2015年08月31日

【川柳誌を読もう】崩壊すとりいいいむ−『川柳の仲間 旬』201号を鑑賞しながら流される−  柳本々々

以下は、『川柳の仲間 旬』201号(2015年9月号)の鑑賞記事です。

   *

夕焼けの勲章なんてのもいいな  小池孝一

孝一さんのひまわりの「あっ」の句も印象的でしたが、定型にそってことばを崩すというのが魅力ある文体になっているとおもうんです。定型詩は、定型があるからこそ、その語り口をくずすことができる。でもそのくずしは定型がきちんと支えている。「勲章なんてのもいいな」は七五におさまっているわけです。夕焼けというどこまでも延びてゆく風景が、勲章という定型にきちんとおさまる様子が句として体現されている。流れくずれるストリームが定型におさまる。

地面だと思うが星というべきか  大川博幸

この博幸さんの句もそうだとおもうんですね。「思うが星というべきか」。語り手はふいに「地面」ではなくそれを「星」というべきだときづき、その加速度的な気づきそのものを句にしている。気づきとはひとつのストリームなわけですが、それをしっかりと定型がささえている。そうして定型が支えていることによって語り手がきちんとじぶんの気づきを〈確信〉していることがわかる。

挑まなくてもいい巻き込まれていくよ  樹萄らき

そうかと思えば、こんならきさんのストリームもあります。定型に沿ってみると、「いどまなく/ていいまきこま/れていくよ」。ちゃんと定型ですよね。定型ですが、とちゅうとちゅうで五七五のふしめが入ることによってこの句じたいが巻き込まれていくようすがわかる。ストリームとは、じつは川柳のボディそのものでもあるのです。意味内容ではなくて。そしてそれが川柳の醍醐味なんじゃないかともおもうんですよ。

きれいな流れ星だねぶちあたるね  千春

千春さんの句もこの巻き込まれぶちあたるようすが句じしんによって描かれています。「きれいなな/がれぼしだねぶ/ちあたるね」。流星がとおくにみえる、ゆびさすものではなく、このわたしに衝突する、リアルなものとしてあること。それがクラッシュする定型によってあらわされているのです。

犬掻きで追い付こうなど いや本気  竹内美千代

また定型は饒舌としてのストリームを呼び起こすかもしれません。竹内さんのこの句、「犬掻きで追い付こうなど」と語り手はじしんに思いながらも、それを「いや本気」と残りの下五が定型としてカヴァーしてくれている。これは定型の支えです。定型でなければ、「いや本気」という発話はなされえなかったかもしれない。定型は語り手をたすけてくれるのです。本気です。

花びらにああ神様がお生まれに  桑沢ひろみ

だから定型はおしゃべりストリームなのです。ひろみさんのこの句。「ああ」は明らかに定型上、発せられた発話です。中七だから「ああ」という。でもこの「ああ」があるからこそ、神様が生まれるというしゅんかんとしての長い時間性がうまれるのです。「ああ」はじつは時間なのです。時間ストリーム。

ジャンケンはいつも「グー」できめている  池上とき子

じゃあ逆に定型が支えてくれない場合はどうなるのか。このとき子さんの句は、五六五になっていて一音ないことによって不安定な構造になっています。ところが語り手はもうこのうえなく「いつも・きめている」と意志を示している。語り手の意志に反して、句の構造が語り手に逆らっている。だからもしかしたら語り手はまだチョキやパーでゆらぐかもしれない。語り手のきもちのストリームがここにはあらわれている。

二億年後の夕やけに立つのび太  川合大祐

定型が時間分節をあらわすこともある。この大祐さんの句では「二億年/後の」と、二億年と二億年後のあいだに分節が入っているのが特徴的です。これはのび太が二億年前と二億年後に移行する時間の跳躍そのものをあらわしているとおもう。これだけの分節でしかないけれど、でもこれだけの分節があった。句における分節は越えなければならない時間をあらわす。

荷崩れのしない命を送りこむ  丸山健三

最後になりますが、この丸山さんの句はひとつの川柳論になっているとおもうんですよ。川柳という行為は、まさにこれじゃないかとおもうんです。「荷崩れのしないい命を」定型をとおして「送りこむ」こと。そしてその定型のゆらぎのなかで、おおいに、すとりいいいいいいいいいいいいいいむすること。それが川柳に賭けられているのではないかと、おもうのです。すとりーむ。



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【モアイを読む】ここまでは来たよとモアイ置いていく  大川博幸(を読む柳本々々)

ここまでは来たよとモアイ置いていく  大川博幸

『川柳の仲間 旬』201号から大川さんの一句です。
すごくいいです。
なにかすごくいいでしょこれ、と句自体が自信をもっているのもわかります。
モアイってそのためにあったのかあと納得もいくし、モアイのわりに題が「節目」と落ち着いていたそのギャップもすてきです。
わたしも、とりあえず、モアイ置いていこうとおもう。
そのためにはたくさんのモアイを手にいれなきゃ。
これからのじんせいで。

         (々)


posted by 柳本々々 at 20:21| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月30日

「川柳カード」第9号 C

 俳句を鑑賞する時は「季語」「切れ字」「定型への意識」など、評価するポイントをはっきり決めていることが大半なのだが、川柳は何をポイントに鑑賞すればいいのか正直全く分からない。鑑賞文を読んでも感嘆したりみんな自由に読んでるんだな、と思うだけで学べない。

上掲の松本てふこさんの指摘から考えたことがまだある。
それは俳句とは、「季語」「切れ字」という歴史的共有財=特質をもつがゆえに、それを鑑賞における評価ポイントとして活用できる詩型なのだろうなあ、ということだ。
わたしも、文芸などにはまったく関心のなかった20代の頃を想うと、短歌や川柳の特徴は知らなくても俳句の特徴だけは「季語!」と承知していた。
素人のわたしでも、俳句は季語を意識して味わってきた。
それくらい俳句の季語は特徴的だ。

俳句と比較したならば、川柳のみならず短歌にも特質らしい特質はない。
57577の定型以外、短歌に何があるのかしら。
川柳界から短歌界を眺めてみると、短歌とおなじ形式の詩型がないので外部を意識して〈短歌らしさ〉を考えることがあまりないように見える。
かばんの会の勉強会「Kabamy」では短歌らしさについて話し合うことが少しあるのだけど、そのときも短歌を相対化するために参加者が引くのは「偶然短歌bot」の偶然短歌である。

短歌が「季語」や「切れ字」にあたるような特質を持たないということは、短歌の鑑賞における評価ポイントも人それぞれなのではないか、という推測が容易に成り立つ。
歌壇に入れてもらえているのか怪しい「かばんの会」会員のわたしが言うことなので話半分に聞いてもらいたいが、短歌の鑑賞は、
・歌に描かれた〈私〉や〈社会の気持ち〉
・上の句と下の句の距離感
・韻律の心地よさ
・表現の新鮮さ
・歌の内容や使われている言葉の背景
などを取っ掛かりにして各人が自由に読んでいる。
だがこれらは、「季語」や「切れ字」といった詩型に組み込まれた特質を取っ掛かりにした鑑賞ではない(まあ近年は季語も切れ字もだいぶ事情が変わってきているらしいが)。
その意味で、現代川柳を鑑賞するばあいとそれほど大差はないのだ。
近代短歌は枕詞、序詞、掛詞、縁語、日本人の自然観・美意識の型といった修辞法を手放し、掛け替えのない〈私〉を定型に写す方向を目指した。
別言すれば、近代短歌とは、定型以外の歴史的共有財=特質をあえて手放したのだ。
したがって、「季語」や「切れ字」のようなコンセンサスを得た評価ポイントはおそらく持っていない。

坊城俊樹・やすみりえ・東直子監修『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書 』(土屋書店)は、俳句・川柳・短歌が同時に収録された入門書なので三分野を比較するのに便利だ。

50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書 -
50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書 -

ここで三分野それぞれのルールについて記されたページをちょっと参照してみよう。
同書に書かれた三分野のルールをその項目だけ引用する。

【これだけは覚えておきたい!俳句の三つのルール】(P40~P41)
@五七五の十七音である
A季語が主役の文芸
B切れも重要!
【これだけは覚えておきたい!川柳の三つのルール】(P80~P81)
@五七五の十七音である
A現代の三要素と三部門がある

(※うがち・軽み・滑稽→〔現代的に分かりやすくすると〕発見・頷き・笑い)
B誹謗中傷はNG!
【これだけは覚えておきたい!短歌の三つのルール】(P120~P121)
@五七五七七の三十一音である
A短歌は、感覚や感情を風景を伴って詠む詩型!

(※上の句で風景を、下の句で作者の気持ちを詠み込むかたちが基本構造)
B季語は入れる必要はない

ルールということになっているが、川柳のAは要素、Bはマナー、短歌のAは歌の主要な構造、Bは補足という側面も持っているかと思う。
実質的に川柳と短歌では、@の音数(定型)のみが純粋なルールと言えそうだ(もちろん同書が入門書であることを考えれば、川柳と短歌のABも初心のルールとして覚えさせるべきだと思う)。
つまり三分野の中では、俳句がいちばんルールらしいルールを三つ明記しているのだ。

こうして見てくると分かるように、俳句とは、基本的に季語や切字(切れ)を使用するとか、あるいは季重なりは基本NGという形式的なお約束が──ちょっと硬いことばでいえば慣習法がある。

これは川柳や短歌と比べると限定的であり、没個性化につながるかに思える。
しかし実際は、限定があるおかげで俳句という詩型の輪郭はくきやかになり、評価ポイントも明瞭なことに気づく。
逆に言えば、自由放任な現代川柳の方が輪郭はぼやけていて、評価ポイントも曖昧だ。
限定と放縦では、前者の方が明瞭性を増すのだ。

推理作家で批評家で「ブラウン神父」シリーズで有名なG・K・チェスタトンが、何かを拡大し何かを破って出て行く〈意志〉を崇拝するニーチェらの現代思想家にたいして、「芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある」(『正統とは何か』)と述べ、また詩人で批評家でミュージカル「キャッツ」の原作『キャッツ──ポッサムおじさんの猫とつき合う法』を書いたT・S・エリオットが、「ある詩人に接してゆこうとする場合には、その作品の最上の部分だけでなく、もっとも個性的な部分でさえも、実は彼の祖先たる過去の詩人たちの不滅性がもっとも力強く発揮されている部分だということを、しばしば発見することになるであろう」(『伝統と個人の才能』)と述べたことは、俳句の個性の強さが何に由来するのかを考えるにあたって示唆を与えてくれる。

(あと一回つづく)
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月29日

そしてホタル達も茹で死に:200字川柳小説  川合大祐

これは比喩ではない。言語はウィルスだ。バロウズ翁のことなど置いておけ。言語、即ちわれわれはあらゆる所に潜伏する。本に、TVに、ネットに潜み、少しずつ、この世界を変容させていく。発症したものは、蛍が螢に、鉄が鐵に、恋が戀に変わっていくだろう。それで何が変わるとおまえは言うのか。想像するがいい。蛍からメタモルフォーゼした螢が、すう、と闇に消えゆくところを。林の中の象のように。やはりこれは比喩ではない。

  蛍から螢に変わる近づけば  大川博幸(『川柳の仲間 旬』第201号より)   

posted by 川合大祐 at 18:04| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月23日

固定:200字川柳小説  川合大祐

「釘を抜け」と老師は言った。「お前が世界を壊したいなら。世界の中心に刺さる、釘を抜け」そのまま老師は亡くなった。旅に出た。バックパックの底に釘抜きを忍ばせていて、いつ税関で没収されるかと怯えていたが、実際は山寺区周辺をうろちょろしていただけかもしれなかった。唐突に、釘はあった。頭を少し出して、錆びていた。迷い、迷い、迷い、抜いた。世界は当然のように続いていた。どこかから古釘の笑い声が聞こえてくる。

  古釘はどんどん錆びて声がない  吉平一岳(『柳都』平成23年11月号より)
posted by 川合大祐 at 06:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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