2020年09月09日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちC

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夏目漱石と素晴らしき格闘家たちB

『漱石日記』を読むうちに、わたしがいつも短歌を投稿している「かばん」の関係者の名前を見つけました。それは明治42(1909)年6月3日(木)の日記。そこに「前田夕暮まえだゆうぐれ来」とあるのです。たったこれだけの記述なので、どんな用事で来たのかはわかりませんが、思いがけず歌人の前田夕暮と漱石とのあいだに交流があったことを知りました。

このころの夕暮は、明治40(1907)年と41年にパンフレット歌集『哀楽』を出し、明治43(1910)年には実質的な第一歌集『収穫』を出版。これが高い評価を受けました。この年には結婚もし、翌44年には歌誌「詩歌」を創刊。大正元(1912)年には第二歌集『陰影』を出版しました。ですから明治42年というと、夕暮が脚光を浴びる直前ということですね。

その前田夕暮が「かばん」とどう関わっているのか。簡単にお話しします。夕暮が創刊した「詩歌」は夕暮の没後、長男で歌人の前田透が引き継ぎました。が、その透が昭和59(1984)年に急逝すると、「詩歌」のメンバー数人が「歌人集団ペンギン村(現・歌人集団かばんの会)」を立ち上げ、「かばん」誌を創刊したのです。初期の会員の多くも「詩歌」の会員だったと聞きます。そのような次第で前田夕暮は、「かばん」のルーツともいうべき歌人なのであります。

さて、その夕暮と格闘技とがどう結びつくのでしょう。何と夕暮は、ボクシングとレスリングの連作を昭和7(1932)年に書いていたのです! 時間の流れにそって詠まれているので本当は連作全体を見たいところですが、そうもいきませんのでそれぞれ3首だけ引用させていただきます。

   拳闘  日比谷公会堂の一夜
ぎらぎら光る眼だ。真黒な肉塊がいきなりとびだす、ボビイ!(黒人ボビー対野口)
直突ストレートだ、空撃ミツスだ、鈎突ノツクだ、ボビイの顎が右から左から撃ちひしがれて――ゴング
撃倒された闘士のうしろから、白いタオルがひらりと投げられる


『青樫は歌ふ』(1940年/白日社)より。野口とは、ライオン野口こと野口進だと思われます。野口ボクシングジムの創始者です。有名なピストン堀口より少しだけ前の強豪です。第2代・第3代・第4代・第7代の日本ウェルター級王者を獲得しました。一方のボビーとは、フィリピンのボビー・ウィルスという選手のことだと思われます。ボクサーの戦績・戦歴を掲載している「ボクシング 選手名鑑 -戦績一覧- -戦歴一覧-」というブログがあります。そこを参照させていただいた結果、野口とボビーは昭和6(1931)年から昭和7年にかけて5回対戦しています。

・ボクシング 選手名鑑 -戦績一覧- -戦歴一覧-
http://fanblogs.jp/boxingmeikan/archive/459/0

昭和7年ですと、1月11日、4月15日、4月20日に二人は対決。いずれも野口が勝利しています。夕暮の連作には日付が記されていないのですが、手掛かりはあります。「白いタオルがひらりと投げられる」とあるので、夕暮の観た試合は野口のTKO勝ちだったことがわかるのです。先のブログによれば、野口がTKOで勝利したのは4月20日の試合なので、おそらくそれを詠んだものと推測できます。なお、初期の日本のプロボクシングに関心がある方は、「日本プロボクシング協会」内の〈ボクシングの伝来と協会の歴史〉を参照なさってください。

夕暮の作品は口語自由律の短歌です。この〈スポ根文体〉は、定型だと難しいかも知れませんね。一見すると、試合の記事の断片なり、実況の文字起こしなりに見えそうな気がします。昭和初期にプロボクシングを詠んでいたことは驚きですが、夕暮の文体も驚きなのです。夕暮は昭和に入ると、それまでの定型短歌から口語自由律に作風を一新しました。引用歌はその時期の短歌です(のちにまた定型に回帰します)。
(つづく)

2020年08月31日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちB

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夏目漱石と素晴らしき格闘家たちA

1901年12月11日のバーティツ大会を記事にしたフィットネス雑誌『サンドウズ・マガジン・オブ・フィジカル・カルチャー』ですが、このサンドウというのは人名なんです。彼の名はユージン・サンドウ。「近代ボディビルの父」と呼ばれる彼こそが、サンドウズ・マガジンを創刊した人物です。

サンドウは1867年にプロイセンで生まれました。虚弱だったサンドウに新鮮な空気を吸わせてあげようと、お父さんが彼を連れてイタリアを訪れたときです。古代の彫刻の逞しい肉体にサンドウはすっかり魅せられ、みずからの肉体を彫刻することに目覚めたのでした。当時の有名なトレーナーのもとで肉体を鍛え上げ、1889年にロンドンのストロングマン・コンテストで優勝。これにより彼の名声は一気に高まりました。

その後、筋肉・怪力パフォーマンスで各国をまわり、人気を博しました。殊にイギリスでのサンドウの需要は高かったといいます。その理由は、当時のイギリス労働者階級の深刻な虚弱体質にあったようですが、詳しく知りたい方は坂上康博 編著『海を渡った柔術と柔道 日本武道のダイナミズム』(青弓社)所収の岡田桂著「柔術家シャーロック・ホームズ、柔道家セオドア・ルーズベルト」をお読みになってください。

サンドウは実業家としても優れていました。たとえばトレーニングの教則本を出し、通信指導を行っていました。また運動器具の開発をしたり、おしゃれなスポーツクラブを開設したり、先にも述べたスポーツ雑誌を刊行したりと、かなり手広く事業を展開していたようです。

わが国でもサンドウのトレーニング法は紹介されました。明治33(1900)年、嘉納治五郎の私塾連合である造士会が『サンダウ体力養成法』(造士会 編/造士会)を出版したのをはじめ、サンドウに関わる本が幾冊か出ました。柔道の生みの親である嘉納治五郎もサンドウから影響を受けていたわけです。ちなみに嘉納は、明治26(1893)年の高等師範学校校長時代に、夏目漱石を英語講師として迎え入れています。人の縁とは不思議なものですね(参考:全日本柔道連盟HP内「コラム第7回:ラフカディオ・ハーンと夏目漱石」)。

1901年、サンドウは初のボディビル・コンテストをロイヤル・アルバート・ホールで開催しました。大会は大成功。そのときサンドウらとともに審査員を務めたのはコナン・ドイルです。なんと! ドイルとサンドウには交流があったのです。『コナン・ドイル シャーロック・ホームズの代理人』(ヘスキス・ピアソン・植村昌夫 訳/平凡社)にはこう書かれています。

彼はユージン・サンドウに筋肉増強法の個人指導を受けた。サンドウは象を持ち上げ大砲の弾でお手玉をしてみせた怪力男である。

ドイルはスポーツマンとして何にでも手を出したようですが、クリケットは特に上手だったようです。同じくこう書かれています。

クリケットでは打者としても投手としても一流で、由緒あるマリルボーン・クリケット・クラブの一員として何度か「ファーストクラス」の試合に出場した。ドイルは投手としてW・G・グレースのウィケットを倒してアウトにしたことを大いに誇りにしていた。

近年、日本でも筋トレブームで、「筋肉は裏切らない」なんて言葉もよく耳にしますが、ここまで見てきたように筋トレブームの先駆けは、まさにユージン・サンドウだったわけです。尤もわたしは筋トレ的な筋肉がちょっと苦手なので、このブームに乗っかってはいませんが……。なお、彼はトーマス・エジソンが発明した映写機「キネトスコープ」作品へも出演しました。こちらはネットでも観ることが出来ます。

ところでスポーツマンといえば、夏目漱石もスポーツが得意だったと聞きますよね。親友の正岡子規も大変な野球好きでしたが。『漱石先生とスポーツ』(出久根達郎/朝日新聞社)にはこう書かれています。

 そんな子規が、大学予備門時代は、ベースボールに熱中していた。わが国ベースボール草創期に、このスポーツを世にひろめた功労者の一人である。
 一方、漱石も大学時代は、器械体操の名手であった。抜群にうまかった、という同級生の証言がある。ボートも漕いでいる。東京から横浜まで力漕した、という。水泳、乗馬、庭球も行っている。野球も体験しているようだが、これは子規の感化だろう。
 二人とも若い頃はスポーツマンだったのだ。

夏目漱石がイギリスに留学していた時期は、コナン・ドイルが活躍していた時期でもあり、またサンドウのフィジカル・カルチャー(身体文化)がイギリスを席巻していた時期とも重なります。それと関りがあるかはわかりませんが、明治42(1909)年の『漱石日記』にこんなことが書かれているんです。

 六月二十七日〔日〕 雨。西村にエキザーサイサーを買って来てもらう。これを椂側えんがわの柱へぶら下げる。

 六月二十八日〔月〕(中略)エキザーサイサーをやる。四、五遍。からだ痛し。

「からだ痛し」を見てジャスミン茶を吹き出しそうになりました。エキザーサイサーという英語の商品名からして輸入物の運動器具なんでしょう。時期からすると、サンドウの開発した器具を買ったのかも知れませんね。
(つづく)

2020年08月04日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちA

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夏目漱石と素晴らしき格闘家たち@

ところで、漱石が観た興行についてネットで調べてみると、その興行と思しきものに言及した文章がいくつか見つかりました。いちばん詳しく載っていたのは、1902年1月の『サンドウズ・マガジン・オブ・フィジカル・カルチャー』の記事です。その記事では、1901年12月11日にセントジェームズホールで催された「バーティツ」の大会がレポートされています。以下、そこから引用させていただきます。

But truth to tell I could not go far; for it was with the intention of learning, so to please the Fates and Mr. Barton-Wright, that I recently attended the Tournament which was recently promoted by the latter, and held at the St. James's Hall on December 11th last, with a view to placing before the public a scientific exposition of his much-discussed system of self-defence - Bartitsu.

The retirement of the Japs brought on the chief event set down for decision. This had nothing to do with Bartitsu, but was a wrestling match for £50 between A. Cherpillod, Swiss Champion of the Continent, and Joe Carroll, Professional Champion of England, under catch-as-catch-can Rules.

(引用元はどちらも「Journal of Western Martial Art」
https://ejmas.com/jmanly/articles/2001/jmanlyart_sandows_0301.htm)

バーティツ。シャーロック・ホームズが好きな方には有名かも知れません。スイスのライヘンバッハの滝の上で、ホームズが宿敵モリアーティ教授と揉み合いになった際、日本の格闘術「バリツ」を使ってモリアーティを滝壺に落とし助かった、というエピソードがあります。『空き家の冒険』でのホームズの述懐です。そこでコナン・ドイルが記したバリツなのですが、正確には「バーティツ」だという説が現在は有力なんです。

バーティツは、イギリス人のエドワード・ウィリアム・バートン=ライトが始めた自己防衛術・総合格闘術です。柔術・ボクシング・レスリング・サバット・ステッキ術などの要素で成り立っていました。彼は仕事で日本にいたとき、柔術を学んだことがあったのです。わたしが子供の時分は、バリツの正体は日本の武術だとか、柔術・柔道だとか、相撲だとか、馬術だとか諸説あったものですが、イギリス人が確立した格闘術のことだったわけです。

バーティツの拠点となったのは、バートン=ライトが設立した通称「バーティツ・クラブ」(正式にはバーティツ・アカデミー・オブ・アームズ・アンド・フィジカル・カルチャー)です。ここでは、ステッキ術・サバットの専門家、プロレスラー、柔術家などが雇われ、指導にあたっていました。女性のための護身教室も開かれていたみたいですよ。

漱石がレスリングを観たと書いた書簡の日付は、1901年12月18日であり、バーティツの大会と日にちの前後関係で整合性がとれています。また、会場もセントジェームズホールで同じです。加えて、スイスの王者vsイギリスの王者という点も合致しており、漱石が観た興行はこの可能性が高いと思われます。

なお、引用文中に出てくるスイス王者のArmand Cherpillodは、バーティツ・クラブでレスリングの指導員をしていたプロレスラーです。指導員時代には、日本人指導員との交流を通じて柔術の技術を習得。スイスに戻ってからは、日本の武術を教えていたということです。

さて、このバーティツの大会では、日本の柔術家たちによるデモンストレーションやエキシビションが行われました。しかしながら、柔術家による本式の試合は行われなかった模様。もし漱石の書簡にあったように、柔術家vsレスラーの勝負が実現し、柔術が勝利していたなら、説得力が格段に増していたと思います。きっとバートン=ライトとしては、小さい柔術家が大きいレスラーを投げ飛ばすシーンを観客に見せつけ、あっと言わせる腹積もりだったのでしょう。仮にそうなっていたら、漱石はどんな風に子規へ書き記していたことか。見てみたかったものです。
(つづく)

2020年07月29日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たち@

わたしは子供のころから小説というものを殆ど読んできていません。いま自分の家の本棚をみても、小説は、文学好きの親戚からもらったお下がりが数冊あるくらい。都内で一番下の高校に入るまで、ずっとクラスで最下位の成績の子でしたから、とにかく活字が苦手。殊にこむずかしい純文学など、とても読めたものではありませんでした。でも、子供向けの探偵小説だけは違っていました。中でも、ポプラ社の少年探偵団シリーズと名探偵ホームズシリーズはよく読んだものです。

シャーロック・ホームズほどの世界的な小説になると、それを元にした創作物もいろいろと生まれています。その中には、ホームズと同時代の実在人物を登場させた創作物もあって、たとえばホームズとジークムント・フロイトが絡む小説・映画があります。おなじように、夏目漱石とホームズが絡む小説もあるんです。漱石は明治33(1900)年に文部省の命でイギリスに留学しました。これはホームズが活躍していた時期と重なっているんですね。参考までに、わたしが持っている『シャーロッキアンは眠れない』(小林司・東山あかね/飛鳥新社)によると、ホームズの誕生日は、1854年1月6日説が有力なんだとか。

さて、その漱石のイギリス留学時代のこと。彼は木戸銭を払ってレスリングを観ているんです(興行内のレスリングなんでプロレスリング)。といっても、日本の柔術家とレスラーの戦いがあると聞いて、それを目当てに出掛けたようですけど。このことは、『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編/岩波文庫)で知ることができます。漱石(金之助)が病床の正岡子規へ宛てて書いた明治34(1901)年12月18日の書簡です。これが最後の書簡となりました。

先達「セント、ジェームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た。
(中略)
ソンナシミッタレタ事は休題として肝心の日本対英吉利イギリスの相撲はどう方がついたかというと、時間が後れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった。その代り瑞西スイスのチャンピヨンと英吉利のチャンピヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも一、二と行司が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大にらちのあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒そうとする、倒されまいとする。坐り相撲の子分見たような真似をして居る。御蔭に十二時頃までかかった。ありがたき仕合しあわせである。

まあ、こんな感じなんでしょうね。そもそも組技系格闘技は、打撃系格闘技と違って興行に不向きな面があるのです。打撃のようにアクションが大きいわけでもなく、また型の演武があるわけでもなく、どんなに寝技の技術が高くてもそれが観客に伝わりづらいのです。

加えて1900年ごろといえば、10割近い日本人がレスリングなんて知らなかったでしょう。以下は、先日取り上げた小島貞二著『力道山以前の力道山たち―日本プロレス秘話―』(三一書房)に詳しく書かれていることですが、日本で初めてレスリングの興行が催されたのは、明治20(1887)年。プロモーターは浜田庄吉。明治16(1883)年に角界を脱走し、海を渡ってレスリングを習った男です。「西洋角觝」などと銘打ったこの興業では、レスリングと同時にボクシングの試合も組まれたようですが、興行的には失敗。レスリングが日本に根付くことはありませんでした。

その後、プロレスラーのアド・サンテルが、日本柔道に挑戦状を叩きつけ、はるばる船に乗って来日したのが大正10(1921)年のこと。サンテルは、パワフルな投げ技と卓越したサブミッションホールド(締め技・関節技)をもつ強豪で、世界ライトヘビー級王者にもなった選手です。この柔道vsレスリングの試合は、靖国神社境内相撲場にリングを設置して行われました(この他流試合については丸島隆雄著『講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件―』に詳しいです)。当日は渋沢栄一や、元横綱・太刀山峯右エ門も観戦していたそうです。なお、このアド・サンテルは、のちに鉄人<求[・テーズを指導したことでも有名です。テーズにサブミッションホールドを教え、それがテーズの財産になったわけです。

そして昭和3(1928)年には、三宅多留次らによる「大日本レッスリング普及会」のレスリング興行がありました。三宅は明治37(1904)年から柔術家として欧州で活躍した後、アメリカで柔術を指導していました。と同時に、タロー三宅・メケ三宅などのリングネームでプロレスラーとしても活躍。後年、ハワイ相撲の横綱だった沖識名をプロレスリングにスカウトしたことでも有名ですね(その沖識名は、力士だった力道山がレスラーに転向した際のトレーナー)。この興業は、三宅が24年ぶりに帰国した凱旋興行だったわけですが、浜田同様、これも失敗に終わってしまいました。

浜田庄吉と三宅多留次の興行が成功しなかったように、日本人にとってレスリングは退屈な格闘技だったのでしょう。結局、根付きませんでしたからね。レスリングにたいする漱石の感想は嫌みったらしいようにも思えますが、率直な感想だったと思います。スポーツを、殊に組技系格闘技を興行として成り立たせるためには、綺麗事だけでは済まされない、とわたしは思っています。
(つづく)

2020年07月27日

弘田三枝子とヴァケーション

弘田三枝子が亡くなった。

20代前半の時分、日本人によるビートルズのカヴァーを集めたCDを買った。その中には弘田三枝子も入っていた。収録曲は「ペイパーバック・ライター」。他の日本人ミュージシャンには悪いが、弘田三枝子の歌唱力は他を圧倒していた。

学生時代、音楽関係の仕事につくのを夢みる友人がいた。バイト先で知り合った男で、大学はべつべつ。けれど、二人ともあまり音楽の流行には頓着せず、いい曲ならば生まれる前の作品もよく聴くタイプだったので、すぐに仲良くなった。彼は『ミュージック・マガジン』の熱心な読者で、音楽を社会と結びつけて批評することが得意だった。理屈っぽいところでも気が合ったのだろう。あるときその友人と、弘田三枝子が歌う「ヴァケーション」が素晴らしい、殊に日本語の歌詞が素晴らしい、と意見が一致したことがある。ちなみに「ヴァケーション」は、コニー・フランシスが歌ったポップスで、1962(昭和37)年のヒット曲だ。冒頭を聴けば、いまの10代でも知っている人がいると思う。

昭和30年代にアメリカから入ってきたポップス、ロカビリー、ロックンロール、ロッカバラードは、日本語カヴァーに直訳のものが多く、平成時代の学生からするとすごく滑稽に思えた。1990年代半ばごろ、王様による「直訳ロック」が話題になったことがあるけど、ちょうどあんな感じだ。そんな直訳全盛の昭和30年代にあって、漣健児の訳詞による「ヴァケーション」は洗練されていた。洋楽のビートと日本語がぴったりとマッチしているのだ。漣健児は他の訳詞も良くて、たとえばコニー・フランシスのヒットを中尾ミエがカヴァーした「可愛いベイビー」もいい。

チャック・ベリ―やエルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、バディ・ホリー、コニー・フランシス、ニール・セダカ、ポール・アンカなどの出現で、1950年代後半にポピュラー音楽は一気に様変わりした。新感覚の洋楽を日本語でカヴァーするとき、どうやって日本語を合わせればいいのか、という問題は避けてとおれなかったろう。だからこそ「日本語ロック論争」も起こった。短詩型でいえば、文語を前提とした定型へ口語をどう合わせればいいのか、という問題につながるか。

ただし、コニー・フランシスの曲は日本語の歌詞で聴いても、ほぼすべてにおいて違和感がない(コニーが日本語で自分のヒット曲を歌ったアルバムもある)。そう考えると、ポップスとロックでは、訳詞の難度に違いがあるのかも知れない。