2017年03月05日

48→84(よんじゅうはちからはちじゅうよん):200字川柳小説  川合大祐

→のボタンを押したままにすると、いつしか強大な魔王の前に立っている。そう、あれは1984年のことだった、ような気がする。『必殺』が『必殺まっしぐら!』だったのもその頃だった、ような気がする。その一年後には某球団が優勝して、主水がバースになっていたりした、ような気がする。騒がしい日々、だったような気がする。朝、ふと気付けば、スクロールから戻り道がないのだった。←のボタンを失くしていた子供は↓だった。

  カレーから耳だけ出している子供  竹井紫乙(第76回川柳北田辺・席題「から」)
 
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2017年03月04日

定型から考える古畑任三郎 安福望×柳本々々−ファーストシーズン第2話「動く死体」(犯罪者:中村右近【歌舞伎役者】=堺正章)

柳本 短詩にとって主体ってたぶん定型だとおもうんですよ。定型や構造が主体になっている。ただそうした定型観ってじつはけっこう生活のあちこちにあるんじゃないかと思って。
たとえば、『古畑任三郎』を観ていて似ているなと思うのが、死体なんですね。死体って定型みたいだなとおもって。

安福 ああ、なるほど。たしかに定型ってほんと死体みたいですよね。なんかあるだけで、なにもしてくれない。でもすごい存在感。死体の存在感ってすごいですよね。生きてる人間よりある。ミステリーだと一番大事にされますね、死体。

柳本 あの、古畑の第二話って「動く死体」ってタイトルなんですけど、一話目のタイトルが「死者からの伝言」であったように、一話二話目で、もう、死体が主体っていうのがはっきりきまってるんですよね。だから古畑ってなんだったかっていうと《死体への苦労》なんだとおもうんですよ。死体にふりまわされる話。死体は伝言もってきたり、動いちゃったりするから。死体、たいへんだよ! ってなる。死体に引っ張られて古畑もくるし。

安福 なるほどなあ。

柳本 「犯罪者はつらいよ」、みたいな話になってる。コロンボもそうですけどね。

安福 死体が主役なんですね。

柳本 なんか力学の中心なんですよ、死体が。ちょっと京極夏彦さんの『姑獲鳥の夏』みたいだけど。あれは「動かない死体」か。

安福 ほんとですね。

柳本 ただ三谷幸喜さんのコメディの基本的な構造は、《主体はつらいよ》なんですよ。なにかの核があってそれにみんながばたばたふりまわされるというか。

安福 えっそうなのか。

柳本 それが喜劇の核になってるとおもうんですよ。だれかとまちがえられたり(『君となら』)、潰れる間際のレストランをなんとかしなきゃいけなかったり(『王様のレストラン』)、ラジオドラマをさいごまでやりぬかなきゃならなかったり(『ラジオの時間』)、家たてなきゃならなかったり(『みんなのいえ』)、なにかをなんとか・どうにかやりぬくっていう主体。
だいたいでも一話目でも話したみたいに建物をめぐる話でもありますよね。『真田丸』も真田丸っていう建物のタイトルがつけられていたし。今回の二話目も歌舞伎の舞台装置が事件の鍵になっている。だから建物に主体がある。これも定型という音数律=構造が主体っていうのとよく似てるとおもう。短詩をする人間はともすれば定型にふりまわされて、コメディにもトラジディにもなる。
そういうみんながどうにもならないものを前にしてなにかをどうにかこうにかやりぬく。それが三谷さんのドラマツルギーというか作劇だとおもうんですよ。だから犯罪者も死体をまえになんとかやりぬこうとする。

安福 古畑さんは、後始末してるかんじしました。

柳本 だから、『古畑任三郎』の一話目と二話目のタイトルにそういう《主体はつらいよ》ってかんじがよくあらわれてるとおもうんですよ。「死者からの伝言」に対処しなければならない、「動く死体」に対処しなければならない。
死体はいきいきしてるんですよね、いきているにんげんよりも。

安福 いきいき。

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古畑任三郎「動く死体」の回の絵:安福望

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古畑任三郎「動く死体」の回の絵:柳本々々


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2017年03月03日

短詩から考える古畑任三郎 安福望×柳本々々−古畑ファーストエピソード「死者からの伝言」(犯罪者:小石川ちなみ【漫画家】=中森明菜)

柳本 短詩ではよく対句表現ってありますよね。反対のことばをリズムはおなじで使う表現。たぶん昔話でも対句表現って使われていて、「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に」も対句表現だとおもうんです。
で、この昔話なんかもそうですけど、そういうリズムとか構造がことばをひっばっていくことがありますよね。
それってドラマでもみられることだとおもうんですよ。
それでちょっと考えてみたいのが『古畑任三郎』のいちばん最初の第一話なんです。中森明菜=小石川ちなみが犯人の回です。わたしいちばんこのエピソードが《殺人に力はいらない》っていう古畑の魅力を描いていていちばん好きなんですけど。すごく暗いんですよね。初期の古畑ってどれも暗いんですけど、嵐のなかの洋館でいちばん暗い。もてあそばれたおんなのひとがころしちゃうはなしです。巨大な金庫にとじこめて。
ただこれラストがなんかいみてもよくわかんなかったんですよ。はじめてみたのが中学生だったので、それ以来、古畑事典や謎本系やノベライズ版を読んだんですけど、やっぱりよくわかんない。ただ最近、短詩をかんがえていたら、あれ、ってちょっとわかりかけたんですよ。
最後に今泉があわてて走ってきて「下でひとが死んでます」っていうんだけど、古畑はマンガを読みながら「犯人は上」っていうんです。それがね、ずっとわからなかったんですよ。なんでそんなこと言うんだろって。
そのまえに事件解決があって、小石川ちなみが「ひとりで部屋で泣いていいですか」っていうと「どうぞ」っていうんだけど。ちなみがまあ逃げるかもしれない可能性があっても古畑は意を決して「どうぞ」って言ったわけですよね。それで犬にもついていてあげてくださいってやさしく言ってる。やさしさを示したんですけど、そのあと入ってきた今泉に、「犯人は上」ってすぐ言っちゃう。なんか冷たいなとおもって。冷たいなとおもうし、なんかさっきまでのやりとりがだいなしだなとおもって。今泉はがさつなキャラクターじゃないですか、そのがさつな人間をこれから泣いているちなみのもとにおもむかせるのかと。よくわからないなって。
泣いていいっていったのに、今泉につかまえてこいってなんかひどくないかなあって。せっかくあたたかい交流したのにね。
それがね、よくわかんないんですよ。好きだからなんびゃっかいもみたんだけど。

安福 え、中森明菜が上の階で泣いてるんですよね。今泉に犯人は上っていうんですよね。

柳本 はい。なんでそんなこというんだろうとおもって。今泉は「よし、わかった!」っていってうえにはしっていくわけなんですけど。なんかやさしくないよね、と思って。

安福 古畑さん、ずるいなあ。今泉に逮捕させるんですね。じぶんじゃなくて。じぶんはやさしくせっしたおとことしているんじゃないですか。わからないけど。

柳本 ああそういう考え方もありますね。それは新しいな。自分で逮捕したくなかったのかあ。それはありですね、ひとつ。ただなあ、あれだけやさしい交流があってかよいあったのになあ。三谷幸喜さんってラストをすごく気遣うひとなんですよ。それは刑事コロンボがもともとそうなんだけど、古畑でもラストのしめって大事なんだけど、これだけよくわかんなくて。

安福 おんなのひとが犯人のときってやさしいですよね。古畑さん、だいたい。

柳本 ああ、三谷幸喜さんの劇は基本的にそうなんじゃないですかね。女のひとの過酷な面って描かれないですよね。どちらかというと男のひとが女のひとを崇拝している構造ですよね。それによって物語が動いていくというか。

安福 わたしは、今泉に上っていってるから、つめたいっておもわなかったんですよ。あの場にいるのって、中森明菜、古畑、今泉だから、上っていわれて、犯人はもう中森明菜しかいないですよね。そんで、今泉は、その「上」っていわれたことで、もうすべてがおわったって察したんじゃないですかね。今泉は、死体をみつけて、古畑さんしらないだろうからって報告いったんだけど、その「上」のひとことで、すべておわったんだなあってわかったんだとおもう。今泉おふろからあがったとこだったし、あれですぐにはつかまえるってならないですよね。服着替えて、どういうことですか? って、まず古畑さんにきくんじゃないですか。だから、中森明菜が泣く時間ってじゅうぶんもらえてるっておもいました。

柳本 え、今泉、着替えるんですか? うーん、そうかなあ。今泉ってがさつなキャラクターですよ。人の家にびしょぬれでびちゃびちゃあがっていくような。だからそのままの姿で、「よしわかった」って走っていくとおもうんだけどな。
だから、がさつに行くだろうからね、どうして古畑は今泉に「犯人は上」だなんていったんだろうって。嘘をいうならわかりますよ。それまでも今泉をおざなりにあつかってたんだから、嘘をついて、「犯人は外」ならわかるんですけど。

安福 シャツとパンツだから、まず服きるんじゃないですか。そんで、もっかい古畑さんのとこくるっておもった。

柳本 うーん、なるほど。そうかあ。

安福 あれが、なんかいけすかないおっさんとかだったら、がさつにいくだろうけどきれいな女性だからいけないとおもう。あんなお屋敷にいるおんなのひとにがさつにいけないんじゃないかなあ。

柳本 でもその一話の今泉はがさつなおとこだからはしっていっちゃったんだとおもうんですよ。そこがわたしの長年の違和感だとおもうんです。今泉をだませばいいのにとおもって。そのあとさんざんつめたくあたるのに。いやもうそのはなしでつめたくあたってるけど。時系列としては一番目じゃないですけどね。

安福 そうか、じゃあはしっていっちゃったのかなあ。わたしのなかのいまいずみははしっていかなったんですよ。今泉をだますより、漫画がよみたかったのかもね。あと犬がいるから。今泉ががさつにいったら、犬がとめるかも。犬においかけられて、もどってくるかも。

柳本 ああそれはちょっとおもしろいけど笑
「下で人が死んでいます」「犯人は上」ですよね、ラストの台詞が。
これもしかしてただの対句なんじゃないかってふっとおもったんです。下と上の。
うーんでもこのせりふはね、それまでのちなみとのやりとりがだいなしになってるとおもう。三谷幸喜さんはラストかならずきのきいたことをいうんですよね。それでこの回は、下と上を対にしたんだとおもうけど。きみょうなことになってるとおもうんですそれが。きのきいたことばをいったがために、物語がぎもんをなげかけてる。それまでのちなみとのやりとりは? って。

安福 ああ、そうですね。それまでのちなみのやりとりとぜんぜんちがいますもんね。たしかに下と上かあ。

柳本 ただなんていうかな、こう冷たくね、対句にして、泣いていた犯人をあっさり逮捕させちゃったのは、犯人にたちいらないっていう古畑の態度をいちばん最初の一回目で象徴させたともいえるとおもうんですよ。刑事コロンボでこの古畑の「死者からの伝言」とまったくおんなじつくりのエピソードがあるのね。「死者のメッセージ」っていう。推理作家のおばあさんが義理の甥を殺すはなしなんだけど。これも金庫にとじこめてころすはなしなんですけど、わたしはコロンボでやっぱりこの話がいちばんだいすきなんですね。なんでかっていうと、力のないおばあさんでも殺人者になれる、コロンボと対等に戦えるっていうコロンボは言葉の劇だっていうことを端的に示してるエピソードだから。
それで、さいご、わたしはもうおばあさんだからわたしを見逃してくださいってこのおばあさん、コロンボに頼むのね。ちなみにこの台詞は、古畑では、加藤治子の回の「偽善の報酬」でも使われたけど。でもね、コロンボはたすけないんですよ。おばあさんを。しっかり逮捕する。あなたがプロでいらっしゃるようにあたしもプロだから、って。それでおばあさんは納得してにっこりするんだけど。だからふたりのきもちはかよいあってるんです。そして友情と仕事は別っていう。

安福 あ、そうか。古畑もべつなんですね。

柳本 その別!ってありかたに、コロンボと古畑のかちかんが端的にでてるとおもうんですよね。だけど、陣内孝則の「笑うカンガルー」の回で古畑は犯罪をおかしたおんなのひとみのがしてもいるからそこらへんちょっとよくわかんないんですけどね笑。

安福 笑うカンガルーって川柳っぽいタイトルですね。

柳本 これはオーストラリアのことわざで、男に逃げられた女のひとをカンガルーが笑うっていうらしいんですけど。ただ邦訳するとふしぎな語感がでてきて、マジカルな川柳っぽくなるのかなあ。

安福 話もどしますけど、やっぱり、あの「上」にわたし、違和感なかったんですよね。でもそれは、もう古畑をしってしまった私がもう一度みたから、違和感なかったのかなあ。これ一回目なんですよね。はじめてみたら、違和感わくのかも。
うーん、わたしはやっぱり今泉ががーってあのとき上にいかないだろうっておもったんですよ。

柳本 殺人犯だから着替えないでわたしは行ったとおもうんですけどね。

安福 えっ、あの姿で? パンツじゃなかったでしたっけ? いやいかないですよ。おんなのひとだし、さっきあったとこだし。お風呂までいれてもらってて

柳本 たぶんちなみとはわかんないじゃないですかね。古畑は「犯人は」としかいってないから

安福 あ、そうかあ。

柳本 だから暴漢みたいのがいるっておもうかと

安福 ああ、なるほどなあ。そこまで考えなかったですよ。

柳本 「犯人は外」とか今泉をだますならわかるんですけど、それだとおわりのことばとしてきがきいてないですよね。

安福 そうですね。

柳本 下の死体と上の犯人の対句、しかもそういう下と上って示すことで建物や空間がキーワードになってる殺人だったんだよってことを端的に示す。

安福 ああ、そうですね。

柳本 この建物ってちなみが漫画家で売れて手にはいったものですよね。ずっと暖炉のある家にすむのが夢だったって。でもかんたんにかなっちゃったわけですよね。家は手にはいったけど、でも恋愛は手にはいらなかった。そういう、手にはいったものと手にはいらなかったものの話ですよね、これは。この事件は。そして、手にはいったもののなかで殺人をした。手にはいらなかったものを殺した。そういう心理的な建物をめぐる事件だとおもう。ちょっと綾辻行人さんみたいだけど。

安福 建物の話だね。あの建物を手に入れてなかったら、殺人もおこってなかったかも。

柳本 でも、さいしゅうてきに、上にいられたちなみはなにか救いはあるってことかもしれないですね。このあと裁判で無罪になって結婚するので。明石家さんまが無罪にしたんですけど

安福 ああ、そうかあ

柳本 あとはそういう犯罪者と死体のまんなかにいつも古畑はいるっていうことですね。上には犯罪者、下には死体、まんなかに古畑任三郎。だれも、であえない。そこから、始まった。それぞれが孤独な場所から。
古畑はこんなふうに上と下の事件ではじまったんですけど、いちばん最後のエピソードの「ラストダンス」は松嶋菜々子と踊りながら終わるんですよ。それは上も下も右も左と前も後ろもない世界でしょ。そういうダンスっていう二人が向き合って、コンタクトしあいながら終わったのはとっても象徴的だとおもいますね。古畑任三郎とはなんだったかというと、けっきょくこの上と下がなくなっていく話だったんじゃないか、と。

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古畑任三郎の絵:安福望

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古畑任三郎の絵:柳本々々


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2017年03月01日

6ぽ なにがただならなかったのか 安福望×柳本々々 田島健一さんの句集『ただならぬぽ』を佐藤文香さんのツイートから考える

昨日のNHKカルチャーは句集の読み方という回で、田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)をとりあげたが反応がまちまちだったなあ。でもここでわたしがよさをゴリ押しするのも違う気がしたのであえて意見を統合したりしなかったのであった。私のぽ愛はまたどこかで。
     佐藤文香さんのツイート



安福 佐藤文香さんが、NHKのカルチャーセンターみたいなとこの講座で、ただならぬぽを紹介したんですけど、反応がまちまちだったとおっしゃってましたね。句集をよむという講座だったみたいです。そうなのかあって思ったんですけど。

柳本 田島さんの俳句ってどう読んでいいのか実はだれもわからないんじゃないんかって昔ふっと思ったことがあったんですよ。それは私も田島さんの句にであって、こんな俳句をつくられる方がいるんだってびっくりしたのもあるんだけど。ただそれが田島さんの俳句なのかなあって。
俳句以外のひともすごく田島さんの句集読まれてますよね。そこらへんにもなにか理由があるんじゃないかと思って。
でもおもしろいのは、田島さんの句って絵は描きやすいんですよね。イメージは浮かびやすい。それもふしぎだなあ。「ぽ」って文字だけだと「ぽ」だけど絵にしてくださいって言われたら、ひかりを描いたりとか、わりといろんなことできますよね。そうなると「ぽ」ってなんかリンクみたいだなっておもうんですよね。クリックするといろんなとこにつながっていくハイパーテキストみたいだなって。ぽ、ってね。

安福 (聞いている)

柳本 わたしはね、あの句集を読んでいて、《出来事未満句集》だと思ったんですよ。これは《出来事未満》を出来事として描いた句集なんじゃないかと。あえての俳句未満の句集というか。へんな言い方ですけど。あえて未満の領域につっこんでいく出来事が出来事になったり、俳句が俳句になったりすることをかんがえる。
だからもう俳句観というか、なにかこう《観》ができあがっちゃってると、よくわかんないって抵抗がでるのかもしれないですよね。
「白鳥定食」の句があるんですけど、「白鳥定食」ってへんな言葉でしょ。だれもわかんないと思うんですよ。でも構造として考えてみると、白鳥と定食が分割できなかった世界なわけですよね。それって、まだ白鳥未満、定食未満の世界なんだっておもうんですよ。だから白鳥定食みたいにハイブリッドなものがうまれる。ちょっと宮沢賢治の世界にもちかいですよ。境界が未満の世界でいろんなものがぐじゃぐじゃしてるって。
あと私が好きな句で、滝のそばで結婚式あげてると猫たちがあつまってくる句があるんですよ。これなんか結婚未満の風景だとおもいます。結婚って、社会的なもので、社会的承認みたいなところがあるけど、ここでは猫たちが承認しようとしてるわけでしょ? それだと結婚、成り立たないですよ。だから未満の風景。でもそれによって結婚のふしぎな感覚がでてきますよね。
この句集でね、ひかりをみる映画、っていう句があるんですよ。映画は物語をみるんじゃなくて、この世界のひとは、映画をみるとき、ひかりをみてるわけです。映画未満をみているというか。でも実は映画ってひかりなわけですよ。テレビとか、スマホも、まあ印象派の絵画みるとわかるけど、世界ってひかりなわけですよ。みえてるのは実は。意味で区切ってるけれど。そこには光しかない。

安福 なるほど、出来事未満。だからたじまさんも、予告編っていってるんですね。

柳本 未満って根っこのことですよね。映画は光って、映画の根っこは光なんですよ。結婚の根っこに猫たちがあつまってくる。猫と根っこだと思って。

安福 猫と根っこ。出来事未満って光のことなんですね。

柳本 菜の花はそのまま出来事になるよ、っていう句があって。なんかね、《出来事の探索者》なんですよ。この句集にある風景って。出来事懇親会、みたいなのしてるわけです。出来事会談というか。あれって出来事になる?ってきいて、いやあれはどうかなあ、うーん、あれはね、ならない、とか。

安福 はあ。

柳本 菜の花? あああれはもうできごと。できごとになるわ。あのまんまで、とか。
ただ、出来事ってなんなのかってかんがえてみると、出来事って出来事っておもったときにあらわれるものだから、出来事そのものが生成の現場なんですけどね。出て・来る・ことみたいなね。

安福 (聞いている)

柳本 だけど、なんか、この語り手は、出来事かどうかでとらえてるから。そうすると出来事って出来事未満になっちゃうんですよ。ふつうひとは、これって出来事かなあ、とか思いませんからね。

安福 あ、そうですね。辞書だと、「世間に起こる様々な事柄。また、ふいに起こった事件・事故」ってなってますね。

柳本 この句集の語り手は、出来事をいまだにじぶんのなかで自然化できてないひとなんじゃないかなあ。だから宮沢賢治の語り手みたいにね、世界のいちいちの出来事に驚いて記述している。出来事未満の場所に降りていって。

安福 出来事の根っこ。

柳本 あるいはですよ、名詞とか事物を出来事としてみてるから、だから映画とかいちごとかぽとか白鳥定食とかも出来事にみえてしまう。それそのものが、ですよ。言葉そのものが出来事にみえてしまう。それはなんていうか、まあ、事件ですよ。名詞の事件というか。ぽはなんか事件ってかんじするんですよ。ただならぬぽだし。なんかただならないことが起こってるわけでしょう。出発はそこなんですよ。やばい、ってとこからはじまってるから。しかもなにがやばいかっていうと、ぽがやばいわけでしょ。なんかそのもろもろぜんぶただならぬ状況ですよ。ぽの事件なんですよ。

安福 (聞いている)

柳本 実存的な句集と現象学的な句集があるとおもうんです。田島さんの句集は、実存的じゃなくて、現象学的なんだとおもう。どういうことかというですね、コップをみているじぶんをかんがえながらコップをかんがえるとコップがへんになっていきますよね。こういうものと自分の関係をさぐるのが現象学なんですよ。現象をかんがえるんです、あらわれてくるものを。

安福 なんかマトリックスで、スプーンがうにょんってなるの思い出します。

柳本 実存的っていうのは、わたしはコップをいまみている! これがわたしなんだ! これいがいにわたしはないんだ! これがわたしの存在なんだ! これがわたしの現実であり、世界であり、人生なんだ! っていうのが実存的ですね。〈わたしの生〉にウェイトをおく。

安福 わたしとコップが両想いみたいね

柳本 世界や物と両思いになれてこそ、わたしの実人生がいきいきしてくるからですよ。ぽ、は実存的じゃなくて、現象学的なんだとおもいますね。

安福 (私は聞いている)

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写真・作品:安福望(モールサンタは市販)

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いばひできを読む柳本々々

らりるれれ季節変わりの声変わり  いばひでき

らりるれれ/り/りとラ行音によってリズムがつくられているのがわかります。

以前から興味があったのが、川柳に出てくるラ行音です。

ちょっとヒントになることを八上桐子さんが徳永怜さんの句を引きながら書かれていました。

Re:Re:Re:Re:Re: もっとRe:Re:Re:Re:  Re:Re:Re:Re:Re:  徳長怜

徳長さんのこの句をですね、八上さんは「音読」をして「リリリリリ もっとリリリリ
リリリリリ」と読まれたんですね。「切実さを帯びる」のが「効果的」と書かれています(『川柳木馬』150•151号、2017年1月号)

で、この「Re:」だけみれば意味としてはメールの返信になっていくんだけれど、でも八上さんが示したように短詩っていうのは律でもあるので、リリリリリリリリリリと続いていくことで、鈴虫が鳴いているような、ベルにせき立てられているような、音の切迫感が出てくるわけですよね。

ラ行っていうのはつまり、そうした音から読むことの示唆なんじゃないかっておもうんです。

小池正博さんがこの同じ『川柳木馬』で川柳の、いや、表現の出発点っていうのは、〈既知のわたし〉ではなくて、言葉をとおしてあらわれてきた〈未知のわたし〉にであうことなんだよ、と書かれていたんだけれども、こうした、リズムとしての言葉の主体性がたちあがってくるしゅんかんにたちあうことも〈未知のわたし〉にであうことなんじゃないでしょうか。それはときに、無意識であり、ふいうちであり、意想外であるんだから。

わたしはこの律、リズムのふいうちの感じになにかちょっと可能性があるんじゃないかとおもうんですね。それは短歌もそうなんじゃないかとおもうんです。 

で、長い遠回りをしていばさんの句なんですが、いばさんの句がおもしろいのは、

らりるれれ季節変わりの声変わり  いばひでき

というふうに「り」というリズムに引っ張られて「変わり」が二回も出てきたところにあるとおもうんですよ。これはラ行音のリズムを意識しはじめたとき、すなわち、「れれ」と反復し気づいてしまったときに起こってしまった〈大変化〉なんじゃないかとおもうんですよ。

だから、そういう律に気づいたわたしの変化の句として読めるんじゃないかとおもったんです。

連作タイトルは「ギター」。音が走り始めてしまったとき、わたしはどんなわたしにであうのか。みすぼらしいわたしなのか、それともきらきらしてるのか、それとももじもじしてるのか、それとも、まごまご、いや。

谷底に落としたギター逃げ出した  いばひでき

posted by 柳本々々 at 07:09| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする