2020年07月25日

千春『てとてと』発行

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川柳スパイラル会員の千春さんが作品集を出版されます。その名も『てとてと』(私家本工房・2020年8月1日)です。

おもに川柳が収録されていますが、千春さんの詩と短歌も読むことができます。

あとがきによれば、しおりはいなだ豆乃助さん、選句は中山奈々さん、選歌・選詩はミカヅキカゲリさん、出版は兵頭全郎さん、パソコン打ちは川合大祐さんとのこと。そして表紙は川柳北田辺句会主宰のくんじろうさん。絵手紙のプロだけに惹きつける力がすごいです。

予約は千春さんのTwitter「@chiharuharusan」から。

 大祐と々々さんに萌えてみる  千春

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2020年07月23日

前田光世の先進性

先日、川合大祐さんとお話をしたときのこと。どんな脈絡からそうなったのかは憶えていませんが、いつしか話題が前田光世の先進性に及びました(わたしと川合さんがお喋りをすると、川柳よりも格闘技の話題が多いのです)。その先進性とは、明治後期〜大正期の格闘家である前田がすでにオープンフィンガーグローブを考えていた、ということです。

わたしがそのことを知ったのは1980年代半ば。まだ少年の時分です。べつに前田光世が好きな少年だったというわけではありません。本当に時たまだったのです。当時、古本屋さんで小島貞二著『力道山以前の力道山たち―日本プロレス秘話―』(三一書房・1983年)という本を偶然見つけたのですが、わたしはまるで魔法にでもかかったかのように、この本を買わなければいけないと確信し、すぐに購入したのです。

さて、その本の中には、海外から前田が東京の親友にあてた通信が紹介されていました。ほんの一部ですけどね。それは次のような内容です。

彼ら外人は勝負も見ないうちから、自国の角力や拳闘には、柔道はとても敵わないと勝手にきめている。親の目にはわが子の醜いのも美しく見える流儀で、自分は先進国だから、何でも日本に勝っているときめるのだ。この迷夢を打破するには、われわれはもう一度、当てる蹴るの練習からやり直す必要がある。
(中略)
僕はいま、ゴム製の拳闘用手袋風にして、指が一寸ばかり(約三センチ)出るようなものを新案中だ。それから、軽い丈夫な面を、これもゴム製にして、目と鼻腔の呼吸をなし得るものを新案中だ。胸は撃剣の胴のようなものをつけてもよい。これで当てることと蹴ることの練習をやる。それから袖をとりに来る手の逆を取ること。以上の練習は柔道家には、ぜひとも必要と考える。

『燃えよドラゴン』でのブルース・リー、チャック・ウェプナー戦でのアントニオ猪木(佐山聡考案のグローブを使用)より60年以上前のことです。また現代のフルコンタクト空手や、合気道、少林拳に通ずる発想もあります。まさに総合格闘技です。

MMA(Mixed Martial Arts)は1990年代に始まったわけではありません。柔術家や柔道家が欧米の格闘技と交わったとき、すでに始まっていたのです。20世紀初頭は、今でいうグローバリズムの時代。1990年代と状況が似ていました。その時期、柔術・柔道とプロレスリング・ボクシングの戦いは頻繁に行われていたのです。そのような他流試合の経験をとおして、前田光世の発想も生まれたのであります。

2020年07月20日

広瀬ちえみ『雨曜日』を読むA


 かき混ぜるだけで戦争できあがる

先にも引用した『広瀬ちえみ集』所収の「『思い』の問題」をいま一度見てみましょう。

「思い」で書けと言われ納得したかのように川柳を書いてきた。そしていまその「思い」に揺れている。短さを逆手に取った「思い」の表現はできないものだろうか。

掲句は戦争に事寄せつつも、まさに「短さを逆手に取っ」て寓喩的に、現代のムードを描出した川柳ではないでしょうか。政治学者や経済学者、社会学者らはデータに基づいて時代を論ずるものです。それに対して優れた小説家や映画監督・画家・音楽家などは、〈直観〉によって時代のムードをえぐり出すものでしょう。学者がまだ知的に分析できていない時代性を直観によって描出してみせるのですね。柳人はそれをたった17音でやってみせます。17音だからこそ、漠然とした時代のムードを可視化できるといえばいいでしょうか。

「かき混ぜるだけで戦争できあがる」――もちろん、現代のムードの寓喩などではなく、戦争の起こり方それじたいを詠んでいるとも取れます。あらためていうまでもありませんが、世界では軍需産業が大きな力を持っています。軍産複合体なんて言葉も報道番組ではしばしば出てきますよね。その人たちの実態はわかりませんが、戦争や局地的な紛争に関与し、ばあいによってはテロにも関与して利益を生むイメージがある。また、最新兵器が余ってしまうと困りますから、在庫処分のために戦闘状態をこしらえる、なんてこともよく聞きますね。もちろん証明はできません。でも、少なくない一般庶民がそういう疑念をいだいているのは確かです。その疑念をイメージ化すると掲句のようになる、とも読めます。

ただし、川柳が短さを逆手に取る表現分野であるならば、書かれてあること以上のものが暗示されている、と見なすべきでしょう。すなわち掲句は、戦争のできあがり方を描きつつ〈現代的な不安〉を読み手に示唆している、と読むほうが上等です。現代は情報量こそ最高潮に達しております。でも、そのわりに人びとは疑心暗鬼と同居しているのです。この世界にはデータで把握しきれない深層があって、自分たちはそれを知らされていないのではないか。そんな現代的な不安を掲句から受け取りたい。

ちなみに、わたしが社会性川柳を作るときにお手本としている句があります。ただ、作者は社会性なんて全然考えていなかったかも知れませんよ。あくまでもわたしが勝手に現代を描出した句として読んでいるのです。

 明るさは退却戦のせいだろう  小池正博

掲句は、日本があらゆる局面で退却戦を余儀なくされ、水際まで追い詰められたバブル期〜平成初期(1995年の前まで)を想起せずにいられません。退却戦の只中なのに、明るさと軽さでデコレーションされていたのがあの時期です。また別の読み手ならば、21世紀になってからの日本の空騒ぎを想起するひともいるでしょうか。わたしが社会を詠むばあい、政治をかたる悪癖があるためか、具体的な政治・経済問題を狙い撃ちしてしまいます。でも、それだと散文の政治批評や小説にはなかなか太刀打ちできない。どうすれば「短さを逆手に取っ」て現代のムードなり全体像なりを詠めるか。わたしはいま、模索中なのです。

 秋日和ここを塗り忘れていぬか

掲句を見てすぐに思い出したのは、松本典子さんの「赤き傘ひらけば秋はいそぎ脚もみぢの色の塗りのこし見ゆ」という短歌作品です。内容が似ているからでしょうかね。似ているのですが、やはり広瀬さんの川柳は17音、松本さんの短歌は31音でなければならない。そんなフィット感があります。川柳と短歌それぞれの分量にフィットすることが作品の完成度にかかわってくる。ふたつのジャンルを見比べたとき、あらためてそう感じました。

 脱臼をしている今日の噴水は

杉ア恒夫さんの短歌「噴水の立ち上がりざまに見えているあれは噴水のくるぶしです」「噴水のシンクロナイズドスイミングたくさんの脚の立つ時のある」を思い出しました。広瀬さんの「脱臼」は川柳っぽく、杉アさんの「くるぶし」「シンクロナイズドスイミング」は、どちらかというと短歌っぽい。わたしにはそう思えます。また、それ以外にもジャンルの「っぽさ」を感じます。杉アさんのばあい、噴水が人間でないことを分かった上で見立てている感じがする。それに対して広瀬さんのほうは、そもそも噴水と人間の区別が曖昧な雰囲気がある。文は短くなればなるほど物事の区別を書けなくなります。分量の違いから、川柳と短歌それぞれの「っぽさ」が生まれるのかも知れませんね。

 軍服の下はパジャマですみません

句集の中でいちばん好きな句というか、いちばん笑った句です。笑ったのだけど、テクスト以上の奥行きがある作品です。

言葉の響き合いと反発、慣用語の脱臼、擬人法、短さを逆手に取った表現。これらは『広瀬ちえみ集』にも散見されましたが、本句集では前面化しているように思えます。それでも前句集と同一人格だとわかりましたから、ご自分の文体を持っていらっしゃるということなんでしょうね。広瀬さんの文体はとても親しみやすいです。そんなわけで『雨曜日』はみなさんにお勧めの句集なのであります。
(おわり)

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2020年07月09日

広瀬ちえみ『雨曜日』を読む@

句誌「垂人」の編集発行と柳誌「川柳杜人」の編集をされている広瀬ちえみさんの句集が出ました。『雨曜日』(文學の森・2020年)です。セレクション柳人14『広瀬ちえみ集』(邑書林)の発行から15年ぶりだそうです。

その『広瀬ちえみ集』には「『思い』の問題」という散文が収録されています。わたしが川柳を始めたころというのは、広瀬さんを含む「バックストローク」誌の同人が頻繁に「思い」の問題を論じていたものです。

川柳で「思い」を書くばあい、小説と違って作者の感情だけが全面的に出てしまったり、思いを一方的に押し付けたりするから、露骨でもあり重荷にもなる。でもやはり「思い」は大切で捨てがたい。とするならば、どのように「思い」を表現するかが問題となってくる。そこから広瀬さんは、次のように書いています。

 「思い」で書けと言われ納得したかのように川柳を書いてきた。そしていまその「思い」に揺れている。短さを逆手に取った「思い」の表現はできないものだろうか。
 ことばとことばのひびきあい、あるいは反発をとおして、ただならぬ空気が流れ出す、あらぬ「思い」を言ってしまう、ことはできないだろうか。そしてその向こうにある自分の「思い」を越えた何かに(変身したものに、その世界に)あやかりたいと願っており、「思い」との新しい関係を考えている。

『広瀬ちえみ集』から15年を経て「思いとの新しい関係」はどうなっているのでしょう。以下、『雨曜日』から数句引用させていただきます。

 かんぶにもこんぶにもよくいいきかす
 たまたまもまたまたもあり鳥墜ちる

 
どちらの句にも言葉の「ひびきあい」があります。と同時に言葉の「反発」もある。重厚な「かんぶ」とたゆたう「こんぶ」、単発的な「たまたま」と連発的な「またまた」。わたしは2句ともに寓話性、あるいは戯画性を感じますが、それは言葉の響き合いと反発によって「ただならぬ空気」「あらぬ思い」「自分の思いを越えた何か」が生じたからだと思います。少なくとも既成の「思い」の川柳――即興で仮構すれば〈人ひとり去って私を刺す夜風〉のように或るひとつの感情に読み手を誘導するもの――と質が違うのは明らかです。

 カーテンがあいて魔が差すいい日和
 口裏の裏の寸法まちがえる


どちらも〈日が差す〉〈口裏を合わせる〉という慣用語が脱臼させられ、正月にやる福笑いのような面白さにつながっています。あるいはこうも言えるでしょうか。初対面の相手がお辞儀をするかと思いきや、いきなり後ろへブリッジをしたら意表をつかれるでしょう。その意表性と似た可笑しみがあるように思います(もっともそのブリッジが佐山聡のように綺麗な人間橋を描いたら、意表をつかれるどころか感服してしまいますが)。ここでも「ただならぬ空気」「あらぬ思い」「自分の思いを越えた何か」が生じてはいないでしょうか。

 象が来る身元引受人として
 たたきの刑酢じめの刑に遭っており


先に挙げた4句もそうなのですが、『雨曜日』では言葉が正規の用い方から外れることで、「ただならぬ空気」「あらぬ思い」「自分の思いを越えた何か」が生起しています。掲句は、従来の言い方ならば擬人法ということになるでしょうか。擬人法も、人間でないものを人になぞらえるわけですから、言葉の正規の用い方から外れた表現法です。でも、おそらくですが、広瀬さんをはじめとする現代の柳人たちは、擬人法だの何だのと意識するまでもなく、自然にそういう表現をしているのだと思います。これは漫画の描き方と似ているかも知れません。たとえば『ドラえもん』です。ジャイアンのパンチがのび太の顔にめり込んだのにもかかわらず、次のページではもうのび太の怪我が治っていることってありますよね。冷静に考えればそれはおかしいのだけど、漫画家からすればごく自然な描写方法だと思いますし、読み手のわたしたちもそれを自然に受け入れています。現代の柳人もそれと同じなんだと思います。正規の言葉遣いを脱臼させるだの、擬人法だの、あるいはポストモダンだのと意識せず、ごくごく自然に正規の言葉遣いから自由になっているのではないでしょうか。
(つづく)

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2020年06月24日

ゴスペルのこと

先月、2020年5月9日にロックンローラーのリトル・リチャードが死んだ。
ロックンロールのパイオニア世代で健在なのは、有名どころだともうジェリー・リー・ルイスくらいか。

俺は親の影響でエルヴィス・プレスリーを聴き、一気にロックンロールにはまった。
その後、成人になってから、エルヴィスを通じてロックンロールのルーツを探るようになった。
すると、エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリー、リトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、みんなルーツに「ゴスペル」のあることが分かったんだ。

俺は殊にエルヴィスのゴスペルが好きだった。
好きが高じて、20代のころ、音楽教室にゴスペルを歌いに行ったくらいだ。
他の子たちは映画『天使にラブ・ソングを…』の影響で来ていたけど、ロックンロールの延長で来ていたのは俺だけだったな。

ロックンロールのパイオニア世代が一番影響を受けたゴスペルミュージシャンは、おそらくシスター・ロゼッタ・サープというひとだ。



この「アップ・アバヴ・マイ・ヘッド」は、エルヴィス・プレスリーの「'68カムバック・スペシャル」を購入したとき初めて知った。
それはそうとシスター・ロゼッタ・サープの間奏のギターを聴いてもらいたい。
誰かのギタープレイに似ていないかい?
俺はチャック・ベリーを想い出すよ。
チャックはシスター・ロゼッタ・サープの影響を受けまくっていたんだぜ。

ゴスペルをポピュラー音楽にしたシスター・ロゼッタ・サープ。
日本でも『天使にラブ・ソングを…』が大ヒットしたことを思えば、もっと彼女が注目されてもいい。