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夕焼けの勲章なんてのもいいな 小池孝一
孝一さんのひまわりの「あっ」の句も印象的でしたが、定型にそってことばを崩すというのが魅力ある文体になっているとおもうんです。定型詩は、定型があるからこそ、その語り口をくずすことができる。でもそのくずしは定型がきちんと支えている。「勲章なんてのもいいな」は七五におさまっているわけです。夕焼けというどこまでも延びてゆく風景が、勲章という定型にきちんとおさまる様子が句として体現されている。流れくずれるストリームが定型におさまる。
地面だと思うが星というべきか 大川博幸
この博幸さんの句もそうだとおもうんですね。「思うが星というべきか」。語り手はふいに「地面」ではなくそれを「星」というべきだときづき、その加速度的な気づきそのものを句にしている。気づきとはひとつのストリームなわけですが、それをしっかりと定型がささえている。そうして定型が支えていることによって語り手がきちんとじぶんの気づきを〈確信〉していることがわかる。
挑まなくてもいい巻き込まれていくよ 樹萄らき
そうかと思えば、こんならきさんのストリームもあります。定型に沿ってみると、「いどまなく/ていいまきこま/れていくよ」。ちゃんと定型ですよね。定型ですが、とちゅうとちゅうで五七五のふしめが入ることによってこの句じたいが巻き込まれていくようすがわかる。ストリームとは、じつは川柳のボディそのものでもあるのです。意味内容ではなくて。そしてそれが川柳の醍醐味なんじゃないかともおもうんですよ。
きれいな流れ星だねぶちあたるね 千春
千春さんの句もこの巻き込まれぶちあたるようすが句じしんによって描かれています。「きれいなな/がれぼしだねぶ/ちあたるね」。流星がとおくにみえる、ゆびさすものではなく、このわたしに衝突する、リアルなものとしてあること。それがクラッシュする定型によってあらわされているのです。
犬掻きで追い付こうなど いや本気 竹内美千代
また定型は饒舌としてのストリームを呼び起こすかもしれません。竹内さんのこの句、「犬掻きで追い付こうなど」と語り手はじしんに思いながらも、それを「いや本気」と残りの下五が定型としてカヴァーしてくれている。これは定型の支えです。定型でなければ、「いや本気」という発話はなされえなかったかもしれない。定型は語り手をたすけてくれるのです。本気です。
花びらにああ神様がお生まれに 桑沢ひろみ
だから定型はおしゃべりストリームなのです。ひろみさんのこの句。「ああ」は明らかに定型上、発せられた発話です。中七だから「ああ」という。でもこの「ああ」があるからこそ、神様が生まれるというしゅんかんとしての長い時間性がうまれるのです。「ああ」はじつは時間なのです。時間ストリーム。
ジャンケンはいつも「グー」できめている 池上とき子
じゃあ逆に定型が支えてくれない場合はどうなるのか。このとき子さんの句は、五六五になっていて一音ないことによって不安定な構造になっています。ところが語り手はもうこのうえなく「いつも・きめている」と意志を示している。語り手の意志に反して、句の構造が語り手に逆らっている。だからもしかしたら語り手はまだチョキやパーでゆらぐかもしれない。語り手のきもちのストリームがここにはあらわれている。
二億年後の夕やけに立つのび太 川合大祐
定型が時間分節をあらわすこともある。この大祐さんの句では「二億年/後の」と、二億年と二億年後のあいだに分節が入っているのが特徴的です。これはのび太が二億年前と二億年後に移行する時間の跳躍そのものをあらわしているとおもう。これだけの分節でしかないけれど、でもこれだけの分節があった。句における分節は越えなければならない時間をあらわす。
荷崩れのしない命を送りこむ 丸山健三
最後になりますが、この丸山さんの句はひとつの川柳論になっているとおもうんですよ。川柳という行為は、まさにこれじゃないかとおもうんです。「荷崩れのしないい命を」定型をとおして「送りこむ」こと。そしてその定型のゆらぎのなかで、おおいに、すとりいいいいいいいいいいいいいいむすること。それが川柳に賭けられているのではないかと、おもうのです。すとりーむ。