2020年08月07日

「川柳カモミール」第4号

発行人 笹田かなえ
定価  500円(送料別)

7月20日に「川柳カモミール」4号が発行されました。
今回は「カモミール句会設立五周年記念誌上句会」の発表号です。
上位句については「川柳日記 一の糸」をご覧になってください。

以下は川柳カモミールメンバーの作品より。
なお今回、各作品への評は、柳人の小池正博さんと歌人の佐々木絵理子さんが担当されています。

 とびきりの笑顔でエッシャー渡される  潤子

渡されたのがエッシャーとなれば、「とびきりの笑顔」も字面どおりには受け取れない。
福笑いのような笑顔なのかもしれません。

 点だった頃の点ではなくて 雨  守田啓子

点にも境涯がある。
かつては時間の流れを塞き止めていた点なのに、いまは雨の滴のように時の流れに身をまかせ。

 また百羽カラスが増えて楽しい地球  細川静

カラスも地球の賑わい。
先進国の人間は少子高齢化でも、カラスや、ごきぶりや、ねずみは、ますます増えていくのでしょうね。

 前世はスーパー南瓜だったのよ  滋野さち

漢字の前に「スーパー」をつけるとアラ不思議、渋さが一変します。
スーパー銭湯、スーパー歌舞伎など、実際にあるもののほか、スーパー川柳、スーパー写経、スーパー町内会、スーパー平泉成なんてどうでしょう。

 牛乳と乳牛ほどに遠去かる  笹田かなえ

カレーライスとライスカレーならば違いは殆どありませんが、牛乳と乳牛だと確かにまったく違いますね。
豆乳と乳豆でもまったく違いますが、18禁かも。

chamomile4.jpg
posted by 飯島章友 at 23:30| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月04日

夏目漱石と素晴らしき格闘家たちA

前回の記事
夏目漱石と素晴らしき格闘家たち@

ところで、漱石が観た興行についてネットで調べてみると、その興行と思しきものに言及した文章がいくつか見つかりました。いちばん詳しく載っていたのは、1902年1月の『サンドウズ・マガジン・オブ・フィジカル・カルチャー』の記事です。その記事では、1901年12月11日にセントジェームズホールで催された「バーティツ」の大会がレポートされています。以下、そこから引用させていただきます。

But truth to tell I could not go far; for it was with the intention of learning, so to please the Fates and Mr. Barton-Wright, that I recently attended the Tournament which was recently promoted by the latter, and held at the St. James's Hall on December 11th last, with a view to placing before the public a scientific exposition of his much-discussed system of self-defence - Bartitsu.

The retirement of the Japs brought on the chief event set down for decision. This had nothing to do with Bartitsu, but was a wrestling match for £50 between A. Cherpillod, Swiss Champion of the Continent, and Joe Carroll, Professional Champion of England, under catch-as-catch-can Rules.

(引用元はどちらも「Journal of Western Martial Art」
https://ejmas.com/jmanly/articles/2001/jmanlyart_sandows_0301.htm)

バーティツ。シャーロック・ホームズが好きな方には有名かも知れません。スイスのライヘンバッハの滝の上で、ホームズが宿敵モリアーティ教授と揉み合いになった際、日本の格闘術「バリツ」を使ってモリアーティを滝壺に落とし助かった、というエピソードがあります。『空き家の冒険』でのホームズの述懐です。そこでコナン・ドイルが記したバリツなのですが、正確には「バーティツ」だという説が現在は有力なんです。

バーティツは、イギリス人のエドワード・ウィリアム・バートン=ライトが始めた自己防衛術・総合格闘術です。柔術・ボクシング・レスリング・サバット・ステッキ術などの要素で成り立っていました。彼は仕事で日本にいたとき、柔術を学んだことがあったのです。わたしが子供の時分は、バリツの正体は日本の武術だとか、柔術・柔道だとか、相撲だとか、馬術だとか諸説あったものですが、イギリス人が確立した格闘術のことだったわけです。

バーティツの拠点となったのは、バートン=ライトが設立した通称「バーティツ・クラブ」(正式にはバーティツ・アカデミー・オブ・アームズ・アンド・フィジカル・カルチャー)です。ここでは、ステッキ術・サバットの専門家、プロレスラー、柔術家などが雇われ、指導にあたっていました。女性のための護身教室も開かれていたみたいですよ。

漱石がレスリングを観たと書いた書簡の日付は、1901年12月18日であり、バーティツの大会と日にちの前後関係で整合性がとれています。また、会場もセントジェームズホールで同じです。加えて、スイスの王者vsイギリスの王者という点も合致しており、漱石が観た興行はこの可能性が高いと思われます。

なお、引用文中に出てくるスイス王者のArmand Cherpillodは、バーティツ・クラブでレスリングの指導員をしていたプロレスラーです。指導員時代には、日本人指導員との交流を通じて柔術の技術を習得。スイスに戻ってからは、日本の武術を教えていたということです。

さて、このバーティツの大会では、日本の柔術家たちによるデモンストレーションやエキシビションが行われました。しかしながら、柔術家による本式の試合は行われなかった模様。もし漱石の書簡にあったように、柔術家vsレスラーの勝負が実現し、柔術が勝利していたなら、説得力が格段に増していたと思います。きっとバートン=ライトとしては、小さい柔術家が大きいレスラーを投げ飛ばすシーンを観客に見せつけ、あっと言わせる腹積もりだったのでしょう。仮にそうなっていたら、漱石はどんな風に子規へ書き記していたことか。見てみたかったものです。
(つづく)

2020年07月29日

「川柳スパイラル」9号発行

川柳スパイラル9号が発行されました。

9号の内容や購読・通販などについては、こちらの「川柳スパイラル」掲示板をご覧ください。

今号の「小遊星」のゲストは連句人の高松霞さんです。高松さんは「連句ゆるり」を運営されています。連句人のお話をうかがうのは初めてだったのですごく新鮮でした。連句は総合短詩ですね。

暮田真名の新連載「川柳で考え中」も始まりました。今回は「怖い川柳」試論です。

また三田三郎さんの「ゲスト作品」もおもしろいです。第一歌集『もうちょっと生きる』(風詠社/2018年)が話題になった方です。

 朝っぱらからパラドックスの踊り食い  三田三郎
posted by 飯島章友 at 21:40| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夏目漱石と素晴らしき格闘家たち@

わたしは子供のころから小説というものを殆ど読んできていません。いま自分の家の本棚をみても、小説は、文学好きの親戚からもらったお下がりが数冊あるくらい。都内で一番下の高校に入るまで、ずっとクラスで最下位の成績の子でしたから、とにかく活字が苦手。殊にこむずかしい純文学など、とても読めたものではありませんでした。でも、子供向けの探偵小説だけは違っていました。中でも、ポプラ社の少年探偵団シリーズと名探偵ホームズシリーズはよく読んだものです。

シャーロック・ホームズほどの世界的な小説になると、それを元にした創作物もいろいろと生まれています。その中には、ホームズと同時代の実在人物を登場させた創作物もあって、たとえばホームズとジークムント・フロイトが絡む小説・映画があります。おなじように、夏目漱石とホームズが絡む小説もあるんです。漱石は明治33(1900)年に文部省の命でイギリスに留学しました。これはホームズが活躍していた時期と重なっているんですね。参考までに、わたしが持っている『シャーロッキアンは眠れない』(小林司・東山あかね/飛鳥新社)によると、ホームズの誕生日は、1854年1月6日説が有力なんだとか。

さて、その漱石のイギリス留学時代のこと。彼は木戸銭を払ってレスリングを観ているんです(興行内のレスリングなんでプロレスリング)。といっても、日本の柔術家とレスラーの戦いがあると聞いて、それを目当てに出掛けたようですけど。このことは、『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編/岩波文庫)で知ることができます。漱石(金之助)が病床の正岡子規へ宛てて書いた明治34(1901)年12月18日の書簡です。これが最後の書簡となりました。

先達「セント、ジェームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た。
(中略)
ソンナシミッタレタ事は休題として肝心の日本対英吉利イギリスの相撲はどう方がついたかというと、時間が後れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった。その代り瑞西スイスのチャンピヨンと英吉利のチャンピヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも一、二と行司が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大にらちのあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒そうとする、倒されまいとする。坐り相撲の子分見たような真似をして居る。御蔭に十二時頃までかかった。ありがたき仕合しあわせである。

まあ、こんな感じなんでしょうね。そもそも組技系格闘技は、打撃系格闘技と違って興行に不向きな面があるのです。打撃のようにアクションが大きいわけでもなく、また型の演武があるわけでもなく、どんなに寝技の技術が高くてもそれが観客に伝わりづらいのです。

加えて1900年ごろといえば、10割近い日本人がレスリングなんて知らなかったでしょう。以下は、先日取り上げた小島貞二著『力道山以前の力道山たち―日本プロレス秘話―』(三一書房)に詳しく書かれていることですが、日本で初めてレスリングの興行が催されたのは、明治20(1887)年。プロモーターは浜田庄吉。明治16(1883)年に角界を脱走し、海を渡ってレスリングを習った男です。「西洋角觝」などと銘打ったこの興業では、レスリングと同時にボクシングの試合も組まれたようですが、興行的には失敗。レスリングが日本に根付くことはありませんでした。

その後、プロレスラーのアド・サンテルが、日本柔道に挑戦状を叩きつけ、はるばる船に乗って来日したのが大正10(1921)年のこと。サンテルは、パワフルな投げ技と卓越したサブミッションホールド(締め技・関節技)をもつ強豪で、世界ライトヘビー級王者にもなった選手です。この柔道vsレスリングの試合は、靖国神社境内相撲場にリングを設置して行われました(この他流試合については丸島隆雄著『講道館柔道対プロレス初対決―大正十年・サンテル事件―』に詳しいです)。当日は渋沢栄一や、元横綱・太刀山峯右エ門も観戦していたそうです。なお、このアド・サンテルは、のちに鉄人<求[・テーズを指導したことでも有名です。テーズにサブミッションホールドを教え、それがテーズの財産になったわけです。

そして昭和3(1928)年には、三宅多留次らによる「大日本レッスリング普及会」のレスリング興行がありました。三宅は明治37(1904)年から柔術家として欧州で活躍した後、アメリカで柔術を指導していました。と同時に、タロー三宅・メケ三宅などのリングネームでプロレスラーとしても活躍。後年、ハワイ相撲の横綱だった沖識名をプロレスリングにスカウトしたことでも有名ですね(その沖識名は、力士だった力道山がレスラーに転向した際のトレーナー)。この興業は、三宅が24年ぶりに帰国した凱旋興行だったわけですが、浜田同様、これも失敗に終わってしまいました。

浜田庄吉と三宅多留次の興行が成功しなかったように、日本人にとってレスリングは退屈な格闘技だったのでしょう。結局、根付きませんでしたからね。レスリングにたいする漱石の感想は嫌みったらしいようにも思えますが、率直な感想だったと思います。スポーツを、殊に組技系格闘技を興行として成り立たせるためには、綺麗事だけでは済まされない、とわたしは思っています。
(つづく)

2020年07月27日

弘田三枝子とヴァケーション

弘田三枝子が亡くなった。

20代前半の時分、日本人によるビートルズのカヴァーを集めたCDを買った。その中には弘田三枝子も入っていた。収録曲は「ペイパーバック・ライター」。他の日本人ミュージシャンには悪いが、弘田三枝子の歌唱力は他を圧倒していた。

学生時代、音楽関係の仕事につくのを夢みる友人がいた。バイト先で知り合った男で、大学はべつべつ。けれど、二人ともあまり音楽の流行には頓着せず、いい曲ならば生まれる前の作品もよく聴くタイプだったので、すぐに仲良くなった。彼は『ミュージック・マガジン』の熱心な読者で、音楽を社会と結びつけて批評することが得意だった。理屈っぽいところでも気が合ったのだろう。あるときその友人と、弘田三枝子が歌う「ヴァケーション」が素晴らしい、殊に日本語の歌詞が素晴らしい、と意見が一致したことがある。ちなみに「ヴァケーション」は、コニー・フランシスが歌ったポップスで、1962(昭和37)年のヒット曲だ。冒頭を聴けば、いまの10代でも知っている人がいると思う。

昭和30年代にアメリカから入ってきたポップス、ロカビリー、ロックンロール、ロッカバラードは、日本語カヴァーに直訳のものが多く、平成時代の学生からするとすごく滑稽に思えた。1990年代半ばごろ、王様による「直訳ロック」が話題になったことがあるけど、ちょうどあんな感じだ。そんな直訳全盛の昭和30年代にあって、漣健児の訳詞による「ヴァケーション」は洗練されていた。洋楽のビートと日本語がぴったりとマッチしているのだ。漣健児は他の訳詞も良くて、たとえばコニー・フランシスのヒットを中尾ミエがカヴァーした「可愛いベイビー」もいい。

チャック・ベリ―やエルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、バディ・ホリー、コニー・フランシス、ニール・セダカ、ポール・アンカなどの出現で、1950年代後半にポピュラー音楽は一気に様変わりした。新感覚の洋楽を日本語でカヴァーするとき、どうやって日本語を合わせればいいのか、という問題は避けてとおれなかったろう。だからこそ「日本語ロック論争」も起こった。短詩型でいえば、文語を前提とした定型へ口語をどう合わせればいいのか、という問題につながるか。

ただし、コニー・フランシスの曲は日本語の歌詞で聴いても、ほぼすべてにおいて違和感がない(コニーが日本語で自分のヒット曲を歌ったアルバムもある)。そう考えると、ポップスとロックでは、訳詞の難度に違いがあるのかも知れない。