き残っているのだと、そろそろ解っていい頃なのだが。

 千春は自分の性の有り様について、自分の心の病について、作品を通して馬鹿正直なほどに告白し、自分に対峙した。その結果、その作品のほとんどに既視感の全くない自分の世界だけを表現した。しかし、共感を否定した訳ではない。やはり誰かに、読者に、その想いが伝わる事を切に願っている。
 千春もまたひとりでは存在しないのだ。

  千春ちゃん今日をいっぱい浴びなさい

 千春本人の句である。
posted by 飯島章友 at 23:45| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月20日

千春『てとてと』を読む きょううれしかったこと 柳本々々

「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ  千春『てとてと』

たとえばこの句がちつが会話してる句とかんがえてみる。性にかかわることかもしれない。性にかかわることかもしれないのに、「いいですよー」とちつは元気だ。なんでちつは元気だったんだろう。「いいですよ」とか「いいです」じゃだめだったんだろうか。

どうして、「ちつ」は「いいですよー」と元気に返事したのか?

わたしは、「ちつ」はうれしかったんじゃないかとおもう。

入れても、じゃなくて、入っても、だった。あいては全身のきもちで話してくれていた。いいですか、とていねい語だった。ちゃんとおうかがいをたててくれた。「入ってもいいですか」には、わたしはあなたと会話をしたいんです、という意思がある。それが、ちつには、うれしかったんじゃないだろうか。

わたしは、この句は、性の句ではないとおもう。あなたと会話できたことがうれしかったという、うれしさの句なんじゃないかとおもう。だから、「いいですよー」と、ことばがつい伸びた。ー、って、うれしい、ってことだとおもう。いつも。いま、辞書で、「ー」を調べたら、うれしいときにつかうでしょあなたも? と書いてあった。
posted by 柳本々々 at 18:35| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

千春『てとてと』を読む 2

ぬくい神様/八上桐子

   手もとから産声あげるその文字は今の私になってゆきます

 千春さんにとっての書くことを表す一首だと思う。
 千春さんの川柳、短歌、詩は、一見やさしそうでいて手強い。大胆に自己をひらいてくれているのに、わかった気になれない。絶妙のわからなさ加減に引き込まれてゆく。

   トイレットペーパーの怯える命
   ずっとここにいたい泥の匂いだね
   こんばんは潮騒は足りていますか?
 
 カラカラ怯えるトイレットペーパー。安心する泥の匂い。夜に必要な潮騒。ことばとなって現れた感性そのものが独特。句集全体を通して、作為や虚飾はあまり感じられず、実感ベースで書かれていると思う。誤解を恐れずに言うと、ふしぎちゃん系だ。
気づいたら、トイレットペーパーをやんわり手繰っていた。弱い生き物に接するみたいに。千春さんを通して、モノ、ことに触れなおすことで、世界が更新されている。

   私は私が一番大事、脱ごう
   ひくいところでくちびるをなめる
   雪を練りはじめている私が産まれる

 自分を大事にするために、生身をさらけ出す。私を語ろうとする、ひくいところ。雪を練って産まれる私。自己愛と自己否定にゆれる、モノローグ的作品も多い。私からはぐれないように、私を確かめるために、私を受け止めるために、湧き起こってきた感情を素直に書きとめているようにも感じる。

   例えば、女の自分に慣れてきた
   時間になる母にも樹にもなれない
   初恋の人はみずうみ生理中

 60年代に時実新子から広がった私の思い、女の思いを書く川柳。旧来の性役割を前提とした社会通念に反発しながらも、女であることからは解放されなかった。千春さんの女は、その延長線上とは別の角度から表現されている。新子から60年。性別に対する違和など新しいジェンダー観が、ついに川柳にも登場した。その点でも注目していきたい。
 
   神様が泣き出したので背を撫でる
   神様は玄関先でぐーぐー満ちる
 
読み終えて表紙に納得。やわらかくてじんわりぬくくて、油断ならない、猫のような句集である。
posted by 川合大祐 at 08:50| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月30日

千春『てとてと』を読む 1

てとてとを読む/樹萄らき

 千春さんの実家で飼っている猫の名が「てと」である。表紙の「てと」はたまらなく良い表情。
 彼女の特徴として、よく樹々と会話する句がでてくる。大樹や葉っぱと会話したり、もたれかかったり、頭を撫でてもらったり、撫でてあげたり、それがとても自然で違和感なく感じるのは彼女の本性だからなのだろうか。植物的というのは気持ちのいいものだなとよく思った。
  週末に「お疲れさま」という樹々に「ほんとう」という素直な私
 彼女の作品はいつも等身大だと思う。「素直な私」も彼女だから、受け手も素直に読める気がする。
 ときどき言葉が飛びすぎて追いつけないこともあるが、それはそれで今の彼女なのだと思う。いつか、自分がそのレベルになったらわかるだろうと思いたい。
  不登校とうもろこしの葉が繁る
 彼女が不登校になったことがあるのかどうか知らないが、心は不登校になったことがあるかも知れない。とうもろこしの背の高さ、畑の中でしゃがむ彼女、葉のざらざら感と濃い緑色、そしてその中の蒸し暑さを肌に感じる。一人だけれど独りではなくて、今はとうもろこしが寄り添ってくれているのだ。この優しさは彼女だけのものだ。
  見逃した着物の裾が智恵子抄
 有名な本を題材にしても、彼女が句にすると彼女の世界となる。智恵子抄なのに、彼女が今着ている着物の裾に違和感があって足元を確認している姿がもう智恵子抄ではなくて、彼女になっているのだ。智恵子抄と彼女の共通点がそこにあるように感じる。ふわっと香ってくるのは智恵子抄の本の中の智恵子さんなのか、彼女の香りなのか、狐につままれた感じがいい。
 日常の中から生まれたのもいい。飾らないから本当にそうなんだろうなと思わせてくれる。
  手もとから産声あげるその文字は今の私になってゆきます
 今日の出来事を書いているのに、書いた先から今のことになっている時間の遡り感がいい。そして
  これでいいんじゃないのか日記を燃やす
 彼女はやはり孤独を持っている。自分が居なくなったあとに、身内や知人、見知らぬ人に自分の胸の内は読まれたくないから、書き終わった日記はその都度燃やしてしまう。キャンプで焚き火を見つめている感じで燃やされていく日記、表紙が分厚いからなかなか簡単には燃えない時間、この消滅感が実に気持ち良いのだ。
  ストーブが無いと私は毛が生える
 もちろん彼女は猫ではないので毛も生えていなければ髭も尻尾もない。しかし寒いと長座布団を二枚重ねてフリースの膝掛けを敷いて、そこに猫のように丸まって寒さをしのぐ彼女の姿が浮かぶ。この作業の方が手間がかかるだろう。
「ストーブつければいいじゃん」
「面倒臭い」
 なんて夫婦の会話が聞こえそうだ。あくまでじっとして動かない彼女と、しかたないなぁ、スイッチ押せばいいだけじゃんという顔でストーブをつける夫のまったりとした感が心地良い。
  大変な交通事故というテレビあなたと私ケンカのさなか
 これはもう誰にでもある日常で、彼女夫婦だけのことではないのだが、こうして短歌になると改めて、ああ家もそうだわぁ、と共感する。そして
  ひくいところでくちびるをなめる
 してやったりとチロッと唇を舐める彼女の顔は女だ。自分が何をすれば彼がどう動いてくれるのか分かった上で、ちゃっかり実行し、優しい彼を見つめる。
 彼女の言葉の使い方は独特で、けれどもそのチョイスがすんなりと彼女から出ていることは、普段の彼女を見ていると納得する。
  八百屋が売っている二物衝撃
 別に八百屋に2メートル大のキティちゃんが売っているわけではない。すべて八百屋にあるべき野菜や果物が売っているだけなのだが、彼女にはこの商品達の会話が聞こえるのだ。頭の片方で今日のメニューを考えている間、もう片方では野菜達の会話やらケンカやらが聞こえている。いったんは忘れるのだが、川柳を考えている時にその時のことがふと甦ったに違いない。大根と苺の意見の衝突はさぞ面白かっただろう。
  神様は玄関先でぐーぐー満ちる
 そして彼女によると、神様は玄関先でぐーぐー「満ちる」のだ。何だか宮崎駿作品を連想させる。
  スパゲティがサァーと浮世絵を描く
 更に、夕食に作ったスパゲティを皿に盛り、ミートソースをかけた瞬間、それはもうミートソースではなく浮世絵と化する。「サァー」っという表現、スパゲティのクルクル感と色を乗せるようなミートソースのタッグはもう浮世絵なのだ。だからフォークではなく割り箸を使うことになる。食べるごとに絵は変わっていく。乙な夕食だ。

 以前、らきさんの名前を使った句を書いてもいい?と聞かれ、簡単に「うん、いいよ」と承諾した。そして本にまで載ってしまった。
  あと少しあともう少しで樹萄らき
 彼女の「あたし感」って何だろう?いつか聞いてみたいような、聞かない方がいいようなふらふらした気分だ。
 鑑賞をと言われ、白羽の矢を立ててもらえたことが有難くて書いたが、いやはややはり人様の句について書くのは難しいとつくづく思う。こんな浅い鑑賞でごめんね、と紙面上で謝ってしまう。
 最後に、彼女のこの本に詩も載せている。好きな一つを挙げておく。
「顔」です。
 お粗末でございました。
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(4) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

川合大祐『スロー・リバー』を読む 5

そこにあるもの ないもの あったもの 『スローリバー』の「   」

ながや宏高


川合大祐さんの川柳句集『スローリバー』は空白がとても気になる。1章の「猫のゆりかご」は特にそうだ。言葉で書かれていること以外の膨大な領域をつねに意識させられてしまい、なんというか途方もない気持ちになるのだ。

 の文字が消えないだろう消しゴムで

例えばこの句、一字下げによる空白がブラックホールのように思えてくる。どんな言葉も当てはめられるような気もするし、逆になにも当てはめられないような気もするのだ。正解は作者だけが知っているといったものではなく、空白そのものを表現しようとした結果このようになったのではないかと思うのだ。

目に見えぬものを書いたが文字がある
字余りになって言えない愛している


言葉にしてしまった途端、言葉にできたという心地よさと共に虚しさが去来するのは、言葉にしようがない膨大な領域を知っているからだ。伝えたいことは文字ではなく空白の中にあって、でもその空白をそのまま伝えることはできない、そんな虚しさがどうしようもなく迫ってくる。

図書館が燃え崩れゆく『失われ
」あるものだ過去の手前に未来とは「


こちらは断片的なメモ、切れ端のような言葉づかいだ。
見た目で文脈から切り離されてしまっているだけで、書かれてある文字だけで意味が完結している言葉など本当は存在しない。その言葉が書かれた背景、過去、未来にずっと連続しているなにかがあるのだ。〈 」 〉で始まり、〈 「 〉で終わることによって否応なく前後の文脈を意識させられて、前後に広がっていく空白部分に、意味を読み解こうとする気持ちごと吸い込まれていきそうになる。



【ゲスト・ながや宏高・プロフィール】 
歌人集団かばんの会 会員



posted by 飯島章友 at 23:00| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする