2021年10月13日

『田中博造集』を読む

今日取り上げるのはセレクション柳人8『田中博造集』(邑書林、2005年)です。

略歴によると1961年頃に川柳とであい、石田柊馬・岩村憲治と生涯の親友になったそうです。「川柳ノート」「川柳平安」に参加し、1978年に北川絢一朗・坂根寛哉らと「川柳新京都」を設立。80年代には仕事が忙しくなり徐々に川柳から遠ざかったようですが、2000年以降は「川柳黎明」「北の句会」「バックストローク」に参加。京都川柳作家協会理事に就くなど、再び精力的に活動するようになったようです(2005年までの情報)。

それでは以下、作品を見てみましょう。

 家出した詩人が地図を買っている

寺山修司の『家出のすすめ』を読んだ後に見ると心身の力みが取れる川柳かもしれませんね。この川柳、個人的には溜飲が下がる思いがしました。表現者って独立独行のポーズを取りがちでしょう。でもね、地図くらい買ったってカッコ悪くはないと思うんです。地(作品の基になる文脈)があるからこそ図(表現)も生まれてくるわけで。だけど表現者って自作が「地」に拠っていることを隠蔽しがちじゃないですか?

 こころかくすに嫌なかたちのロッカーだ

このロッカーはところどころ凹んでるんじゃないかな、と想ったのは、わたしがヤンチャな生徒の多い中学や高校にいたからかも知れません。片手で相手の胸倉を持ち上げてロッカーにビシャーン! と叩きつける光景なんて日常茶飯事でした。ところで、2時間サスペンスを見ていると、物的証拠を見つけるために被疑者のロッカーを調べるシーンがよく出てきます。それだけロッカーは「こころをかくす」ための場所なんでしょうね。だからロッカーには他者の加害による痕跡などあってはいけないんです。ロッカーと言えば有名な短歌があります。  

 「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす「ロッカーは蹴るな」
 「もの言へぬロッカー蹴るな鬱屈を晴らしたければ人を蹴りなさい」
奥村晃作『都市空間』

ロッカーは大切に使わないといけないけど、ここまでくると狂気ですね。

 甘柑の酸味にちかい子の寝息

甘柑というのは調べたけれどよく分かりませんでした。柑橘類なんでしょうね。林檎や花梨などの仁果類は若さの喩になることが多い気がするけど、柑橘類は小さな子につながりやすいのですかね。あの粒々感が。そういえばこんな短歌もあります。

 あたらしきいのちみごもる妻とゐて青き蜜柑をむけばかぐはし  杜澤光一郎『黙唱』

こちらは自分・妻・あたらしきいのちの全てを含んだ感慨なんでしょう。

 首都の名が長くて革命が見えぬ

この句を見て、そういえば……と思い出したのがバンコクの正式名称。

クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット

革命が起こったときに王宮を守れるよう、それはそれは長い城壁を築いたかのような正式名称。

 釣ってきた魚のことばまで食べる

「魚のことばまで食べる」というと、魚の身だけでなくその思念までも食べるかのようなイメージが湧いてきます。「死にかけの鯵と目があう鯵はいまおぼえただろうわたしの顔を」(東直子『東直子集』)という短歌がありますが、この主人公もこの後、魚の最期の思念まで食べることになるのでしょうか。

 鳥獣虫魚のことばきこゆる真夜なれば青人草と呼びてさびしき  前登志夫『縄文紀』

鳥獣虫魚のことばを聞く、といえば前登志夫が思い出されます。この短歌で「青人草」なる言葉を初めておぼえました。

 結界から細き小用しにかえる

生理現象だから仕方がないという。伝奇小説などではまず描かれないところです。スーパーヒーローが敵と戦うときだって、建造物は壊れるし、巻き添えを食っちゃう人がいる。でも詳しくは描かれない。

 鏡から花粉まみれの父帰る  石部明『遊魔系』

こちらは小用でなく花粉。短詩型のおもしろさは一つの作品を見て別の作品を思い出せるところにありますよね。

 豆腐喰う とうふささえるものを喰う

川柳は「穿ち」を大切にするものだと思いますが、それならばこういう川柳を書いてほしいし、わたしも書いてみたい。そう思わされる句です。わたしのいう穿ちとは、人間の目を曇らせている通俗的な認識に穴をあけて真を明るみにすることです。

 眼裏といういちばん遠いところ
 鳥は目を瞑って空を閉じました
八上桐子『hibi』

句集に収録される前から大好きだった作品です。ともに真実を穿ちながらも幻想的で、とても素敵な句だと思いませんか?

 馬奔る 馬の姿を抜けるまで

句集中もっとも好きな川柳で思わず、かっこいい! と叫んでしまいました。三島由紀夫の『葉隠入門』に、
エネルギーには行き過ぎということはあり得ない。獅子が疾走していくときに、獅子の足下に荒野はたちまち過ぎ去って、獅子はあるいは追っていた獲物をも通り過ぎて、荒野のかなたへ走り出してしまうかもしれない。なぜならば彼が獅子だからだ。
というくだりがあったため、突き抜け感のある動物の代表はライオンだとずっと思ってきました。ライオンが肉体的な突き抜け感だとすると、掲句の馬にはたましいの突き抜け感、言いかえれば「全霊感」をおぼえます。

 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ  塚本邦雄『感幻樂』
 生き急ぐ馬のどのゆめも馬  摂津幸彦『摂津幸彦全句集』

この二作品の馬は読み手によっていろいろなイメージを呼び起こすと思いますが、わたしは全霊感=たましいの極限感をおぼえるのです。

なお、『田中博造集』は邑書林でまだ新品が買えます。
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2021年10月08日

倉本朝世著『硝子を運ぶ』を読む

この半年ほど何かと出力ばかりしてきたので、ここ数日はいろいろと入力をしつつ過ごしています。平岡直子さんや笹川諒さんの歌集を手に入れて読んでみたり、むかし手に入れた句集や歌集を読み返したりもしています。その中の一冊で今日ご紹介したいのは、倉本朝世第一句集『硝子を運ぶ』(詩遊社、1997年)です。

同書が発売された時期は、いまの所謂「現代川柳」につながる流れが出てきたころだと思います。1998(平成10)年に石部明・加藤久子・佐藤みさ子・倉本朝世・樋口由紀子各氏による同人誌『MANO』が創刊され、2000(平成12)年には『現代川柳の精鋭たち 28人集―21世紀へ』(北宋社)が発売されました。

魔法瓶・月曜日・胎内区・ニュース速報・ベッド・硝子を運ぶ、からなる章の冒頭には、そこの句群と共鳴するような短文が添えられています。たとえば胎内区の章の冒頭は次のとおり。

空き瓶収集家の男と一緒にバスに乗っていた。
バスが振動するたびに男のかばんがガチャガチャと鳴る。
不意に
「次は胎内区、終点です。」
とアナウンスがあり、乗客がいっせいに立ち上がった。
見ると、乗客のからだはみんな透明な硝子瓶で、その中ではきれいな水が揺れていた。

同書の4年後に発売された、なかはられいこ著『脱衣場のアリス』(北冬舎、2001年)にも、各章の冒頭に詞書が添えられています。昔の句集全般を読んだわけではないので違っているかも知れませんが、川柳句集に作家的な構成意識が目に見えて出始めたのは2000年前後からではないでしょうか。

そもそも川柳界では句集自体があまり出版されてきませんでした。あったとしても、それは大物の柳人の総合作品集であったり、句会で入選した川柳を時系列で収録した句集であったりして(もちろんこれらも貴重なお仕事であります)。

それでは以下、倉本さんの川柳を見ていきましょう。

 童話のページ深くて桃は冷えており

童話のページが冷蔵庫か貯蔵室であるかのように想える不思議。

 北を指しゼラチン質の恋すすむ

右左をきょろきょろする東や西ではなく、うしろ向きの南でもなく、まっすぐに前を指してすすむゼラチン質の恋。でも北は寒いのでゼラチンが溶けるとはかぎらないし、北は「北げる=逃げる」にもつながります。一途な恋心を詠んでいるかと思いきや、単純にはいかない恋かも知れません。そう言えばわたしの若書きに「ゼラチンが揺れます溶けます好きです」というのがありました。ちょっと恥ずかしい。

 空き家から大きな心音が漏れる
 カタカナ語禁止区域に咲くダリア

空き家の増加が社会問題になっていたり、トニー谷やルー大柴が可愛く思えるほどカタカナ語が氾濫していたりする「現在」から読むと、当時と違った読みが生じるかも知れませんね。

 一字ずつ覚える殺し屋の名前

殺し屋よりも、ある意味この人のほうがコワいという。

 ぎこちなく背中の沼を揺すり合う

「背中には川が流れておりますか」(畑美樹)を思い出します。人間はみな、その人の生きる環境なり、業なり、人生の時期なりによって背中に海や湖があったり、沼があったり、川があったりするもの。でも、もしそれが「池」だったら大人としてはちょっと切ない。しかもボールが浮いている池だったりしたら、もう。

 少年は少年愛すマヨネーズ

マヨネーズという大衆的な調味料を添えているのがいいですね。けっしてはマヨラーではないのだけど、マヨネーズは万能! と言いたい。

 ラップごしだから戦争はなめらか

「世界からサランラップが剝がせない」(川合大祐)とあわせて読みたい川柳。

 名前からちょっとずらして布団敷く

寝る、という行為はこういうことなんじゃないかと思わされます。眠る前と起きた時との人格に同一性はあるか、などと哲学的に考えてのことではない。日々の実感からそう思えるのです。これも「夜具を敷くことも此の世の果てに似つ」(川上日車)とあわせて読みたい。

倉本さんは現在、あざみエージェントで出版・編集・あざみの会の運営・YOUTUBEへの動画投稿などをなさっています。川合大祐の第一句集『スロー・リバー』も倉本さんの尽力が大きいのです。

『硝子を運ぶ』のあとがきに倉本さんはこう書いています。これ、すごくよくわかるんですよ。

ここに一枚の硝子がある。
これは私が日常をきちんと生きるための硝子であり、日常に埋没してしまわないための硝子でもある
私が川柳を書き始めてから六年余りの間に、この硝子から見えた百の風景をこのようなかたちでまとめることになった。もし、私が少しでも日常をおろそかにしたなら、また逆に少しでも日常に押し流されたなら、たちまち私の川柳は色褪せたものになってしまうだろう。
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2021年08月16日

湊圭伍著・現代川柳句集『そら耳のつづきを』を読む


現代川柳句集『そら耳のつづきを』
著 者:湊圭伍
発 行:2021年5月26日
発行所:書肆侃侃房

靴音から遙かに閉じゆくみずうみ

そら耳のつづきを散っていくガラス

手のひらの穴から万国旗をのぞき

きみの死をぜんぶ説明してあげる

くちびるを捲って遠い火事をみせ

帝王を折檻にゆくはらたいら

拍手した手がふっくらと焼き上がる

火葬場の火からウナギの話題へと

寝返りを打つと渚がちかくなる

意味なんてあればあったで寝てしまう


湊圭伍さんの第一句集『そら耳のつづきを』が出ました。わたしと湊さんは、2009年から柳誌「バックストローク」に投句を開始しました。その後「川柳カード」を経て、現在も「川柳スパイラル」で一緒なのですから、言ってみれば「同じ釜の飯を食ってきた」間柄です。

とは言え、当時の湊さんは俳句や現代詩を通過してきたからかも知れませんが、五七五(前後)の長さで表現する力量がわたしよりもありました。ずっと短歌をやってきたわたしではありますが、川柳は下の句のない短歌みたいなもの。その短さには正直、困惑するばかりだったのです。東京2020オリンピックのあとだからでもないのですが、当時のわたしをレスリングになぞらえるなら、上半身も下半身も自由に攻撃してよいフリースタイル・レスリングだけやってきた人が、下半身を攻撃してはいけないグレコローマン・レスリングを始めたようなものなのです。

五七五に四苦八苦していた当時のわたし。他方、湊さんは、2010年3月7日の週刊俳句【川柳「バックストローク」まるごとプロデュース】(バックストローク30号)、2011年4月9日の「第4回BSおかやま川柳大会」での選者(バックストローク35号)、同年9月17日の「バックストロークin名古屋シンポジウム」でのパネラー(バックストローク36号)、短詩サイト「s/c」での「川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞」など、新人ながらその句作センスと批評力にみあった役目が与えられ、みごとその期待にこたえていたのでした。こうして文章で記すだけだと何とも簡単ですが、リアルタイムで見た者からするとまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。現代川柳界に出現した新星でありました。

湊さんのご活躍は本人の力もさることながら、当時の川柳環境にも後押しされたのかも知れません。句集の「あとがき」を読んでそう思いました。彼が所属していた「バックストローク」や「川柳結社ふらすこてん」の主要メンバーは、石部明・石田柊馬・くんじろう・筒井祥文・樋口由紀子・小池正博・きゅういち・吉澤久良・兵頭全郎の各氏を見てもわかるように西日本の柳人たちでした。当時の湊さんは近畿在住。こうした気鋭の柳人たちとじかに交流し、刺激を受けることで、川柳の実践知をみるみる吸収していったのであろうことは想像に難くありません。

一方のわたしは東京者であり、バックストロークに似た作風のグループが関東になかった関係で、しばらくは一人で句作をする環境でした。でもやがて、当時こちらにいた江口ちかるさんと出会い、「かばん」に川合大祐さん・千春さん・柳本々々さんが入会してきたことで、徐々に環境が変化していきます。さらにこのブログを通じて全国の柳人の皆さんとの交流も増え、いまでは日々刺激を受けつづける毎日です。

いまこの文章は、昔話を楽しむような感覚で書いています。湊さんとわたしがバックストロークに投句を始めてから12年。その月日の流れを想うと、彼の第一句集が出たことは本当に感慨深い。

意味なんてあればあったで寝てしまう
この句、じつは暗唱できるくらい気に入っているのですが、以前読んだ川柳評論に書いてあった警句かな、くらいに思っていました。それが今回『そら耳のつづきを』を読んで、そっか湊さんの川柳だったんだ! と嬉しくなりました。〈中八がそんなに憎いかさあ殺せ〉(川合大祐)と同じくらい示唆に富んでいると思います。ホント、みんなにこの句を暗唱してもらいたいです。

火葬場の火からウナギの話題へと
このあたりは所謂「伝統川柳」的な興趣があります。でも、いまはこういう不謹慎さを含んだ伝統川柳を見る機会が少なくなりました。みんなもっと不謹慎になれ。

帝王を折檻にゆくはらたいら
こういう一見狂句風な川柳も湊さんは書きます。他にも〈おい思想だな〉というのもあり、こちらは一行詩のような風采ですね。川柳の可能性をを楽しんでいるな、とわたしも愉しくなりました。

くちびるを捲って遠い火事をみせ
最初は〈ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺〉(塚本邦雄)を思い起こしたのだけど、すぐに塚本の短歌とは趣きが全然違うことに気づきました。むしろ〈雑踏のひとり振り向き滝を吐く〉(石部明)に近くて、川柳的な茶目っ気を感じます。

そら耳のつづきを散っていくガラス
「そら耳のつづき」→「散っていくガラス」の展開が抜群に上手い! ここでの「そら耳」は絶対動かしたくありません。そら耳という過誤につづいて舞い散るガラス。今の時代・今の人間ともシンクロしている気がします。ガラスが散ることでいうと、〈一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の羽根が舞ふイメージで〉(黒瀬珂瀾)が有名ですが、湊さんの掲句も忘れられない川柳になりそうです。
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2021年03月28日

星の痛みー千春句集『てとてと』を読む 小池正博



 川合大祐の第二句集『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)が近日中に刊行されるようだが、川合のパートナーである千春の句集を取りだして改めて読んでみた。句集を読みながら、五つのキイワードが頭に浮かんだ。

【星】

  微調整して下さい冷蔵庫の星の位置

 冷蔵庫のなかに星を入れておく。あるいは、ふと気がつくと星が保存されていた。けれども、その位置には微妙なズレがある。違和感があるのだ。

  星同士結婚したり別れたり

 擬人化されているが、星と星とが気が合って結婚することがある。けれども、実際の生活がはじまるとケンカしたり、ちょっとしたくい違いで別れたりするが、またもとに戻ることもある。

  なるべくだったら星の話にして

 本当は星の話ではないのだが、できれば星の話にしておきたい。俗世間の聞くに堪えない話は気分が悪くなるので、天上の星の話だったらいいのに。

  埋もれる罅われ星の開拓史

 水惑星ではなく罅われている星がある。それでも何とかやってきたのだが、そんな歴史もすでに風化して埋もれている。

【病気】

  こんないい病気をくれてありがとう

 病気が好きな人はいないから反語である。病気も自分の一部だから受け入れていくしかない。

  入院はしないから退院もしない

 入院したからといって、どうなるものでもない。病気は自分自身だから、入院も退院もないのだ。

  どんぐりころころ処方箋下さい

 けれども、その時々で処方箋が必要になる。ころころとちょっとだけ前に進む。

  女陰には女陰の薬あばれるな

 セックスに関わる身体用語を千春はしばしば使う。吐き出しておかなければ暴発するものがある。

  けんかするしんさつしつがきえさって

 人間関係のトラブルで、診察どころではなくなってしまう。

【ジェンダー】

  ナプキンの出番がこない月割れる

 女性の生理と身体について。

  婦人科の男がみてる黄泉の国

 男性に見られるものとしての身体について。

  例えば、女の自分に慣れてきた

 心と体のズレ。ズレがあっても「ふり」をして生きていかなければならないのが生活である。演技にも慣れてきたのだが、それが良いことなのかどうか分からない。

【動物たち】

  思い出は鯨にそってさかのぼる
  鳥去って開かずの間などありません
  こぼしたね羆ゆるしてしまったね

 動物を使った作品に秀句が多い。「猫」はここでは取り上げない。

【バス】

  バスは遅れたいとき遅れればいい

 けっきょく、そういうことなんだな。日常生活者の立場からすれば、時間通りに来ないバスは困るだろう。けれども、こういう心境で生きていくことができれば楽になるだろう。周囲の人がそれを認めてくれればいいのだが。
posted by 川合大祐 at 08:50| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月02日

『てとてと』千春 を読む   竹井紫乙


 二月、千春さんから「『てとてと』の批評文を書いていただけないでしょうか?」というメールが届いた。
『てとてと』には作者の川柳、短歌、詩が掲載されており、この一冊で千春ワールドが堪能できるように構 成されている。この構成は当然作者の希望によってなされたものだろう。基本的にどの表現形式でも作品 のトーンは一貫していてムラが無い。だから読みやすいし読者は安定した心持ちで最後まで読み進めること ができる。ということは裏返せば川柳だけの、あるいは短歌だけの構成にしても良かったのではないだろう か、ということも考えられる。表現形式が様々に構成されていることを否定するものではない。単純にいず れの表現形式においても書かれていることの内容が具体的に同じであるから、読み終えた時に全体の構成 に対する疑問がわいた。これについては「あとがき」にも作者本人が<川柳、短歌、詩が私にとってなんであ るのか、答えは、これからゆっくり感じていきたいと思います。>と書いている通りで、形式の使い分けにつ いては作者が自然な流れで行っていることであって、意識的な行為ではないらしいことが窺える。興味深い 点は答えを出してみたいとか、考えてみたい、ではなく<感じていきたい>と書いていること。このスタンスが 千春さんの、ものを書く姿勢そのものなのではないかと思われる。
 川柳の長い歴史の中に作家性の欠如という事実があり、それは川柳の器の大きさでもあるから、悪い面ば かりではない。その器に誰でも入れるという利点がある。長く川柳を書いている先輩方の中には句集を出す 必要はない、という考えの方が多い。自費出版にはお金がかかり、ほとんどの場合、売り物ではなく配りもの としての扱いになる、という以外にそもそも残す必要がない、という考えが根強くある。私は句集を三冊作 っているけれど、この「残さなくていい」という考えは理解できる。人として生きて、生活していくうちに身の 内から溢れてこぼれ落ちてしまうものを表現したい気持ちはあっても、わざわざ形作って残すことはない。そ れは句を書く行為とはまた別のことだから。ということなのだろう。この考え方はさほどおかしなものだとは 思えない。川柳の器は大きいから。
 千春さんは自分の作品集を作りたいと思った。私と違い、千春さんの場合はジャンルの問題は、問題では なかった。そのことは『てとてと』を読めばわかる。とにかく本を作りたかったのだ、という情熱が伝わってく るけれど、どの表現形式をどのように選択し、なにを表現しているかという問題は、千春さんが「書くことが 好きで、本にまとめてみたかった人」から「作家」になる段階で厳しく問われてくる問題であると思う。時折、 「川柳とはなにか」、或いは「現代川柳とはなにか」という話題を目にするけれど、それは同時に「どうして川 柳という形式を選んだのか」ということを書き手が外部から問われることを意味する、ということでもある。 千春さんはどのように答えるだろうか。
 最後に『てとてと』から川柳を二句。
  
  「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ

 とても平和な世界観だ。社会を構成する最も小さな単位は二名で、血縁関係の無い者同士で生活を営ん でゆくこと。これまでの家の中のルールも習慣も違う人間が二人。お互いの価値観を尊重することができな ければ心穏やかに暮らせない。お互いの体の扱いには注意が必要で、肉体関係はひとつ間違えると暴力に 変化する。その繊細さを見事に川柳に仕上げている。

  夏休み永遠が待つ鳥のふん

 鳥の糞には植物の種が混じっている。あちらこちらに種を運ぶから、鳥の糞は植物にとっては子孫を残す 為の大切なツールだ。そこには永遠があり、未来がある。長い長い夏休みのようなゆるい明るさがある。句の 書き方はまるで子供の作文のようなあどけない趣を持っていて、そこがまた「永遠」に響いている。
posted by 川合大祐 at 07:31| Comment(0) | 川柳句集を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする