2017年06月12日

川柳「カモミール」第1号 B

川柳「カモミール」第1号 @
川柳「カモミール」第1号 A


 縁日のお面の裏に誰かいる  滋野さち

とつぜんですが、人間には孤独を味わいたいという潜在願望がありますまいか。

犯罪者という犯罪者は、電車の中でも縁日の人通りでも、群集の中のロビンソン・クルーソーである。
(江戸川乱歩『群集の中のロビンソン』)
私自身も都会の群衆にまぎれ込んだ一人のロビンソン・クルーソーであったのだ。ロビンソンになりたくてこそ、何か人種の違う大群衆の中へ漂流して行ったのではなかったか。
(同上)

これ、よく分かるのです。わたしも、特に理由もなく繁華街へふらっと行くことがあるのですが、おそらく大勢のなかの「誰か」として漂流したい、という無意識の働きなのではないかと思います。

何者でもない「誰か」になりたい。思うにこの潜在願望は、〈楽屋〉を確保したいということにつながっていると思うのです。お面をかぶって舞台を演じるには、お面を脱ぐ場所、つまり何者でもない「誰か」にもどる場所が必要だ。それこそが〈楽屋〉なのです。

呪術なり神事なり舞台なりで演戯を行うときにかぎらず、人間とは「お面」をかぶり、他者との関係性のなかで役割を演じる演戯的存在だ。「お面」をかぶることによって、あるときは子の親を、あるときは真面目な会社員を、あるときは自治会役員を、またあるときはアイドルの熱烈な追っかけを、そしてまたあるときは新聞柳壇の常連投稿者を演じる。しかしてその実体は・・・誰なのだろう。

述語部分にいくら「親である」「会社員である」「アイドルの追っかけである」といろいろな要素を当てはめてみても、主語の〈自分〉が何者であるかは捉えきれない。なぜなら、繰り返しになるけど、自分とは「お面」を脱いだ〈楽屋〉という場であって、〈楽屋〉があるからこそ人間は素顔が確保され、役割から解放される。逆にいえば、素顔が確保されていればこそ「お面」をかぶったり脱いだりすることができる。舞台をおりたその素顔は、演劇から解放された「誰か」であり、目も耳も鼻もないのっぺらぼうなのだ。

ところで、近現代の私小説がつらいのは、素顔が確保される〈楽屋〉を舞台化してしまったところでしょう。「誰か」に戻れる〈楽屋〉を舞台にしてしまったら、素顔とお面が一体化してしまい、自分を失ってしまうではありませんか。〈私〉を追求した挙句に素顔を失う。これほど皮肉なことはありません。

滋野さちさんの句からこんなことを考えたのだが、ここまでくどくどしく「お面」について書いたわたしは〈無粋者〉という「お面」をかぶっている。

「二十面相」というのは、毎日毎日、新聞記事をにぎわしている、ふしぎな盗賊のあだ名です。その賊は二十のまったくちがった顔を持っているといわれていました。つまり、変装がとびきりじょうずなのです。
 どんなに明るい場所で、どんなに近よってながめても、少しも変装とはわからない、まるでちがった人に見えるのだそうです。老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、いや、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことができるといいます。
 では、その賊のほんとうの年はいくつで、どんな顔をしているのかというと、それは、だれひとり見たことがありません。二十種もの顔を持っているけれど、そのうちの、どれがほんとうの顔なのだか、だれも知らない。いや、賊自身でも、ほんとうの顔をわすれてしまっているのかもしれません。
(江戸川乱歩『怪人二十面相』)
われわれが日常生活でうそをつくばあひでも、それが相手をだますうへに最大の效果を發揮するためには、ある瞬間、自分でもそのうその魔術にひつかかつてゐたはうがいい。舞臺の名演技といふものもおなじやうな性質をもつてゐます。しかし、演戲において──うそをつくばあひと同様に──重要なことは、陶醉よりも、そのあとで醒めるといふことではありますまいか。いや、陶醉しながら醒めてゐることではないでせうか。醒めてゐるものだけが、醉ふことの快樂を感覺しえます。醒めてゐる自分がないならば、うそをついたのでも、演戲したのでもなく、自分もまただまされてゐるのであり、演戲させられてゐるのにすぎなくなつてしまひませう。
(sc恆存『藝術とはなにか』・sc恆存全集第二巻所収・文藝春秋)

 ◇ ◇ ◇

三回にわたって「川柳カモミール」第1号を紹介してきました。カモミール句会も名古屋のねじまき句会もそうですが、いわゆる〈膝ポン川柳〉とか〈あるある川柳〉とはだいぶ違う。カモミールやねじまきのようなスタイルを便宜的に〈詩性川柳〉といっておくならば、そのスタイルの句会を続けていくうちには多少なりとも困難がおありだったと思います。世間が川柳にいだいているイメージと相当かけ離れたスタイルだし、詩性川柳をコンスタントに書いている作家じたいが少ないからです。それでも「川柳カモミール」「川柳ねじまき」として会報誌を出されている。これはすごく意義がある活動だと思います。

では、いったい東京で詩性川柳を中心とした句会なり読みの会を開くことはできるのか。詩性川柳不毛の地に一粒のたねを蒔く時機は近づいているかも知れません。


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2017年06月11日

約束の土地へ:200字川柳小説  川合大祐

神に告げられた。「お前を祝福しよう。お前がいちど左折するたびに、地球の直径を1センチ縮めてやろう」。翌日、どうしても役所に行かなければならず家を出た。道が分かれているところに来ると、必ず右に曲がった。どんどん進路は目的地からずれて行き、役場も家も遠くに過ぎ去った。憔悴した、魅力的な人に出会った。「私が右折する度に、地球が1センチ縮むんです」とその人は言って左折していった。もう会うことはないだろう。

  左折左折左折 小さくなるわけだ  三浦潤子(「川柳カモミール」第1号より)

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2017年06月04日

デザイアー・フォー・コミュニケーション:200字川柳小説  川合大祐

外面如菩薩、内心如夜叉という言葉があてはまるかどうかわからないが、君は味噌だ。内心にどんなしょっぱさがあるのか、僕にはわからない。そもそも味噌の君に内心があるのかわからない。だいいち味噌の内心とは何なのか、そのうえ君とは一体何なのか、いやまず僕とは何だったのか、僕らにはわからない。そんな僕らは眠る、眠らなくても明日は来るのかどうかわからない。ただわかる、味噌は重いと言うことが。僕にはわからないが。

  眠り込む君の乳房の破壊力  藤みのり(今月の作品「慈しみ」より)

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2017年06月01日

慈 し み   藤 みのり


パターン分けしてます服もオンナにも

菩薩にも阿修羅にもなる空メール

カタカナにすると聞こえがいいタトゥー

眠り込む君の乳房の破壊力

気づいてた君の好きな絵好きになる

モンスターボールに捕えられた僕

セピア色になった君は美しい

ノウマクサンマンダー なんかご利益ありそうな



【ゲスト・藤 みのり・プロフィール】
2011年 川柳を始める。
2012年 「大宮川柳会」「風」に入会
2013年 「川柳研究社」に入会
2016年 句集『葦の言ノ葉』を出版
現在、川柳マガジン「ジュニア川柳」選者
趣味は、漫画とヨガと寺社巡りです。最近囲碁を始めました。
どうぞよろしくお願いします。


縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください
慈しみ.gif

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2017年05月31日

今月の作品・瀧村小奈生「射干玉の」を読む

5月のゲスト作品は、「ねじまき句会」「川柳ねじまき」で活躍されている瀧村小奈生さんの「射干玉の」である。

「射干玉の」とは短歌における枕詞だ。夜・月・夢・黒・髪といった語にかかる。
枕という土台には頭を載せることになっているのと同じで、「射干玉の」という枕を置けば「夜」という頭部が載せられることになっている。パスワード(ぬばたまの)を入力することでログインする(夜にかかる)ようなものだろうか。
枕詞は現代短歌でも使われていて、東直子さんにもこんな作品がある。

 ははそはの母の話にまじる蟬 帽子のゴムをかむのはおよし  東直子(『春原さんのリコーダー』)

枕詞についてはこれくらいにして、さっそく瀧村作品を見てみよう。


1、言葉の世界にログイン

 ぬばたまの夜をぴかぴか光らせて
 バスクリンばらまいて世界変えてやる


「ぬばたまの」とパスワードを打ち込むことで「夜」という時間帯にログインする。また「バスクリン」というパスワードを打ち込むことで「世界を変え」ようとする。作中主体にとって「夜」とは、一日の終わりとしてあるのではなく、べつの世界にアクセスできる光り輝く時間帯なのだ。べつの世界とは〈言葉の世界〉であり、また〈夢の世界〉でもあるのだろう。「ぬばたまの」に代表される枕詞は、特定の語にアクセスする働きをもっていることが示唆的だ。
「ぬばたまの」や「バスクリン」によってログインできる〈言葉の世界〉。1句目から7句目の句頭を見ると分かるのだけど、「ぬばたまのよる」と折句になっている。「世界を変えてやる」という物言いからも察せられるが、作中主体には〈言葉〉によって「世界」を変える意志がある。それは、日常の生を離れての〈真剣なあそび〉と言い換えてもいいかも知れない。


2、言葉の心はバネ心 跳ねれば意味の泉湧く

 バスクリンばらまいて世界変えてやる
 垂乳根の母ちがうからかめへんねん
 ヨード卵・光くまなくリビングに
 廬舎那仏ツバルるっこらランドセル


当連作全体を見ていると、そこはかとなくではあるけれど、前の句の言葉が後の句の言葉を引き出しているように感じられる。ちょうど言葉が言葉を引き出す枕詞のように。
たとえば、前句の「世界変えてやる」によって後句の「垂乳根の母ちがう」が引き出された雰囲気がないだろうか。母が違えば世界も変わるのだから。
また、前句の「ヨード卵・光」によって後句の「廬舎那仏」が引き出される。「ヨード卵・光」の黄身と光が、唐招提寺に坐す金色の「廬舎那仏」に飛躍していると考えるのは、詩歌の世界でなら充分ありうる。

英単語の意味をおぼえるには〈連想〉を働かせなさい、なんてことを受験のとき言われたことはないだろうか。たとえばSpringという言葉は、春・バネ・跳躍・泉というまったく関連のなさそうな意味をもっているけど、春を〈張る〉と読みかえるだけで、はる→バネ→跳躍→泉と連想していけるのである。


3、隠れたタイトル

 ぬばたまの夜をぴかぴか光らせて
 扁桃腺腫らしてコレコソガ夜


連作タイトル「射干玉の」は、とても面白いタイトルのつけ方だ。というのも、それじたいが枕詞であるため、「夜」という隠しタイトルが炙り出されてくるからだ。そして、本当はこちらがメインタイトルなのだ。それを示すように、1句目と最後の句には「夜」が登場する。ちなみに、上掲の「ぬばたまの〜」の句が1句目、「扁桃腺〜」の句が最後の句である。
先述したように作中主体は、「夜」という時間帯に〈言葉の世界〉〈夢の世界〉へログインする。しかし最後の句では、「扁桃腺腫らし」ながら現実の厳しい「夜」を過ごしている。夢のような言葉の世界から現実へ。「コレコソガ」というカタカナ書きは、もしかしたらログアウトに相当するのかも知れない。
 

『中世の秋』『朝の影のなかに』といった著作で知られるヨハン・ホイジンガは、〈遊び〉の観点から文明を考察した歴史学者。瀧村小奈生さんの遊び心に触れて、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)を久しぶりに読み直してみた。

詩作〔ポイエーシス=作ること、創作。〕は遊びの機能の一つである。それは精神の遊び場の中、つまり精神が創造した独特の世界の中において営まれている。そこでは事物は「日常生活」の場合とはうって変わった風貌を示し、論理とは全く別の絆で互いに結ばれている。もし醒めている生活の言葉できちんと表現されたものを真面目というなら、詩は完全に真面目とは決して言えない。それは真面目の彼岸に立つものだ。子供、動物、野獣、それに予言者の属する本源的な向こう岸の世界、夢と陶酔と恍惚と笑いの分野にそれはあるのだ。詩を理解するためには魔法のシャツのように子供の魂を引きつけなければいけない。子供の知恵を大人のそれよりも大切にしなければならない。

ここで遊びの本来的な特徴と思われるものを今一度数え上げてみよう。それは時間、空間および意味の一定限界内で行なわれ、誰の眼にも明らかな秩序の中で、自由意志で受け入れた規律に従い、物質的利益や必要を度外視した行為だ。遊びの情趣は熱中と陶酔だ。それが神聖なものであるか、あるいは単にお祭り的なものであるかによって、遊びは聖なる儀式となったり、あるいは娯楽になったりする。その行為は昂揚と緊張の感情を伴い、やがて喜びと解放感をもたらしてくれる。
(ホイジンガ選集 1 『ホモ・ルーデンス』/河出書房新社)

posted by 飯島章友 at 23:30| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする