
春の光ぼくは眠る君は起きてゐて 佐藤文香
川柳ではなく、また俳句からの一句なんですが、この佐藤文香さんの句集『君に目があり見開かれ』は装幀がひとつ特徴としてあるんです。
「港の人」から発行されている句集なんですが、「港の人」といえば堂園昌彦さんの活字印刷を使った歌集『やがて秋茄子へと至る』や大胆なレイアウトのアンソロジー『胞子文学名作選』などが有名です。




装幀そのものがメッセージ性をもって読者に問いかけてくる、そういう装幀のありかたを志向しているのが「港の人」だともおもうんです。
「港の人」の発行された本に特徴的なのが、〈てざわり〉だとおもうんですね。
明らかに紙の質感が違う。藁半紙のようにさわっていて、さわさわしている。これは実際、摩擦としてたちどまらせるわけです。なんだろう、と。ゆび、が。
そして眼、も。もしかしたらすりつけてしまった鼻、も。
さいきん出た俳誌『オルガン1号』(2015年4月)で生駒大祐さん、田島健一さん、鴇田智哉さん、宮本佳世乃さんによる「佐藤文香の『君に目があり見開かれ』を読んでみた」という鼎談企画が掲載されています。
その中で生駒さんの「じつは僕まだ、なぜこの句集のことを話すのか、っていうのをそこまで掴み取れてないんですよ」という問いかけに鴇田さんがこんなふうに答えています。
一般的な句集のかたちってあるじゃない。「春・夏・秋・冬」の四章立てとか、年代順とか。それとは違う形だよね。そういう句集を四人で読むことを通して、句集ってなんだろうっていう話にしたかったんだよ。…本の作られ方やあり方。たとえばこの本、目次が終わりの方にあるでしょ。あと、ノンブルがえらく小さい。そういうひとつふたつのことを見ても、他の句集とは違う。それから、表紙に「レンアイ句集」って書いてある。これ、気づかない人は気づかないかもしれない。白いしね。このカタカナの書き具合なんかも含めて、いろいろ考えたうえで作られているという。
こういう句集のありかたを句集自体が問いかけてくる句集にもなっているわけです。
テキストではなく、マテリアルとしてのそういう句集のあり方から句集を読んでみると、どういう〈読み〉ができるのか。句集を〈読む〉ときはおそらくそういったことも〈あわせて〉注意する必要がある。
たとえば川柳でいえば、なかはられいこさんの句集や倉本朝世さんのあざみ書房の句集や東奥文芸叢書や川柳カード叢書などがなぜソフトカバーで、そうしたソフトカバーのてざわりがどのように句の〈読み〉と響きあうのかといったこともいちど考えてみる必要があるようにもおもうのです。句集が〈どうされたがっているか〉ということを。


さいきん、短詩でいえば、榮猿丸さんの句集『点滅』が〈まっしろ〉な〈なにもない〉装幀でとても印象的でした。〈まっしろ〉で〈なにもない〉装幀といえば、太宰治の『晩年』や斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』などがあります。太宰はプルーストの邦訳書の装幀を参考にしたと語っていましたが、太宰が「きみら読書の手でこの本を汚していってくれ」といったように、それら〈まっしろ〉な装幀の本は読むたびに読者がめいめいの唯一無二の〈汚し方〉で、読むたびに・痕跡として・汚していくわけです。じゃあその〈汚れ〉としての〈痕跡〉が句や歌やテクストと〈どう〉響きあうのか、どのように意味生成していくのか、それら空白と汚れの意味の関係はどうなっていくのかなど、装幀からいろいろ考えられることはあるようにもおもうのです。
そういえば私もよくオルガンを弾くのですが、オルガンだって、白い装幀といえば、白い装幀なのです。そのひとの、弾き方、弾き癖によって、白鍵は変化していくのですか。
本の意味性をコーティングする形態そのものは意味と反射しあいつつ、どこに・どうつながってゆくのか。
最近思うんだけど、感じるだけじゃダメなんじゃないかって。感じたことを使って、その先の考えにつながっていくような。本ってそういうものじゃないかな。読んだ人に影響が出るっていうのは大事な要素だと思う。 田島健一『オルガン1号』