柳本は、掲出句のこわさの原因として、ひとつに意味不明であること、ふたつに意味不明でありながらも定型にそった規則性があることと分析している。
こわさとは、まず、意味不明なことです。とつぜん、うしろにだれかがいることです。意味がとれなくなるしゅんかんが、こわい。
ところが、もうひとつ。その意味不明な存在がみずからの規則をもち、その規則にそって行動していることがわかると、さらにこわいということです。
意味不明でありながら規則性をもっている。
確かにこわい。
しかし、平仮名の〈こわい〉は、〈怖い〉という意味だけではないかも知れない。
〈こわい〉ことは同時に〈おもしろい〉ことでもある気がする。
人びとが超常現象や都市伝説のテレビ番組を観るのは〈こわい〉からだが、同時にそれが〈おもしろい〉からこそ観るのである。
意味不明ながらも或る規則性をもった表現。
ここからわたしが思い出すのは、ジャズミュージシャンの坂田明や小山彰太、小説家の筒井康隆、そしてコメディアンのタモリらが得意とする「ハナモゲラ」である。
「ハナモゲラ」とは、ほんとうは意味などないのに如何にも意味があるように思わせる表現だと、わたしは捉えている。
たとえば、有名なところではタモリの偽外国語芸がある。
これらは如何にも外国語として何かの意味を表現しているようだが、ネイティブの人が聞いたら何を喋っているのか分からない。
そもそもハナモゲラのアイディアは「初めて日本語を聞いた外国人の耳に聞こえる日本語の物真似」が原点だからである。
小山彰太は、山頭火ならぬ「山章太」という筆名でハナモゲラからなる「ヘラハリ和歌」を開発した。
たらこめし はたのめかしみ めたこりす こりすこすりこ めかしめたはれ
ひりみはし はまさこれみか みてはしこ そまにまれこめ みしはさたみれ
しこそまれ とんとさまれこ ちましこれ たまはれしれと とまはこしそれ
ハナモゲラ語なので意味を取ろうとしても出来ないが、こころみに和歌の披講の調子で読み上げてみると何となく雅やかな和歌に聞えてくるから不思議だ。
『叩いて歌ってハナモゲラ』(小山彰太著・1983年・徳間書店)には、小山のヘラハリ和歌にたいする歌論が載っている。
ここで同書所収、山下葉山女(山下洋輔)の「ハナモゲラ和歌の鑑賞」から少し引用してみたい(なお、この鑑賞文じたい、歌論のパロディになっている)。
享受パターンを我々が時に応じて自由自在に変えられるものとする。それはつまり、それに応じて確定していたはずの被享受物──世の中のすべてだ──の姿がどんどん変形するということになる。
そして実は、このプロセスを我々はハナモゲラと呼ぶのではないだろうか。
我々はひとまずここで、鑑賞の側面からハナモゲラを次のように定義することができそうである。
自分自身の内部の享受パターンを意識的に自由に変化させることによって、被享受物としての外界の姿を随意に変形せしめるプロセス。
変形の方向は唯一「面白がる」方向である。それが享受者の特権であり、我々は世界に対してこの特権を持つ。
要するに、ハナモゲラは「面白がる」ことがキモだというのだろう。
ヘラハリ和歌に先行するハナモゲラ系の和歌としては、大橋巨泉の次の歌が有名だ。
みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ
わたしの生れる前のCMで披露された歌だが、有名なのでごく当たり前に知っていた。
当時の子供たちにも大受けだったそうだが、意味にこだわらず「面白がる」ことが大事だということの証しだろう。
さて、そろそろ川合大祐の掲出句に戻らねばなるまい。
ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む
この句は課題吟のお題「チャレンジ」から創られたもの。
山岳の岩壁か何かに挑んでいるようだということは何となくイメージできるが、「ぐびゃら」「じゅじゅべき」「びゅびゅ」は解読不能だ。
ただ「じゅじゅべき」は、助動詞「べき」とおなじ音が使われているので、イメージ生成の助けにはなる。
ところで、ここでわたしが問題にしたいのは、これらの擬音をオノマトペと取るべきか、ハナモゲラと取るべきかである。
わたしは、この句の擬音めいたものは、オノマトペよりもハナモゲラに近いと思う。
オノマトペは音喩という意味だが、喩というからには抽象的な何かを音に変換して具体的に伝える技法だろう。
サキサキとセロリ嚙みいてあどけなき汝を愛する理由はいらず 佐佐木幸綱
しゆわしゆわと馬が尾を振る馬として在る寂しさに耐ふる如くに 杜澤光一郎
「けれども」がぼうぼうぼうと建っている 佐藤みさ子
オノマトペは「〜と」という形で使われることが多い。
喩だから「サキサキと(いう新鮮な音を立てて)」「しゆわしゅわと(円を描くような)」「ぼうぼうぼうと(雑草のようにあちこち直立して)」などと、抽象的な事態を音に変換し、具体的な意味へ近づけている。
それにたいして、「ぐびゃら岳」「じゅじゅべき壁」「びゅびゅ挑む」はどうだろう。
「ぐびゃら(という〇〇な)岳」「じゅじゅべき(〇〇すべき)壁」「びゅびゅ(と〇〇して)挑む」の〇〇に、「サキサキと」「しゆわしゆわと」「ぼうぼうぼうと」のときのような具体的な何かを当てはめることができるだろうか。
わたしは、これらにオノマトペほどの具体的喚起性はないと思う。
巨泉の「すぎかきすらの」という四句目が、「スラスラ書けすぎて」というイメージと「杉垣すらの」というダブルミーニングを想わせながら、結局は具体性にたどり着かず、抽象に留まったままなのとおなじである。
川合の擬音は、意味があるようで意味に回収できない。
それゆえにとても衝撃力が強い。
と、ひとまず結論めいたことを言ってみたが、オノマトペとハナモゲラについてはさらなる考察の必要性があるだろう。
身内意識から少々遠慮なくいうと、川合大祐の川柳には、「え、そんな分かりやすいところに着地してしまっていいの?」という句も散見される。
しかし、時にこの川柳人は「なんじゃ、こりゃ!」という川柳を生み出す。
その意味で、川合大祐は〈こわい〉川柳人なのである。