
ウィリアム・フォークナーに紹介された折、アルベール・カミュは言った。彼は私に単語三つも話しかけなかったよ。 マークソン『これは小説ではない』
今日ママンが死んだ 迂回路をさがす 内田真理子
内田真理子さんの句集『ゆくりなく』(あざみエージェント、2010年)からの一句です。
わたしが川柳を好きな理由のひとつに、川柳は文学に〈絡んで〉いくっていうところがあるんです。
川柳はどういうわけか文学の〈もういっぽうのかたち〉を思考しようとしている。
「今日ママンが死んだ」っていうのはカミュ『異邦人』の書き出しです。ちなみに野崎歓さんはこれを『よそもの』と訳していました。
今日、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。 カミュ『異邦人』
ここで大事なことは、主人公のムルソーが母の死を〈出来事〉として感受できていないということです。
「昨日かも知れない」ということはかれには出来事を出来事性として成立させる時間感覚が、ない。
たとえばですよ、誕生日って〈きょう〉だってわかるから〈出来事〉なんです。時間はとりかえしがきかないから、誕生日や記念日をわすれると恋人から怒られるんです。
でも、ムルソーには、それがない。
出来事として受け止められないということは、〈自分がこれからどのように行動すればいいのか〉が「わからない」ということです。
でも内田さんの句のムルソーは、ちがいます。「迂回路をさが」しはじめる。意志的決断を、ムルソーが小説という言説を、太陽がまぶしかったのを根拠にした殺人をとおりすぎて、みずから死を前にして、やっとたどりついた〈意志的決断〉を、「ママンの死」のつぎのしゅんかん、手にいれている。
これが、川柳がかんがえるもうひとつの思考の形態です。
なぜ、こんな別枠の思考が可能なのか。
それはやっぱり川柳の出来事性が定型によって支えられているからではないかとおもうんです。
カミュのムルソーにはフィクションが、小説が、ロマンが、出来事性を支えていた。
けれど、内田版ムルソーは川柳ですから、ラストはもう〈すぐ〉なんですよ。定型がささえる出来事性だから。ムルソーがじぶんの存在をじぶんでひきうける〈実存〉のチャンスは17音のうちにしかない。
だから、「迂回路をさがす」しかない。
文学の惑星の、もうひとつちがったかたちの別の惑星を思考=志向すること。そこにわたしが感じている川柳の〈勇気の思考〉があるように、おもうのです。
ほんとに久し振りで,私はママンのことを思った。一つの生涯の終わりに、なぜママンが「許婚」を持ったのか、また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。あそこ、幾つもの生命が消えてゆくあの養老院のまわりでもまた、夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだった。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生き返るのを感じたに違いなかった。何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生き返ったような思いがしている。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星ぼしとに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
カミュ『異邦人』
だが、肝心なのは生きることだ。 アルベール・カミュ
