2015年06月30日

ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む   川合大祐

この句は柳本々々も「あとがき全集」で取り上げている。
柳本は、掲出句のこわさの原因として、ひとつに意味不明であること、ふたつに意味不明でありながらも定型にそった規則性があることと分析している。

こわさとは、まず、意味不明なことです。とつぜん、うしろにだれかがいることです。意味がとれなくなるしゅんかんが、こわい。
ところが、もうひとつ。その意味不明な存在がみずからの規則をもち、その規則にそって行動していることがわかると、さらにこわいということです。

意味不明でありながら規則性をもっている。
確かにこわい。
しかし、平仮名の〈こわい〉は、〈怖い〉という意味だけではないかも知れない。
〈こわい〉ことは同時に〈おもしろい〉ことでもある気がする。
人びとが超常現象や都市伝説のテレビ番組を観るのは〈こわい〉からだが、同時にそれが〈おもしろい〉からこそ観るのである。

意味不明ながらも或る規則性をもった表現。
ここからわたしが思い出すのは、ジャズミュージシャンの坂田明や小山彰太、小説家の筒井康隆、そしてコメディアンのタモリらが得意とする「ハナモゲラ」である。
「ハナモゲラ」とは、ほんとうは意味などないのに如何にも意味があるように思わせる表現だと、わたしは捉えている。
たとえば、有名なところではタモリの偽外国語芸がある。





これらは如何にも外国語として何かの意味を表現しているようだが、ネイティブの人が聞いたら何を喋っているのか分からない。
そもそもハナモゲラのアイディアは「初めて日本語を聞いた外国人の耳に聞こえる日本語の物真似」が原点だからである。



小山彰太は、山頭火ならぬ「山章太」という筆名でハナモゲラからなる「ヘラハリ和歌」を開発した。

 たらこめし はたのめかしみ めたこりす こりすこすりこ めかしめたはれ
 ひりみはし はまさこれみか みてはしこ そまにまれこめ みしはさたみれ
 しこそまれ とんとさまれこ ちましこれ たまはれしれと とまはこしそれ


ハナモゲラ語なので意味を取ろうとしても出来ないが、こころみに和歌の披講の調子で読み上げてみると何となく雅やかな和歌に聞えてくるから不思議だ。
『叩いて歌ってハナモゲラ』(小山彰太著・1983年・徳間書店)には、小山のヘラハリ和歌にたいする歌論が載っている。
ここで同書所収、山下葉山女(山下洋輔)の「ハナモゲラ和歌の鑑賞」から少し引用してみたい(なお、この鑑賞文じたい、歌論のパロディになっている)。

 享受パターンを我々が時に応じて自由自在に変えられるものとする。それはつまり、それに応じて確定していたはずの被享受物──世の中のすべてだ──の姿がどんどん変形するということになる。
 そして実は、このプロセスを我々はハナモゲラと呼ぶのではないだろうか。
 我々はひとまずここで、鑑賞の側面からハナモゲラを次のように定義することができそうである。
 自分自身の内部の享受パターンを意識的に自由に変化させることによって、被享受物としての外界の姿を随意に変形せしめるプロセス。
 変形の方向は唯一「面白がる」方向である。それが享受者の特権であり、我々は世界に対してこの特権を持つ。

要するに、ハナモゲラは「面白がる」ことがキモだというのだろう。

ヘラハリ和歌に先行するハナモゲラ系の和歌としては、大橋巨泉の次の歌が有名だ。

 みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ

わたしの生れる前のCMで披露された歌だが、有名なのでごく当たり前に知っていた。



当時の子供たちにも大受けだったそうだが、意味にこだわらず「面白がる」ことが大事だということの証しだろう。

さて、そろそろ川合大祐の掲出句に戻らねばなるまい。

 ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む

この句は課題吟のお題「チャレンジ」から創られたもの。
山岳の岩壁か何かに挑んでいるようだということは何となくイメージできるが、「ぐびゃら」「じゅじゅべき」「びゅびゅ」は解読不能だ。
ただ「じゅじゅべき」は、助動詞「べき」とおなじ音が使われているので、イメージ生成の助けにはなる。

ところで、ここでわたしが問題にしたいのは、これらの擬音をオノマトペと取るべきか、ハナモゲラと取るべきかである。

わたしは、この句の擬音めいたものは、オノマトペよりもハナモゲラに近いと思う。
オノマトペは音喩という意味だが、喩というからには抽象的な何かを音に変換して具体的に伝える技法だろう。

 サキサキとセロリ嚙みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず  佐佐木幸綱
 しゆわしゆわと馬が尾を振る馬として在る寂しさに耐ふる如くに  杜澤光一郎
 「けれども」がぼうぼうぼうと建っている  佐藤みさ子


オノマトペは「〜と」という形で使われることが多い。
喩だから「サキサキと(いう新鮮な音を立てて)」「しゆわしゅわと(円を描くような)」「ぼうぼうぼうと(雑草のようにあちこち直立して)」などと、抽象的な事態を音に変換し、具体的な意味へ近づけている。

それにたいして、「ぐびゃら岳」「じゅじゅべき壁」「びゅびゅ挑む」はどうだろう。
「ぐびゃら(という〇〇な)岳」「じゅじゅべき(〇〇すべき)壁」「びゅびゅ(と〇〇して)挑む」の〇〇に、「サキサキと」「しゆわしゆわと」「ぼうぼうぼうと」のときのような具体的な何かを当てはめることができるだろうか。
わたしは、これらにオノマトペほどの具体的喚起性はないと思う。
巨泉の「すぎかきすらの」という四句目が、「スラスラ書けすぎて」というイメージと「杉垣すらの」というダブルミーニングを想わせながら、結局は具体性にたどり着かず、抽象に留まったままなのとおなじである。
川合の擬音は、意味があるようで意味に回収できない。
それゆえにとても衝撃力が強い。

と、ひとまず結論めいたことを言ってみたが、オノマトペとハナモゲラについてはさらなる考察の必要性があるだろう。

身内意識から少々遠慮なくいうと、川合大祐の川柳には、「え、そんな分かりやすいところに着地してしまっていいの?」という句も散見される。
しかし、時にこの川柳人は「なんじゃ、こりゃ!」という川柳を生み出す。
その意味で、川合大祐は〈こわい〉川柳人なのである。

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2015年06月29日

ノルウェイの建材:200字川柳小説  川合大祐

われわれは今、どこにいるのだろう?彼女はダイキリを注文し、僕はワンカップ大関を、すこしげっぷを吐きながら流し込んだ。「あなたにとって、世界とは何?」と彼女は言った。それには答えず、神主装束を指でいじっていた。何しろ今、東京直下地震を止めたばかりなのだ。「ねえ、ひとつはっきりしてほしいの」と彼女はまた言った。「あなたは村上なの?角川なの?」わからない。でもこの錯綜もいつかは断ち切れる。切るは、春樹。

  回文で書いた春樹の私小説  月波与生(『おかじょうき』2015年4月号より)

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2015年06月25日

木曜日のことのは蒐集帖A 首から上が蠅

その男さみし首から上が蠅    西原天気 (はがきハイク 第12号)

わ!と思わず首をすくめた。

「その男さみし」という端正な表情の言葉につづく、「首から上が蠅」という口調と意味の転成。いいはなしておさめて、定型っておもしろい。

キメラの図なんだろうか。キメラの語源はキマイラで、異なるものの合成という意味合いでひろく使われているようだ。有名なギュスターヴ・モローの『キマイラ』の絵では羽根の生えたケンタウロスみたいなきれいで無表情の生きものが描かれているけれど、もともとのキマイラはライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾というからおそろしげである。ピカソのミノタウロス、ボスの怪物、スフィンクス、西欧には様々なキメラの発想があるけれど、日本にはあるのか、ちょっと思い浮かばない。

「さみし」と「蠅」が並ぶと思い出すのは映画『The Fly』だ。恋人に嫉妬し酔って転送ポットにはいりこんだ科学者セス。ポットは無機物の転送にはすでに成功していたけれど、セスは見事?有機物として別のポットへ転送される。でも!転送元には蠅が迷い込んでいて、転送されたセスは蠅の情報をとりこんだ生物になってしまっていた。

さて「首から上が蠅」。わたしのイメージは、むじな(のっぺらぼう)である。山高帽の男の表情は、無数の蠅のつらなりのなかに埋没しているのである。

さみし。
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2015年06月22日

訛伝創世記:200字川柳小説  川合大祐

初にさつまいもがあった。さつまいもの重味をあらわすために、重力ができた。皮の緋色をあらわすために色彩ができ、光ができた。可能性のひとつとして石焼きいもの屋台ができ、それを支える地球と、屋台から見える星々ができた。さつまいもにたかる蠅ができ、蠅を喰らう蛙ができ、蛇ができ、鳥獣草魚すべてが地に海に満ちあふれた。人類ができたのは何番目だったかわからない。ゆえに心すべし。さつまいもは銀河に、皿に今もある。

  銀河系宇宙の中のさつまいも  石田柊馬

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2015年06月20日

鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず   石部明

『川柳カード』創刊号(2012年11月25日発行)所収、「孔雀の喉」からの一句。

掲出句から考えてみたい点が二つある。

まず第一として、「鈴」とはどのようなモノで、この句の中ではどのような働きをしているのか、ということである。

「鈴」と聞いてわたしがぱっと思いつくのは、以下のようなモノ。
神社の鈴や仏壇の鈴(りん)、サンタさんの橇の鈴、夏に吊るす風鈴、熊除けの鈴、あるいは呼び鈴も「鈴」に入れていいかも知れない。
他にもクリスマスツリーに飾る鈴、神楽で使われる鈴、行者の鳴らす鈴といろいろある。

こうしてみると「鈴」とは、宗教的な用途が多いことからも察せられるように、日常的世界と非日常的世界に介在するモノ、という側面があると思う。
神社の鈴や仏壇の鈴は、ヒトが異世界的存在に接近するときの合図。
逆にサンタさんの橇の鈴は、異世界的存在が接近してくる合図。
また風鈴ならば、むかしは異世界的存在の侵入を防いだり遠ざけたりする魔除けであった。
熊除けの鈴も、高周波音をだして獣を遠ざける合理的理由があるとはいえ、一種の魔除けと捉えることもできる。
そして、呼び鈴もそう。
現在では、映像機能の付いたインターフォンに進化しているが、ほんらいはウチとソトとのあいだに介在して両者を繋ぐ、わりと緊張感のあるモノだったのではないだろうか(わたしは電話の音にいまだ慣れない)。

つまり「鈴」とは、カミ、先祖、サンタ、魔物といった非日常的世界の存在と日常的世界とを繋いだり、断ち切ったりするモノといえるのである。
以上を踏まえて石部の掲出句を見てみよう。

 鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず

「鈴屋」とは聞き慣れない言葉だ。
「鈴屋は来ておらず」というのだから、主人公は鈴の音にいざなわれて来たと考えられる。
とすれば、辞書には載っていなかったが「鈴屋」というのは、天秤棒を担いだり、屋台をひいたりして風鈴を売り歩く所謂〈風鈴売り〉のことだろう。
この句は、鈴屋の記憶をほんのつかのま主人公の日常にたちあげた白昼夢なのだろうか。
あるいは、少々飛躍した見方だが、あの世とこの世が繋がる夏という季節に、風鈴の音を通してこの世の向こうの鈴屋を感知してしまった状況だろうか。
いずれにせよ、「鈴」というアイテムの働きを踏まえてこの句を読むなら、「鈴」が日常的世界に歪みを生み、主人公に非日常的世界を透き見させたような趣がある。

次に、掲出句から考えてみたい第二点目は、「鈴屋は来ておらず」という〈非在〉はこの句にどのような側面をたちあげているか、ということである。

わたしは、「鈴屋は来ておらず」という非在が、かえって「鈴屋」を求める主人公の心情を強くたちあげているように思う。
カミやサンタや魔物のことでいうなら、目で確かめることができないからこそその〈存在〉がかえっ意識され、そのためヒトはカミに祈り、サンタが来るのを楽しみにし、魔物を怖れてしまうという側面がある。
闇があるからこそ光が感知できるように、〈無い〉ということが〈有る〉をたちあげるのである。

これはどう説明すればいいか。
わたしは芭蕉についてそれほど詳しくはないのだけれど、たとえば「古池や蛙飛びこむ水の音」の「水の音」から説明できるかも知れない。
この句で「水の音」をたちあげているものとは、第一に環境的な音の〈静〉けさであり、第二に音と同化する主体の精神的な〈寂〉だという説を耳にすることがある
そういう〈静〉〈寂〉が背景にあって、世界に充ちみちる「水の音」として感知されるのだ。
つまり、〈静〉〈寂〉という非在=無があるからこそ、存在=有が成り立つわけである。

あるいは、ちょっと俗な話になるが、歌謡曲からも説明できるかも知れない。
歌謡曲では、非在がかえって存在をたちあげる、という内実の歌詞がわりと多い。
たとえば、いまでもカラオケでよく唄われるプリンセス プリンセスの「M」である。
あれは失恋の歌だけれど、別れてしまったことで元カレの存在がいっそう思われてならないのだ。
おなじように石部の掲出句でも、「鈴屋」と出合えないからこそ、「鈴屋」に寄せる主人公の強い思いが浮かび上がってくる、と考える次第である。

掲出句に触れて思い出した映画がある。
黒澤明のオムニバス映画「夢」(1990年公開)に、第2話として入っている「桃畑」という短編だ。
このお話の主人公は少年。
雛祭りの日、姉とその友人たちが雛人形の前で興じるなか、少年は、姉の友人ではない見知らぬ少女を家の中で見かける。
少年は少女を追う。
少女は逃げ出す。
少女が走るたび鈴の音が鳴る。
少年がその鈴の音をたよりに木々のなかを追っていくと、いぜんは桃畑だった裏山へと出る。
その桃畑の跡地は、少年の家が桃の木を伐採してしまった場所だ。
やがて、少年の前に、伐採された桃の木の精霊たちが雛人形の姿で現れる。
彼らは口々に、少年の家が桃の木を伐ってしまったことを責め立てる。
その罪悪感から少年は泣いてしまう。
だが、家の中で少年が唯ひとり、桃の木が伐られたことに涙を流した事実を知るにいたって、精霊たちは少年を許す。
そして彼らは、少年のために舞を踊って見せてくれるのだった。
まあ、ひじょうに大雑把に言えば、こんな展開のお話だったと記憶する。

この映画作品でも、
@「鈴」が、日常的世界と非日常的世界とを繋ぐ役割を演じ、
A伐採されてしまった桃の木という〈非在〉が、精霊という姿を借りて桃の木の〈存在〉をたちあげ、同時に少年の良心にも桃の木の〈存在〉を再びたちあげた、
という構造なのが印象深い。

掲出句は石部明最晩年の作品。
石部明の川柳には、人を驚かせてやろうという怪人二十面相にも似た意志を感じることが多かった。
たとえば、

 雑踏のひとり振り向き滝を吐く
 びっしりと毛が生えている壷の中
 オルガンとすすきになって殴りあう


なんて句がそうだ。
だが、「鈴買いにくれば鈴屋は来ておらず」という力の抜けぐあいはどうだろう。
最後の最後、まったく構えたところのない作品を石部明は残してくれた。

posted by 飯島章友 at 00:20| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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