2022年01月15日

森山文基句集『にいな』

にいな 森山文基句集 - 森山文基
にいな 森山文基句集 - 森山文基

森山文基さんの第二句集『にいな』(川柳本アーカイブ)が1月7日よりAmazonで発売されています。第一句集『せつえい』は2020年3月29日の発行です。20世紀の短詩型の世界を思えばスピード感が違いますね。全部で153句収録されています。

会いたくて韓国海苔の油拭く

「油拭く」のは分かるけど、海苔だったら歯にも気をつけないと、なんてツッコミながら読んだ句。海苔と言えばこんなことを思い出します。仮面ライダーアマゾンのお兄さんの歯に青のりが付いていた回があるんです。ご存じでしたか? 焼きそばを食べたあとに撮影したんでしょうね。

砂像には粒になれない桜貝

短歌の抒情性に通じるような句です。

北口の守衛はいつも背が高い

書いてあることは報告調なのだけど、「いつも背が高い」とわざわざ書くところが変で、おもわず目がとまった句。こういうちょっとした違和が句の〈くびれ〉になるのでしょうね。何となく寺山修司の〈父と呼びたき番人が棲む林檎園〉を思い出しました。

歓迎の挨拶あさり汁の砂
既読過多こっそり逃げ出した子熊


意識的か偶然かはわかりませんが、今句集では二句一章の書き方が散見されました。俳句では〈切れ〉によって二句一章の取合せをつくることが多いし、短歌でも三句目あたりに切れ目を入れて上の句と下の句とが響き合う構造にすることがあります。掲句も「歓迎の挨拶」「既読過多」の後に切れ目があるのを想定してわたしは読みました。

四つ角に割れた日本語的注意
高台のシーサーの穴 銃の穴


今句集は章立てがないので、有機的につながった物語性やテーマ性よりも、一句一句を単独で読む川柳が多いなと感じました。川柳は付句が一句立として独立した文芸なので、一句一句の面白さは大事です。ただ欲を言えば、次はご本人の日常を連作にしたり、社会へ批評を群作にしたりする川柳も見てみたいと思いました。たとえば掲句のような川柳を見ると、ここをもっと掘り進めた連作や群作を読みたくなるんですよね。そういうのを程よく入れていけば句集の〈くびれ〉になるのでは? なんて思ったりするんです。

何はともあれ、森山文基さんの句集をぜひご覧になってください。
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2021年11月01日

『杜U』─杜人同人合同句集─

発行人:都築裕孝
編集人:広瀬ちえみ

2020年12月25日、『川柳杜人』は通巻268号の発行をもって73年の歴史に幕をおろしました。でも、終刊号だからといって打ち上げ花火はしていません。野沢省悟さんの「杜人らしさは永遠に」が巻頭記事に置かれている以外、いつもの杜人とさほど変わらない印象でした。杜人誌の日常風景を保持したまま終わった感があります。

ひとふでがきのえがおだったよ  佐藤みさ子 『杜人』終刊号

そんな川柳杜人の「同人合同句集」として、今年の4月25日に『杜U』が発行されました。最初の合同句集『杜』は昭和54(1979)年に出たということなので、42年ぶりということですね。暗緑色の布張り製本。まさに杜人のアルバムという感じがします。各同人の50句とバストアップの写真、プロフィール、エッセイという構成。杜人の方々は川柳作品をとおしてしか存じ上げなかったので、新鮮な感覚をおぼえました。

えりすぐりの50句の中より一句ずつ引用。

死後光る時計をだれも持っている  都築裕孝
存じ上げているのは地上の部分のみ  浮千草
ワタクシも電子レンジも回る春  大和田八千代
不意のさよなら不意のふきのとう  加藤久子
きかんこんなんくいきのなかの「ん」  佐藤みさ子
モナリザに髭を描きたすロスタイム  鈴木逸志
お日様は丸でいいのよあんぱんも  鈴木せつ子
入念に分別生きものと生もの  鈴木節子
お手洗い借りるこの世の真ん中で  広瀬ちえみ

杜人の編集人だった広瀬ちえみさんは現在、句会と同人誌を立ち上げ、すでに新たな活動を始めていらっしゃいますが、それはまた、別の話。
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2021年10月13日

『田中博造集』を読む

今日取り上げるのはセレクション柳人8『田中博造集』(邑書林、2005年)です。

略歴によると1961年頃に川柳とであい、石田柊馬・岩村憲治と生涯の親友になったそうです。「川柳ノート」「川柳平安」に参加し、1978年に北川絢一朗・坂根寛哉らと「川柳新京都」を設立。80年代には仕事が忙しくなり徐々に川柳から遠ざかったようですが、2000年以降は「川柳黎明」「北の句会」「バックストローク」に参加。京都川柳作家協会理事に就くなど、再び精力的に活動するようになったようです(2005年までの情報)。

それでは以下、作品を見てみましょう。

 家出した詩人が地図を買っている

寺山修司の『家出のすすめ』を読んだ後に見ると心身の力みが取れる川柳かもしれませんね。この川柳、個人的には溜飲が下がる思いがしました。表現者って独立独行のポーズを取りがちでしょう。でもね、地図くらい買ったってカッコ悪くはないと思うんです。地(作品の基になる文脈)があるからこそ図(表現)も生まれてくるわけで。だけど表現者って自作が「地」に拠っていることを隠蔽しがちじゃないですか?

 こころかくすに嫌なかたちのロッカーだ

このロッカーはところどころ凹んでるんじゃないかな、と想ったのは、わたしがヤンチャな生徒の多い中学や高校にいたからかも知れません。片手で相手の胸倉を持ち上げてロッカーにビシャーン! と叩きつける光景なんて日常茶飯事でした。ところで、2時間サスペンスを見ていると、物的証拠を見つけるために被疑者のロッカーを調べるシーンがよく出てきます。それだけロッカーは「こころをかくす」ための場所なんでしょうね。だからロッカーには他者の加害による痕跡などあってはいけないんです。ロッカーと言えば有名な短歌があります。  

 「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす「ロッカーは蹴るな」
 「もの言へぬロッカー蹴るな鬱屈を晴らしたければ人を蹴りなさい」
奥村晃作『都市空間』

ロッカーは大切に使わないといけないけど、ここまでくると狂気ですね。

 甘柑の酸味にちかい子の寝息

甘柑というのは調べたけれどよく分かりませんでした。柑橘類なんでしょうね。林檎や花梨などの仁果類は若さの喩になることが多い気がするけど、柑橘類は小さな子につながりやすいのですかね。あの粒々感が。そういえばこんな短歌もあります。

 あたらしきいのちみごもる妻とゐて青き蜜柑をむけばかぐはし  杜澤光一郎『黙唱』

こちらは自分・妻・あたらしきいのちの全てを含んだ感慨なんでしょう。

 首都の名が長くて革命が見えぬ

この句を見て、そういえば……と思い出したのがバンコクの正式名称。

クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット

革命が起こったときに王宮を守れるよう、それはそれは長い城壁を築いたかのような正式名称。

 釣ってきた魚のことばまで食べる

「魚のことばまで食べる」というと、魚の身だけでなくその思念までも食べるかのようなイメージが湧いてきます。「死にかけの鯵と目があう鯵はいまおぼえただろうわたしの顔を」(東直子『東直子集』)という短歌がありますが、この主人公もこの後、魚の最期の思念まで食べることになるのでしょうか。

 鳥獣虫魚のことばきこゆる真夜なれば青人草と呼びてさびしき  前登志夫『縄文紀』

鳥獣虫魚のことばを聞く、といえば前登志夫が思い出されます。この短歌で「青人草」なる言葉を初めておぼえました。

 結界から細き小用しにかえる

生理現象だから仕方がないという。伝奇小説などではまず描かれないところです。スーパーヒーローが敵と戦うときだって、建造物は壊れるし、巻き添えを食っちゃう人がいる。でも詳しくは描かれない。

 鏡から花粉まみれの父帰る  石部明『遊魔系』

こちらは小用でなく花粉。短詩型のおもしろさは一つの作品を見て別の作品を思い出せるところにありますよね。

 豆腐喰う とうふささえるものを喰う

川柳は「穿ち」を大切にするものだと思いますが、それならばこういう川柳を書いてほしいし、わたしも書いてみたい。そう思わされる句です。わたしのいう穿ちとは、人間の目を曇らせている通俗的な認識に穴をあけて真を明るみにすることです。

 眼裏といういちばん遠いところ
 鳥は目を瞑って空を閉じました
八上桐子『hibi』

句集に収録される前から大好きだった作品です。ともに真実を穿ちながらも幻想的で、とても素敵な句だと思いませんか?

 馬奔る 馬の姿を抜けるまで

句集中もっとも好きな川柳で思わず、かっこいい! と叫んでしまいました。三島由紀夫の『葉隠入門』に、
エネルギーには行き過ぎということはあり得ない。獅子が疾走していくときに、獅子の足下に荒野はたちまち過ぎ去って、獅子はあるいは追っていた獲物をも通り過ぎて、荒野のかなたへ走り出してしまうかもしれない。なぜならば彼が獅子だからだ。
というくだりがあったため、突き抜け感のある動物の代表はライオンだとずっと思ってきました。ライオンが肉体的な突き抜け感だとすると、掲句の馬にはたましいの突き抜け感、言いかえれば「全霊感」をおぼえます。

 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ  塚本邦雄『感幻樂』
 生き急ぐ馬のどのゆめも馬  摂津幸彦『摂津幸彦全句集』

この二作品の馬は読み手によっていろいろなイメージを呼び起こすと思いますが、わたしは全霊感=たましいの極限感をおぼえるのです。

なお、『田中博造集』は邑書林でまだ新品が買えます。
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2021年10月08日

倉本朝世著『硝子を運ぶ』を読む

この半年ほど何かと出力ばかりしてきたので、ここ数日はいろいろと入力をしつつ過ごしています。平岡直子さんや笹川諒さんの歌集を手に入れて読んでみたり、むかし手に入れた句集や歌集を読み返したりもしています。その中の一冊で今日ご紹介したいのは、倉本朝世第一句集『硝子を運ぶ』(詩遊社、1997年)です。

同書が発売された時期は、いまの所謂「現代川柳」につながる流れが出てきたころだと思います。1998(平成10)年に石部明・加藤久子・佐藤みさ子・倉本朝世・樋口由紀子各氏による同人誌『MANO』が創刊され、2000(平成12)年には『現代川柳の精鋭たち 28人集―21世紀へ』(北宋社)が発売されました。

魔法瓶・月曜日・胎内区・ニュース速報・ベッド・硝子を運ぶ、からなる章の冒頭には、そこの句群と共鳴するような短文が添えられています。たとえば胎内区の章の冒頭は次のとおり。

空き瓶収集家の男と一緒にバスに乗っていた。
バスが振動するたびに男のかばんがガチャガチャと鳴る。
不意に
「次は胎内区、終点です。」
とアナウンスがあり、乗客がいっせいに立ち上がった。
見ると、乗客のからだはみんな透明な硝子瓶で、その中ではきれいな水が揺れていた。

同書の4年後に発売された、なかはられいこ著『脱衣場のアリス』(北冬舎、2001年)にも、各章の冒頭に詞書が添えられています。昔の句集全般を読んだわけではないので違っているかも知れませんが、川柳句集に作家的な構成意識が目に見えて出始めたのは2000年前後からではないでしょうか。

そもそも川柳界では句集自体があまり出版されてきませんでした。あったとしても、それは大物の柳人の総合作品集であったり、句会で入選した川柳を時系列で収録した句集であったりして(もちろんこれらも貴重なお仕事であります)。

それでは以下、倉本さんの川柳を見ていきましょう。

 童話のページ深くて桃は冷えており

童話のページが冷蔵庫か貯蔵室であるかのように想える不思議。

 北を指しゼラチン質の恋すすむ

右左をきょろきょろする東や西ではなく、うしろ向きの南でもなく、まっすぐに前を指してすすむゼラチン質の恋。でも北は寒いのでゼラチンが溶けるとはかぎらないし、北は「北げる=逃げる」にもつながります。一途な恋心を詠んでいるかと思いきや、単純にはいかない恋かも知れません。そう言えばわたしの若書きに「ゼラチンが揺れます溶けます好きです」というのがありました。ちょっと恥ずかしい。

 空き家から大きな心音が漏れる
 カタカナ語禁止区域に咲くダリア

空き家の増加が社会問題になっていたり、トニー谷やルー大柴が可愛く思えるほどカタカナ語が氾濫していたりする「現在」から読むと、当時と違った読みが生じるかも知れませんね。

 一字ずつ覚える殺し屋の名前

殺し屋よりも、ある意味この人のほうがコワいという。

 ぎこちなく背中の沼を揺すり合う

「背中には川が流れておりますか」(畑美樹)を思い出します。人間はみな、その人の生きる環境なり、業なり、人生の時期なりによって背中に海や湖があったり、沼があったり、川があったりするもの。でも、もしそれが「池」だったら大人としてはちょっと切ない。しかもボールが浮いている池だったりしたら、もう。

 少年は少年愛すマヨネーズ

マヨネーズという大衆的な調味料を添えているのがいいですね。けっしてはマヨラーではないのだけど、マヨネーズは万能! と言いたい。

 ラップごしだから戦争はなめらか

「世界からサランラップが剝がせない」(川合大祐)とあわせて読みたい川柳。

 名前からちょっとずらして布団敷く

寝る、という行為はこういうことなんじゃないかと思わされます。眠る前と起きた時との人格に同一性はあるか、などと哲学的に考えてのことではない。日々の実感からそう思えるのです。これも「夜具を敷くことも此の世の果てに似つ」(川上日車)とあわせて読みたい。

倉本さんは現在、あざみエージェントで出版・編集・あざみの会の運営・YOUTUBEへの動画投稿などをなさっています。川合大祐の第一句集『スロー・リバー』も倉本さんの尽力が大きいのです。

『硝子を運ぶ』のあとがきに倉本さんはこう書いています。これ、すごくよくわかるんですよ。

ここに一枚の硝子がある。
これは私が日常をきちんと生きるための硝子であり、日常に埋没してしまわないための硝子でもある
私が川柳を書き始めてから六年余りの間に、この硝子から見えた百の風景をこのようなかたちでまとめることになった。もし、私が少しでも日常をおろそかにしたなら、また逆に少しでも日常に押し流されたなら、たちまち私の川柳は色褪せたものになってしまうだろう。
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2021年08月16日

湊圭伍著・現代川柳句集『そら耳のつづきを』を読む


現代川柳句集『そら耳のつづきを』
著 者:湊圭伍
発 行:2021年5月26日
発行所:書肆侃侃房

靴音から遙かに閉じゆくみずうみ

そら耳のつづきを散っていくガラス

手のひらの穴から万国旗をのぞき

きみの死をぜんぶ説明してあげる

くちびるを捲って遠い火事をみせ

帝王を折檻にゆくはらたいら

拍手した手がふっくらと焼き上がる

火葬場の火からウナギの話題へと

寝返りを打つと渚がちかくなる

意味なんてあればあったで寝てしまう


湊圭伍さんの第一句集『そら耳のつづきを』が出ました。わたしと湊さんは、2009年から柳誌「バックストローク」に投句を開始しました。その後「川柳カード」を経て、現在も「川柳スパイラル」で一緒なのですから、言ってみれば「同じ釜の飯を食ってきた」間柄です。

とは言え、当時の湊さんは俳句や現代詩を通過してきたからかも知れませんが、五七五(前後)の長さで表現する力量がわたしよりもありました。ずっと短歌をやってきたわたしではありますが、川柳は下の句のない短歌みたいなもの。その短さには正直、困惑するばかりだったのです。東京2020オリンピックのあとだからでもないのですが、当時のわたしをレスリングになぞらえるなら、上半身も下半身も自由に攻撃してよいフリースタイル・レスリングだけやってきた人が、下半身を攻撃してはいけないグレコローマン・レスリングを始めたようなものなのです。

五七五に四苦八苦していた当時のわたし。他方、湊さんは、2010年3月7日の週刊俳句【川柳「バックストローク」まるごとプロデュース】(バックストローク30号)、2011年4月9日の「第4回BSおかやま川柳大会」での選者(バックストローク35号)、同年9月17日の「バックストロークin名古屋シンポジウム」でのパネラー(バックストローク36号)、短詩サイト「s/c」での「川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞」など、新人ながらその句作センスと批評力にみあった役目が与えられ、みごとその期待にこたえていたのでした。こうして文章で記すだけだと何とも簡単ですが、リアルタイムで見た者からするとまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。現代川柳界に出現した新星でありました。

湊さんのご活躍は本人の力もさることながら、当時の川柳環境にも後押しされたのかも知れません。句集の「あとがき」を読んでそう思いました。彼が所属していた「バックストローク」や「川柳結社ふらすこてん」の主要メンバーは、石部明・石田柊馬・くんじろう・筒井祥文・樋口由紀子・小池正博・きゅういち・吉澤久良・兵頭全郎の各氏を見てもわかるように西日本の柳人たちでした。当時の湊さんは近畿在住。こうした気鋭の柳人たちとじかに交流し、刺激を受けることで、川柳の実践知をみるみる吸収していったのであろうことは想像に難くありません。

一方のわたしは東京者であり、バックストロークに似た作風のグループが関東になかった関係で、しばらくは一人で句作をする環境でした。でもやがて、当時こちらにいた江口ちかるさんと出会い、「かばん」に川合大祐さん・千春さん・柳本々々さんが入会してきたことで、徐々に環境が変化していきます。さらにこのブログを通じて全国の柳人の皆さんとの交流も増え、いまでは日々刺激を受けつづける毎日です。

いまこの文章は、昔話を楽しむような感覚で書いています。湊さんとわたしがバックストロークに投句を始めてから12年。その月日の流れを想うと、彼の第一句集が出たことは本当に感慨深い。

意味なんてあればあったで寝てしまう
この句、じつは暗唱できるくらい気に入っているのですが、以前読んだ川柳評論に書いてあった警句かな、くらいに思っていました。それが今回『そら耳のつづきを』を読んで、そっか湊さんの川柳だったんだ! と嬉しくなりました。〈中八がそんなに憎いかさあ殺せ〉(川合大祐)と同じくらい示唆に富んでいると思います。ホント、みんなにこの句を暗唱してもらいたいです。

火葬場の火からウナギの話題へと
このあたりは所謂「伝統川柳」的な興趣があります。でも、いまはこういう不謹慎さを含んだ伝統川柳を見る機会が少なくなりました。みんなもっと不謹慎になれ。

帝王を折檻にゆくはらたいら
こういう一見狂句風な川柳も湊さんは書きます。他にも〈おい思想だな〉というのもあり、こちらは一行詩のような風采ですね。川柳の可能性をを楽しんでいるな、とわたしも愉しくなりました。

くちびるを捲って遠い火事をみせ
最初は〈ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺〉(塚本邦雄)を思い起こしたのだけど、すぐに塚本の短歌とは趣きが全然違うことに気づきました。むしろ〈雑踏のひとり振り向き滝を吐く〉(石部明)に近くて、川柳的な茶目っ気を感じます。

そら耳のつづきを散っていくガラス
「そら耳のつづき」→「散っていくガラス」の展開が抜群に上手い! ここでの「そら耳」は絶対動かしたくありません。そら耳という過誤につづいて舞い散るガラス。今の時代・今の人間ともシンクロしている気がします。ガラスが散ることでいうと、〈一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の羽根が舞ふイメージで〉(黒瀬珂瀾)が有名ですが、湊さんの掲句も忘れられない川柳になりそうです。
posted by 飯島章友 at 07:00| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする